郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「仁方・大木谷(大猪伏・植木谷)」 

2020-01-21 09:44:53 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「仁方・大木谷(大猪伏・植木谷)」  佐用町(現佐用町)


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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■仁方(にがた)
 福沢村の北、佐用川支流江川川両岸の河岸平地と後背山地に立地する。仁方・安井の2集落がある。地名の由来は、湿地帯を意味する「ぬた・にた」が転じたことによる。昔寺床山には、行基開創と伝える天狗山行基寺があり、兵火にかかって焼失したといい、鐘田・寺田・石の塔の呼称が残る。
 
 元文4年(1739)の平福一揆の際に当村も天狗回状に連判、鎮圧後首謀者として村民一人が処罰された。

 氏神は神庭(かんば)神社があり、周辺には神庭ノ元・宮ノ前・大前の地名が残る。この社の周囲には蹈鞴遺跡が点在する。「峯相記」には平安中期の陰陽師芦屋道満について、播磨国佐用郡の奥に住したと記す。道満の末孫は当村に住したが、のち英賀・三宅(現姫路市)に移住したと伝える。

 明治6年仁方小学校を開校、同8年大猪伏(おおいぶし)小学校を合併。明治22年江川村の大字となり、昭和30年からは佐用町の大字となる。
 明治24年仁方尋常高等小学校を開校、同35年同校と大畠小学校を統合して江川小学校を豊福に置く。明治30年頃から畜産・養蚕を営み、農家の収入源となり、昭和25年頃まで続いた。



▼仁方の小字





■大木谷(おおきだに)
 江川川支流西河内(にしがいち)川流域に位置する。
 明治8年、大猪伏村と植木谷村が合併して成立。明治22年江川村の大字となり、明治22年江川村の大字となり、昭和30年からは佐用町の大字となる。

 明治30年頃から畜産・養蚕を営み、農家の盛んになり、農家の大きな収入源となり、昭和30年頃まで続いた。


▼大木谷の小字







■大猪伏(おおいぶし)
 江川川支流西河内川流域。植木谷村の北、仁方村の西、江川川から西に入る小支谷にある。大猪伏・瀬戸・空の3集落がある。地名は、屈曲して流れる谷川沿いに位置することによると思われる。
 元文4年(1739)の平福一揆の際に当村も天狗回状に連判している。「せいめいさん」と呼ばれる宝篋印塔があり、平安中期の陰陽博士安部晴明の塚(晴明塚)といわれ、600m隔てた植木谷村の道満塚と向き合っている。

 氏神は八幡神社。明治6年大猪伏小学校設置、同8年仁方小学校と合併し廃校。明治8年植木谷村と合併し、大木谷村となる。



 ▼晴明塚宝篋印塔






■植木谷(うえきだに)
 西河内村の北、仁方村の西に位置する。江川川から西に向かう小支谷で、周囲を標高350~400mの山に囲まれた谷間に植木谷・下村・奥村の3集落がある。地名は、「植」は上で高所を示し、山の中腹に位置することの意による。

 元文4年(1739)の平福一揆の際に当村も天狗回状に連判している。植木谷から南に向かい大撫山(260m)越で田和村(上月町)へ至る山道があった。
江戸期~明治8年に大猪伏村と合併し、大木谷村となる。

 下村集落の東、標高250mの山上に道満塚と称される墳丘状の土盛があり、寛政9年(1797)再建の「どうまんさん」と呼ばれる宝篋印塔がある。平安期の陰陽師芦屋道満は藤原道長を呪詛しこれを安部晴明に見破られて播磨国に流されたと伝えられ(峯相記など)、当地で死去し、その墓と伝える。この塚は600m隔てた大猪伏(おおいぶし)の清明塚と向き合っている。氏神は八幡神社。明治8年大猪伏村と合併し、大木谷村となる。



▼堂満宝篋印塔






◇今回の発見
・播磨佐用の地に陰陽師にまつわる伝説が残る。大猪伏の「せいめいさん」と植木谷の「どうまんさん」が600mを離れ向き合っている。陰陽師安部晴明や芦屋道満の塚と伝える塚にたつ宝篋印塔が向き合っているというのは興味を引く。
・佐用町の大猪伏とよく似た地名が宍粟市波賀町に鹿伏(しかぶし)という鹿にまつわる地名がある。





