郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

昭和の風景「今宿周辺」

2019-11-07 10:01:44 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
昭和の風景「今宿周辺」  
 

                 閲覧数件1,737(2011.8.2~2019.10.31)


昭和38年今宿福井タバコ店付近 

国道29号線の工事が始まる前の風景です。


げたさんのコメント
 こんな写真が残っていたとは知りませんでした。本当に懐かしく見させていただきました。この写真は昨日の写真の真反対から撮られたものでアイスキャンディを売っておられた福井の一軒やが写っております。丁度このお家が29号線の真ん中になり立ち退きをされました。
 お地蔵さんの横の竹薮が写っていますが、夜、山映館に行くのにこの下の里道を通っておりましたが子供心に何か出そうで怖くて目をつぶってお地蔵さんのところまで走ったことを思い出しました。
タイヤのチューブは懐かしいですね。


昭和59年(1984)のさつきマンション付近


昭和の風景「今宿」

2019-11-07 09:51:10 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
昭和の風景「今宿」  宍粟市山崎町

                 閲覧数1,646件(2011.8.1~2019.10.31)

昭和30年の今宿

 
 さつきマンション前の道を東に進み、信号を渡った場所から東を写す。田んぼには家やマンションが建ち見通しが悪いが、山の稜線のみが昔と変わらない。

「写真で見る郷土史やまさき」より


 


昭和の風景「今宿周辺」

2019-11-07 09:38:25 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
昭和の風景「今宿周辺」  宍粟市山崎町


               閲覧数1,688件(2011.8.2~2019.10.31)



昭和38年当時の「今宿」 揖保川十二ン波での水浴びの帰り道



当時の浮き輪は、タイヤのチューブを代用していた。水遊びの大事なツールでした。
水中眼鏡は、丸い透明ガラスをはめ込んだものをよく使っていました。



当時の揖保川十二ン波の水浴び


地名由来「三谷・中」

2019-11-07 09:28:11 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「三谷・中」  宍粟市山崎町

                閲覧数1,273件(2010.1.4~2019.10.31)


山崎町河東地区内

■三谷(みたに)

揖保川支流三谷川の上流域。地名は、三谷川がさらに3つの支流(谷)に分かれていることに由来する。

【近世】三谷村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)からは幕府領。村内の志ゆうせん川原で川砂鉄を採取し、揖保川対岸の三津村で蹈鞴(たたら)製鉄を行った。(山崎町史)。神社は岡神社・中山神社(牛頭天王社)中山神社は当村・神谷・中・高所4か村の氏神。随身門・獅子舞台がある。明治22年河東村の大字となる。良米、大豆、栗及び薬草の産地であった。『宍粟郡誌』

【近代】三谷 明治22年~現在の大字名。はじめ河東村、昭和30年からは山崎町の大字。昭和36年簡易水道完成。同47年中山西麓に町営・県営の住宅団地が造成され、同55年河東幼稚園が神谷から同団地内に移転。



■中(なか)
揖保川の支流三谷川の下流域。地名の由来は、かつて河東と呼称された地域の中央にあたることによる。集落の北部には条里制遺構があったが、圃場整備により消滅。

【近世】中村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。当村の特産物に良質の木綿・竹がある(郷中古事録)。寺院は、真言宗梅正寺(現廃寺)・臨済宗桂林庵。幕末には寺子屋が開かれ、衣笠平左衛門が指導。明治5年桂林小学校開校。明治22年河東村の大字となる。

【近代】中 明治22年~現在の大字名。はじめ河東村、昭和30年からは山崎町の大字。明治22年河東村役場が、明治19年に新設された村道(のちに郡道、県道に昇格)に西面して設置されたが、昭和30年中公民館となり、さらに近年洋風に再建された。明治28年頃旧山崎藩士永瀬保冶が当地に来在し、家塾を開いて村内の子弟教育にあたった。また地内には駐在所なども置かれて地域の中心となっていたため道沿いに民家や日用品雑貨・食料品などの小売店、電機関係の下請け工場などが立ち並んだ。昭和45年以来の宅地ブームで県道田井中広瀬線沿いに住宅地が建設された。昭和58年、圃場整備完了。

