郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「延吉(正吉・友延)」

2020-01-28 12:52:18 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「延吉(正吉・友延)」  佐用町(現佐用町)
 
【閲覧数】2,050件(2010.12.1~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■正吉(まさよし)
 平福村の北、佐用川上流域で、利神山の北西に位置する。平福宿を出た因幡道は当地で進路を西に変え、新田坂越で豊福村に至り、江川川の谷へ入り北進する。地名は、荘園にちなむか、四角な地形からついた地名に吉の嘉字を当てたものか。
 元文4年(1739)の平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判した。鎮圧後首謀者として牛右衛門(うしうえもん)は死罪に、ほか一名も処罰されている。

 明治7年(1874)の平福全図には、数か所に正吉村分が記されており、これは安永・天明年間(1772から1789)頃当村の町分が平福地内に設定されたことを示すと思われ、当村の一部が同村にいり込んだもの。明治9年(1876)平福村に合併。明治14年平福村から旧友延村とともに延吉村として分離。



■友延(とものぶ)
 正吉村の北、佐用川上流域に位置する。両側の山地は標高300mを超える。慶長国絵図には友信村とみえる。地名の由来は、舟の“とも”に似た地形による。
元文4年(1739)の平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判して参加している。

 氏神は神垣(かみがき)神社。明治9年(1876)平福村と合併。明治14年平福村から旧友延村とともに延吉村として分離。




■延吉(のぶよし)
 佐用川上流域に位置する。明治14年に平福村から旧村正吉村と旧友延村が延吉村として分村して成立。二つの村からごろのあう延と吉をとって延吉とした。

 明治22年平福村の大字となり、昭和3年平福町、昭和30年からは佐用町の大字となる。明治30年頃から畜産・養蚕に従事、昭和25年頃まで農家の大きな収入源になった。


▼延吉の小字




◇今回の発見
・江戸中期、元文3年(1738)佐用郡は大凶作に見舞われ、翌年3月に百姓一揆が計画された。その首謀者として正吉村の牛右衛門(41歳)は囚われ、1年間の入牢後、平福倉橋袂で処刑されたとある。その後、大正2年(1913)「義民 牛右衛門之碑」が建てられ、今も集落の守り神として崇められています。
・友延の地名の由来で舟のともの“とも”を調べてみると、舟の艫(とも:船尾)なのだろう。その形が友延の地形に似ているからというが・・・??。


昭和 「合併記念」 ①

2020-01-27 09:43:07 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
昭和 「合併記念」 ①  宍粟郡一宮町(現宍粟市一宮町)

【閲覧数】595件(2011.8.25~2019.10.31)



一宮町合併祝賀記念

一宮町神戸小学校人文字(一宮町東市場) 
 
写真:「追憶ふるさと宍粟写真集」より



※昭和の合併のこと
 昭和31年4月1日宍粟郡神戸(かんべ)村・染河内(そめごうち)村・下三方(しもみかた)村が合併して一宮町(第一次合併)が発足しました。

 さらに同年9月30日には三方(みかた)村と繁盛(はんせ)村が加わって一宮町(第二次合併)が誕生しました。

 そのあと平成の大合併により平成17年(2005年)4月1日に宍粟郡内の4町が合併し、宍粟市が生まれました。


地名由来「平福」

2020-01-26 23:18:24 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「平福」 佐用町(現佐用町)

【閲覧数】2,535件(2010.11.30~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





■平福(ひらふく)
 宗行(むねゆき)村・口長谷(くちながたに)村の北、佐用川上流域に位置する。利神城(りかんじょう)西麓。地名の由来は、平は緩傾斜地で、利神山と西山に囲まれた膨らんだ地形に福の好字を当てたことによる。南北朝期には赤松一族の別所御陵左衛門敦範によって利神城が築かれ、天正年間(1573~92)山中鹿之介に攻められて落城。
 近世初期までは未開拓の湿地帯。毎年冬頃田鶴が飛来して冬を過ごしたことから田住(たずみ)村と呼ばれていたが、寛文年間(1661~73)頃に平福村と改称したという。

