郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

秋の播州 清水寺を歩く

2019-11-11 19:53:07 | 日記
 11月11日(月)播州清水寺を訪れました。午前中は時折晴れ間も見られ、色づき始めた紅葉に映える古刹をゆっくり見て回りました。

















































播州清水寺と赤松一族                      

 室町・南北朝期、播磨守護職の赤松円心とその息子等の活躍がありましたが、このお寺には、円心の4男氏範の墓が残されています。(第2駐車場入り口付近)
  赤松円心の息子の氏範のみが南朝方に組みし、幕府方の細川頼元や山名氏の追討により、氏範の子息と一族郎党100名余りが、この寺で自害しました。そして氏範の甥の惣領家赤松義則によって厚く葬られました。




 このことについて少し探ってみると、この義則の姉か妹が討伐軍の細川頼元の正室になっているので、細川頼元は正室の叔父を討ったことになります。
 応安4年(1372)義則は、父則祐の死により家督を継いでいます。元中3年/至徳3年(1386)に叔父氏範は、討伐された。赤松惣領家と敵対した叔父であっても赤松一族であり、潔く散ったその死を憐れんで、義則は一族の惣領として手厚く弔ったのではないかと思われます。


災害を免れた清水寺の中世文書群 
                       
 清水寺は中世の古文書を41巻608通もの文書群を残しています。大正2年(1913)に起きた清水寺の大火には、この文書群は東京大学史料編纂所が明治21年(1888)以降、資料調査のために借用していたため、この寺には文書はなくあやうく消失を免れたのです。さらに、大正12年(1923)の関東大震災には返却された後であったため、震災の被害をも逃れ貴重な資料が残されました。
「加東市ホームページより」



関連:歩いてゆく播州清水寺https://blog.goo.ne.jp/takenet5177/e/f5dc3d886c9ae05a3117776a828086ea   

昭和の風景 「林業試験場」

2019-11-11 09:30:32 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
昭和の風景 「林業試験場」        山崎町鹿沢

                                                          閲覧数1,110件(2011.8.18~2019.10.31)


昭和40年(1965)頃の兵庫県立林業試験場

兵庫県立林業試験場(山崎町鹿沢) 現在は、五十波に移転

写真:「やまさき十周年記念号 1965」より

地名由来「上ノ・小茅野」

2019-11-11 09:16:33 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「上ノ・小茅野」 宍粟市山崎町

          
閲覧数1,823件(2010.1.17~2019.10.31)
 


山崎町蔦沢地区内

■上ノ村(かみのむら)

揖保川の支流伊沢川の上流域。伊沢川の中流以北の地域を都多谷と呼ぶが、中世の都多村でもあって、地形上からも一地域を形成している。地名はこの地域の最北部を占めることによる。

【近世】上ノ村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。江戸期は都多上ノ村・上野村とも書いた。慶長播磨国絵図(天理図書館蔵)では「阿波田村」とも見え、当村の別称とも思われる。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)からは山崎藩領、延宝7年(1679年)幕府領(姫路藩預り地、京都代官所支配、三日月藩預り地、大坂谷町・生野各代官所各支配)、明和6年(1769)摂津国尼崎藩領、のち再び幕府領(大坂谷町、生野、再び大坂谷町支配)。

当村の村役人は庄屋2人・年寄4人で上ノ上・上ノ下に分けて置かれた。地内の野々角山・岩神に鉄山があり、たたら製鉄を行った。当村内には鉄砲44挺があり、すべて狩猟用。また野々角山には木地師が居住し、椀・盆・杓子(しゃくし)などを作っていた。

神社は、岩神神社・須賀神社・熊野神社。岩神神社は高さ1丈余の巨石を神体とし、同岩より上の地域は古くから木を伐採しなかったので大木が多く、慶長年間(1596~1615)姫路城天守閣真柱に使用したという(播州宍粟郡誌)。また、山門入口の杉は双幹樹で夫婦杉ともいい、目通り8m・樹高45m余、樹齢400年という。

【近代】上ノ 明治22年~現在の村名。はじめ蔦沢村、昭和30年からは山崎町の大字。明治32年諸入費割当て、共有山林売払代金賦課法、共有山の栗・椴などの製材制限、賭博禁止などの事項を定めた村内決定書を作成。昭和10年村内規定と上ノ上財産区区制を制定。同23年野々隅(野々角)に開拓団入植。同52年アマゴ養殖場完成。同59年岩上~岩野辺線改修を実施。





■小茅野(こがいの)

