リトアニアからブラジルへ、故郷喪失者の人間の実在性を凝視する視線
「ブラジルの表現主義者」 ラサル・シーガル展
もう20年も前になるかと思うが、温かな掌の手触りをもつ『リトアニアへの旅の追想』という映像詩をみた。今日では、米国インディペンデント映画の不朽の名作といわれているようだが。ナチスに追われ米国に亡命したリトアニア生まれのユダヤ人ジョナス・メカスがニューヨークでの日常を16ミリ・フィルム(8ミリだったかも?)で撮りはじめ、27年後、「亡命した人間」が故郷の村を訪ねる思い出の旅、そして強制収容所に収監されていた絶望的な日々を追想する部分と三つの独白的な映像を積み重ねた物静かだが20世紀の人間世界の愚かさも抉るような刃先のきらめきをもった作品だった。
ラサル・シーガルというリトアニアの首都ヴィリニュスのユダヤ人コロニーに生まれ、ドイツ表現主義の影響下から出発し、ブラジルに永住の地を見出した画家の回顧展が始まった。142点の作品を通覧していくうちに、メカスの映像がひたひたと広がった。シーガルは、ドイツ表現主義の画家たちが絶えず人間を凝視しつづけたように、人間を酷烈な視線で観た、観ようと前傾姿勢を保とうとした画家だ。内質的にけっして政治的な作家ではなかったと思うが、彼が生きた時代と、そして出自、さらにいえば小国リトアニアの運命が雄弁な作家にしたように思う。
メカスの映像詩はいまだベルリン市街を分かつ「壁」が屹立している時代に作品化された。「壁」が何時、崩壊するのか誰も分からない状況を暗黙の了解事項として、その映像は見る者の肺腑に染み込んで来たのだった。シーガルの絵に具体的な表象があるわけではないがロシア革命、ナチスの台頭、大戦、ソ連邦によるリトアニア併呑といった20世紀東欧史が反映している。歴史の痕跡、傷痕を留めているという言い方もできるだろうか。
シーガルとブラジルとの出会いは1912年、画家21歳の時だ。ブラジルに住む兄弟を訪ねたのが最初だ。そして、1924年以来、サンパウロに居を定めブラジル人画家として後半生を過ごすことになる。
第一次大戦における敗戦、廃墟、失意と混乱のなかから出てきたドイツ表現主義は、ナチの台頭によって政治的に窒息させられる短くも豊潤な実験性と鋭敏な時代感覚を合わせ持った大きな潮流であった。そこで行われた社会批評と美術との融合の試みは現在まで大きな影響を与えている。シーガルは、その運動のなかで単なる写実では飽きたらず人間存在の実在を極めようする探求の画家となる。それは、第一次大戦の悲惨を兵士として体験したオットー・デックスら先導者たちのドイツ表現主義の忠実な使徒になることであった。シーガルの清新な感受性は先達たちの妥協なき戦いの前衛に近づく、デックスはシーガルの師だが、同時にキルヒナーの神経を逆撫でるような刺激的な色彩で描き出された人物像にも抗しがたく引きつけられた画家であったと、初期作品がそう語っている。しかし、シーガルは先輩たちより更に惨酷な現代史とともに歩むことを強制される。祖国リトアニアはモスクワの配下となって独立を失い、故郷喪失者となる。
難民・亡命者を満載した船内光景、虐殺の大画面、親密感に富んだユダヤの老人像、愛する妻の肖像にしも何処か陰鬱である。色彩を意志的に抑制した寒々としたタブローがつづく。しかし、そんななかにあって時折り暖色が跳ね、絵筆の喜びを率直に反映した作品が、雲間の射光のように慰安の境地に誘う作品がある。それらはいずれもブラジルを、ブラジルの太陽を浴びる民衆を描いた作品だ。それらの絵は、ブラジル生活が始まってから描かれたものではなく、欧州からの旅で描かれた時代から始まっていて、本質的に色彩を抑制しつづけてきた画家の履歴のなかにあって、うまい表現とはいえないが“砂漠のオアシス”のようなものだ。ブラジルは、北国生まれの故郷喪失者に慰安と、精神に良きバランスを与えていたのだ。そんな第二の故郷に恩返しをすべく、彼はブラジルにおいて、植民地美術からの完全なる脱却を願って絵画だけでなく、文字の書き手として多くの発言を繰り返して行く。
メカスが米国の作家として認知されているように、シーガルもブラジルの画家である。そして、メカスより時代の輻射熱を直截に受け止めて真摯に創造活動に邁進した表現者であると思う。そんな画家の業績が日本ではまったく黙殺されている。手元の日本語によるドイツ表現主義関係のいくつかの文献にあたったがシーガルの名はない。いや、ブラジルを除くスペイン語圏アメリカでも無名であった。いま、その再評価が米大陸で本格的にはじまった。
1991年、シーガルとメカスの祖国リトアニアは市民の血を犠牲にしてモスクワの意思を挫き、独立を勝ち取った。シーガルの死後、34年を経てのことだった。
「ブラジルの表現主義者」 ラサル・シーガル展
