郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「福知・福中」

2019-11-22 18:30:52 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「福知・福中」 宍粟市一宮町

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下三方村内

■福知(ふくち)
福知川流域、同川が揖保川に流入する。地名は、開発した地域の発展を祝福する意味を込めて名付けられた。

【近世】福知村 江戸期~明治22年の村名。慶長国絵図に「ふつち」とみえ、正保郷帳には福地と見える。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。当村の村役人は、延宝7年(1679年)庄屋1・年寄2・百姓代2(一宮町史)。当村は寛政6年生野代官所の支配下となるが、すでに古くから生野に通じる街道があり、播磨国東西の交通要路であった。文久3年(1863)の生野の変では、総帥沢主水正(宣嘉)の一行がこの道を落ち延び、途中当村内白口(しらくち)の村上家で食事の接待を受け、確執もあったが無事村内を通過している。
当村は寛文年間(1661~73)和紙(福知紙)が近隣でも有名。ほかに、綿・麻の栽培や木炭の生産もさかんであった。「近世千草鉄山資料」に福知運上山の雑木・栗の本数15万ほどとあり、炭焼には恵まれた資源をもっていた。
 産土神は速玉(はやたま)神社。祭礼では宮相撲が盛大に行われる。浄土真宗本願寺派明願寺は天正2年(1574年)の建立、開基は道明。臨済宗妙心寺派大徳寺は、元亀年間(1570~73)の開創と伝えられ、開山は楊岸、開基は千葉若若狭守という。高取(たかとり)城跡があり、文明元年(1469)の築城と伝える。同城は天正8年(1580)に長水城(現山崎町)とともに落城したという。享和2年(1802)旧城主田路若狭守の墓碑が大徳寺に建立された。

【近代】福知 明治22年~現在の大字名。はじめ下三方村、昭和31年からは一宮町の大字。抜山地帯に昭和51年起こった抜山崩れは、基岩崩壊というまれに見る大規模な山崩れであった。流出土量100万㎡、被災面積は南北600m、20万600㎡、犠牲者3、住家被害52世帯、下三方小学校をはじめ公共施設・工場・店舗など多数に及び、この地域の中枢地域はほとんど壊滅する大災害を被った。




■福中(ふくなか)
揖保川と草木川の合流点。草木川の下流部は横住(よこずみ)川とも称される。地名は、福知と福野(三方村)の中間に位置することによる。

【近世】福中村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。当村ははじめ、福地村の庄屋が村役人を兼務していたと思われるが、明和5年には庄屋1・年寄1・百姓代1が置かれている。(同前)。生野の変では、逃走した前木鈷次郎の一行5人が草木村から横住谷を経て当村の繁昌岩に着き食事を求めたが断られた。再度村外れの農家で食物を頼んだが与えられず、生干柿一連をもらい受けて福知村方面に落ち延びていった。
 産土神は、荒神社。寺院は、延宝元年正玄開基と伝える浄土宗繁昌山安楽寺。明治22年下三方村の大字となる。

【近代】福中 明治22年~現在の大字名。はじめ下三方村、昭和31年からは一宮町の大字。



◇今回の発見
・両村には、生野事変での逃走者の一行の足跡が残っている。
・福知で昭和51年の抜山(ぬけやま)崩れによる大災害があった。すでに40年以上経つが、記憶は消えない。不運にも昨年(2008)県下有数の景勝地である福知渓谷が未曾有の水害に見舞われ、大打撃を被った。早期の復興を望むばかりである。
・福知の小字に「抜山」がある。歴史は、小字に刻まれていた。(最初に抜山の崩落があったのは300年前のことであるという)




地名由来 「三方・下三方・繁盛」

2019-11-22 18:18:08 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来 「三方・下三方・繁盛」        宍粟市一宮町

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三方(みかた)村、下三方(しもみかた)村、繁盛(はんせ)村



