郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「木谷・市場」と「奥小屋」

2019-11-13 19:01:22 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「木谷・市場」と「奥小屋」       宍粟市山崎町 


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山崎町菅野地区内

■木谷(きだに)

揖保川の支流菅野川の中流域に位置する。

【近世】木谷村 江戸期~明治22年の村名。宍粟郡のうち。元高下村の一部、同村から市場村と当村が分村して成立。慶長改メの奥村のある石高帳に当村は一村として書きあげられているが、「正保郷帳」では市場村とともに高下村と含まれ、「正保郷帳」では「古ハ高下村」と肩書されている。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領。

神社は、建速(たてはや)神社。寺院は、浄土真宗本願寺派教専寺。同寺の開祖は大永2年(1522)とも慶長8年(1613)とも伝えられる。

【近代】木谷 明治22年~現在の大字。はじめ菅野村、昭和29年からは山崎町の大字。近世以来山崎藩の城下町と菅野川・千種川上流域の村々を結ぶ交通路にあたっていたが、近年主要県道 山崎南光線が整備されている。昭和50年中国自動車道開通。



■市場(いちば)

高下市場ともいう。揖保川の支流菅野川の中流域。中世は柏野庄に含まれていたとみられる。※「峯相記」に載る顕宗・仁賢天皇の流離譚(はなし)について、「当国宍粟郡ニ逃隠給ヘリ、御所は当時ノコウ野市庭、郡司ハ誰哉、菅野・高家辺に有り」とあり、コウ野市の野をケと読ませたものと思われる。「建内記」嘉吉元年(1441)10月28日条によれば、嘉吉の乱前後の柏野庄内には守護代の居館や道場が設けられ、宍粟郡の主邑となっていたことがうかがわれる。ここに集住する人々や播磨内陸部を走る道の旅客を当込んで市が設けられたのであろう。

【近世】市場村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。もと高下村の一部、同村から当村と木谷村が分村して成立。江戸初期当村は一村として書き上げられていたが、「正保郷帳」では木谷村とともに高下村に含まれ、延宝7年(1679年)の郷村相渡し状でも3か村が列記され石高は一括されている。しかし、宝永5年(1708)の「播州宍粟郡誌」では市場村と書かれ、寛延・宝暦年間(1624~1764)には庄屋が置かれている(郷中古事録)。分村年代は元禄年間(1688~1704)と思われるが不詳。なお、江戸期は高下市場村と称した。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)からは山崎藩領。

享保年間(1716~1736)当村は高下村とともに三日月藩領奥小屋村(現新宮町)を相手に西山の入会権をめぐって山論を起こした。このときに西山の神保(じんぼ)(現同上)に帰農していた時朝五郎左衛門が幕府へ直訴し、これにより永代請所の権利が高下・市場両村に保証された。しかし、享保5年(1720)に五郎左衛門は直訴の罪で処刑された(以上、高下区有文書)。同人の墓は地内に残る。
神社は、長尾神社。明治22年菅野村の大字となる。

【近代】市場 明治22年~現在の大字。はじめ菅野村、昭和29年からは山崎町の大字。昭和51年度には水田化がほぼ完成したが、戦後次第に養蚕業が衰え、製材工場などが若干立地するものの、産業全体としては低調である。



□ 奥小屋村 揖保川水系栗栖川現流域北方に位置する。

【近世】江戸期~明治22年の村名。播州国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、元和元年(1615年)からは山崎藩領、延宝7年(1679年)幕府領、元禄10年(1697)からは三日月藩領。享保年間(1716~1736)に地内西山の帰属をめぐって当村と山崎藩領市場村・高下村との間に山論があった。

【近代】奥小屋 明治22年~現在の大字。はじめ菅野村、昭和14年西栗栖村、昭和26年からは新宮町の大字。

◇今回の発見:新宮町の奥小屋は昭和26年までは宍粟郡であったこと。高下・市場の西山の山論での幕府への直訴の結末は勝訴でありながら、直訴の罪はあまりにも厳しい。