郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「伊和・須行名」

2019-11-19 18:49:49 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「伊和・須行名」       宍粟市一宮町


                 閲覧数4,896件2010.2.1 ~2019.10.31


神戸地区地区内

■伊和(いわ)神戸盆地のほぼ中央部、岡城川下流域に位置し、東方は岡城川の尾根続きの丘陵。

【古代】伊和郷 奈良期~平安期に見える郷名。「和名抄」播磨国宍粟郡八郷の1つ「風土記」に伊和村と見え、石作里の旧名で、本来の名は神酒(みわ)あるいは於和(おわ)村という。石作里は揖保川上流とその左岸に注ぐ染河内川の合流点から南、揖保川とその左岸に注ぐ梯川の合流点付近までを指したから、当時の伊和村の領域もほぼこのあたりと考えられる。「和名抄」には、伊和郷とともに石作郷が見える。伊和郷は、「風土記」に見える石作里の北半とその北隣の雲箇里が合併して成立したと推定される。宝永5年(1708)の播州宍粟郡誌」にある伊和郷にあたり、一宮町伊和が遺称地で、現在の一宮南部の平野部と、揖保川の支流引原川流域の波賀町一帯を含む。「延喜式」神名帳に「伊和坐大名持御魂神社〈名神大〉とあり、染河内川と揖保川の合流点の南方、揖保川左岸の平野部に鎮座する播磨国一宮・伊和神社に比定される。

【中世】岩村 平安末期~室町期に見える村名。宍粟郡のうち。永久3年(1115)2月5日付の伊和神社宛源朝俊寄進状に「真光寺敷地荒野事、合一所、在岩村」とある(伊和神社文書)。
伊和神社の東方に現在も通称岩村があり、岩村はこれを中心にした伊和神社周辺の地域をいうものと考えられるが、明確ではない。なお、「和名抄」に見える伊和郷としており、岩村もそのうちの1村であった。ただし、中世においても稀にはこの地域を伊和郷と呼んだようで、室町期に成立した「峯相記」には、「一宮伊和大明神者、完粟(宍粟)郡伊和郷に坐す」とある(続群28上)

【近世】伊和村 江戸期~明治22年の村名。宍粟郡のうち。もと神戸村の一部。寛永19年(1642)山崎藩主松平康映の時に神戸村は須行名を分村し、さらに寛文9年(1669)神戸村は伊和安黒村に分村したと伝えられる(伊和神社文書)。元和元年(1615)宍粟藩領、延宝7年(1679)幕府領、明和6年(1769)からは幕府・摂津国尼崎藩の相給。
 寺院は、永禄12年(1569)智海僧正開基と伝える真言宗平位山神福寺。明治22年神戸村の大字になる。

【近代】伊和 明治22年神戸村の大字になる。はじめ神戸村、昭和31年からは一宮町の大字。




■須行名(すぎょうめ)

揖保川上流左岸、岡城山西麓。地名は、中世伊和神社付近に発達した名田の呼称に由来するといわれる。

【近世】須行名村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。もと神戸村の一部、寛永19年(1642)山崎藩主松平康映の時に分村して成立したと伝えられ、さらに寛文2年(1662)当村から市場村が分村したという(伊和神社文書)。はじめ宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、享保元年(1716)安志藩領。」「元禄郷帳」では「古くは神戸市場村」と肩書きされて見えるが「正保郷帳」の神戸村を指すと思われる。

神社は、播磨地方全域の守護神として信仰されてきた明神大社で播磨一宮伊和神社。なお、隣村伊和村神福寺の管理する名畑観音堂の梵鐘には、新田義貞が伊和神社に寄進した梵鐘が損傷したため江戸期に鋳直したことを刻印した釣鐘がある。明治22年神戸村の大字になる。

【近代】須行名 明治22年~現在の大字名。はじめ神戸村、昭和31年からは一宮町の大字。伊和神社では古くから伝わる神社特有の祭儀として、21年目に宮山を奉斎する一つ山祭と61年目に三つ山祭(花咲・白倉・高畑)を奉斎する三つ山祭(甲子祭)が執行される。ちなみに昭和59年(甲子)はあたり年ということで三つ山大祭の行事が10月13日~16日にわたり斎行された。


