地名由来「福知・福中」 宍粟市一宮町
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下三方村内
■福知(ふくち)
福知川流域、同川が揖保川に流入する。地名は、開発した地域の発展を祝福する意味を込めて名付けられた。
【近世】福知村 江戸期~明治22年の村名。慶長国絵図に「ふつち」とみえ、正保郷帳には福地と見える。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。当村の村役人は、延宝7年(1679年)庄屋1・年寄2・百姓代2(一宮町史)。当村は寛政6年生野代官所の支配下となるが、すでに古くから生野に通じる街道があり、播磨国東西の交通要路であった。文久3年(1863)の生野の変では、総帥沢主水正(宣嘉)の一行がこの道を落ち延び、途中当村内白口(しらくち)の村上家で食事の接待を受け、確執もあったが無事村内を通過している。
当村は寛文年間(1661~73)和紙(福知紙)が近隣でも有名。ほかに、綿・麻の栽培や木炭の生産もさかんであった。「近世千草鉄山資料」に福知運上山の雑木・栗の本数15万ほどとあり、炭焼には恵まれた資源をもっていた。
産土神は速玉(はやたま)神社。祭礼では宮相撲が盛大に行われる。浄土真宗本願寺派明願寺は天正2年(1574年)の建立、開基は道明。臨済宗妙心寺派大徳寺は、元亀年間(1570~73)の開創と伝えられ、開山は楊岸、開基は千葉若若狭守という。高取(たかとり)城跡があり、文明元年(1469)の築城と伝える。同城は天正8年(1580)に長水城(現山崎町)とともに落城したという。享和2年(1802)旧城主田路若狭守の墓碑が大徳寺に建立された。
【近代】福知 明治22年~現在の大字名。はじめ下三方村、昭和31年からは一宮町の大字。抜山地帯に昭和51年起こった抜山崩れは、基岩崩壊というまれに見る大規模な山崩れであった。流出土量100万㎡、被災面積は南北600m、20万600㎡、犠牲者3、住家被害52世帯、下三方小学校をはじめ公共施設・工場・店舗など多数に及び、この地域の中枢地域はほとんど壊滅する大災害を被った。
■福中(ふくなか)
揖保川と草木川の合流点。草木川の下流部は横住(よこずみ)川とも称される。地名は、福知と福野(三方村)の中間に位置することによる。
【近世】福中村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。当村ははじめ、福地村の庄屋が村役人を兼務していたと思われるが、明和5年には庄屋1・年寄1・百姓代1が置かれている。(同前)。生野の変では、逃走した前木鈷次郎の一行5人が草木村から横住谷を経て当村の繁昌岩に着き食事を求めたが断られた。再度村外れの農家で食物を頼んだが与えられず、生干柿一連をもらい受けて福知村方面に落ち延びていった。
産土神は、荒神社。寺院は、延宝元年正玄開基と伝える浄土宗繁昌山安楽寺。明治22年下三方村の大字となる。
【近代】福中 明治22年~現在の大字名。はじめ下三方村、昭和31年からは一宮町の大字。
◇今回の発見
・両村には、生野事変での逃走者の一行の足跡が残っている。
・福知で昭和51年の抜山(ぬけやま)崩れによる大災害があった。すでに40年以上経つが、記憶は消えない。不運にも昨年(2008)県下有数の景勝地である福知渓谷が未曾有の水害に見舞われ、大打撃を被った。早期の復興を望むばかりである。
・福知の小字に「抜山」がある。歴史は、小字に刻まれていた。(最初に抜山の崩落があったのは300年前のことであるという)