郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「横坂・口金近・奥金近」

2020-01-24 09:02:34 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
「横坂・口金近・奥金近」  佐用町(現佐用町)

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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





■横坂(よこさか)
 本位田の北東、佐用盆地の最北部に位置する。佐用川左岸に集落があり、右岸は山地である。下徳久村から口金近村を経由する因幡道が通る。古くから古山陽道山野里宿(現上郡町)から分技し、千種川・佐用川沿いを北上し因幡道に合流する道もあり、南北交通の拠点であったと考えられる。地名の由来は、因幡街道が口長谷(くちながたに)へ向かう小さな坂の横にあることによる。

 高山(こうやま)城跡は、赤松氏を名乗った家範の誕生地で、長谷寺の梵鐘堂跡が残る。佐用川の屈曲する所の川中の岩床に大小の甕穴(かめあな:ふうけつ)群がある。

 氏神は八幡神社、寺院は同社の別当として創立された真言宗常光寺。明治22年長谷村の大字となり、昭和30年からは佐用町の大字となる。明治30年頃から畜産・養蚕業が米麦作とともに主産業になる。明治40年水田の圃場整備事業を実施、各大学から日割りで出役し、完成した。大正13年電灯架設。昭和50年中国自動車道佐用インターチェンジ設置。


▼横坂の小字






■口金近(くちかねちか)
 円応寺村の北西、佐用川支流金近川下流域に開けた平地と標高200m台の緩傾山地に立地する。梨垣内(なしがいち)ともいう。地名の金近は、水面に水錆が浮いて赤褐色をなし、鉄分が多いことにちなむ。金近川上流の奥金近に対して口金近となった。
 古くは金近と称し、奥金近村と一村であった。因幡街道筋の山村。氏神は古武神社。寺院は浄土真宗光乗寺。明治22年長谷村の大字となり、昭和30年からは佐用町の大字となる。明治30年頃から畜産・養蚕が米麦作とともに主産業となる。大正13年電灯架設。昭和50年中国自動車道が開通し、南東山頂に千種カントリークラブ開設。



▼口金近の小字・





■奥金近(おくかねちか)
 口金近村の北東の谷奥に位置する。両側の山地は標高300m台で、最高点は458mである。地名の金近は、水面に水錆が浮いて赤褐色をなし、鉄分が多いことによる。金近川下流の奥金近に対して奥金近となった。寺は真言宗長谷寺(ちょうこくじ)がある。同寺は、行基開創、盛時は大規模な※七堂伽藍があったと伝承し、付近に野戸坊(のっとぼう)・小縁(こえん)堂・神楽(かぐら)堂・次郎坊・太郎坊・れんがく坊などの地名が残る。宝永3年(1706)領主旗本松平氏が再建。現在は奥院だけが残り無住だが、毎年7月17日に雨乞祈願成就を祝って始まったとされる足半(あしなか)踊りがおこなわれている。
※七堂伽藍:仏教寺院の主要な七つの建物をいう。

 氏神は若一王子神社。明治22年長谷村の大字となり、昭和30年からは佐用町の大字となる。

 明治20年蚕種業が始められ、年ごとに佐用郡内に養蚕農家が増加。また明治30年頃から製炭業者が多くなる。昭和初期鉱山が開かれたが、数年で閉山。昭和50年中国自動車道が開通し、南西野台地にカントリークラブ解説。

▼奥金近の小字





◇今回の発見
・横坂にある中世の城である高山城跡は、赤松氏の発祥の地といわれている。長谷寺の梵鐘堂跡などが残り、地元では鐘搗(かねつき)堂と呼ばれている。
・奥金近には、奈良時代には大規模な七堂伽藍があったとされる伝承の寺跡が残る。





地名由来「大畠・末包・中山」

2020-01-23 09:37:10 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「大畠・末包・中山」  佐用町(現佐用町)

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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





