郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

有難いパワースポット「金持神社」

2019-11-03 16:31:40 | 日記
有難いパワースポット「金持神社」   鳥取県日野町








 昨日、鳥取県の日野町にある「金持神社」に立ち寄りました。

好天気の3連休のはじめ、多くの観光客が橋を渡って、山中の神社に足を進める。






 手を合わす人々の願いはいざ知らず、この神社で祈願すると宝くじが大当たりしたとの噂もあり、それを信じ一獲千金の願いをこめた絵馬が目に付きます。









 この神社の呼び名は、かねもちじんじゃではなく、かもちじんじゃと呼びます。このことに気が付かないまま帰る人も多いのでは。 そういう私も、神社由来を読むまでは、そう思っていました。

 鉄の元である砂鉄の採れる谷を多く持つ郷を「金持」といって、砂鉄から玉鋼を作り出していました。日本最古の刀匠伯耆安綱による宝剣が国宝となっています。
ここでいう金はGOLDではなく、金偏に矢がついた金属で鉄IRONなのです。

 鎌倉時代御家人として、伯耆国の守護職についたのが、金持広親。 この金持氏は南北朝期に南朝方についたため滅亡し、この伯耆国は山名氏の支配地となりました。生き残った金持氏の末裔が全国に散らばり、姓名の読みは、かなじ、かなもち、かねもちとこの地を離れた武将の読みが変化したという。









 ちなみに、兵庫県の上郡町に金出地ところがあります。ここは、かなじと呼びます。(地名の由来は、昔銅あるいは砂鉄を算出したと伝えられることによる。)
 ここには金持という名の家があると聞いています。ひょっとすると、鳥取の日野町が先祖の地なのかも知れません。
 ついでながら、この金出地を姓名とする方もあり(岡山と兵庫に多い)、その読みは、そのままかなでじと読むようです。地名や姓名の読みは、聞いてみないとわからないものです。

 神社を訪れて、宝くじを買うという気持ちは起きなかったが、この地方の古き歴史を知るよいきっかけになりました。



 ▼日野町のインフォメーション
 



インフォメーションの明地峠から見た雲海の大山の写真が目に止まりました。
雲海に浮かぶ雄大な伯耆富士大山をいつか見てみたい気持ちになりました。
明地峠は金持神社から約10kmで、標高650mだそうです。







▼江美城本丸(日野郡江府町)から見た大山(望遠)






地名由来「加生・門前」

2019-11-03 09:25:11 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「加生・門前」  宍粟市山崎町

                 閲覧数3,077 件(2009.11.17~2019.1031)                                               


■門前(もんぜん)

  篠の丸山の南麓。揖保川の支流菅野川の流域。地名は、地内東端の山腹に鎮座する八幡神社の門前にあたることによる。 八幡神社は大同3年(808年)に奉還と伝えられ天正年間(1573~1592年)には12の社家があったという。(播州宍粟郡誌)。なお、西大王寺・東大王寺の小字名も残っている。古代寺院の存在も想像され、地名もこれに関係するものか。

【近世】門前村
江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。明和年間(年)の郷中古事録や明治4年村々庄屋年寄り数では庄屋・年寄を置く村であるが。山崎村・山田村と一括して扱った記録も多い。郷帳類では江戸期を通じて山崎村の一部として扱われた。2つのため池などの水を用水に利用したが、地形的に水田が困難で畑地の比率が高い。

【近世】門前町(もんぜんちょう)
江戸期~明治4年頃の町名。山崎城下町11町の1つ。当町ははじめ門前村との境界が不明確であったが、寛永17年(1640年)松井松平氏入部の時木戸が設置されて区別されるようになったという。城下町の西端に位置する。
神社は、八幡神社。同社は天正8年(1580年)羽柴秀吉の軍が篠の丸城を攻撃した時に焼失したが、のち代々の領主の保護を受け栄えた。天正年間(1573~1592年年)古文書や藩主の寄進物などを多数所蔵する。幕末は山崎を冠称。当町は、明治4年頃山崎町の一部となり、同12年には門前村に編入された。

【近代】門前 明治22年~現在の山崎町の大字名。

■加生(かしょう)

揖保川の支流菅野川の下流域。古代以来柏野里(かしわののさと)・柏野郷と呼ばれていた地に含まれ、加生はその遺称。地名の由来について、「風土記」はこの地に柏が繁っていたからであるとする。柏生う(かしおう)の転訛と思われる。
【近世】加生村
江戸期~明治22年の村名。神社は、須賀神社。当村の山麓を山崎と菅野川上流の村を結ぶ街道が通っていた。明治22年山崎町の大字となる。