地名由来「福沢・西河内」

2020-01-19 17:12:05 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「福沢・西河内」  佐用町(現佐用町)


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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





■福沢(ふくさわ)
 佐用川支流江川川下流域。本位田の北西に位置し、佐用川の支流江川川の左岸に大向・田野・清水・大塚の4集落、右岸の谷間に本村集落、西方の標高436mの大撫山に続く山中に大谷集落がある。地名の由来は、山に囲まれた広い原野に川が流れ湿地が点在し、泉もわく土地であることによる。地内大向には昔、寺があったと伝える。
 大塚より東方の宗行村との間に峠の乢(たわ)と称する峠道がある。この道は旗本松井平福領の村々から、平福陣屋に通う道であった。清水に福沢神社がある。

 明治22年江川村の大字となり、昭和30年からは佐用町の大字となる。明治30年頃から畜産・養蚕を営み、農家の収入源となり、昭和25年頃まで続いた



▼福沢の小字








■西河内(にしがいち)
 佐用川支流江川川と支流西河内川の合流する付近。福沢村の西、大撫山の北面山地に立地する。地名は、狭い谷からついた地名か。

 天文4年(1739)の平福領一揆の際には当村も天狗回状に連判、一揆鎮圧後当村伝左衛門は手鎖・村預処分となっている。

 氏神は八幡権現宮。寺院はないが、雲松寺の寺号額を掲げる小庵がある。明治22年江川村の大字となり、昭和30年からは佐用町の大字となる。明治30年頃から畜産・養蚕を営み、農家の収入源となり、昭和25年頃まで続いた。


▼西河内の小字







◇今回の発見
・泉のわく福沢の地、大塚集落から峠の乢を通る平福陣屋への道を次回訪れてみよう。
・平福領一揆の参加で伝左衛門は、手鎖・村預処分とある。手鎖(てぐさり・てじょう)は江戸時代の庶民に科す刑罰の一つで、罪の重さにより30日、50日、100日間、自宅で謹慎させるとある。命をとられず、これぐらいで済みよかったかなと思われる。






地名由来「円応寺・本位田」 

2020-01-18 23:08:53 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「円応寺・本位田」  佐用町(現佐用町)


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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





■本位田(ほんいでん)
 冠(かんむり)ともいう。千種川支流佐用川中流域右岸、佐用平野北部の高台に位置し、高田・塩田・冠の3集落がある。地名の由来は、律令制下の※位田(いでん)であったことによる。「風土記」に見える賛用都比売命を祀った佐用都比売神社は式内社。旧石器時代・縄文時代の本位田池尻遺跡、本位田古墳群、奈良時代の掘立柱建物跡が発見された本位田遺跡など遺跡が多い。
※位田:律令制で、親王以下五位以上の者に位階に応じて支給された田地。

 建長2年(1250)11月の九条道家初度惣処分状に佐用荘内本位田とみえ、道家から嫡孫忠家に譲られている。観応元年(1350)12月5日、赤松円心の遺領の佐用庄内本位田ほかを円心嫡男の赤松範資が相続している。応永18年(1411)10月17日、赤松満弘が本位田郷を700貫文で京都天龍寺南芳(なんほう)院に売却している。満弘は同23年12月13日には「江河郷本位田内公文職」を大徳院へ売却した。

 江戸期には本位田村といい、元禄郷帳には「ほんじん」村と訓む。江戸中期頃までに長尾村を分村。鎮守は佐用都比売(さよつひめ)神社で、池田氏の検地の時、神領地3反余を輝政に与えられたという。古くから、佐用郡中が氏子。鳥居が社殿の北側にある珍しい神社である。寺院は浄土真宗教蓮寺。明治初年までに塩田村・高田村を分村したと思われるが、同9年再び当村に合併。

 明治22年佐用村の大字となり、昭和3年からは佐用(さよ)町、同30年からは佐用(さよう)町の大字となる。明治30年頃から畜産・養蚕業が米麦作とともに、主産業になる。大正13年佐用郡比売神社は県社に昇格。昭和50年中国自動車道開通。


