郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「西谷・奥谷」 

2019-11-28 17:44:45 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「西谷・奥谷」  宍粟市波賀町

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■西谷村(にしだにむら)

【近代】 明治22年~昭和31年の宍粟郡の自治体名。日見谷(ひみたに)、谷(たに)、小野(おの)、今市(いまいち)、安賀(やすが)、斉木(さいき)、有賀(ありが)、上野(うえの)、皆木(みなき)の9か村が合併して成立。旧村名を継承した9大字を編成。昭和31年波賀町の一部となり、9大字は波賀町の大字に継承。

揖保川支流引原川下流域。地名由来は、鎌倉期以降の荘園に三方西荘があり、三方から見て西にある谷「西の谷」から「西谷」と名付けられたと思われる。また、※「延喜式」神名帳に郡内の式内社が7社あるがその1社が当村の皆木にあって邇志(にし)神社と呼ばれ、その神社名の名をとって西谷村になったものと思われる。

※延喜式:平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。延喜式神名帳に記載のある神社を一般に式内社と言って社格の一つとされ、当時朝廷から重要視された神社であることを示している。神名帳は神社の一覧表。





■奥谷村(おくだにむら)

【近代】 明治22年~昭和31年の宍粟郡の自治体名。飯見(いいみ)、野尻(のじり)、原(はら)、引原(ひきはら)、鹿伏(しかぶし)、戸倉(とぐら)、道谷(どうだに)の7か村と音水鉄山が合併して成立。8大字を編成。揖保川支流引原川中・上流域。
飯見、野尻、原有賀(はらありが)、原、日ノ原(ひのはら)、音水、引原、鹿伏、道谷、戸倉の10集落に分かれる。大正6年音水鉄山が音水と改称。昭和17年日の原が起立。昭和31年波賀町の一部になり、9大字は波賀町の大字に継承。地名は南部の西谷村の北方(奥)に位置する渓谷の村であることによる。




◇今回の発見:波賀町皆木の邇志神社、漢字で書くと難しいが、読みはにしじんじゃ、鎌倉期以降「三方西荘」と呼ばれたこの地名と関係あることがわかった。


地名由来「井内・横山・倉床」

2019-11-28 17:31:16 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「井内・横山・倉床」   宍粟市一宮町


【閲覧数】4,531件(82010.2.16~2019.10.31)


繁盛地区内

■井内(いうち)
揖保川の支流黒原川中流域。地名は、大きな井堰水路が造営されたことによる。

【近世】井内村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。慶長国絵図には井ノ内」とみえる。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。
 「近世千草鉄山資料」に運上山鉄山のとどろき山がみえ、雑木林6千本ほどとある。文政8年(1825)の三方騒動当村からの参加者があったが、捕縛者なし(一宮町史)。
 産土神は諸井神社。黒原川の河岸に地上2m・地下2mの長方家の大石が垂直に立ち、立石と称されている。伝承によると弘法大師と天邪鬼が力競べをした際、天邪鬼が投げた大石が大地に突き刺さったものという。

【近代】井内 明治22年から現在の大字名。はじめ繁盛村、昭和31年からは一宮町の大字。

■横山(よこやま)
揖保川上流域。地名は、揖保川に沿って南北に走る連山が帯のように横たわる景観による。同川沿いに但馬国への道が通る。

【中世】横山村 室町期にみえる村名。播磨国宍粟郡三方東のうち。中世は三方東庄(三方庄)に含まれていた。

【近世】横山村 江戸期~明治22年の村名。宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。現尼崎市長遠(じょうおん)寺所蔵の三重塔※鰐口(わにぐち)の銘に嘉吉元年(1441)6月吉日の年期とともに、「播州三方東横山村観音寺鰐口」とある。観音寺は現存しないが、現在の横山に寺屋敷と俗称される区域があり、観音寺跡の可能性がある。※鰐口:寺社の堂前につるし、参拝者が引綱を振り打ち鳴らし祈念する金鼓(写真)



「近世千草鉄山資料」に運上山として東山・西山・三谷山があり、雑木は二万二千本と記されている。
 産土神の横山神社の祭礼は9月17日。この日奉納される「※チャンチャコ踊は伝統の民俗芸能として知られ、災害防除、氏子の安泰、五穀豊穣を祈って四~五時間踊り続ける。別名神子(かんこ)踊ともいう。伝説では、村に疫病が流行した時、代表が伊勢神宮に参拝してこの踊りを持ち帰り、その後村は繁栄したという。明治22年繁盛村の大字となる。




【近代】横山 明治22年~現在の大字名。はじめ繁盛村、昭和31年からは一宮町の大字。





■倉床(くらとこ)
揖保川上流域。地名は、奥まった川沿いの山谷にあって、地形的には山の尾根が中くぼみである鞍部(あんぶ)であることによる。

【近世】倉床村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。
 当村には鉱山が多く、赤金鉱山は古くから銅を産出し、富土野鉱山は江戸初期から銀・銅の採鉱が行われ、慶長(1596~1615)頃がとくに盛んであったという。「播州宍粟郡守令交代記」に「其頃御方谷富士野銀山さがり荷物の運搬繁く」と記され、当時の盛況をしのばせる。銀のほかに銅も産出していた。幕府の期待は大であったが、寛永期(1624~44)以後は漸次衰退した(一宮町史)。現在も当時の鉱山跡が各所に残る。
 寛文期(1661~73)に山崎藩主池田恒元が百姓惣兵衛に孝行の褒美として麦30俵を与えた(倉床区有文書)。
 産土神は神明社。祭礼では獅子舞が行われる。明治22年繁盛村の大字となる。


【近代】倉床 明治22年~現在の大字名。はじめ繁盛村、昭和31年からは一宮町の大字。



◇今回の発見
倉床の床(とこ)はまさに、中世からの鉱(かね)の床でもあった。価値の高い銀の産出については、宍粟藩成立のころがピークで財政に潤いを与え、城下町づくりに勢いをもたらしたに違いないが、その後幕府領になったころには産出はなかったようである。