 慶長5年(1600)播磨国主として姫路城に入った池田輝政は、甥である姫路藩家老池田出羽守由之に佐用郡2万2千石を支配させ、由之は、口長谷村殿町の旧別所館を修理して同館に入り、利神城築城、山麓に池田館を築くとともに当地における城下町の普請に着手し、慶長10年(1605)に完成。城下は南から南新町・下町・中町・上町・北新町に区分され、また、ほかに裏町もあったが、のちには城下であったことを示す地名は南新町の鉄砲町のみとなった。利神城は慶長10年(1605)頃藩主池田輝政の命で天守閣が取り壊され、元和元年(1615年)池田輝興が就封して平福藩(姫路藩の支藩)の藩主居城となり輝興が赤穂へ転封となって廃藩となった。利神城跡と武家屋敷跡地は寛永11年(1634)から同16年(1639)に6町7反余が開墾され畑地となった。

 旧平福藩領は同年の寛永8年(1631)中に山崎(宍粟)藩領に含まれたが、寛永17年(1640)山崎(宍粟)藩主松井(松平)康映が甥の松井康朗に平福村など15か村5千石を分知し、康映は当村に陣屋を置いた。このため旗本松井康朗家の知行村を平福領とよぶ。この間に利神城が廃城になっていたが、城下町の町場を継承して宿場町となり、当地方の政治・経済・交通の中核地として発展した。以後天保6年(1835)まで平福松井氏の知行が続くが、翌年幕府領となり、文久3年(1863)松井家領に復帰。

 この地に住む田住家は戦国期の利神城主別所氏の末裔で、郷土となり池田氏治政時代には佐用郡統治権を付与されていたという。元文4年(1739)の平福領一揆の際、百姓らは2月に平福町会所(美作屋久兵衛方)で集会したのち天狗回状が回された。3月には20か村百姓が当地の大庄屋(地代官)田住家や商家に押しかけ一時は平福町を制圧した。7~8月には鎮圧されて首謀者らが逮捕されたが、平福惣町の月行事12・馬問屋1・北新町組頭6・上町組頭12・中町組頭6・下町組頭6・南新町組頭10・裏町組頭12、計61人から徘徊百姓を見つけしだい捕まえるとの念書をとっている。

 鎮守は、素盞鳴(すさのお)神社(三宝荒神宮)で、寛永17年松井健康郎が宮谷荒神・西明神・西山荒神を合祀したもの。ほかに氏神に、北新町の荒神社(稲荷神社)、下町の金刀比羅神社、南新町の天満神社がある。寺院は真言宗光明寺・浄土宗正覚寺・浄土真宗光勝寺・真宗教岸寺・日蓮宗了清寺・浄土宗正覚寺末寺福聚寺(現在廃寺)があり、住職・住民とも、宗派を問うことなく、仏事に参加している。宿場町である当村には代官の下に、3名の大年寄がおり、問屋役人を輪番で勧めた。宿役人には問屋役・年寄・張付・人足指・馬宿・迎番があった。地内には本陣・脇本陣・宿屋12軒があった。元治元年(1864)の五人組帳によれば、家数・五人組数は、北新町38・7、上町41・8、為延5・1、中町40・8、下町38・7、南新町66・8、裏町40・8で年寄9軒ほか4軒とある。すべての家は屋号で呼び、幕末には181軒が79業種の店を出す繁盛ぶりを示していた。

 平福村は、明治9年友延村・正吉村と合併、明治14年旧友延・正吉両村を延吉村として分村。明治5年平福郵便局設置。明治6年教岸寺内に小学校設置。同7年南新町西側に移転。明治22年平福村の大字となり、昭和3年平福・延吉・庵の3か村が合併し平福町が成立し、その旧村名を大字として継承した
 
 明治35年北新町・上町・中町・下町・南新町の5区に分け区長を置いた。明治40年平福尋常高等小学校設置。大正8年播備自動車が乗合自動車を運行、停留所を置いた。大正13年佐用郡内真言宗寺院が共同社会事業として、当地に高野山医療院を置く。昭和22年長谷・平福・石井の3か町村組合立利神中学校創設。昭和57年佐用町歴史的環境保存条例が制定され、当地は町並み保存地域に指定された。


▼平福の小字





◇今回の発見
・平福はその昔は田鶴の飛び交う湿潤地であったという。近世には利神城西麓に城下町として栄えた。因幡鳥取藩主の参勤交代路にあった宿場町であった。幕末には79業種の店が立ち並ぶ繁盛ぶりを示していたという。
・宍粟藩が佐用平福領を有した時代があった。寛永8年(1631)から寛永17年(1640)の9年間。
・平福の町が昔の町並みを留めているのは、町並み保存地域に指定されたことと地域住民の保存への熱意が実を結んでいると思われます。