今回の発見
◇神戸盆地は、揖保川上流の地では大きな盆地で、古代遺跡・古墳が数多く発見されている。風土記の英雄伊和大神の里である。読みの難解な須行名は、名田の呼び名からという。




▼伊和中山古墳群  

▼神戸地区の遺跡分布図


地名由来「閏賀・杉田」

2019-11-19 18:36:59 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「閏賀・杉田」   宍粟市一宮町


               【閲覧数】3,971 件(2010.2.3~2019.10.31)


神戸地区内

■閏賀(うるか)
揖保川の上流右岸に沿った堆積地に位置し、南北に長い集落を形成している。地名は、当地が湿潤地であることによる。

【古代】雲箇里(うるかのさと) 奈良期に見える里名。播磨国宍粟郡のうち。「風土記」に宍禾郡七里の1つとして見える。一宮町閏賀が遺称地。雲箇里のうちに波加村がふくまれていることから、揖保川上流とその支流引原川の合流点付近から引原川全域を含むと考えられる。「和名抄」には見えず、伊和郷に含まれていたと思われる。現在の波賀町と一宮町のほぼ大部分に比定される。

【近世】閏加村 江戸期~明治22年の村名。宍粟郡のうち。閏賀とも書いた。元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、元禄10年(1697)からは三日月藩領。村役人数一覧によれば明和7年(1770)当村には庄屋1・年寄1・百姓代1が存在していたことがわかる(一宮町史)。

 産土神は西安積の八幡神社であるが、当地内には農業神・商業神として信仰の厚い稲荷神社があり、川崎稲荷大明神、閏賀のお稲荷さんとして知られていた。揖保川を渡船に乗って参拝したのが有名で、閏賀の渡船の名が今も残る。西安積(普門寺)に奉斎されている免租訴願六人衆のうち四人までは当村の出身で、集落の西の山麓に供養墓碑が建立されている。明治22年神戸村の大字になる。

【近代】閏賀 明治22年~現在の大字名。はじめ神戸村、昭和31年からは一宮町の大字。明治41年南部の山地中腹に※(閏賀)銅鐸が発見された。






■杉田(すぎた)
引原川下流左岸。地名は、西方の上ノ山や北方の丘陵地の山麓地帯まで杉の林であったのを開拓して耕田としたことに由来すると伝える。

【近世】杉田村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、享保元年(1716)からは安志藩領。
 当村には安志藩杉田組8か村(須行名村・市場村・構村・東安積村・上野田組・能倉村・東河内村・杉田村)の大庄屋をつとめた下村家が存在した。
 大庄屋襖下張文書(上田家蔵)によると、当村に隠れ切支丹の百姓作兵衛が居住しており、出身は飾東郡山野井村(現姫路市)である。寛永16年(1639)以降姫路藩主松平忠明によって摘発され、姫路城下の牢舎につながれたが、摘発された当時すでに当村に定住していた。慶安2年(1649)当村の身元引受保証人による釈放請願運動が実り、同3年に許されて村預となり、西安積村にある天台宗普門寺の旦那として転宗している。
 産土神は西安積の八幡神社。明治22年神戸村の大字となる。

【近代】杉田 明治22年~現在の大字名。はじめ神戸村、昭和31年からは一宮町の大字。


今回の発見
◇閏賀の地名は、風土記にある雲箇里の遺称地であるということ。広い雲箇里の最南部にあたる。地名の由来は湿潤地によるとある。伊和大神の妻が美麗(うるわし)かったからとの逸話があるが、土地を人の顔に見立てたならば、しっとり肌の美人ということになりますか。
 一方、集落の西山麓の墓標が語る史実。免租訴願六人衆のうち四人までが閏賀出身。不作で村の窮状を訴えた直訴に、死の報いはなんともむごい。