▼本位田の小字







■円応寺(えんのうじ)
 千種川支流佐用川中流左岸。長尾村の東、北端で支流金近川が合流する。集落は河岸段丘にあり、後背は標高200m台の山地である。古くは福地と称したが、南北朝期に円応寺が建立され、のち寺名を村名とした。

 元弘2年(1322)の後醍醐天皇西遷の遺跡や、建武新政の功績者佐用兵庫介範家の墓という宝篋印塔がある。円応寺跡に 後醍醐天皇がさし木をしたというビャクシンの大木があったが、昭和20年の台風で倒れ、幹が現地で保存されている。北山城(円応寺城)もあったという。

 北山円応(禅)寺は、大朴玄宗の開山で諸山の格式を有したが、今は小庵が建っており、丸型造り出しの柱石が残る。

 明治12年以来佐用郡役所が畜産・養蚕を奨励し、米麦作とともに、主産業となった。明治22年佐用村の大字となり、昭和3年からは佐用(さよ)町、同30年からは佐用(さよう)町の大字となる。


▼円応寺の小字










◇今回の発見
・円応寺は、上月の円光寺と同じく、寺名が地名となる。古くは福地といった。
・本位田が通称「冠(かんむり)」というのは佐用都比売命(さよつひめのみこと)の冠が流れついた伝説が残る地である。本位田の地名は、元は位田の地であって、律令制時代、朝廷から位階により与えられた田から来ている。その後は私有化して荘園となったという。




地名由来「山脇・真盛」

2020-01-18 10:10:54 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「山脇・真盛」      佐用町(現佐用町)


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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




◇山脇(やまわき)
 佐用村の南、佐用川中流左岸に位置する。同川は村の南端で大きく屈曲して、西に向きを変える。南境の下櫛田村(上月町)との境に高倉山があり、その北西麓に葉草・カジヤ・下山脇の3集落がある。地名の由来は、高倉山の山際に位置することによる。行基開基の伝承が残る真言宗の慈山寺がある。高倉山には高倉寺があったといい、天正5年(1577)羽柴秀吉が上月城攻めのとき、本陣を置いたという。

 山脇は南北朝期から見える地名で、播磨国佐用郡佐用荘のうち。貞和3年6月24日の刑部守延譲状に「佐用庄内山脇」と見え、広峯神社(姫路市)の御師刑部守延が当地の檀那などを息女童に譲っている。戦国期と推定される年不祥12月25日の後藤則季書状に「山脇当陣被迎合、可被相防之由候」と見え、合戦が行われている。

 氏神は、高倉神社。明治22年佐用村の大字となり、昭和3年からは佐用(さよ)町、同30年からは佐用(さよう)町の大字となる。明治30年頃から養蚕・畜産業が米麦作とともに主産業となる。





▲山脇小字







◇真盛(さねもり)
 佐用村の南、山脇村の西、佐用川右岸に位置する。西方山地の山麓平地に本村と道谷集落がある。地名の由来は、民族行事の害虫送り(さねもりおくり)による。慶長4年(1599)2月6日宇喜多秀家は当地のうち10石などを戸川肥後守に宛行っている。
村の西方山腹に金比羅神社がある。文明2年(1470)当地に来住した半兵衛輝通(衣笠氏)が祀ったと伝える左近塚がある。上月左近将監関係の塚と見られる。

 明治22年佐用村の大字となり、昭和3年からは佐用(さよ)町、同30年からは佐用(さよう)町の大字となる。明治30年頃から養蚕・畜産業が米麦作とともに主産業となる。



▲真盛小字





◇今回の発見
 真盛の地名は害虫送りに由来するという。この害虫送りは「さねもり送り」といい、農薬のない昔の農村では稲田につく害虫を追い払うための大事な儀礼であった。夜、里人がそろって松明(たいまつ)を焚(た)き鐘を鳴らしてはやし立てながらあぜ道を巡り、川または村境まで虫を送って捨てる。
 ではなぜ「さねもり」といったかというと、調べてみると虫送りの由来は、寿永2年(1183年)篠原の合戦の際、斉藤別当実盛の乗馬が田の稲株につまずいて倒れたため、実盛は木曽義仲に首を打たれてしまった。その実盛の魂が稲を恨むあまり害虫になったという。そこから稲を虫の害から守ろうということから始まったといわれる。
 大事な米を育てるための農村行事が800年前から人名を介して面々と行われ、それが地名として残されているのには興味がある。他の地方では、実盛・実森の地名がある。



