、小沢官房長官、支持率危険水域でも、支持をしてる人達の為に鳩山総理と反小沢分子の大幅改造を断行して新発進し直せ

マイナス思考げ危機感ゼロ党内でケンカしてる暇あるかそんなバカ閣僚は即解任し仕事する若手と交代させ、一致団結選挙に突進。

4.パンチ一発で吹っ飛んだ林房雄

2009-11-19 00:40:35 | 日本の夜明けはこのままではない
1.長崎から朝鮮半島を経て新京へ
2.日本人の理想都市・新京
3.新京日報に入社
4.パンチ一発で吹っ飛んだ林房雄
5.社会部から広告部に転身
6.合気道の植芝盛平に師事
7.じゃじゃ馬娘との出会い
8.映画館にレディを置き去り
9.アルバイトにモデル
10.「二二六事件」で留置場入


1.長崎から朝鮮半島を経て新京へ

 昭和七年一月一日 蒋介石が汪兆銘と合体し新国民政府を樹立。同月二十八日には、上海で関東軍の海軍陸戦隊が中国第十九路軍と交戦を開始し、上海事変が勃発し、中国全土に抗日運動が激化し始めた。
 そして、三月一日には、「満蒙独立国」がこの日をもって国号を「大満洲国」に改め、年号を「大同」、国旗を「紅藍白黒満地黄旗」と定め、首都を長春に置いた。日本人はこの古都に「新京」という名をつけ、多くの人が満洲に日本の未来を託した。
 シナにおいて様々な権益を得ていた欧米列強はその権益を日本に奪われるのではと懸念して満洲の共同経営を日本に申し出ていたが、日本はこれを一蹴してしまった。
 日本にすれば欧米列強に伍してというより、控え目に欧米植民地クラブの準会員として満洲だけでも自国の権益内に取込みかったのだ。
 しかし、欧米は白人以外の有色人種に植民地を許す気は毛頭なかった。
 そして、ここからが日本の泥沼の時代の始まりだったが、日本の世論は世界の動向にまったくと言っていいほど疎かった。とくに新聞社など報道機関は過激な報道が目立ち、朝日新聞をはじめ大新聞はすべて「満蒙は日本の生命線」と国威高揚を煽っていた。そして多くの庶民はマスコミに煽られ満蒙に日本の未来を託していた。
 進一郎もその日本国民の一人であったが、生来の多血質ゆえ人一倍欧米列強の姿勢に義憤を感じていた。
 このような世相の昭和七年の暮、進一郎が東山中学を勝手に退学したと誤解した養父母と折り合いが簡単につくわけもなく、進一郎はついに長崎の養父母の家を飛び出してしまった。最終目的地はいわずと知れた満洲の土肥原機関だ。
 国威高揚を意図したマスコミに煽られた軍国少年・進一郎の心は新天地・大満洲国に飛んでいたが、まずは大阪商船三井に就職して門司にいた林田生治兄(伯父である林田家の養子)の下宿に緊急避難した。
 満洲に渡るには朝鮮半島経由が順当だ。そうなると釜山と航路のある門司に地の利がある。そこで朝鮮に渡るまでの一月間ほどをこの門司で機会を狙うことにした。
 この間、外国航路の船員である生治が帰国するたびにシーツ、シャツなど外国の製品を体に巻付けて秘かに国内に持ち込んで売りさばいたりするスリルも一興であった。このスリルと旅費を稼ぐにしても絶好の機会だった。また珍しい海外の話題を話し巧みに聞かせる兄の帰還は密輸以上に心踊るものがあった。
 昭和八年一月。年が明けると元旦早々から日本軍は山海関でシナ軍と衝突し、ドイツではヒトラーが首相に就任した。世の中が妙に騒がしく、そうでなくても多血質の進一郎が門司に何時までもグズグズしていられるわけがない。
 進一郎は正月早々、門司を後にして朝鮮半島に渡り、京城にある親戚の野中材木店に職を求めた。夢の大満洲国への足掛かりの一つとして養父母の親戚を飛石に利用したのだ。当然、一時凌ぎである。

