11月11日(月)播州清水寺を訪れました。午前中は時折晴れ間も見られ、色づき始めた紅葉に映える古刹をゆっくり見て回りました。
播州清水寺と赤松一族
室町・南北朝期、播磨守護職の赤松円心とその息子等の活躍がありましたが、このお寺には、円心の4男氏範の墓が残されています。(第2駐車場入り口付近)
赤松円心の息子の氏範のみが南朝方に組みし、幕府方の細川頼元や山名氏の追討により、氏範の子息と一族郎党100名余りが、この寺で自害しました。そして氏範の甥の惣領家赤松義則によって厚く葬られました。
このことについて少し探ってみると、この義則の姉か妹が討伐軍の細川頼元の正室になっているので、細川頼元は正室の叔父を討ったことになります。
応安4年(1372)義則は、父則祐の死により家督を継いでいます。元中3年/至徳3年(1386)に叔父氏範は、討伐された。赤松惣領家と敵対した叔父であっても赤松一族であり、潔く散ったその死を憐れんで、義則は一族の惣領として手厚く弔ったのではないかと思われます。
災害を免れた清水寺の中世文書群
清水寺は中世の古文書を41巻608通もの文書群を残しています。大正2年(1913)に起きた清水寺の大火には、この文書群は東京大学史料編纂所が明治21年(1888)以降、資料調査のために借用していたため、この寺には文書はなくあやうく消失を免れたのです。さらに、大正12年(1923)の関東大震災には返却された後であったため、震災の被害をも逃れ貴重な資料が残されました。
「加東市ホームページより」
関連:歩いてゆく播州清水寺https://blog.goo.ne.jp/takenet5177/e/f5dc3d886c9ae05a3117776a828086ea