 ※ 利神城跡 ~三層の天守と遺構の謎~
 由之が利神山頂に建てた雲突(くもつき)城との異名のある利神城。それは三層の天守をいただく豪壮な山城であったという。平福藩主を命じた池田輝政は、完成時にその豪壮な城郭を見て仰天し、大御所(徳川家康)に謀反の疑いをかけられてはとの思いにより、天守を破壊し、由之を下津井城(岡山県倉敷市)に移封。のち城主が5代変わり当城は廃城となったという。
 しかし、遺構の調査では、石垣には由之時代以外のさまざまな時期のものが含まれること、採集瓦には時期の古いものがあること、池田輝政が築城を援助したとされるなど(奏公書)、通説には疑問点も多いという。 
(参考 「兵庫県の地名」1999 利神城跡)



▼平福観光案内(町観光課制作)



地名由来「口長谷・奥長谷・宗行」

2020-01-26 08:55:07 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「口長谷・奥長谷・宗行」  佐用町(現佐用町)

【閲覧数】2,193件(2010.11.29~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





■口長谷(くちながたに)
 佐用川支流長谷川下流域の山間。横坂村の北、佐用川左岸に合流する長谷川沿いの谷間に立地。殿町・塩谷・坊・中島の4集落がある。地名の長谷は、行基の開基といわれる高伏山長谷寺にちなむ。奥金近との境界付近の申山(もうすやま)で約2億年前の2枚貝モノティスの化石が発見された。

 古くは「ながたに」と称し、奥長谷村と一村であった。氏神は奥長谷八幡社と若一王子神社の2社。寺院は真言宗遍照寺。怪談播州皿屋敷の話が伝承され、お菊の墓や子孫もあり、青山鉄山の墓も飯の山にある。また、別所の構は、中世の利神城主別所氏代々250年の居住地域である。当地の最後の領主松井康弘は幕府滅亡後帰郷、城坂に墓がある。明治6年遍照寺に精得小学校開校。同22年長谷村の大字となり、昭和30年より佐用町の大字となる。明治24年長谷尋常小学校設置、同30年校舎新築。明治30年頃から畜産・養蚕が米麦作とともに主産業となる。大正13年電灯架設。


▼口長谷の小字図




■奥長谷(おくながたに)
 口長谷村の北東、佐用川支流長谷川上流の狭い谷間に位置し、両側の山地は標高400m台である。田坪・中村・深山口・横尾の4集落がある。東は山を境にして、上三河村・中三河村・下三河村(南光町)。北西の鷲栖山には、庵・桑野との境界で、役子角(えんのおずの/ね)や行基の伝承があり、山頂には役行者(えんのぎょうじゃ)を祀った祠があり、行者山ともいう。

 古くは「ながたに」と称し、口長谷村と一村であった。氏神は八幡神社。同22年長谷村の大字となり、昭和30年より佐用町の大字となる。明治30年頃から畜産・養蚕・製炭業に従事。同40年八幡社2・荒神社3・春日神社・山の神大明神社の社神を合祀して、八幡神社氏神とする。大正13年電灯架設。


▼奥長谷の小字図





■宗行(むねゆき)
 佐用川中流域、利神山の南西。地名の由来は、胸・棟に通じる言葉で、山麓の子高い所に住居を設けたことによる。古くは天台宗の福専寺があったといい、のち平福に移され、浄土真宗光勝寺が開かれたという。

 氏神は産霊(さんれい)神社。石ノ堂には借膳(しゃくぜん)岩とよばれる大岩があり、法事や婚礼などの時、客用のお膳や椀をここに来て借りたとの伝説がある。寺院は浄土真宗円徳寺。明治22年長谷村の大字となり、昭和30年からは佐用町の大字となる。明治30年頃から畜産・養蚕が、米麦作とともに主産業となる。大正13年電灯架設。


▼宗長の小字図






◇今回の発見
・口長谷の別所の構は、利神城主別所氏代々250年の居住地域であった。飯の山には怪談播州皿屋敷の伝説が残る。同じような話が各地にあるようですが、播州説を裏付ける一つなのかも知れません。
・宗行の石ノ堂のお膳や椀を貸したという伝説は、宍粟市山崎町や一宮町にも残っています