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くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

いざ!上越×総ノ太刀×目次

2010年08月09日 | 参陣記
昨夏参陣した謙信公祭の日次記「いざ!上越」の目次を、以下に掲載いたします。
本来、目次は初日に掲載すべきものかとは思いますが、ブログの性格上、一番最後に掲載いたしました。
宜しければ、ご興味のある項目よりご一読くだされば幸いです。
また、感想などを一言賜れば、幸甚にございます。

◇>>> 壱ノ太刀×清水越え
◇>>> 弐ノ太刀×心構え
◇>>> 参ノ太刀×六連銭旗下の栄誉
◇>>> 四ノ太刀×六連銭の行方
◇>>> 伍ノ太刀×川中島の余韻
◇>>> 六ノ太刀×善光寺より望む


さて、締め括りに際しまして...
謙信公祭の初参陣は、もう、今から7年ほど前のこと。
その頃は、まだ地方の、昔から続くお盆の行事の一環の雰囲気が強く、熱気も(参陣者間の)団結力もあって楽しかったですが、(あくまでも私感ですが)いまではもう、それも希薄となって、以前に比べて魅力が落ちた気がします。
それは、偏に「後夜祭」が無くなった!こともありますが(^^ゞ
かつては、同窓会的な雰囲気があり、初参の頃は「前夜祭」もあって、2日間を共通して大いに盛り上がったんですが...
近年はそれもなく、ただただ、寂しい限りでした。

それと...
我が街でも挙行される時代祭に毎年観に行っていて、規模も方法も全く違いますが、ついつい比べて見てしまうんですが、やっぱり・・・なんて言うんでしょう、熱気が違うんです。

街を挙げて盛り上げる!という気概が違うんです。

それが、地元民ということを贔屓目に見ても、明らかに違う・・・と感じます。
今年、米沢と仙台に参陣して、より強くこれを感じました。
加えて、上越市内の名所旧跡を観尽くした感があるので(^^ゞ
↑なんというか、観光客を出迎えてくれる雰囲気が、私には全く感じられないんですが...。

今夏の謙信公祭には、2年ぶりにガクトが参陣するとか。
賛否両論ありますが、一昨年の謙信公祭で体験し、凄いもの熱気を感じました。
知名度やカリスマ性は全く違う方向ですが(笑)
我が街の時代祭にも、(コチラは地元と縁の深い)小出義雄監督が出陣したときなどは、大いに盛り上がりました。

(時代)祭に芸能人を招くことに対して、私は否定しません。
祭は地域振興が第一の目的であるので、これで街が盛り上がり、地域が一時でも熱くなり、名が知れ渡るのなら、私が市民ならば大いに歓迎します。
今回のガクト参陣には、いろいろな都合や予算的に結構な支出があるようですが、それに見合う費用対効果があると見込んで、地域の発展の為に下した上越市の判断を、私は尊重したいと思います。
ただ、それが局所的なモノで終わらないことを、切に願いたいです。

今春、米沢にも出陣して、その熱気と盛り上がりと、気概と気合の入れ様に触れて、それを特に実感しました。

それは勿論、我が街の時代祭にも通じるところではありますが。。。
工夫次第で、何とでもなることも、両方を観て、参戦して、感じるところでもあります。

暫く参陣することはないと思いますが(^^ゞ
いつか、また参陣熱が出てきたら、いざ!参りたいと思います。
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いざ!上越×六ノ太刀×善光寺より望む

2010年08月07日 | 参陣記
一度長野駅までバスに乗り、そこから歩いて「定額山善光寺」へ。

以前来た時は不覚にも道に迷って、漸く着いた・・・という、少々苦い経験をしましたが、今回は難なく。
街並みなどを楽しみながら、余裕を持って行けました(^^ゞ



参道口にある善光寺郵便局。レトロな感じです。その向かいに建つ洋館風の建物。なんだったかは覚えてませんが(^^ゞ立派な造りです。



参道には、古風な旅館宿坊も軒を連ねています。一度は泊まってみたいです。。。


以前訪れた時は、本堂山門などが大改修中だったか囲いがされていた記憶があるんですが、今回はそれも無く、立派なそれぞれを拝見し、参拝することが出来ました。

本堂内は、外の喧騒が全く嘘のようにとても静か。

立ち込める香の匂いと、圧迫感の全く無い高い天井とで、とても落ち着けます。

その中で、列を成しているところを発見。
近付いて見ると・・・「戒壇巡り」とありました。
時は夕暮れ時。
この後は、もう立寄れるところなどないだろう・・・と、並ぶことに。
ただちょっと、並んでいるのが親子連れなどばかりで、大きい荷物を背負う独りぼっちの私は幾分気恥ずかしく、肩身の狭い思いをしましたが(^^ゞ

中々進まない順番も、30分くらいしてから漸く。
近付いてみて、いざ中に入って判りました。
入るまで、順番が巡って来るまで時間が掛かった理由が。

まず、間口が狭く、階段も結構急峻です。
そして、中は・・・・・・真っ暗です。
一途の光すらもない、真の真っ暗闇です。
こんな暗い空間に身を置いたことは、多分、人生の中で初めてだと思います。
頼りになるのは、壁伝いに設えてある手すりと自分の感覚、そして、同じ場所に居る人たちの声です。

この戒壇巡りを目的は、中程にある“極楽の錠前”に触れること。
それによって、錠前の真上におわします御本尊様(秘仏)との結縁を果せる・・・というもの。
しかし、回廊内は真っ暗なので、さながら宝探しに似た感覚。
「錠前は右側に掛かっている」という案内を頼りに進んで行くも、真っ暗闇なのでどこに何が有るのか、どういう状態なのかがさっぱり...。
しかも、初めて入るところなので勝手も掴めず、手と足と耳の情報を頼りに暫く進むと、前方から「ガチャガチャ」と、錠前らしきものを触り、動かしている音が聞こえてきました。
合わせて「これ?!」とか「あった!」などの歓声も聞こえてきます。

暫く進んでも、何の手応えも無かったの不安でしたが、とりあえず、触らずに通過していなかったことが確認できて安堵し、聞こえてくる情報を頼りに進んでいくと・・・右手に、冷たくて固い感触が?!
それも、何気なく過ぎ去ろうとした中で突然着たので、そのまま行き過ごすところでしたが、どうやら“極楽の錠前”に触れることが出来たようです。

ただ、真っ暗闇で何も見えないので、それが間違いなく“極楽の錠前”だとは言えませんが(^^ゞ

結縁も遂げ、今度は出口を求めて進んで行こうとしたら、直ぐ前を進んでいた家族連れの中で父親だけが触れ逃したようで、「どこだどこだ」と言いながら、戻ってくる気配がしました。
その時、錠前の近くに私が居たので「こっちですよ」と案内をして、錠前に触れる手伝いをしました。
あの状況下では、不思議と団結力とかも生まれてきます(笑)

そんなこんなで、どのくらい掛かったか、戒壇巡りを成し遂げることが出来ました。
回廊の長さはそれほどではないんでしょうが、もう、一時間近く巡っていたような感覚です。

善光寺本堂の内陣と戒壇巡りを堪能し、他にも・・・と思ったんですが、時刻は16時を過ぎ、閉まるところも出始めたので、一路長野駅へ、参道を下って行きました。

けど...
朝食を本陣で取って以来、何も食べていなかったので、ここで遅めの昼・・・というよりは夕食を取るべく、店構えに惹かれて、参道に在った【丸清】という一軒のお蕎麦屋さんに入りました。

外観同様店内も、細長い造りですが、古民家風の、時代劇にも出てきそうな造り。
ここではざるそばを頼みましたが、コシが程よくあり、あっつい中歩いて来た体にキンと冷たい蕎麦は最高でした。

本当は、蕎麦を肴に一杯!と思ったんですが、それは控えて蕎麦に専念しました(^^ゞ

空腹も満たされ、再び駅に向かって歩いて行きました。

行きは、参拝時間のことを気にして幾分急ぎ足で善光寺へ行きましたが、帰りは、まだまだ新幹線の最終までには十分余裕があったので、ゆっくりと、参道から伸びる石畳の道を歩いて行きました。

その途中、気になるお寺さんを発見。
それは、刈萱山西光寺というお寺さんで、地元長野では「かるかやさん」と言って親しまれているそうです。

寺縁としては、善光寺と密接な繋がりがあり、善光寺に普請が有る時はここに(差配する)奉行所が置かれ、いまの西光寺の本堂は、天保年間に行われた善光寺の普請造営の落慶後に余った資材が用いられているとか。
小ぢんまりとした寺院ですが、喧騒的な参道から一歩、寺門を潜ってはいるだけで、そこからは隔絶された、落ち着いた雰囲気に身を置くことが出来ます。


善光寺から長野駅までゆっくりと、途中寄り道をしながら戻ってきて、漸く、正真正銘の帰路へ。

新幹線のキップを買って、いざ、ホームに下りると・・・だ、大行列。

時刻は18時。
先発の新幹線の、特に自由席はラッシュ並みの混雑だったので、勿論一本見送って、後発の新幹線に座って行くべく、暫し待機。
その間にも人が続々と着いては列を成していきました。。。
発車の15分くらい前に新幹線が到着し、準備を整え終えて開扉をすると、狭い間口から人が続々と入っていき、車内はあっという間に満席。
私は何とか、列の前の方に居たので、一番前の窓側に座ることが出来ましたが、人は車内から扉付近までぎっしり。
余りに多さに、通路の扉が常時開放状態に(--ゞ
また、車内のワゴン販売も中止に。