「こがやの」とも称した。千種川の支流志文(しぶみ)川の上流域。東は上ノ村。慶長国絵図に「小苅野」がみえ、当村をさすと思われる。

【近世】小茅野村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)からは山崎藩領、延宝7年(1679年)幕府領(京都代官所支配、姫路藩・三日月藩預り地、大坂・生野・倉敷各代官所支配)、天保年間上野国館林藩領、のち再び幕府領。元禄6年(1693)の宍粟郡村々反別郡玉帳(田路家文書)には獣威用の鉄砲13挺を所持していたとあり、山崎町でも最奥部にあたることから「道法、当村より出石川船場迄四里四町」と記される。

神社は位尾神社。同社境内の梵鐘は寛政9年(1797)金屋村長谷川孫兵衛・藤原吉則の手によるとの銘がある。当村にたたら製鉄所が残り、播磨地誌略全では「小茅野ニ鉄山アリ」と記し附図にも載せている。明治22年蔦沢村の大字になる。

【近代】小茅野 明治22年~現在の大字名。はじめ蔦沢村、昭和30年からは山崎町の大字。昭和42年小茅野道路の修理および拡幅が完成。昭和52年から児童は千種町の千種東小学校・千種中学校へ通学するようになった。近年素麺工場設置。平成4年山崎アウトドアランドオープン



◇今回の発見:上ノ・小茅野とも、たたら製鉄の跡が残る。上ノ下の野々角には木地師が居住していたこと。山崎町城下地区の金屋村(現金谷)の長谷川氏鋳造による梵鐘が地域の寺社に現存していることがわかった。


地名由来 「中野」

2019-11-11 09:09:19 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来  「中野」    宍粟市山崎町


                                                             閲覧数1,533件(2010.1.19~2019.10.31)



山崎町蔦沢地区内

■中野(なかの)

揖保川の支流伊沢川の中流域。地名は、伊沢川中流以北の都多谷(都多保)と称する地域の中央部に位置することによる。

【近世】中野村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。江戸期「都多中ノ村」とも書いた。慶長播磨国絵図(天理図書館蔵)では、「末友」と見える。当村内に「実友株」と呼ぶ地があり当村の別称と思われる。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)からは山崎藩領、延宝7年(1679年)からは幕府領(林田藩・姫路藩預り地、京都代官所支配、三日月藩預り地、大坂・生野・倉敷各代官所支配)。地内の隣保名の一つに紙屋が現存し、紙漉きが行われていた名残と思われる。紙漉き業3軒。

元禄6年(1693)の宍粟郡村々反別郡玉帳(田路家文書)に鉄砲が10挺(8挺が猟銃用。2挺は獣威し用)とある。当村内には正徳元年(1711)と明和7年(1770)の高札が残っている。正徳元年の高札は防火防止や火事場窃盗禁止、などの高札と、明和7年(1770)の百姓騒擾禁止の高札(ともに田中家蔵)が残る。

神社は、桓武伊和神社(伊和大名神)。同社境内の小堂に大日如来・広目天・持国天の三体の木像があり、今は朽ち果てているが、平安時代の作ともいわれている。同社の鐘楼にある梵鐘は宝暦11年(1761)に金屋村の長谷川孫兵衛藤原吉正と長谷川五郎五郎兵衛藤原家次が鋳造したもので、鐘名には桓武天皇がこの地で死去したため3カ村(上ノ村・中野村・下野村)の氏神として奉斎したとある。神社裏山(宮山)は天皇の墳墓であるといわれ、天皇に従ってきた臣下の者がこの地に住んで、中務・中司・大友・宇田などの姓を称するようになったと伝える。


 



寺院は、天文10年(1541)開基と伝える真言宗見照山徳王寺、同12年兆円開基とも正保4年(1647)静空策円開基とも伝える浄土宗西山派願立山極楽寺(山崎町史)。浄土宗寺院とされる光明庵派当地では庵寺と称され、安政2年(1855)の梵鐘銘に光明庵とみえる。

明治6年極楽寺に都多学校開校。同9年桓武伊和神社へ移転。同15年伊水小学校分校となり、同19年都多簡易小学校となる。同22年蔦沢村の大字となる。

【近代】中野 明治22年~現在の大字名。はじめ蔦沢村、昭和30年からは山崎町の大字。


◇今回の発見:桓武伊和神社の伝説は、興味深い。この神社の平安期と思われる三体の木像といい、桓武天皇がこの地で没し、裏山の墳墓が天皇の墓であるという。さらに臣下の姓名の名残などの伝承が残る。 ※マップは、桓武伊和神社