郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「鹿沢・山崎郭内」

2019-11-03 09:03:16 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「鹿沢・山崎郭内(家中)」  宍粟市山崎町鹿沢

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「鹿沢」とその前身「山崎郭内)」

■鹿沢(しかさわ)
 「しかざわ」とも称する。揖保川中流右岸(西)、篠の丸山南麓。地名の由来は、宍粟郡の古名のシシサワによると思われる。天文年間(1532~55年)に一時この地を支配した尼子氏が砦を築いたところで、元和元年(1615年)以降廃藩まで藩邸(陣屋)が置かれ、山崎藩の支配の中心となった。陣屋の東・北・西方には武家屋敷が配され、外堀によって町場と区分されていた。旧陣屋の紙屋門が山崎小学校の校舎西方に、また戦国末期以来の若干の石垣が段丘付近に残っており、近年一帯の公園化が進められつつある。


【近代】鹿沢町
 明治8年~22年の町名。宍粟郡のうち。もとは山崎郭内(※次に説明)。もと藩邸や武家屋敷であったため、商業や工業などの産業は不活発。明治5年に旧藩校の思斉館を再開、翌6年思斉校とし、同9年に近隣の諸校と合同して篠陽小学校となった。同校の校区は鹿沢町・山崎町・山田村ほか13村。同22年山崎町の大字となる。


【近代】鹿沢
 明治22年~現在の山崎町の大字名。同27年宍粟郡役所が山崎字本町から地内東桜之町に移転。同33年篠陽小学校を山崎尋常高等小学校と改称。同40年町立技芸専修女学校開設、大正2年郡立実科女学校、同12年県立山崎高等女学校、昭和23年県立山崎高校となり、同29年に加生に移転。昭和初年西鹿沢に闇齋神社建立。同34年山崎字本町から山崎町役場が新築移転。同35年下村記念館落成。同59年山崎西中学校新設。内堀・外堀は埋められて道路などになり、公共施設の多い文教地区に変貌した。
 現在は、東鹿沢、中鹿沢、本鹿沢、西鹿沢 4つの自治会に分かれている。


■山崎郭内(やまさきかくない)
【近世】江戸期~明治8年の地名。「かちゅう(家中)」とも称した。元和元年(1615年)藩主池田輝澄が尼子氏の砦付近に藩邸を設置。内堀の外側、北・東・西に武家屋敷を設置、さらにその外側に外堀を設けて郭内と町場の境界とした。後年藩の規模が縮小し、町場の外周に置かれた歩行足軽・長柄組などの屋敷は減少したが、郭内の基本的な形態に大きな変化はなかった。天保12年(1841年)郭内は周囲24町15間であった。(天保山崎藩の図)大手はもと南方にあったが、藩縮小とともに北側中央に変更になり、外堀・中門を経て町場に通じた。このほか東に熊鷹(角鷹)御門、西に土橋御門があり、ともに町場に通じた。また、南西には鶴木御門、南東には新御門があり、村方へ通じていた。藩邸(陣屋)は郭内中央南部に位置し、同所と外堀の間を走る通りを中心にした桜之町・東桜町周辺には藩の重臣たちの広い屋敷が置かれた。天保山崎藩の図によれば、郭内西端の段丘崖下には桜の馬場、土橋御門から鶴木御門に至る中之町の南部に矢場、西部の松原町中央西端には鉄砲場・演武場があった。明治8年鹿沢町と改称。

◇今回の発見と願い
・各種学校の沿革がわかった。
・山崎陣屋を描いた図10枚(山崎藩士遠藤源助画、山崎本多記念館蔵)が残されている。これを基に立体模型ができないものかと常々思っている。昭和にはあった堀跡や隅櫓が埋められ、取り壊されたことが、残念に思います。






山崎郭内の地名



▼山崎藩士遠藤源助画の一部
 




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