帰省時のニュースでよく耳にする新幹線の乗車率“200%”というのを、この日初めて実感しました。

乗車した新幹線は高崎までの“各駅停車”で、長野を出て、上田佐久平軽井沢・・・と停車するも、長野で最早この状態なので容易に乗れず。
中でも軽井沢には結構多くの人がホームに居たようですが、全員乗車することは出来なかった・・・と、思います。

あっ、ちなみにこんな状態だったのは(とりあえず)自由席だけだったようです。
それと、新幹線を下車した上野駅では、陛下の御召列車にも使われるなごみ(E655系)も間近で見られましたし(笑)

祭自体は、必ずしも満足いくほど楽しめた・・・とはいえませんが、その前後の観光は、思いっきり楽しめました♪

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いざ!上越×伍ノ太刀×川中島の余韻

2010年08月06日 | 参陣記
松代(海津城)から甲越両勢が雌雄を決した八幡原までは、歩いて40分ほど。
千曲川に掛かる松代大橋を越えれば直ぐです。

陽射しはきつかったですが、時折そよぐ風と、風光明媚な景色や越甲両勢の当時の動きを推し量りながら向かいました。

かつて越甲両勢が雌雄を決して激突した・・・とされる八幡原も、いまではきれいに整備された広大な公園に。
松代から千曲川を越えて園内に入ると、まず出迎えてくれるのは松代が生んだ幕末の天才!・・・との呼び声高い、佐久間象山先生の立派な銅像です。

夏の青空をバックにすると、より立派に見えます(笑)

そして、園内には“八幡原”にちなんだ銅像がもう1つ。
言わずと知れた、三太刀七太刀に模した謙信公と信玄公の銅像です。

こちらは、木々の下にあって一見すると目立たないんですが、人気は断然コチラに(^^ゞ
この前で写真を撮る人が絶えず居ました。
この側、武田勢の陣を構えていたとされる場所には「八幡社」が建っていました。

確かに、本陣跡には小規模な土塁のあとが見て取れますが...。


この他にも、真偽はともかく...
川中島の合戦の所縁の証が所々に点在していました。


夏休み中の日曜日ということもあってか、結構な人出があり、中にはボランティアガイドの解説を聞きながら巡る人々も。

それにちょっとだけ私も帯同し、陣形などを再確認できました。

川中島の事跡を辿り、松代と八幡原に。
そしてこの後、バスに乗って長野市内へ。
越甲両勢を激突させる程重要だった「定額山善光寺」へ向かいました。


真の勝者がどちらであるかを見極めるために...。

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いざ!上越×四ノ太刀×六連銭の行先

2010年08月05日 | 参陣記
謙信公祭から一夜明けて。。。
この日の天気も、前日に引き続いて快晴!
本陣の朝食バイキングでありったけ食らい、身支度を整えて帰路へ。

ただ、普通に帰るのは実に勿体無い!ので、行きとルートを変えて、帰りは長野周りで帰ることにしました。

直江津を10時13分に発つ信越線の[普通|妙高]に乗り込んで長野へ、1時間半掛けて向かいました。

かつては[特急|あさま]として活躍した車両に揺られ、前日の疲れも忘れるほど快適でちょっと贅沢な[妙高]で、車窓を流れる長閑な景色を堪能しつつ、長野へ向かいました。信越線も、一度は乗り通したかった路線で、二本木ではスイッチバックを初体験しました(笑)
また、つい10年前まで走っていた[特急|あさま]や、幹線として賑わっていたであろう名残も随所に。。。

信越線脇野田近くでは、北陸新幹線の建設工事が進められていましたが、これが営業を開始されると、長閑な信越線はどうなるのか・・・が、ちょっと気掛かりでした。

往路と同じく。
(目的地まで)100kmを越すキップを持っていると途中下車できる利点を活かして、長野で途中下車。

駅前からバスに乗って向かった先は...

はい、此度上越で付いた真田(信濃守)家が江戸時代に治めていた松代です。

前年は、加賀井温泉に浸かるために立寄りましたが、今回は久しぶりに御城下を散策しました。


何年か前に来た時は改修中だった松代城

改修(復元)されたのは石垣や門などで、本丸御殿などが在った場所は広場のままでしたが、それでも十分、城の規模などを窺い知る事が出来ます。

城内の櫓址からは、前夜で再現された第四次川中島の合戦で上杉方陣地の在った妻女山が望めます。

三方を山に囲まれた盆地の中に築かれた平城ですが、一方には千曲川が流れており、護るに十分。
戦国時代は“海津城”として、川中島から善光寺平までを扼し、川中島の合戦に於いて重要な拠点であったことが窺い知れます。


城を一通り巡覧した後、次に向かったのは文武学校です。

ここは松代真田家の「公立校」で、伝統的な剣術や柔術などのほかにも、西洋式軍学の教授も行っていたそうです。


正門より入って正面に建つのは文学所。

「嘉永6年癸丑」と入った棟札の掛かるここは、学校一大きく、(学校の)正庁として位置付けられており、玄関より入って左手には、御座(御当主)の間が。

他にも、執政や目付(監察)の控室や事務所的な部屋まであります。


反対の右手には、40畳はあろうかという大広間(講堂)があります。

ここで、かつては軍学や諸学の講義が行われていたかと思うと・・・なんとも不思議な感じがします。


文学所は文武学校の「文」の棟ですが、「武」の棟も、その術ごとに点在していて、弓道場や剣術場では、鍛錬を積んでいる方たちが居られました。

その方たちのお邪魔とならないよう、静かにその業を拝見していましたが、(当然ながら)真剣そのもので、緊張感がよく伝わってきました。

松代に住んでいたら、絶対通っていると思います。


左右には控えの間、そのうち一間は「上覧の間」であり、他よりも一段高くなっています。

梁も立派です。


文武学校で、幕末の松代の気風を感じた後、少し御城下を散策。

業績が一部過大評価されている・・・とも言われる江戸中期の真田家の名執政・恩田木工民親の屋敷址と、そこに建つ銅像にご挨拶。

いまも残る、真田勘解由家と小山田家の御邸を見て、次へ。

千曲川を渡って、甲越両勢が激闘を繰り広げた八幡原に向かいました。


◇2代目当主・内記信政の長子、勘解由信就を祖とする家。
 子の信弘が宗家を継ぐが、3代後の左京大夫幸弘に男子なく正統が途絶える。
 (彦根井伊家より婿養子=大老を務めた掃部頭直幸の子、順介(幸専)を迎える。)
 また、勘解由家も後年他家より養子を受け、真田家の血筋が途絶えている。


◆甲斐府中近く石田の出で「石田小山田家(備中守)」と称し、郡内小山田家とは別の一族。
 真田(信濃守)家中では代々次席家老の職にあり、その初代壱岐守茂誠の妻は安房守昌幸の長女・村松殿。

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いざ!上越×参ノ太刀×六連銭旗下の栄誉

2010年08月04日 | 参陣記
謙信公祭本番の朝。

前日の名残か雲は多かったですが、不安定感は無く、気持ちいい天気でした。
ですから、朝食を取って用意万端整えてから、本陣の自転車を借りて府中を巡覧してきました。
まぁ・・・朝食を取り過ぎたので、ウォーミングアップも兼ねて(笑)
本陣前の道を真っ直ぐ北へ,まず目指したのは日本海

波の音,心地好く吹く風がとっても気持ちよかったです。

この後、針路を西へ,海の家やサーファー群を横目に向かったのは、親鸞上人上陸の浜へ。
ここから、今度は南へ,急峻な坂を越えた先にある越後国一宮の居多神社へ向かいました。

住宅街の中にあるこのお宮さんは、上杉家の関連本を多く執筆している花ケ崎さんが宮司を務めることでも知られているが、そのお蔭もあってか・・・最近新たに本殿を落慶させたようで、立派できれいでした。

正味1時間ほど掛けて巡った後、織部正殿と共に春日山へと向かいました。

陣所の春日小学校に着いたのは10時半頃。
ツワモノ達も徐々に集まり始め、各隊それぞれ自主練兵を開始。
本戦で手合わせをする軍勢とも詰めの段取りを決め、昼食後、身支度を整えて出発!したのは上杉勢から。

武田勢はその後、1時間近くしてから。

自衛隊の輸送もなく、ここから行軍をして事実上の出発地である高速道路の高架下まで行きました。

何年か前までは、武田勢も春日山から上杉勢の後に続いて行軍していたのに・・・知らぬ間に、扱いが随分と違ってます(苦笑)
まぁ、歩く距離が短くていい・・・といいといえばいいんですが、何だかちょっと、物足りない気分がします。

ただ、此度の御大将の石野殿と副将の星友殿は歴戦の兵。
兵と観衆を沸かせる心得は十分お持ちなので、安心して付き従って参りました。

(一部、勝ち鬨を何度も仕掛ける不心得な兵が1人(^^ゞ...お助けできなかったのが、ちょい無念で申し訳なく。。。)

今回は、「ナントカ」って大河で「上杉景勝公」を演じていた北村一輝さんが出陣。
お蔭で、メインの謙信公大通り沿道には十重二十重と観衆が。
残念ながら、武田勢からはどこに居るのかすら判らない状況でしたが(^^ゞ
観られていると、やはりやる気が俄然違ってきます。
勝ち鬨など上げて拍手など出ると、気持ちいいものです(笑)

前回は、新発田隊で姫の“護衛”を仰せつかって大変な思いをしましたが(爆)
今回は順調に、いつもより短いお蔭で疲労感など全く無く、いつもの小休止場で念のために体内の出入りを済ませてから、いざ!合戦の場へと乗り込みました。