 三月二十七日、日本はついに国際連盟脱会を表明した。

 アジア・アフリカに広大な植民地を持つ欧米列強に伍して国際社会で頭角を現した有色人種に対する言われなき差別を肌身にひしひしと感じた進一郎は日本の選んだ選択を喜びこそすれ悲しみはしなかった。日本に正義ありと信じていたのだ。
 そして進一郎は内地に桜の咲く四月頃、朝鮮半島をさらに北上し、国境に近い清津まで足を延ばして葦原金物店に一時の羽根を休めた。ここで親戚の帯刀田辰夫と落ち合い、二人で国境・国門から吉林をへて、吉林省の新京へ到着して天理教長春分教会へ寄宿することになる。
 昭和八年四月から進一郎の大満洲国首都・新京での生活がスタートしたのだ。

2.日本人の理想都市・新京

 新京は現在は「長春」と呼ぶ吉林省の省都であるが、当時は日本人が建国した大満洲国の新首都で、日本人が作る理想の首都建設の真っ最中であった。
 道路は米国のワシントンを模して百メートル道路が碁盤の目に交差し、交差点はどこも広々とした広場が設けられていた。日本国内の都市の美観を著しく損なっているあの電信柱と電線の光景もここ新京ではまったく見られない。すべて地下に埋設してあった。
 もちろん満洲国は日本国陸軍が建国した新国家であり、日本大使館=関東軍軍司令部であって新京は日本軍の武力を背景にして存在していた。
 とはいえ市街には資生堂、明治製菓、交通公社など日本人に馴染みの店舗が多く、「支那には四億の民がいる。狭い日本に住み飽きた」という言葉に誘われて満洲に一旗挙げにきた日本人で渦巻いていた。
 進一郎は土肥原賢二中将への紹介状を持参していたが、思うところあって紹介状を利用せずに新京での新しい生活をスタートさせる覚悟だった。
 「人生のスタートからコネや人脈を頼るような生き方はしたくない。正々堂々と自分の信じる道を歩むのみである」
 これが進一郎の信条であった。

3.新京日報に入社

 新京における一カ月間の進一郎の就職活動が実って五月には「新京日報新聞社」の社会部に就職口を得た。文章が得意なことからジャーナリスト志望の強かった進一郎は新聞記者に対する強い憧れを前々からもっていたのである。 「真実を書く、真実を報道する報道の使命に準ずることが九州男子の本懐である」 と迄信じていた。
 しかし、入社してみるとこの新聞社は実は関東軍第四課が買収した軍の宣伝工作の隠れ蓑であった。なんのことはない土肥原機関とのつながりが知らぬうちに出来ていたようなものだった。
 このことがこの後の進一郎の進退に大きな影響を与えるのだが、当人はまだ知るよしもなかった。なお、北シナ方面軍には一課から四課まであり、四課は情報担当、三課は謀略担当とわかれ、三課と四課の軍人同士は軍人として日本国の防衛の責任を果たすことよりも、どちらかというと功名争いや勢力競争に奔走し、お互いに凌ぎを削っていた。
 ジャーナリストとしての夢を持って入社した新聞社だったが、ここでは軍人たちが立身出世を夢見て他部門と意味ない凌ぎあいをしている姿を、この直後から進一郎は目の当たりにするのであった。
 ちなみに、就職試験は当時の満洲国の民主大臣・丁鉛修のインタビュー記事をとることで、会社が平版印刷で作成した一枚の名刺を持たされ、「取材してこい」という粗暴な方法だったが、シナ語に通じた進一郎にとってはお手のもので入社試験は難なくパスした。
 当時の満洲における現地採用の実態がわかるようなエピソードではある。なお、当時の関東軍憲兵司令官は東条英機であった。
 社会部時代には、火災記事を人より早く書こうと消防署の近くにアパートを借り、消防車に飛び乗って取材に行ったことがあったという茶目っ気ぶりを発揮したのもこの頃だ。
 運よく消防車に同乗する機会を得た進一郎は火災の様子をつぶさに取材し、 「紅蓮の炎が渦巻く火災現場からは黒々とした黒煙が舞い上がり…」 といった長々しい名文調の記事をモノにしてデスクに得意顔で渡したのだが、デスクから返ってきた原稿は赤字だらけで原文は十行ほどしか残っていなかった。
 こんな粗忽な面もあった進一郎だが、積極性だけは誰にも負けず意気軒昂であった。
 八月にはやっと新京日報新聞社の独身寮へ入居することができたが、新米の進一郎は蚕棚の三段式ベッドの最上階で寝かされた。ルームメートは後々人生をともにする久保春雄だった。