■大畠(おおばたけ)
 豊福村の北、江川川上流のやや開けた谷間に立地する。川沿いに大畠・王子の二集落があり、両側の山地の標高は350m台である。因幡街道が北の中山村に抜ける。地名の由来は、昔1枚8反(80a)もある大きな畑があったことによる。現在は小区画されて田・畑・宅地になっている。字半田には、古代の人が信仰したと思われる伊勢岩が水田の中にある。末包(すえかね)の観音寺の寺領があったと思われる寺田や、同寺の山門があったと考えられる大門の字名がある。

 元文4年(1739)の平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判している。因幡道の平福宿から道程約一里、小原宿(現岡山県大原町)との中間の立場であった。

 氏神は江川神社で、当村のほかに豊福・淀・平谷の各村も同社の氏子である。本殿は文安4年(1447)若一王子を勧請したと記されている。県指定文化財。

 明治22年江川村の大字となり、昭和30年からは佐用(さよう)町の大字となる。明治24年大畠尋常高等小学校開校。当時の校舎は、現在江川神社の拝殿として使用。明治30年頃から畜産・養蚕が盛んになり、農家の大きな収入源になり、昭和25年頃まで続いた。


▼大畠の小字図






■末包(すえかね)
 大畠村の北西、江川川上流右岸の谷を深く入った標高300m~400mの山間地に立地する。末包・谷・小中山の3集落がある。北と西は美作国吉野郡宮本村(現美作市大原町)。地名の由来は、大職冠藤原鎌足の末子藤童が誕生し、末包氏を名乗り住居を構えたので、地名を末包としたという。古い因幡街道が通った所で、現岡山県境付近に観音寺が建っていた。仁王門は明治39年頃焼失、古墳や宝篋印塔があり、先祖末兼藤童の墳墓は古墳で、墳頂には天応宮があった。佐用町随一の磨崖仏2体が谷にある。

 神社は畝神社。明治22年江川村の大字となり、昭和30年からは佐用(さよう)町の大字となる。明治30年頃から畜産・養蚕が盛んになり、農家の大きな収入源になり、昭和25年頃まで続いた。昭和54年観音寺に乳業牧場ができ、5戸21人が入植。


▼末包の小字図





■中山(なかやま)
 美作国吉野郡に属し、佐用郡大畠村の北、江川川源流域の谷間に位置する。周囲は標高400m台の山地である。地名の由来は、山と山に挟まれた狭い集落であることによる。赤松円心の墓といわれる五輪塔と、巨大なシイの大木がある。宮本武蔵は峠を越えた宮本(現岡山県)の地に生まれ、乳母は当地の人であったという。

 氏神は瑞籬(みずがき)神社。当地は因幡街道筋にあたる。峠の頂上近くに泣きの清水といわれる清水の湧く井戸があり、そこの集落を釜坂という。釜谷峠にある立場から宮本村境までの距離は11町35間。国広殿(くにひろどの)屋敷と称する宅地があった。

 明治9年岡山県に所属。同22年讃甘(さのも)村の大字となり、明治29年江川村、昭和30年からは佐用町の大字となる。明治30年頃から畜産・養蚕に従事する家が多くなり、農家の大きな収入源になる。



▼中山の小字図






◇今回の発見
・大畠、末包、中山も美作国に隣接する。宮本武蔵の乳母は中山村の人だっとという。
・佐用の読みの難解地名の一つ末包を「すえかね」と読むのは、藤原鎌足の末子の名から来たと言う。鎌足ゆかりの地だとは驚き。



地名由来「豊福・平谷・淀」

2020-01-22 08:45:40 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「豊福・平谷・淀」  佐用町(現佐用町)

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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





■豊福(とよふく)
 仁方村の北西、江川川上流域の標高200mから300mの谷間に立地し、因幡道が通る。豊福・茶屋・木里(きざと)・小猪伏(こいぶし)・日裏(ひうら)・濁淵(にごりぶち)の6集落がある。最高点は明神岳の388mである。地名の由来は、山麓の低地一帯に広がる湿地帯を、実り豊かな美田にした土地に、福の好字をあてたことによる。古くは甲豊福ともいった。濁淵の明神岩には、竜田大明神を祀る。