前日のリハどおりに整列し、暫し号令が掛かるまでその場で待機していると...
オーロラビジョンと、荷台が舞台になるトレーラーが準備され、そこへ、上杉勢と帯同していたらしい今回のゲスト・北村一輝さんがオープンカーで登場しました。
・・・さながら、「一日警察署長」ならぬ「一日上杉景勝公」と言ったところでしょうか(苦笑)
合わせて、上杉勢と(関連する)歴史の見方(評価)を貶めた・・・もとい、大河を不思議な道へを誘っている諸悪の根源のNHKのプロデューサーが登場して、トークショーが行われました。

これが小一時間くらいだったでしょうか・・・その間、ツワモノたちはやる事なしで、まったりとした時・・・いや、本戦に備えて英気を養っていました(笑)

トークショーが終わり、舞台などが撤収されると、桟敷席の人々も、潮が引くように散って行きました。
前年のガクトよりは少なかったですが、それでもやっぱり、結構減っていく様子は寂しいものです。。。

さて、気を取り直して。
謙信公祭の演出などを手掛けている丸武産業のスタッフが発炎筒を方々に放って煙幕を作って、いざ!本番・・・のはずなのに、想定以上に?!煙幕が掛かり、辺りは真っ白。

始めの内は、合戦時は濃霧であった川中島を再現するが如くで、幻想的でよかったんですが、この夜は無風だったからか、煙幕が流れずにその場にいつまでも止まってしまう有様。
挙句、煙で咳き込むツワモノが続出してましたが、私は気管支系が強くないので、この煙に巻かれて息が思うように出来ずに咳き込む始末。

真田付きのスタッフさんにはご心配いただきましたが、あれはちょっと・・・苦しかったです。

せっかく養われた英気も一瞬で減退。
煙幕が引いた後も調子は容易に戻らず、本戦を最後までやり遂げることは出来ましたが、思うように、満足いくほど楽しめたかどうかは、微妙です。
演出も、以前と比べて随分と変わってました。。。

行軍から本戦まで、一通り終わって陣所に戻ってきたのは21時半過ぎ。
以前よりも一時間近く遅い終了。。。
楽しみにしていた握り飯も出ず←
夜の帳がすっかりと落ちて、静かで真っ暗な街中を足取り重く、織部正さんと共に本陣へ。


この後、この夜も同じく裏手に在る赤提灯のお店で一杯やって、祭の疲れを吹き飛ばしてから休みました。。。

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いざ!上越×弐ノ太刀×心構え

2010年08月03日 | 参陣記
上野から全行程を在来線で直江津まで。
途中寄り道をしましたが、6時間半掛けて漸く着きました。
今回の本陣は、毎度同じ直江津駅近くのホテル。
チェックインを済ませて部屋に入り、旅装を解いて身軽にしてから、リハ=本番会場の春日山史跡広場へと向かいました。
けど...
外へ出て、駅へ向かって少しある歩き出したら再び雨が!
それも、結構大粒で強い雨。
この時持っていた傘は折りたたみで・・・ちょっと参りました。
ホテルのロビーで傘が目に入ったので、借りておけば・・・と、駅に着いてから思いました。

その雨も、直江津から春日山へ向かい時にはすっかりと上がっていました。。。


史跡広場には17時頃に着きましたが、既に、多くのツワモノドモが参集していました。


リハは18時過ぎから開始。

今回、私は真田弾正幸隆隊に所属。
御大将には石野真琴殿。
今回新設の副将には三浦介星友殿という、最早向かうところ敵無し!の強力な陣容。
石野殿と星友さんも歴戦の士として、種々相談しながら指揮をされ、リハながら、とても充実しました。
・・・が、リハも半ば頃に土砂降りの雨が!

誰が降らせたのかはいざ知らず(違)
ツワモノドモの士気が右肩下がりで低下しているくも、総司令の士気は衰えず(苦笑)
返って意気軒昂に、雨が降っていることなど感じていないが如くにリハを継続させていましたが・・・流石に、止む気配などなく、ますます雨脚の強まる状況下では・・・総司令に止めが入ったのか、終了まであと一歩!というところでリハは終わりました。
ツワモノドモはホウホウの体で、それぞれの本陣へと散って行きました。


なお、私は今回(偶然)本陣を同じくした「先輩」の織部正様にご一緒させていただいて、帰陣。
少しの休息してから、本陣裏の、前々から気になっていた赤提灯の下がる店に入りました。
メニューはたまたま?!乏しかったですが...
その中で、とりあえずビールを飲んで一日の労をねぎらい、明日への活力を補い、程よい天候回復を祈って(それぞれ)休みました。

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いざ!上越×壱ノ太刀×清水越え

2010年08月02日 | 参陣記
今年も、もう、上越の謙信公祭に志願する時がやってきたようですね。
ただ、私は、残念ながら参陣しません。
聞くところによると、今年は抽選制だとか。
また、ガクトが再出馬するとかで、大いに盛り上がることかとは思いますが...
日曜日の夜という、中々厳しい事情もさることながら、正直なところ、昨年参陣を遂げた後から、今年は出ないと決めていました。
理由は・・・のちほど語れたら・・・ということで、まずは昨夏の参陣記を掲載していこうと思います。

ではでは。

昨夏も、いざ!上越へ馳せ参じてきました。
その前の夏は車で馳せ参じましたが、この5日前に奥羽大遠征を行ったばかりでちょいお疲れ気味だったので(^^ゞ
今回は電車の旅を敢行しました。
それも、直江津まで全て在来線で行きました(笑)

スタートは上野駅
ここを8時35分に発つ[快速|アーバン]で、まずは高崎へ向かいました。
(乗継も考慮してこの列車にしましたが、流石に、全行程各停だとキツイので(^^ゞ)

途中の籠原で前5両を切離しましたが、それでも、車内は座席に若干の余裕がある程度の混雑具合。
特に大宮からは、ビジネスマンの利用が結構目立ちました。
大宮から先も、上尾桶川鴻巣熊谷・・・と、各駅のストレスもありませんし(笑)
ちょうどよい時間に大宮を出(9時03分)、終点の高崎着も10時14分ですから、利用し易いのかもしれません。

高崎から先は上越線に乗換えて水上まで,10時30分発の電車で向かいました。

僅か4両編成の車内は、特に年配のハイカーなどで満員。
水上に近付く毎に、徐々に徐々に減っては行きましたが、意外にも満席状態は水上まで続き、危うく(水上までの)1時間半、ずっと立ってなければならないところでした...。
電車は湘南色の懐かしい115系。席はボックス型なので、窓際に何とか座って、じゃがりこを摘まみながら、移り行く車窓を楽しみました。

水上に到着したのは、定刻通りの11時34分。

ここで、今度は新清水トンネルを抜けて長岡まで行く電車に乗換えて、ほくほく線との連絡駅・六日町を目指しました。

水上までの上越線に乗ってきた人の多くも、長岡まで行く電車に乗り込んだらしく、後ろの車両(階段近く)は結構乗っていたようです。
その多くの人の目当ては、入越・・・もそうですが、多分、間違いなく、水上から2つ先の駅だったかと思います。
上野駅で買った駅弁を食べながら、電車は定刻通りに水上を11時41分に出、5分後に、次の湯檜曽に到着。
駅を出ると、すぐに長大なトンネルに突入し、その5分後,土合に到着します。

予てより、噂には聞いていたトンネル駅。
一度は「来たい!」と思っていたその駅は、ものすんごくひんやりしています。
私は先頭車両に乗っていたので、通り過ぎる瞬間でしたが、幅広く長ーい階段も、確かにこの目で見ました。
ホーム(線路)は新たに設けたのか、かつて使用していたであろう、コンクリートの無機質で冷たい感じのするホームは、停車位置から少し離れたところにありましたが、上越新幹線が通るまでの幹線の名残か、長ーいホーム健在でした。
しかし、ホームの明り(蛍光灯)は疎らで、それを補うほどの光量がないので、後方末端まで見ることが出来ず、ちょい不気味した。

ここに停まる電車が、日に両手で十分な本数しかありませんから...。

これだけ話題の土合も、JRにとっては別段特別ではなく,停車時間は1分弱。
私と同じく、車外に出て写真撮影に興じていた人たちも、車掌さんの笛に慌てて戻りました。
これを逃すと、次に電車が来るのは・・・2時間後。
水上方面は、辛うじて40分後ですが(^^ゞ

結果、この駅で降りた人は居なかった・・・ようです(笑)

電車は何事も無かったかのように土合を出発。
電車の窓は、トンネル内の寒さを物語るかのように真っ白で、土合でも、吐く息は白かったです。

大清水トンネルは、ループ式なので、ぐるぐると回りながら進んで行くんですが・・・乗っていると、全くその感覚はありません。
ただ、長いトンネルを抜けて次の土樽に着く前、上りの線路を探してみたら、結構離れた山の上で確認できました。

トンネルを抜けると、そこはもう越後。
長閑な風景に、心洗われる思いがしました。


ほくほく線との連絡駅・六日町には、水上を出てちょうど1時間後の12時41分に到着。
次は一気に直江津まで・・・行く電車は、生憎1時間後。
[特急|はくたか]に乗ってもよかったんですが、それではツマラナイので...

六日町到着の14分後に虫川大杉まで行く電車に乗って、ほくほく大島を目指しました。
ここには・・・そう!
日本一うまいところてん】が在るんです。
六日町で無為に過すより、寄って食らって来た方が、結果的に(六日町で待って乗るのと)同じ電車に乗ることになるので、時間を有効に使えお得なんです!

