地名由来「伊和・須行名」 宍粟市一宮町
閲覧数4,896件2010.2.1 ~2019.10.31
神戸地区地区内
■伊和(いわ)神戸盆地のほぼ中央部、岡城川下流域に位置し、東方は岡城川の尾根続きの丘陵。
【古代】伊和郷 奈良期~平安期に見える郷名。「和名抄」播磨国宍粟郡八郷の1つ「風土記」に伊和村と見え、石作里の旧名で、本来の名は神酒(みわ)あるいは於和(おわ)村という。石作里は揖保川上流とその左岸に注ぐ染河内川の合流点から南、揖保川とその左岸に注ぐ梯川の合流点付近までを指したから、当時の伊和村の領域もほぼこのあたりと考えられる。「和名抄」には、伊和郷とともに石作郷が見える。伊和郷は、「風土記」に見える石作里の北半とその北隣の雲箇里が合併して成立したと推定される。宝永5年(1708)の播州宍粟郡誌」にある伊和郷にあたり、一宮町伊和が遺称地で、現在の一宮南部の平野部と、揖保川の支流引原川流域の波賀町一帯を含む。「延喜式」神名帳に「伊和坐大名持御魂神社〈名神大〉とあり、染河内川と揖保川の合流点の南方、揖保川左岸の平野部に鎮座する播磨国一宮・伊和神社に比定される。
【中世】岩村 平安末期~室町期に見える村名。宍粟郡のうち。永久3年(1115)2月5日付の伊和神社宛源朝俊寄進状に「真光寺敷地荒野事、合一所、在岩村」とある(伊和神社文書)。
伊和神社の東方に現在も通称岩村があり、岩村はこれを中心にした伊和神社周辺の地域をいうものと考えられるが、明確ではない。なお、「和名抄」に見える伊和郷としており、岩村もそのうちの1村であった。ただし、中世においても稀にはこの地域を伊和郷と呼んだようで、室町期に成立した「峯相記」には、「一宮伊和大明神者、完粟(宍粟)郡伊和郷に坐す」とある(続群28上)
【近世】伊和村 江戸期~明治22年の村名。宍粟郡のうち。もと神戸村の一部。寛永19年(1642)山崎藩主松平康映の時に神戸村は須行名を分村し、さらに寛文9年(1669)神戸村は伊和安黒村に分村したと伝えられる(伊和神社文書)。元和元年(1615)宍粟藩領、延宝7年(1679)幕府領、明和6年(1769)からは幕府・摂津国尼崎藩の相給。
寺院は、永禄12年(1569)智海僧正開基と伝える真言宗平位山神福寺。明治22年神戸村の大字になる。
【近代】伊和 明治22年神戸村の大字になる。はじめ神戸村、昭和31年からは一宮町の大字。
■須行名(すぎょうめ)
揖保川上流左岸、岡城山西麓。地名は、中世伊和神社付近に発達した名田の呼称に由来するといわれる。
【近世】須行名村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。もと神戸村の一部、寛永19年(1642)山崎藩主松平康映の時に分村して成立したと伝えられ、さらに寛文2年(1662)当村から市場村が分村したという(伊和神社文書)。はじめ宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、享保元年(1716)安志藩領。」「元禄郷帳」では「古くは神戸市場村」と肩書きされて見えるが「正保郷帳」の神戸村を指すと思われる。
神社は、播磨地方全域の守護神として信仰されてきた明神大社で播磨一宮伊和神社。なお、隣村伊和村神福寺の管理する名畑観音堂の梵鐘には、新田義貞が伊和神社に寄進した梵鐘が損傷したため江戸期に鋳直したことを刻印した釣鐘がある。明治22年神戸村の大字になる。
【近代】須行名 明治22年~現在の大字名。はじめ神戸村、昭和31年からは一宮町の大字。伊和神社では古くから伝わる神社特有の祭儀として、21年目に宮山を奉斎する一つ山祭と61年目に三つ山祭(花咲・白倉・高畑)を奉斎する三つ山祭(甲子祭)が執行される。ちなみに昭和59年(甲子)はあたり年ということで三つ山大祭の行事が10月13日~16日にわたり斎行された。
今回の発見
◇神戸盆地は、揖保川上流の地では大きな盆地で、古代遺跡・古墳が数多く発見されている。風土記の英雄伊和大神の里である。読みの難解な須行名は、名田の呼び名からという。
▼伊和中山古墳群
▼神戸地区の遺跡分布図