地名由来「佐用」(佐用町)

2020-01-17 09:40:50 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「佐用」(佐用町)  佐用町(現佐用町)


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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




佐用の小字(町史より)




 佐用郡の地名は、播磨国風土記に「讃容郡(さよのこおり)」に見え、その地名の由来を最初に書いている。
 「大神夫婦の二人がこの地に来て国占めの争いをされたとき、玉津日女命が生きた鹿を捕らえて腹をさき、鹿の血に稲をまかれたところ、一夜の間に苗がはえたので取って植えられた。これを見て夫神は「あなたは五月夜(さよ)に植えたのか」といって自分の負けを認められてこの地を立ち去られた。それ以来この地を五月夜郡(さよのこおり)というようになり、妻神を讃用都比売命といった話が出ている。」(佐用町史)  
※玉津日女命は伊和大神の妹の説もある。



佐用町のこと
 佐用郡の中央に位置し、東は南光町と千種町、南は上月町、西から北は岡山県英田郡作東町・大原町・東粟倉村に接する。町の北部は近世までは美作国、近代に入って岡山県に属していたが、明治29年(1896)県境変更により兵庫県所属となる。町域は北高南低の地形で、南部は標高100m台、北部は800m台である。北東境に日名倉山(1047m)があり、同山を源流とする佐用川が中央部を南流し、左岸に庵川、右岸に江川川が合流する。佐用川流域に佐用盆地が開けるが、8割以上が林野である。

 昭和20年(1945)頃までの主産業は、米・麦・繭・木炭・木材など農林業で、一時ピーマン・加工用苺なども生産された。しかし、昭和30年代後半から各種企業が進出、現在はこれら地元企業と、姫路・竜野方面への通勤兼業が主体である。南部を東西にJR姫新線が通り、佐用駅がある。これと平行して国道179号線が通る。中国自動車道が東西に通じ、佐用インターチェンジがある。中央部をほぼ南北に智頭急行が通じ、石井・平福・佐用の三駅があり、佐用で姫新線と連絡している。国道179号から佐用で分岐する国道373号がほぼ佐用川に沿って南北に通る。北部の日名倉山周辺は、氷ノ山後山那岐山(ひょうのせんうしろやまなぎさん)国定公園および音水(おんずい)森林県立自然公園に指定されている。




■佐用(さよ)
 佐用川中流域の佐用盆地の南部平地と後背丘稜に立地する。福原・吉福・大坪・山平・大願寺(だいがんじ)・秀谷(ひでたに)の6集落がある。古代以来の美作道が通る交通の要衝の当地は、江戸初期には佐用宿が置かれ町場が形成された。町場には、上町・中町・新町などがあったとみられる。

 浄土真宗常徳寺がある。境内は満願寺という古代寺院跡と伝え、塔の心礎が残る。町中に樹齢1千年と伝える佐用の大イチョウ(県指定天然記念物)がある。佐用盆地の中ほど、標高110mの段丘上に中世城郭の佐用構があった。現在佐用小学校となり、遺構はなく、字構の段の呼称のみが残る。佐用兵庫介範家が福原城を築く以前に居城としたというが不祥。

 昭和30年頃から養蚕・畜産業が盛んになる。大正12年電灯架設。昭和10年姫津西線佐用駅開設、同11年岡山県の美作江見駅まで開通して前線開通。昭和30年佐用町成立後「さよう」と称することが多くなった。昭和42年山王、同48年柴谷に町営住宅を建設。



◇今回の発見
・明治29年県境の変更により、佐用の北部は美作(みまさか)の国(岡山県)であったが、兵庫県に属した。
・佐用村は江戸初期より佐用宿としての賑わいを地名に残している。樹齢1千年と伝える大イチョウは町なかにあって世の移り変わり見てきた物言わぬ生き証人となっている。



追伸
 佐用町史には、「地名の語源を求めて」として100頁に亘り可能な限りの地名(小字)の語源を探っている。字限図を載せたわかりやすい説明は、郷土の歴史研究にとっては格好の研究資料になり、地名の見方の参考になります。以後掲載の佐用町の地名の由来の参考にさせていただきます。