六日町を12時55分に発って、ほくほく大島時31分に到着。

後続の直江津行きは14時35分・・・と十分往復できる距離なので、ゆとりを持って食らってきました!“日本一うまいところてん”を。
お客さんは私以外誰も居なかったので、のんびりと堪能してきました。
ただ、何と無く雲行きが怪しくなってきたので、14時過ぎにお店を出、駅へと戻りました。

途中、諏訪神社の柱標と、鬱蒼とした木立の中に御社を確認。

今回は武田方真田弾正幸隆隊に属して出陣なので、御加護を賜らん!と参拝。
幾分寂れた感のある御社を後にして駅へと向かおうとしたら・・・降ってきました、大粒の雨が。
幸い、駅まで少しの距離だったので、さほど濡れずに済みましたが、一歩遅れれば・・・結構厳しい状況だったと思います。

この後、予定していた電車に乗って直江津へ。

↑「ナントカ」っていう大河のお蔭でか、直江山城一色です↓

雨も、直江津に近付く頃には上がっていました。
そして、上野を発って6時間半にして、漸く直江津に到着しました。
今回の本陣はいつものホテルのから歩いてすぐ。

部屋に入って一旦旅装を解いてから、リハ=本番の行われる会場へと向かいました。

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いざ、米沢!!を終えて...

2010年06月09日 | 参陣記
大満足の一合戦を終えて、余韻に浸りながら陣所へ。
ここで武装を解除して、共に戦塵を駆け巡った楓さんや左馬之助さんに別れを告げた後、向かったのは上杉神社。
早朝以上にごった返しているここへ戦勝を報告をして、隣接している物産館の上杉城史苑で米沢ラーメンを買って帰ろう!と思ったんですが、生憎売り切れていたので、試食だけしてここを後にしました。

時は夕方。
この後の予定を考えて、ここで食事を・・・と思い、史苑の直ぐ近くにある【まつかわ】というお店に、買って帰れなかった米沢ラーメンを食べるべく入りました。

テレ東の「でぶや」の取材を受けたことがあるらしく、誇らしげに写真と色紙が飾られていました。
注文したのはオーソドックスな“米沢ラーメン”。

そのお味は・・・まぁ、普通です。

ただ1つ気になったのは、スープが若干甘いこと。
以前、別の店で食べた時にも感じた味なんですが・・・これが米沢ラーメンの特徴なんでしょうか。
史苑で試食した(あったら必ず買って帰る)ラーメンはそんな味はせず、ものすんごく美味いんです!が...。

せっかく食べた米沢ラーメンに(幾分)がっかりしつつ、再び神社へ戻ると、先ほど共に戦った方々と再会。
互いの健闘と、今夜は、私が前日入った白布の【西屋】に泊まると聞いて大いなる羨望を抱きつつ(^^ゞ
私は合戦の疲れを癒すべく、小野川温泉へと向かいました。

しかし...
あ~ぁ、一緒に白布の【西屋】へ連れて行って欲しかった...(マテマテ!)

小野川温泉は、米沢市街地から車で30分ほど。
歴史ある小野川は、どことなくノスタルジックな「温泉街」。

少し外れに在る合同駐車場に車を止め、向かったのは共同湯の1つ【尼湯】。

入湯券を近くの酒屋で払い、「男」と描かれた扉を開くと、直ぐに脱衣所、湯場と直結しています。
簡易な脱衣所で身包みを解いて湯へ行くと・・・あ、あっついのなんの!
この時の湯温は45℃くらい(^^ゞ
江戸っ子じゃあるまいし...
慣れぬ内から入ると、痺れます。。。

この時中に居たのは全て地元の、しかも顔見知りの方たちばかりらしく、この温湯でもさも当然の如く浸かっていました。
私も、それに負けじ・・・と、合戦の疲れを癒すべく、温湯にしっかりと浸かってきました。
お蔭で、上がっに汗が吹き出るようにバンバンと出て、暫く引きませんでした(^^ゞ
外は、昼間の暑さが嘘のようにひんやりとしていましたが、それが返って心地よいくらいでした。

ただ、私の後から入ってきた西国の湯治客か、この熱さには耐えられず、注水の同意を得て、その(注水の)側で湯に浸かっていました(笑)
尼湯の表には飲泉があったので、勿論頂いてききました。少し塩気があって、美味しかったです。

別の共同湯・滝の湯。

温泉卵が作れる湯桶がありました。



小野川で一っ風呂浴びて合戦の疲れを癒し、さて帰路に・・・と思ったら、やーたろー殿が昨夜と同じく【成ル】に居るとのメールが入っていたので、急遽予定を変更して、私もそこへ向かいました。

行ってみたら、とても判り易いところに居て、尚且つ隣が空いていたので、これは勿怪の幸い!とばかりに、討ち入り。
一応、行く前にメールを送っておいたんですが、どうやらそれに気が着いてなく、私の急襲に驚いてました(笑)

やーたろー殿は、既にもう、地酒を幾杯か平らげた後の様で、とってもいい感じでした(笑)
しからば私も!といいたいところだったんですが、この後車を運転する身。
ここはグッと我慢して、ソフトドリンクで我慢しました。
もう、本気で今晩泊まるところを捜そうとしたのはナイショです。。。

やーたろー殿の隣席には初老の男性が。
私が来るまで酒を酌み交わしていたその方は静岡駿東から来ていて、奥様の郷里が置賜という縁で、毎年この時季にやって来ているとか。
そして、その折には必ずこの【成ル】で一杯やるそうで、その方に勧められて豚足をいただきましたが・・・!!!!!
う、美味すぎます。
生臭さなど一切なく、身がプリップリとしていて!
そして、今度はやーたろー殿に勧められて、米沢牛のセンマイ刺しをいただきました。

実は、前夜から気になっていたそれをいただくと・・・!!!!!!!!!!!!
や、ヤバ過ぎます、美味すぎて!
辛みそをつけていただくのが一般的なんですが、そのまま食べても美味いです。
いや、むしろそっちの方が美味しいです!

ラーメンのしくじりを取り替えずのに余り有る最上級の品(だけどお手頃価格)を頂き、時が許すまで楽しみ、語り合って、駿東の御仁とは来年の再会を。
やーたろー殿とは、また何処かのお祭での再開と、道中の無事を祈って別れ、米沢を後にしました。。。

さすがGW...
深夜にも関わらず東北道は混んでいて、福島トンネルを先頭に流れが悪くなっていましたが、その他は順調に。

途中、力尽きて磐越道の阿武隈高原S.A.で仮眠を取り、帰宅したのは朝の8時前。

充実した2日間から一気に現実の世界へ...
実に、実に惜しい限りです。

そして、また来年も是非に!是非に出たい!と思いました。

いざ、米沢!合戦の時!! <<<>>> いざ、米沢!への遍歴
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いざ、米沢!いざ、合戦の時!!

2010年06月08日 | 参陣記
早朝の米沢城下を巡覧した後、本陣に帰ってきたのは7時前。
宿泊とセットで申し込んでいた朝ご飯の時間だったので、一旦部屋に戻ってから食事処へ。
カウンター脇にあるそこは、座席数が25程度。
ホテル宿泊者に加えて併設のウィークリー(らしき)利用者もここで取れるらしいんですが、それからすると、明らかにアンバランスなキャパ(--ゞ...
私が着席したときは、まだ始まったばかりだったので、それほど人は居ませんでしたが、時が経つにつれてゾロゾロト。。。
なんだか若干窮屈で忙しなかった・・・です(苦笑)

朝食は、(一律に)ちっちゃな鯖塩焼きにひじき和え物、小鉢のサラダにご飯と味噌汁。
地元のおかあさん3人くらいで用意してくれたのか?!と思うと、その温かみは感じますが・・・なんだかもう、笑うしかありません。
唯一の救いは、ご飯がとっとも美味かったこと!
おかずなしで、ご飯3杯お代わりしました。
やっぱり、北の米は美味い!!と、つくづく思いました。

このあと、部屋に戻って峠の力餅を食らい、身支度を整えて、いざ!陣所へと向かいました。

陣所は、米沢市中心部の【ポポロ】という商業施設の上階。
受付で参加費を払い、籤を引かされて出た結果は・・・「直江隊」の足軽です。
聞けば、副将などが当たったようですが、いやいや、気楽なのが当たってよかったです♪

フロアーの多目的室的な場所で、他の兵どもと同じく身支度を整え、号令が掛かって表へ。
向かいの広場には、はや数多の上杉勢が集結していました。
前日は、幾分曇りがちだったので比較的涼しかったんですが、この日は雲1つない好天!
陽射しも強く、気温もぐんぐんとあがって、少し汗ばむほど(^^ゞ
祭を見学するには格好の日和ですが・・・参陣側にとっては、ちょい酷ですが、備えで持って来た扇子が、大いに役立ちました。

出立までの間は“自由時間”。宿から甲冑を着込んできた左馬之助殿が、地元メディアの取材を受けていました。見慣れてない人には、甲冑は物珍しいようです。。。(ぇ)

広場で種々の儀式を終えた後、出立の号令が掛かったのは10時半前。
立派な獲物(槍)を携えて、一同、広場を取り囲むようにして隊列を整え、いざ!・・・って時に、此度参陣された楓さんの髪結が切れた?!
慌てて、向かいにあったコンビニへ。
畳鎧の女性がコンビにで買い物している光景って・・・なんだか、不思議な感じがします(笑)

さて、準備万端整いました!上杉の諸勢は、武田勢との雌雄を決する松川河川敷まで進むべく、いざ、行軍を開始!