地名由来「須賀沢・高所」

2019-11-07 09:21:28 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「須賀沢・高所」  宍粟市山崎町

                閲覧数3,777件(2009.12.28~2019.10.31)



■須加村(すかむら)

【近世】江戸期~明治12年の村名。播磨国宍粟郡のうち。揖保川支流大谷川流域。地名は、「風土記」に安師里(あなしのさと)の条に同里のもとの名は酒加里で、その名はこの地で伊和の大神が飡(すか)した(スクは食すの意の敬語)事に由来するとある。そのため当村は酒加里の遺称地とされる。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領、さらに林田藩・姫路藩預かり他、幕府領、三日月藩預かり地を経て、天保年間(1830~1844年)上野国館林藩領。神社は、愛宕神社・牛頭天王社(現石作神社)・※觱篥(ひちりき)神社。觱篥神社は延久元年(1069年)後三条院によって勧請されたという。
 寺院は、浄土真宗本願寺派無量山願寿寺。同寺は、天文17年(1548年)(一説に天文7年)八井藤左衛門(慶乗)が蓮如の弟子となり開基したと伝える。のち明治11年焼失、再建(宍粟郡誌)。当村は、藩主の参勤交代路にあたり慶長播磨国絵図(天理図書館蔵)では須賀町と記されている町場であった。当村内を流れる大谷川の上流には銅山があり、享保元年(1716年)大阪南谷町越前屋理兵衛の手で採鉱された。また門前鳩屋は高瀬舟を運航するほかに鉄山経営も行っていた。延宝7年(1679年)幕府領以後代官所が置かれ小針・杉尾の両氏が手代・山方役所役人として常勤した。明治12年須賀沢村の一部になる。

■須賀沢(すかざわ)
「すか」とも称する。揖保川中流左岸に位置する。

【近代】須賀沢村 明治12年~22年の村名。宍粟郡のうち。須賀村と※蟹沢村が合併して成立。願寿寺に寺子屋があり、内海太郎大夫・内海三吾・進藤兵右衛門らが教育に従事した。明治13年博文小学校分校設置。

【近代】須賀沢 明治22年~現在の大字名。はじめ河東村、昭和30年からは山崎町の大字。大正9年河東信用組合の事務所を出石に設置。昭和40年国道29号の拡幅工事完了。同50年中国自動車道が開通し、立退民家は北側の山すそに集団移転。

※蟹沢村(かにがさわむら):〔近世〕江戸期~明治12年の村名。江戸期は蟹ケ沢とも書いた。揖保川の支流大谷川の上流域。安富町との境安志峠(須賀峠)の鞍部近くに位置する。銅山があった。



■高所(こうぞ)

揖保川中流左岸、播但中央山地の南部。地名の由来は、やや高めの山すそに位置することによる。
【近世】高所村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。当村の特産物として、木綿・松茸・鮎。地内塩瀬には※簗場(やなば)があった。『播州宍粟郡誌』。
当村に元山崎藩同心平山弁蔵が住み、文久年間(1861~1864年)に騒動を起こしたと伝える。(郷土研究会報)。
 神社は、春日神社。同社には獅子舞が伝わる。明治22年河東村の大字になる。
※簗場:川の中に足場を組み、木や竹ですのこ状の台を作った梁(やな)を設置し、上流から泳いできた魚を獲る。

【近代】高所 明治22年~現在の大字名。はじめ河東村、昭和30年からは山崎町の大字。米・麦を中心とした農業を営んでいたが、戦後造園・製材・自動車整備・金属加工などに進出。昭和49年河東大橋が新設され、県道田井中広瀬線とT字形交差する道路が開通した。


◇今回の発見:千種村と同様、須賀村の領主の変遷が多い。いずれも鉱山があることにも起因しているのか。