【近代】加生
明治22年~現在の山崎町の大字名。

◇今回の発見:風土記の宍禾郡の七里の一つ柏野里は、菅野川下流地域から菅野谷、三河村、千種まで伸びる広い地域をもつ。この加生は柏野里の最南部にあたり、その遺称地であるということ。









地名由来「鹿沢・山崎郭内」

2019-11-03 09:03:16 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「鹿沢・山崎郭内(家中)」  宍粟市山崎町鹿沢

                閲覧数1,752件(2009.12.17~2019.10.31)


「鹿沢」とその前身「山崎郭内)」

■鹿沢(しかさわ)
 「しかざわ」とも称する。揖保川中流右岸(西)、篠の丸山南麓。地名の由来は、宍粟郡の古名のシシサワによると思われる。天文年間(1532~55年)に一時この地を支配した尼子氏が砦を築いたところで、元和元年(1615年)以降廃藩まで藩邸(陣屋)が置かれ、山崎藩の支配の中心となった。陣屋の東・北・西方には武家屋敷が配され、外堀によって町場と区分されていた。旧陣屋の紙屋門が山崎小学校の校舎西方に、また戦国末期以来の若干の石垣が段丘付近に残っており、近年一帯の公園化が進められつつある。


【近代】鹿沢町
 明治8年~22年の町名。宍粟郡のうち。もとは山崎郭内(※次に説明)。もと藩邸や武家屋敷であったため、商業や工業などの産業は不活発。明治5年に旧藩校の思斉館を再開、翌6年思斉校とし、同9年に近隣の諸校と合同して篠陽小学校となった。同校の校区は鹿沢町・山崎町・山田村ほか13村。同22年山崎町の大字となる。


【近代】鹿沢
 明治22年~現在の山崎町の大字名。同27年宍粟郡役所が山崎字本町から地内東桜之町に移転。同33年篠陽小学校を山崎尋常高等小学校と改称。同40年町立技芸専修女学校開設、大正2年郡立実科女学校、同12年県立山崎高等女学校、昭和23年県立山崎高校となり、同29年に加生に移転。昭和初年西鹿沢に闇齋神社建立。同34年山崎字本町から山崎町役場が新築移転。同35年下村記念館落成。同59年山崎西中学校新設。内堀・外堀は埋められて道路などになり、公共施設の多い文教地区に変貌した。
 現在は、東鹿沢、中鹿沢、本鹿沢、西鹿沢 4つの自治会に分かれている。


■山崎郭内(やまさきかくない)
【近世】江戸期~明治8年の地名。「かちゅう(家中)」とも称した。元和元年(1615年)藩主池田輝澄が尼子氏の砦付近に藩邸を設置。内堀の外側、北・東・西に武家屋敷を設置、さらにその外側に外堀を設けて郭内と町場の境界とした。後年藩の規模が縮小し、町場の外周に置かれた歩行足軽・長柄組などの屋敷は減少したが、郭内の基本的な形態に大きな変化はなかった。天保12年(1841年)郭内は周囲24町15間であった。(天保山崎藩の図)大手はもと南方にあったが、藩縮小とともに北側中央に変更になり、外堀・中門を経て町場に通じた。このほか東に熊鷹(角鷹)御門、西に土橋御門があり、ともに町場に通じた。また、南西には鶴木御門、南東には新御門があり、村方へ通じていた。藩邸(陣屋)は郭内中央南部に位置し、同所と外堀の間を走る通りを中心にした桜之町・東桜町周辺には藩の重臣たちの広い屋敷が置かれた。天保山崎藩の図によれば、郭内西端の段丘崖下には桜の馬場、土橋御門から鶴木御門に至る中之町の南部に矢場、西部の松原町中央西端には鉄砲場・演武場があった。明治8年鹿沢町と改称。

◇今回の発見と願い
・各種学校の沿革がわかった。
・山崎陣屋を描いた図10枚(山崎藩士遠藤源助画、山崎本多記念館蔵)が残されている。これを基に立体模型ができないものかと常々思っている。昭和にはあった堀跡や隅櫓が埋められ、取り壊されたことが、残念に思います。






山崎郭内の地名



▼山崎藩士遠藤源助画の一部