沿道には、ものすんごい人人人!
あとで知ったんですが、この日の観客動員数は米沢市の人口の数倍だったとか?!
その熱気に最初はちょいたじろぎました(^^ゞ
けど、それに比例して士気は上昇!!
行軍路の県道も軍勢専用になっていたので、道幅一杯に広がり、実に気持ちよく行列を楽しめました。

ただ...
一度も勝鬨などを上げることなく、粛々と進むのは(--ゞ
全軍の士気高揚と、沿道の観衆の皆さんを盛り上げるためにも、責めて一度は勝鬨を上げたかったです。
ゆえに、ちょい味気ない・・・物足りない・・・消化不良な感じが、若干否めません(--ゞ

さて...
広場から米沢停車場線(主要地方道)を通って米沢駅前を通過し、続いて板谷米沢停車場線(県道232号)に入り、松川(最上川)に掛かる相生橋を渡って決戦の場へ!

中心部の出発点から1時間ほど掛けて着いた松川河川敷で、この後の激戦に備えるべく休息。

そして、とっても楽しみだった弁当の時間!
米沢名物牛肉ど真ん中弁当(級)が食べられる♪と聞いて、とても楽しみにしていたんです!
けど、渡されたのは・・・?!
コ、コンビニ並の牛丼弁当...。

(参加費の)3,000円返せ!」と叫んでいたのはここだけの話(爆)
まぁ・・・それなりに美味しかったですかど、期待値が高かっただけに、ちょい、士気が落ちました(爆)

この後、本番まで暫し時があるらしいので、武装を解除して、まったりとしていました。

漸く中春のうららかな陽気を迎えた米沢。

いまだ多くの雪を冠している西吾妻連峰の山々と満開の桜を楽しみ...

馬と戯れる人たちを眺めたり・・・と、実にのんびりゆったり、心穏やかに一時を過ごしていました。

けど、以外と時が経っていたのか、のんびりと休憩場へ帰ってきたら「もう、呼集が掛かっているよ!」と聞かされて、大慌てで再武装。
簡素な畳鎧だったお蔭で、無事間に合いました(^^ゞ
畳鎧をサッと着られる自分が、ちょいと密かに誇らしげに思いました(笑)

ただ、諸勢が陣形を整えた後も、我ら直江勢他一般衆の出番はまだまだ先の様子で...。

決戦までの様子を、得と見定めていました。


徴兵された高校生は、背鰭の様な背旗を差してます。

家紋の無い一色染めの軍勢が、一塊になって移動するその光景は、とても綺麗で圧巻でした。

石和や上越でも取り入れたら面白いのに・・・と、ふと思いました。

そして、待つこと・・・1時間くらいか?!
遂に「攻め」の合図が!!

上杉勢が目指すのは、勿論!宿敵信玄が首!!
・・・ですが、総勢で狙い過ぎて一箇所に集中しているようだったので、私は外で遊軍としていると、楓さんが赤備の外人と刃を交えているのを発見!
すぐさま加勢に駆けつけて横一文字に斬りつけると、その武田兵、「おう!」と斬られたであろう箇所を抱えて逃げ去りさりました。
何だか、絵に描いたような・・・いや、見事な斬られっぷりでした。

暫しの時を置いて、再度、決戦(総懸かり)の号令一下、両勢が激突!
またもや集中する武田方本陣を避けて、遊軍としていると、名も知らぬ武田方のツワモノから戦いを挑まれたので、幾度か刃を交えてきました。
ただ・・・お互い、名も知らぬので引き際が読めず(^^ゞ
暫く刃を交えた後、新たな敵を求めてその場から逃れました。が、程なくして「退け」の合図があって、本陣へと戻りました。
しかし、一般衆で戻ってきたのは僅か。
聞けば、みな戦場の露と消えてしまったそうで(^^ゞ...

「復活の呪文」を受けて帰陣してきた人々は、なんだかとっても楽しそうでした。

行軍の開始から5時間余。
激戦を終えたツワモノどもは、高らかに勝鬨を上げ後、「解散」の号令を受けて陣所へと引き上げていきました。

この後、陣所へ退きつつ写真を撮ったり撮られたりして、暫しその余韻を楽しんでいきました。

合戦後、再び地元メディアの取材を受ける左馬之助殿・・・に捕まって道連れ取材を受けざるを得ないむらさきしめじさん。
さっき、合戦で討ち死↑にされたんですが・・・(笑)


いやはや、噂には聞いていた米沢の川中島は、実に面白かった!です。

いざ、米沢!!→御城下の朝 <<<>>> いざ、米沢!!を終えて...


※一部画像主:左馬之助殿
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いざ、米沢!!→御城下の朝

2010年06月07日 | 参陣記
いよいよ、待ちに待った米沢での「川中島合戦」当日。
旅の疲れも、前夜の酒も何のその!
朝5時過ぎに起きて、前夜に手配しておいた本陣の自転車に乗って、若干凍える寒さの中、前日に出来なかった御城下の史跡巡りに出掛けました。

本陣を出て松川の土手を、数時間後に展開する激戦場を横目に自転車を飛ばして、上杉神社や御廟所などを巡って、気が付けば時刻は6時半過ぎ。
その時訪れていたのが、城南の林泉寺町に在る春日山林泉寺です。

その名の通り、上杉家が越後からここ米沢に落ち着いた後、本家を招いて開基したお寺さんです。
越後高田の「本家」は、謙信公祭に参陣する際に参詣していますが、米沢の林泉寺に来たのは今回初めて。
越後時代と同様、上杉家の尊崇篤く、子女や一門、重臣の多くがここに眠っているようなんですが・・・当然ながら、早朝の為に参詣することはできません。
よって、自由に見られる限りのところを堪能してきました(^^ゞ

林泉寺山門は、竹俣家の門を移築したものとか。

この竹俣家は、上級家臣の侍組分領家に属し、代々執政(奉行)を務める家柄。
中でも、いまは城外の松岬神社に祀られていて美作当綱は、治憲公と共に御家の改革と米沢領の興隆に尽力したことで有名です。
その他の竹俣家に関する詳しい説明は、コチラにてご確認を(笑)

山門を潜って直ぐのところには、治憲公お手植えという枝垂れ桜が、見事にきれいな花を咲かせていました。


この後、再び米沢城址へ向かっている途中、ふと気になる案内板を発見。
それに誘(いざ)われて辿り着いたのは上杉伯爵邸の裏手でNHKの施設内。
そこにあったのは、・・・「色部長門追念碑」でした。

「色部」と聞いてピン!と来た方も居られると思いますが、謙信公の旗下で勇猛の誉れ高い修理進勝長や忠臣蔵に出てくる江戸家老の又四郎安長の後胤です。
この色部長門は幕末の人で諱を久長といい、先の竹俣美作と同じく上級家臣の侍組分領家に属し、弾正大弼斉憲公の時に奉行(=国家老,侍頭兼務)を務めていました。
そして、戊辰戦争時は新潟口総督として、先に上がった斉藤篤信等と共に奥羽越列藩同盟の重要な拠点だった新潟町に陣取り薩長方と干戈を交えます。
しかし、奮戦空しく力尽き、自刃して果ててしまいますが、長門の死は、戊辰戦争後に新政府方から戦争責任を追及された折に“利用”され、米沢藩への処分は減石に止まり、御家御取潰しも、新たな責任者を差し出すことなく、終結しました。
“戦犯”となった色部家は取り潰しとなってしまいますが、後年、長門の子達によって再興されます。
正に、無謀で強引な倒幕の犠牲者の一人です。
尊皇佐幕な私には、非業の最期を遂げた色部長門の碑の前にして、万感の思いが込み上げ、僅かに落涙するのを止められませんでした・・・・・・。

さて、気を取り直して、次に訪れたのは餐霞館跡

この餐霞館とは治憲公の隠居御殿で、私の座右の銘でもある有名な「為せば成る」の和歌は、ここ餐霞館に壁書された世子顕孝の近臣に向けた訓諭の一節にあったものです。

いまでは、小ぢんまりとした“庭園”が整備されており、4月の末に保存会の方々が祭祀を執り行っているようです。

ちなみに、先の色部長門の4代前の修理照長は、治憲公の奉行として仕え、治憲公と共に白子神社へ誓詞を奉じていますが、後に改革反対派に回って家中騒動(七家騒動)を起し、失脚してしまいます。。。

餐霞館を後にし、御堀端の見事な桜に目を奪われつつ...

早朝から城下巡覧の、(一応)最後に訪れたのが、松岬神社

上杉伯爵邸は、まだ最近の建物なので特に・・・裏手から見ましたので、スルーしました。

二の丸御殿址に建てられたこの社は、本丸址に建てられた上杉神社の摂社で、景勝公と治憲公を祭祀としていますが、後に敬師の藁科松伯先生、近臣の竹俣美作当綱と莅戸九郎兵衛善政、直江山城など、米沢上杉家を盛り立てた人々も祀られるようになります。

ここで、この日の合戦での武功と道中安全を再び祈願して・・・、軍支度をすべく、本陣へと戻りました。

ただ、このまま素直に帰るわけがなく(笑)
本陣までの途中に立寄ったのは、相生町。

かつては東寺町と言ったこの辺りは、その名の通り寺院が建ち並ぶ寺院町。

その一画に在る吉祥山日朝寺は、上杉家一の家臣・千坂家の菩提寺。

関が原後に徳川家と和戦交渉をした対馬景親や、忠臣蔵に出てくる兵部高房、治憲公の改革に異を唱えて起した七家騒動(クーデター未遂事件)の首謀者たる対馬高敦、幕末から明治に掛けて活躍した太郎左衛門高雅などが眠っています。

その隣の日蓮宗弘法山善立寺には、治憲公の敬師・藁科松伯貞祐先生が眠っています。

ただ・・・何度かここには訪れているんですが、残念ながら、未だに墓碑が・・・判りません(^^ゞ
ゆえに、お寺の口から本堂に向かって一礼合掌をして、戻りました。

他にもいろいろと巡りたかったんですが、時間も押し迫ってきたのでこの辺で。
今度こそ、正真正銘本陣に戻りました(^^ゞ

けど、結構巡れて満足でした(笑)

いざ、米沢!!→早朝参詣 <<<>>> いざ、米沢!いざ、合戦の時!!