4.パンチ一発で吹っ飛んだ林房雄

 新京日報に就職口を得て間もない頃、日本本土から新聞社の招聘で多くの文人墨客が新京に姿を見せていた。その中にプロレタリア文学から転向し、昭和八年創刊の文芸春秋社発行「文学界」で健筆を振るっていた当代一流の文人・林房雄もいた。
 この林房雄を進一郎がゲンコツでぶん殴るという事件が発生した。 ことの顛末はこうである。折からの上海事変で展開された皇軍による破竹の進撃振りを当時の文壇を担う一流の文士たちの健筆で新聞紙面を飾ろうというのが新聞社の経営陣、つまりは関東軍情報課の思惑であった。
 文学者たちも同じような思惑を抱いていた。日華事変が勃発して以来、それまで社会主義的自覚や階級的自覚を文学によって推進しようとしたプロレタリア文学の群れもさすがに時代の流れを読むには敏感だった。
 そのような時代の流れに敏感な「良識者」たちはその「良識」をもって個人主義的な文学意識を急旋回させ、軍部によって当時の日本社会で支配的なイデオロギーとなりつつあった日本主義、軍国主義的な社会ムードに便乗しようとしていた。
 その彼らの拠り所が昭和八年に創刊された「文学界」であり、日本主義への積極的な推進者が林房雄だった。
 この林房雄の接待役を仰せつかったのが進一郎だった。新入社員の進一郎が文壇の旗手・林大先生のお世話をするのである。これほど晴れがましいことはない、と通常の人間なら考えるところだ。
 ところが、進一郎にすれば「元をただせばアカじゃないか」「転向野郎がなんだ」と評価は極端に低いのだ。
 それはそうだろう。つい先頃までは人民に社会主義的自覚を促し、階級社会への矛盾を文学を通じて訴え天皇制を批判していた文学者が、上海事変以来、軍部に擦り寄ることしきりである。
 ついには関東軍の御用新聞社である新京日報の招聘で、軍部に都合のいい「提灯記事」を書きに大挙して新京に現れたのである。
 進一郎からみれば「卑怯未練な奴」ということになる。そんな思いが人一倍顔に出るたちの進一郎である。世の中の人間は皆、自分に平伏すると思っている林房雄を屁とも思わない進一郎の振る舞いに林は驚愕し、「実に失敬な奴だ」「満洲の田舎者め」と人目をはばからず罵倒する。
 進一郎は「なんだ」と思っていても、そこは新米記者だ。ぐっと怒りをこらえて林の顔を睨み付けるだけで我慢する。
 林にすれば、そんな進一郎の顔が気に入らない。 「君も文筆で食って生きたかったら少しは人間心理に通じる必要があるぞ。新米のくせに何をそんなに威張っているのだ」 と怖いもの知らずで進一郎をからかってしまった。
 これが進一郎の我慢の限界だった。 新聞社のトップが同席していたのだが、そんな時の進一郎には誰がいるのか、誰が留めたのか何にも気にならない。気がついた時は, 「この転向野郎」と言い態、林の頬っぺたを握り拳で思いきり殴っていた。
 林も「乱暴者!」と一喝したが、ボクシングで鍛えていた進一郎のパンチは強烈だった。林は一発で吹っ飛び、後は進一郎を押し止める新聞社の幹部に間を阻まれて二発目は不発に終わり、その瞬間に進一郎の接待役はお役御免となっていた。
 その後、さすがに文壇の大物、貫祿を見せて林は新聞社の幹部に、 「彼も若い、これから将来がある身だ。あまり手荒な処分はしないように」 と言ってくれた。
 お蔭で進一郎はとくに処分は受けなかったのだが、しかし、従来どおり社会部で記者生活を続けるのは難しい状況に陥っていた。




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