 中世の鎌倉期にこの地は豊福荘という荘園であった。建長2年11月月日の九条道家惣処分状に「播磨国豊福荘」と見え、当荘の年貢は最勝金剛院(京都市東山区)の寺用に充てられること、本家職は道家の子一条実経が所持すべきことが定められている。当荘はもと京都聖護院領であったが、最勝金剛院領の伊賀国音波(おとわ)荘(現三重県阿山町)と交換されたものであった。なお、赤松則村の弟別所円光の子五郎左衛門敦範が足利尊氏に仕え、戦功により、江川の豊福、平福の田住の2荘を受け、はじめ豊福荘に豊福構を作り、のち平福の利神城(りかんじょう)を築き、山下に別所の構えを作ったという。この別所氏は、のち天正5年(1577)11月羽柴秀吉の上月城攻めで兄貞道は帰服、弟林治は再び秀吉に叛き、天正6年正月上月城の山中勢と戦い敗れ、のち長水城に逃れ、天正8年(1580)5月長水落城後没落した。
 
元文4年(1739)の平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判し、鎮圧後首謀者として2名が処罰されている。因幡道は平福宿から正吉(まさよし)村境の新田坂を通り当村に至る。この峠道は慶長5年(1600)池田由之が平福に入った後に開かれたと考えられる。それ以前は当村より北へは丘陵の尾根の因幡坂を直線状に登り大畠村に出ていたとされる。

 元禄年間(1688~1704)頃までに平谷村と豊福村の2つに分村したと思われる。明治8年平谷村を合併。明治22年江川村の大字となり、昭和30年からは佐用(さよう)町の大字となる。明治22年江川村役場を設置。同35年仁方・大畠両尋常高等小学校となる。明治30年頃から農業の傍ら養蚕・畜産業を営み、昭和25年頃まで大きな収入源になっていた。昭和28年新田口・獨淵に村営住宅を建築。

▼豊福の小字






■平谷(ひらだに)
豊福村の北西、江川川の枝谷に開けた小平地と西境の平谷深山(ひらだにみやま493m)東麓の標高300m~400mの山地に立地する。地名の由来は、穏やかな傾斜地の谷であることによる。地内の字御館(おんやかた)は、利神城由来の中に、別所敦範小屋場山を築くとあるのと無関係ではなく、門口・堂馬場などの呼称も残る。古くは乙豊福ともいった。元禄年間(1688~1704)頃までに平谷村と豊福村の2つに分村したと思われる。

 元文4年(1739)の平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判している。明治8年豊福村と合併する。




■淀(よど)
 江川川流域の山間の急傾斜地。豊福村の西、大猪伏村の北に位置し、標高300m台の山地に囲まれた谷間に淀・亀ヶ逧(かめがさこ)・住中(じゅうなか)の3集落がある。西は美作国牛飼宮原村(現岡山市作東町)。地名の「よど」は「えご」と共通の言葉で、岩穴・くぼ地・小さい谷などで、湧水のある低湿地をいうほか、水音のよく聞こえる所をも示し、谷間の低湿地が語源となった。

 元文4年(1739)の平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判している。観音山は風光絶佳の地であるが、過去何回も山崩れがあり、文化年間に山内に33ヵ所の石仏観音を安置して、安全を祈願している。

 明治22年江川村の大字となり、昭和30年からは佐用(さよう)町の大字となる。明治30年頃から農業の傍ら養蚕・畜産業を営み、昭和25年頃まで大きな収入源になっていた。昭和19年観音山に砂防工事を行い、観音池を築く。



▼淀の小字






◇今回の発見
・豊福は、中世の頃別所敦範が平福の利神城を築く前に構を築いた地であった。平谷に残る御館という地名には、どんな中世の豪族が住んでいたのだろうか。
・淀の多くの石仏観音は山の崩落の安全祈願のため村民の願いがつくらせたものである。