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いざ、米沢!!→早朝参詣

2010年06月06日 | 参陣記
いよいよ、米沢表での「川中島合戦」当日。
旅の疲れも、前夜の酒も何のその!
朝5時過ぎに起きて、前夜に手配しておいた本陣の自転車に乗って、前日に出来なかった米沢御城下のの史跡巡りに出掛けました。

5月に入ったというのに、米沢の朝は冷えます。

寝ぼけ眼も一気に吹き飛ぶ寒さの中、本陣を出て松川の土手を、数時間後に展開する激戦場を横目に自転車で疾走!
まず最初に向かったのは、やはり、米沢城址と上杉神社です。

本当は、前日の到着後直ぐにでも参詣したかったんですが、夕方過ぎに旅装を解いたのと、神社へ参詣するには朝一がよいので、合戦当日の朝にしました。

早朝にも関わらず、城址内には結構人出があって驚きつつ、まずは端座しておわします元徳院殿様(石造)に御挨拶。

御堀端の桜に目を奪われつつ、本丸内に入ってまず向かったのは、不織院殿様(上杉謙信公)の亡骸を安置し祀っていた祀堂(御堂)域。

祀堂址と、同域内に建つ、幕末維新の動乱の中で散った方々の招魂碑にそれぞれ一礼。

ちなみに、揮毫した初代山形師範学校長の斉藤篤信は上杉家上級家臣の侍組平侍(200石取り)の出で、戦国時代に謙信公や景勝公の下で活躍し、「越後の鍾馗」と称されたかの下野守朝信が末裔です。

内鳥居の手前におわします不織院殿様にも一礼をして、いよいよ上杉神社本殿へ。

途中には、「伊達政宗公誕生」の柱碑と、再び元徳院殿様の石造が、「為せば成る」の碑と共にあります。


厳粛な面持ちで本殿に参詣し、本合戦の無事と今旅の安全などを祈願。

出来ることなら、境内にある稽照殿に立寄って、謙信公が時の室町殿参議左中将義藤公(のちの義輝公/光源院殿)から賜った毛氈鞍覆や、敬慕する治憲公が明和4年に(養君の大炊頭重定から)家督を継いだ時に領内春日社へ納めた誓詞、また、天明5年に隠居してその跡目を継いだ新弾正治廣公に送った、いわゆる「伝国の辞」(人君の心得三ヶ条)などを再び見たかった!んですが・・・早朝なので開いているわけもなく(^^ゞ

概観だけデジカメに収めて、次に御廟所へ向かった・・・つもりだったんですが、道を一本間違えてしまって(^^ゞ
気が付いたら白子神社に着いてしまいました。

米沢が在る置賜郡の総鎮守にして、米沢城の鎮護でもある白子社の創建は和銅5年(712年)。
米沢誕生の起源でもあるこの白子社に、治憲公は明和4年、家督を継いだ直後に発した(米沢上杉家にとっては)未曾有の大倹令の達成と、国家(=米沢)再生を願って誓詞を納めています。
しかし、このことは明治24年に発見されるまで長く知られずにあったそうです。
それほど由緒有る神社なんですが、いまは随分と簡素な感じを受けるのは、私だけ・・・でしょうか(--ゞ

さて、次に向かったのは西隣に在る法泉寺の文殊堂です。

ここは、米沢上杉家の学問興隆の端緒を為したところで、中納言景勝公と直江山城の肝煎で興した禅林文庫(文殊堂はその鎮守)が、のちに治憲公が再興した学館「興讓館」へと繋がっていきます。

境内に建つ聖堂(孔子廟)「先聖殿」はかつて興讓館に在ったもので、治憲公直筆の扁額が掲げられている・・・らしいのですが、残念ながら、いまだ見つけたことがありません(^^ゞ

いま、法泉寺と文殊堂は道路を隔てて分断されていますが、かつての寺域は広大で、見事な庭が設けられていたそうです。
その景色を眺めながら、詩会が多く催されていたようですが、その内、明和7年(1770)の盛大で、その時に治憲公が読まれた詩と、直筆を基にした造られた石碑がありました。

そして、続いて向かいの恵日山法泉寺の本堂へ立寄りました。

ここは、臨済宗における上杉家の菩提寺で、法泉院(古弾正定勝の娘・亀姫)などの子女が多く眠っています。

次に向かったのは、刀八毘沙門天を祀る二ノ町通南の善日山千勝院

上杉家が越後国主時代は高田にあり、謙信公の祈願所として、出陣の際には必ず護摩を焚いて戦勝を祈願したとか。
上杉まつりでも、謙信公(役)が毘沙門堂へ入って「戦勝」を祈願するそうです。

「天と地と」を記念して造られた青銅製の毘沙門天。

そして、次に向かったのが上杉家御廟所です。

・・・が、開門時間前なので門外から、上杉家累代の御当主方へ一礼をして、御廟所前に在る上杉家菩提寺の法音寺に少し入りました。

かつては寺域も広くて、上杉家の菩提寺として立派な構えだったんでしょうが、いまはちょいと小ぢんまりとした感じがしました。

この時、時刻は6時半過ぎ。
出陣に際しての(陣所への)集合は8時半だったので、まだまだ時間がある・・・と判断して、次に城南の林泉寺町に在る春日山林泉寺へ向かいました。

いざ、米沢!!→武示帝式 <<<>>> いざ、米沢!!→御城下の朝

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いざ、米沢!!→武示帝式(ぶていしき)

2010年06月05日 | 参陣記
米沢の「川中島合戦」に参戦すべく、前日入りした私。
ただもう1つ、今回の旅の目的は、敬慕する元徳院殿様(上杉治憲公)の軌跡を辿ることにありました。
米沢には、いままで幾度か来たことがありますが、その全ては移動が安易な市街地に在る史跡だけ。
今回は、車で米沢に入ったので、この機動力を活かして、いままで訪れたことのない郊外の板谷、関根、そして白布と巡ってきました。
そして、今回の本陣へ向かう途中に笹野観音堂と、治憲公が再興した学館(藩校)興讓館の精神を受け継ぐ県立米沢興讓館高校へと立寄りました。
・・・が、米沢興讓館高校近くで気になる看板を見つけて、その案内に従って行くと、思わぬ史跡に出合いました。
それは、上杉家の葬送が挙行された「大壇葬場跡」です。

笹野村大壇原地内にあったここは、案内板による、3代播磨守綱勝公から7代民部大輔宗房公までの御館5人と、3代綱勝公の正室・媛姫の葬儀をここで執り行ったとか。
ただ、9代弾正大弼治憲公が、養君の8代大炊頭重定公を火葬するのは忍びない・・・と土葬に変え、葬儀も御廟所で執り行われるようになると、その役目を終えた・・・とか。
直江石堤に続いて、偶然とはいえやりました!
これほど重要な史跡に出合えるとは♪
ちなみに、この地に設けられた理由は、西方三山に幸徳院笹野寺愛宕権現があり、仏教の極楽浄土の地と考えられたがため・・・だとされているようです。

そんなこんなで、あちこちと立寄って、今回の本陣に着いたのは17時半頃。
旅装を解いて、峠駅で買った「峠の力餅」を3個食らって一息ついてから、武示帝式(ぶていしき)を観に、松川河川敷の会場へ向かいました。

御式は18時半からですが、会場には既に多くの人が。
また、この為の桟敷席まで設けられていて、そこにもぎっしりと人がいました。

うーむ、噂には聞いていましたが、米沢の意気込みが感じられます。。。

昼間は幾分暑かったのに、陽が沈むと一気に冷え込んできました。その窮地を、名物の玉こんにゃくといも煮に救ってもらいました(笑)

この後、更に冷え込んできたので、初めて本場の「芋煮」をいただきました。うんまかった~♪です。
上越笛吹石和では、時間的制約や敵地という事もあってか、あっさりと終わるこの儀式も、ここ米沢ではしっかりと、かつ丁寧に時間を掛けて。

18時半から始まった儀式は20時まで、実に1時間半にも渡って挙行されます。
時間だけ見れば、確かに長くは感じますが、観応えは十分でした。

この儀式中、見知った人が、関係者しか入れない場所でカメラを構えているのに気が付きました。
そこで、終わって観衆がそれぞれ散っていく中、この人物に近付いて確認をしてみると・・・やっぱり!
越後のサムライダーこと、やーたろー殿です。
更には、景虎むすめさんも発見し、暫し歓談。
てっきり、米沢では独りだと思ったので、とても嬉しく、やーたろう殿と一緒に飲みに行きました。
景虎むすめさんは、一部に著名な方(々)と共に米沢市街へ行かれました。。。

最初は、無難に駅前の【笑笑】へ行ったんですが、満席で断念。
そこで、本陣に配架されていた米沢牛のパンフにあった駅近くの【成ル】という居酒屋さんに行ってみたら、都合よく2席空いていたので、ここに決めて入りました。