■三方:揖保川の支流三方川に公文川が合流する地点に形成された三方盆地に位置する。
【古代】三方郷 奈良期~平安期に見える郷名。「和名抄」播磨国宍粟郡八郡の一つ。

「風土記」に宍禾(しさわ)郡七里の一つとして、御方里(みかたのさと)とあり、次のような逸話がある。
伊和大神(いわのおおかみ)と天日槍命(あまのひぼこのみこと)の二神は争って、最後は高峰山(黒土志尓嵩 くろつちのしにたけ)についた。そして、争いに決着をつけるため、それぞれの黒葛(つづら)三条を足につけ投げた。伊和大神の黒葛の一条は、但馬の気多の郡(けたのこおり)に落ち、一条は(但馬の)夜夫の郡(やぶのこおり)、残りの1条がこの村に落ちた。ゆえに、この村を三条(みかた)という。ところが、天日槍命の黒葛はみな但馬に落ちた。だから天日槍命は、但馬へ去り但馬の伊都志(いずし)の地を占めた。こうして二神の争いは占いによってかたがついた。
しかし、ある人は「伊和大神の形見の御杖(みつえ)がこの村にあるから、御形(御方)と言う」とも言っている。

【中世】三方荘 鎌倉期~室町期に見える荘園名。宍粟郡の内。三方東荘ともいう。風土記の御方里、和名抄の三方郷と同じ地域であろう。
【近世】三方町 江戸期~明治22年の町名。宍粟郡のうち。三方町村・味方町・三方村・味方村とも称した。はじめ山崎藩領、延宝7年からは幕府領。当町は、南北に走る但馬街道と東西の朝来(朝来町、大原(岡山県大原町)に抜ける街道の接続地であり、三方道谷街道の分岐点ともなった。特産物として、「御方の半紙」と呼ばれる和紙がある。
【近代】三方村 明治22年~昭和31年の宍粟郡の自治体名。福野(ふくの)村、河原田(かわはらだ)村、三方町(みかたまち)、公文(くもん)村、森添(もりそえ)村が合併して成立。旧町村名を継承した5大字を編成。
【近代】三方町 明治22年~現在の大字名。はじめ三方村、昭和31年からは一宮町の大字。



■下三方村
【近代】明治22年~昭和31年の宍粟郡の自治体名。生栖(いぎす)、深河谷(ふかだに)、西深(にしぶか)、福知(ふくち)、福中(ふくなか)の5か村が合併して成立。旧村名を継承した5大字を編成。
 明治39年宍粟郡で最初の※信用組合が設立された。これと前後して、報徳社・農民共同救護社が結成され、村の産業経済の基礎固めに貢献した。




■繁盛村
【近代】明治22年~昭和31年の宍粟郡の自治体名。百千家満(おちやま)、上岸田(かみきしだ)、草木(くさぎ)、千町(せんちょう)、黒原(くろはら)、井内(いうち)、横山(よこやま)、倉床(くらとこ)の8か村が合併して成立。旧村名を継承した8大字を編成。
地名の由来は、半瀬谷の名をもじって繁盛村としたようである。(一宮町史)
 大正2年宍粟郡で最初の草木発電所を設置。同3年から金平鉱業大身谷鉱業所により倉床・富士野の鉱山で鉱石採掘が始まった。




養蚕物語1  「養蚕の指導・普及」

2019-11-22 09:38:36 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
「養蚕物語1」 

【閲覧数】1,084件2009年12⽉09⽇ ~2019.10.31)


宍粟郡(宍粟市)は林業とともに養蚕も盛んであった。


1.繭づくり(⼿動回転式) ⼭崎町⼟万(ひじま)村





2.昭和初期 ⼭崎町菅野尋常⾼等⼩学校講堂で 養蚕の指導をうける児童 




3.昭和10年頃 ⼀宮での養蚕実習 ⼤きな蛇の⽬かごで摘んだ桑の葉を⾷べさせた。


※養蚕の技術指導が⼩学⽣まで及んでいた。
「写真で⾒る郷⼟史やまさき」他より

農業物語3 「昭和の稲の収穫 脱穀とはぜ掛け」

2019-11-22 09:28:15 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
農業物語3 「昭和の稲の収穫 脱穀とはぜ掛け」

【閲覧数】851件2009年12月08日~2019.10.31


束にされた稲は、「稲架(はさ)」や「稲木(いなき)」に掛けて乾燥させた。




脱穀作業には、人力で動かす脱穀機が用いられた。脱穀した籾は2人で扱う「篩(ふるい)」にかけられ、藁(わら)ゴミを取り除かれた後、「唐箕(とうみ)」にかけて、選別し、乾燥、土臼で籾摺り・・・(と工程を経て)藁で編んだ米俵に詰められ保存された。
(宍粟のあゆみ生活編より)

 
 当時の農作業(田植え、稲刈り、土作り、肥料作り、牛の世話等の一連の年間作業)は、農家共同の重労働だっただろうが、今では望めないおいしい米が採れていたに違いない。