もう20年も前になるかと思うが、温かな掌の手触りをもつ『リトアニアへの旅の追想』という映像詩をみた。今日では、米国インディペンデント映画の不朽の名作といわれているようだが。ナチスに追われ米国に亡命したリトアニア生まれのユダヤ人ジョナス・メカスがニューヨークでの日常を16ミリ・フィルム(8ミリだったかも?)で撮りはじめ、27年後、「亡命した人間」が故郷の村を訪ねる思い出の旅、そして強制収容所に収監されていた絶望的な日々を追想する部分と三つの独白的な映像を積み重ねた物静かだが20世紀の人間世界の愚かさも抉るような刃先のきらめきをもった作品だった。
ラサル・シーガルというリトアニアの首都ヴィリニュスのユダヤ人コロニーに生まれ、ドイツ表現主義の影響下から出発し、ブラジルに永住の地を見出した画家の回顧展が始まった。142点の作品を通覧していくうちに、メカスの映像がひたひたと広がった。シーガルは、ドイツ表現主義の画家たちが絶えず人間を凝視しつづけたように、人間を酷烈な視線で観た、観ようと前傾姿勢を保とうとした画家だ。内質的にけっして政治的な作家ではなかったと思うが、彼が生きた時代と、そして出自、さらにいえば小国リトアニアの運命が雄弁な作家にしたように思う。
メカスの映像詩はいまだベルリン市街を分かつ「壁」が屹立している時代に作品化された。「壁」が何時、崩壊するのか誰も分からない状況を暗黙の了解事項として、その映像は見る者の肺腑に染み込んで来たのだった。シーガルの絵に具体的な表象があるわけではないがロシア革命、ナチスの台頭、大戦、ソ連邦によるリトアニア併呑といった20世紀東欧史が反映している。歴史の痕跡、傷痕を留めているという言い方もできるだろうか。
シーガルとブラジルとの出会いは1912年、画家21歳の時だ。ブラジルに住む兄弟を訪ねたのが最初だ。そして、1924年以来、サンパウロに居を定めブラジル人画家として後半生を過ごすことになる。
第一次大戦における敗戦、廃墟、失意と混乱のなかから出てきたドイツ表現主義は、ナチの台頭によって政治的に窒息させられる短くも豊潤な実験性と鋭敏な時代感覚を合わせ持った大きな潮流であった。そこで行われた社会批評と美術との融合の試みは現在まで大きな影響を与えている。シーガルは、その運動のなかで単なる写実では飽きたらず人間存在の実在を極めようする探求の画家となる。それは、第一次大戦の悲惨を兵士として体験したオットー・デックスら先導者たちのドイツ表現主義の忠実な使徒になることであった。シーガルの清新な感受性は先達たちの妥協なき戦いの前衛に近づく、デックスはシーガルの師だが、同時にキルヒナーの神経を逆撫でるような刺激的な色彩で描き出された人物像にも抗しがたく引きつけられた画家であったと、初期作品がそう語っている。しかし、シーガルは先輩たちより更に惨酷な現代史とともに歩むことを強制される。祖国リトアニアはモスクワの配下となって独立を失い、故郷喪失者となる。
難民・亡命者を満載した船内光景、虐殺の大画面、親密感に富んだユダヤの老人像、愛する妻の肖像にしも何処か陰鬱である。色彩を意志的に抑制した寒々としたタブローがつづく。しかし、そんななかにあって時折り暖色が跳ね、絵筆の喜びを率直に反映した作品が、雲間の射光のように慰安の境地に誘う作品がある。それらはいずれもブラジルを、ブラジルの太陽を浴びる民衆を描いた作品だ。それらの絵は、ブラジル生活が始まってから描かれたものではなく、欧州からの旅で描かれた時代から始まっていて、本質的に色彩を抑制しつづけてきた画家の履歴のなかにあって、うまい表現とはいえないが“砂漠のオアシス”のようなものだ。ブラジルは、北国生まれの故郷喪失者に慰安と、精神に良きバランスを与えていたのだ。そんな第二の故郷に恩返しをすべく、彼はブラジルにおいて、植民地美術からの完全なる脱却を願って絵画だけでなく、文字の書き手として多くの発言を繰り返して行く。
メカスが米国の作家として認知されているように、シーガルもブラジルの画家である。そして、メカスより時代の輻射熱を直截に受け止めて真摯に創造活動に邁進した表現者であると思う。そんな画家の業績が日本ではまったく黙殺されている。手元の日本語によるドイツ表現主義関係のいくつかの文献にあたったがシーガルの名はない。いや、ブラジルを除くスペイン語圏アメリカでも無名であった。いま、その再評価が米大陸で本格的にはじまった。
1991年、シーガルとメカスの祖国リトアニアは市民の血を犠牲にしてモスクワの意思を挫き、独立を勝ち取った。シーガルの死後、34年を経てのことだった。
* 後日談 : ラサル・シーガル展は2002年3月から6月、メキシコ市内の国立近代美術館で行なわれた後、7月からアルゼンチンのブエノス・アイレスのラテンアメリカ美術館に巡回した。本稿は、2002年5月号の『芸術新潮』の「WORLD」欄に書いた記事に対して、すこぶるつきで飽き足らず、全面改稿して、『ラティーナ』誌のアート欄に寄稿した文章に、今回またあらたに手を加えたのが掲載の文章。まぁ、これでも書き足りないぐらいだが、いまだブラジルの地を知らずリトアニアを訪れる機会も巡ってくるかな、という現在、あまり勇み足もしたくないとの思いもあるので、まずは紹介の一助にということで……。 |
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