結果的には、【笑笑】なんかに入らなくて大正解!でした。
ここで頂いた品々がもう、美味いのなんのって!!
特に圧巻だったのが、牛刺し

ええ、牛肉のお刺身です。
いままで、馬刺しは幾度となく食べていますが、牛刺しは初めて。
しかも、米沢牛のそれとあっては食べねば・・・と、お願いしていただくと・・・う、美味すぎます!
例えて言うなら、脂の乗った大トロを食べているかのようです。
程よく歯応えがあり、脂もあって、もう、美味かったです!
美味すぎて、唸ることしかできませんでした。

薬味として、醤油と生姜やニンニクのおろしが付いていますが、一番美味い!のは、何も付けずにそのまま食べること。
ほんのり塩味があって、もう、何度でも言います!美味かったです。

これで、酒が進まぬ訳がありません。
やーたろー殿と、それぞれ違う地酒を頼んでは飲み比べ、米沢(置賜)の味覚を存分堪能しました。

ちなみに、米沢牛の刺しは、大(8切れ)で780円。
日本酒は、地元米沢の泉氷鑑(新藤酒造)なる地酒が一番美味かったです。

ステーキだの、牛鍋だので何千円も出すよりも断然お得でしかも美味い!
それに、店の雰囲気が抜群。
カウンターが主のこじんまりとしたお店で、正直載せたくない、教えたくないお店です。
けど、美味かったんで、この感動だけは、わかって欲しいので、敢えて、敢えて載せました(笑)

↑焼きおにぎりと、シメに頼んだもつ煮はとってもあっさりしていて美味かったです。↓


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いざ、米沢!の前に→白布高湯

2010年06月04日 | 参陣記
米沢の「川中島合戦」に参戦すべく、前日入りした私。
今回の旅の目的は、敬慕する元徳院殿様(上杉治憲公)の軌跡を辿ることにあったので福島口から入り、板谷(ついでに峠)、関根と巡ってきました。
そして、この次に目指したのが、米沢の南端、会津口に在る白布温泉です。

・・・が、その途中で「直江石堤」なる看板を発見!
気になったので、ちょっと立寄ってきました。

関根から白布へ行く途中、最上川に掛かる海老ヶ沢橋近くに残るこれは、その名の通り、上杉家執政の直江山城守兼続が指揮して築いたもので、地の名をとって谷地河原堤防もしくは川除と呼ばれています。

工法は「玉石の空積み」というもので、しっかりとした土台を築いた上に、(大きな)石を隙間なく敷き詰めて築かれているそうです。

遺構は現在は1.4kmほどあり、修復や改修された形跡のあるところもあるようです。
いま、その一部は公園となっていて、川原ではBBQをしている人たちがいました。

ガイドブックなどに載っていたので気になってはいましたが、偶然思わぬ遺構に出くわして得した気分です。


ちょい寄り道しましたが、再び白布とへ向かって行きました。

関根から白布までは車で30分ほど。
西吾妻スカイバレーへと繋がる山道をくねくねと登っていった先に、そこは在ります。

白布は開湯以来700年余の歴史有る温泉。
上杉領となった当初は、執政の直江山城が近江国友と和泉堺から鉄砲鍛治を集めて武備充実を図った地でもありますが...
予てから行って見たい!泊まってみたい!!と思っていたんですが、今回は、日帰り湯で訪れました。
到着は時刻は14時過ぎ。

最初に入ったのは、白布の老舗中の老舗【東屋旅館】。
花園院の御世、正和元年(1312)に開湯して以来湯守を務めていた、由緒有る湯屋です。

種々のガイドブックやJR東日本(びゅう)の「地・温泉」を見て 、以前から気になっていたんですが...
見知っていた印象とは違って、古き趣はなく、真新しい湯宿になっていました。
囲炉裏の印象が強かったので、若干拍子抜けした感はありますが(^^ゞ
まぁ、まずは受付で入湯料の500円を払っていざ!湯場へ。

湯場は、内湯と打たせ湯、露天の3つで、然程広くはありません。

泉質は「含硫黄・カルシウム・硫黄塩泉」で、確かに舐めると若干塩味がありましたが、湯場の中で硫黄の匂いは然程感じませんでした。
湯量は豊富で、湯温はちょい熱めでしたで、湯の中には無数の湯ノ花が舞っていました。
内湯は底が幾分深く、足長胴短の私が入ると、鼻下まで浸かってしまいました(笑)

内湯と打たせ湯をそれぞれ堪能し、続いては露天へ入ったら・・・敷石に気が付かずに向う脛を打ち、傷を作ってしまいました(^^ゞ
けど、白布の効能の中には擦傷の治癒も含まれているので、早速、身を以って体感した・・・というところでしょうか。
確かに、傷口のヒリヒリ感が全くなく、じわじわと治っていく気が・・・しました。

玄関では、いまだストーブが働いていました。

その向こうで、GWということもあってか、引っ切り無しに到着するお客さんを、従業員の方たちが端座して出迎えていました。こういうところに、久しく泊まってません...。独りじゃねぇ...(苦笑)

東屋の湯を30分ほど堪能してから、幾分湯冷ましをし、次に向かおうと思ったのが新高湯温泉
白布より更に1km、山道を上がったところにあるんですが・・・無念なことに、ガソリンがちょい心もとなく、はや、15時近くになっていたので、その口、天元台ロープウェーまで行ったところで踵を返し、再び白布へ戻りました。
5月だというのに、スキーやボーダー客が引っ切り無しに降りてくる光景は、摩訶不思議でした。

天元台に至る道の途中、残雪ある山道を少し分け入って、木々の中にひっそりと佇む西国三十三観音に詣でました。

すぐ側を、勢いよく流れる小川の音が、とても心地よかったです。


天元台口より白布へ戻り、次に訪れたのが【西屋旅館】です。

茅葺入母屋造りの構えが実に見事だったので、最初は「今度来た時にでも」と思ったんですが、やっぱり、訪れてみました。
向かいの駐車場に止めて、屋内に入って日帰り湯を申し出ると、そのまま真直ぐ、中庭を抜けて湯場へと案内されました。


古びた湯場の脱衣所の外には湯樋があって、湯が豊富に勢いよく溢れ出ていました。

また、湯場からも溢れ出た湯が、湯場と廊下を仕切る戸の下の隙間から表へと流れ出ています。

初めて見る不思議な光景でした。。。

泉質や湯場の構造は、東屋とほぼ同じですが、ここには露天がありません。
また、加水をしているので、湯温が若干低く、長くじっくりと浸かれました。
けど、やっぱり湯舟の底はちょい深かったです(^^ゞ

立寄り湯の終わりが迫っている為か、東屋と比べてとても空いていたので、湯を、東屋以上に堪能できました。

湯から上がり、ちょい、館内を見てみましたが、実に見事!

茅葺入母屋造りの重厚な佇まいと、中の柔らかな造りは、日頃のいやなことを一気に吹き飛ばしてくれると思います。
あーぁ、うらやましい......。

後ろ髪惹かれる思いでここを後にして、次に向かったのが白布大瀧。
【西屋】から少し上がったところに入口があるので、車を駐車場に止めたまま向かいましたが、予想以上の急峻な山道(^^ゞ
しかも残雪がありましたが、そこを越えて・・・見上げた大瀧は、実に見事!!でした。


今冬、雪が多かったからか、水量はとても多く感じて、迫力は満点でした。

暫し佇み、マイナスイオンをありったけ浴びてきました(笑)

寝坊しなければ、昼頃からゆっくりとしたかったんですが...
約1時間程度、駆け足で巡った初の白布。
まぁ、それなりに堪能しました!

そしていよいよ、米沢市街へ・・・行く前に、もう一箇所、笹野観音堂(長命山幸徳院笹野寺)へ立寄りました。

開基には、かの、征夷大将軍坂上田村麻呂が関わっているという由緒在る寺院。
歴代の米沢領主(伊達、上杉)の篤い信仰と縁があり、領主の諸願諸事を執り行ったり、改築普請を受けたことも度々あります。
治憲公も、安永8年(1779)に観音堂の再建を行いましたが、残念ながら、55年後の天保4年(1834)に焼失。
今に伝わる堂于は、治憲公の3代後の弾正大弼斉憲公の時に再建されたものだそうです。

しかし、立派な茅葺屋根を関した堂于は、実に見事!です。

堂于の右側には、天保3年に豪商渡部伊右衛門が建立した露座の延命地蔵様がおわします。


その向かい、寺縁の前には、名物の笹野一刀彫りの石造がありました。

木製の名物でさえ幾重にも彫られた羽が見事!と思うのに、石造もまた、名物と同じく造られていて、圧巻でした。
山門の仁王門前には、枝垂れ桜がきれいに咲いていました。


治憲公の軌跡を辿る旅。
まだまだ足を伸ばして行きたいところはありますが、日没が迫り、この後で上杉まつりの前夜祭である“武示帝式”(ぶていしき)の時刻も迫っていたので、今日のところはこの辺で。
本陣へと向かって行きました。

いざ、米沢!の前に→関根宿 <<<>>> いざ、米沢!!→武示帝式

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いざ、米沢!の前に→関根宿

2010年06月03日 | 参陣記
米沢へ参陣する為、その前日に入るために行動を開始した私。
福島口から目指した今回の旅の目的は、敬慕する元徳院殿様(上杉治憲公)の軌跡を辿ることにありました。
そこで、走りやすい万世大路(国道13号線)を敢えて使わず、幾分険路な米沢街道を走り、板谷峠を越えて入ろう・・・と思ったんですが・・・!?

通行止めでした(爆)

4月中旬に関東平野でも雪が降るくらいですから、この先の状況は押して知るべし・・・と、いったところでしょうか。。。


致し方なく、来た道を戻り、万世大路を使って米沢を目指しました。
後に聞いたところによると、この時季に峠道が閉鎖されているのはちょい珍しいとか。
とても残念です。。。
この近くに、忠臣蔵で有名な大野九郎兵衛所縁の碑があります。何でも、大石内蔵介が本懐を遂げられなかった時、二番手として、主君の無念を晴らすつもりで潜んでいた・・・とか。

板谷峠を越えられずに、再び戻ってきた板谷地区。
ここには、上杉領時代に「御殿」と称する番所が設けられていました。
これは慶長3年、緊張関係にあった徳川方の伊達勢(上杉家は石田方)が、福島口から攻め入ってくるのを防ぐために設けられ、奥山大膳を「御殿将」に就け、配下に足軽50人を付けたのが始まりです。
以後、忠右衛門利俊までの4代が世襲するも、その後は上杉家中堅の三手組(馬廻、五十騎、与板の三組)の内から御殿将に任ぜられるようになりました。
戦乱も過ぎ、天下太平の世になると、御殿は参勤行列が宿する本陣宿としての役目に変わりました。
今回、その板谷御殿の在った場所を探したんですが・・・残念ながら見付からず。
石碑の1つもありませんでした。。。
上杉家にとって、とても重要な施設だったんですが・・・これだけ何もないのが、不思議なくらいです。

先ほど入ってきた口から、再び万世大路に入り、西栗子トンネルを抜けて...

次に向かったのが米沢市街の手前の関根。
ここに在る岩上山普門院に立ち寄りました。

ここは、隠居して中殿(大殿は、養父の大炊頭重定公)となった越前守治憲公が恩師・細井平州(甚三郎徳民)を寛政8年初秋に米沢へ招いた折、休息の為に案内した場所で、「上杉治憲敬師郊迎跡」の1つとして国の史跡指定文化財(史跡名勝天然記念物)となっています。


当時は新築間もなかったここで、恩師と13年ぶりに対面した中殿様は、労わりの礼を尽くして迎えたと伝わっています。
院内には、休息を取った部屋や什器類が残っているそうですが、残念ながら、時間が...。
拝観するには呼び鈴か、ちょっと離れたところに建つ新宅に声を掛けると出来るようです。

閑寂の中に佇む茅葺の本堂は、とても立派でした。
山門は、敬師を迎えるためにか赤門でした。

完成当時はさぞかしきれいだったでしょうが・・・いまは、幾分疲れが見え、せっかくの朱もくすんでいました(^^ゞ

この次に向かったのが、普門院に至る道の口、米沢街道沿いに建つ羽黒神社です。

江戸時代は羽黒堂といい、参勤途中の御館様が、馬上と駕籠とを乗り換える地点だったそうです。
(即ち、参府時はここまで馬上、帰国時はここから馬上で、いずれも一里(4km)程度だったとか。)
中殿様の敬師・細井平州が米沢入りをした折は、この羽黒堂まで出向いて(敬師を)迎え、普門院へと案内しています。

集落の端にひっそりと佇む羽黒神社は、現在本殿を改修中で、全容を見ることはできませんでしたが、いまだ手付かずな茅葺の山門は、今に至るまでの時間を感じさせる年季がありました。


関根宿で、元徳院様の、恩師を敬う心と姿勢を少し知った後、米沢の南端、会津口に在る白布温泉に向かいました。

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いざ、米沢!の前に→ぶらり秘境駅の旅

2010年06月02日 | 参陣記
米沢へ参陣すべく、その前日に入るために行動を開始した私。
・・・ですが、寝坊をして、予定より3時間近くも遅れて出発。
渋滞なども考慮した時間配分を考えていたんですが、この出遅れがツケが、磐越道から東北道に入った途端...。

最も恐れ、避けたかった渋滞に嵌ってしまいました(--ゞ

この渋滞は二段構えで、初段は本宮のちょっと先で起った車3台の玉突き。
まだ、私が通過した時点では警察などが展開していなかったので、多分、発生直後だったと思います。
(少し進むと、対向車線を多数の警察車両が。本宮で折り返していくのか?!)
続いてが、毎度お馴染みなボトルネックの福島トンネルの先。
この後段には、二本松の先からとっぷり嵌ってしまい、抜け出すのにとても時間が掛かりました(--ゞ

福島飯坂で東北道を降りたのは、11時頃。
ある意味、思わぬ時間のロスに地団駄踏みつつ、万世大路(国道13号線)を福島口から上り、次に向かったのが奥羽本線駅。
ここで売られている「峠の力餅」を求めて向かいました。

ここへ行くには、東栗子トンネルを抜け、板谷大橋を渡った先にある道を入って行きます。
整備され、走り易かった万世大路から一転、入った県道板谷米沢停車場線は旧街道(米沢街道)。
入口こそ広かったですが、板谷駅の先からは、行き違うのにちょっと苦労する道幅に。

ただ、昨秋走った伊勢本街道の仁柿峠越えに比べれば、こんなのはまだまだ序の口です。

さて、峠駅に向かう前まず立ち寄ったのが奥羽本線板谷駅。

ここは、山形新幹線が開通する以前は、急勾配な峠越えをするためジグザグと行く、スイッチバックをする駅でした。
ただ、いまはもう、新幹線や電車はその必要なく峠を越えていくので、スイッチバックの引き込み側に在る駅舎や線路、スノーシェルターはすっかり廃れていました。

けど、それがまた、い~い雰囲気を醸し出していました。


奥羽本線を走り抜けるのは、主として新幹線で、この板谷駅に止まる普通電車は日に数えるほど。

ゆえに、ここを訪れるのは私のような観光客くらいで、この時も数人居られましたが、それ以外は、至って静か。
聞こえて来るのは近くに在る瀧と、そこから流れ来る小川のせせらぎのみで、それが寂しくもあり、また、心穏やかに、落ち着きもします。


板谷駅で暫し佇み、閑寂の時を過ごした後、向かったのがこの日の第二の目的地たる奥羽本線峠駅。
旧街道の山道を上り下りをし、途中、見事な景色に車を止め、眺望を楽しみながら向かいました。

山道とはいえ結構整備されていて、道幅も、車一台が通れるほどとはいえ、随所に待避所があったので、難なく通れました。
やはり、もう一度言いますが、昨秋通った伊勢本街道の仁柿峠の酷道に比べれば、何のことはありません(笑)

峠駅には、板谷峠の手前で米沢街道から外れ、更に細い山道を走らせること数分。

本当に着くの?!という疑心暗鬼が増幅され始める頃、駅への案内板に出合え、更に少し進むと分かれ道に行き当たり、ここを右折して、急勾配な坂道を下っていくと、目当ての峠駅に行き当たります。

予てより、噂に聞いていた峠駅。
一度は訪れて見たいと思っていましたが、山道を越して来た甲斐がありました!
実に素晴らしいです。

この駅も、かつては板谷と同じくスイッチバックの駅だったんですが、板谷よりも構えが大きく感じました。
それは、きっと長く頑丈そうなスノーシェルターからだと思いますが、更に、街道から離れた秘境駅にしてこの構え!?というのも、あるかと思います。


本当なら、ここで新幹線か電車の通過するその時に立ち会いたかったんですが、ここ、携帯が圏外で(^^ゞ
その場で時刻を検索する術なく、駅の雰囲気だけを、とりあえず堪能してきました。

時はお昼。
ちょうどお腹も空いていたので、車を止めた【峠の茶屋 江川】で食事を取りました。

頂いたのはざるそば。

店の内外には、の今昔を物語る写真や鉄道グッズが所狭しと飾られて、とても楽しめました。

鉄分多めの方は、より楽しめる思います。


注文したお蕎麦も、風味があり、腰もあって美味しかったです。
つゆは幾分辛めの、オーソドックスな醤油基本のモノなので、少し付けるだけで十分です。
付け合せは、山葵ではなく芥子菜。
本来なら、この手のモノは苦手なんですが(^^ゞ
辛味がピリッとあって、美味しかったです。
また、同じく苦手な山菜の天ぷらをサービスでいただきましたが、自分でも言うのもなんですが、珍しく箸を付けていただきましたが、苦味が然程なく、とっても美味しくいただけました。
つゆに少し付けていただきましたが、これがまた、よかったです。

分かれ道を反対側に進んで、今度は目当ての峠の力餅を商っている【峠の茶屋】へと向かいました。

「こんな狭いところで、茶屋が2軒も在るなんて」と思いながら、行き着いたそこは、結構な賑わい。
車も数台止まっていましたが、更に驚いたのが、さっき、【江川】に居た人が上がってきたこと。
向こうも、さっき見た私が下ってきたのを笑っているようでしたが、私も、「おや、何でだ?!」と不思議に思いましたが、何のことはない、駅沿いに道があり、行き来できたんです、わざわざ上り下りしなくても(^^ゞ


ここで無事目当ての力餅を買って、次は米沢市街へ、板谷峠を越えて行くべく出発しました。

店主は石好き?!かつての引込み線側を分断する形で、巨岩の山が築かれています。

ここからの眺めで、峠駅の往時を垣間見ることが出来ます。



ちなみに、峠駅の少し手前に分かれ道があり、そこを入っていくと、秘湯で知られる滑川姥湯に行き着きます。
しかし、距離もさることながら、道も結構険しそうで・・・興味はありましたが、今回は断念しました。

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