郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

もみじ情報11月14日

2019-11-14 22:18:45 | 2019最上山もみじ情報
もみじ情報11月14日(木)    宍粟市山崎町元山崎 

午前中は風があり、小雨もありでやや荒れ模様。そのためか、来訪者も少なめでした。午後風もやみ、晴れ間が出てきました。
紅葉進行中。




▲▼かなり赤くなりました。





▲▼もみじ山の山頂付近




▲展望台 

▼展望台の隣のもみじ 大木で上部は赤に染まる







聖山城址と秀吉軍の行軍ルート

2019-11-14 12:41:35 | 城跡巡り
聖山城址と秀吉軍の行軍ルート   


                 閲覧数3,676件(2014.9.2~2019.10.31)






▲篠ノ丸城址より秀吉軍が本陣を置いた聖山城址を望む


聖山城址と秀吉軍の行軍ルート

 秀吉軍は英賀城を落城二日前に、軍を分けて宇野氏居城長水城に指し向けた。『長水軍記』に「先勢一千騎荒木平太夫大将ニテ林田通ヨリ向フ、次ノ一軍三千騎小寺官兵衛孝高大将ニテ觜崎ヨリ向フ、次ノ一千騎神子田(みこだ)半左衛門大将ニテ同林田通りヨリ向フ、後陣ニハ秀吉自ラ木村、竹中、石見、樋口其他大勢ニテ林田通ヨリ向ヒ給フ」とある。

 秀吉軍の宍粟宇野氏の城攻めは、林田川沿いの林田からと揖保川沿いの新宮からの二方面の侵入路があった。


▼秀吉軍の行軍推定マップ




 林田方面では、林田町八幡の佐見(さみ)山城、林田松山城を足がかりに北上していった。『福岡文書』によれば、林田松山城には本郷宗祐(宇野政頼四男・祐清の弟)がいたが、戦わずして降伏したことを伺わせる。

 新宮方面は、嘴崎(はしさき)から川を渡り、新宮の香山城を落とし、山崎町城下に向かったようであるが、渡河といくつかの難所のため大軍には不向きであったと思われる。

 同軍記に、長水城主の宇野祐清が「狭戸ノ山蔭ヨリ左三巴ノ旗三流真先ニ押立テテ時ヲ作ッテカケ入ル」「秀吉ノ勢周章騒ギテ揉ミ合ケル間祐清ノ兵悉ク乱レ入ッテ未ダ目覚メズシテ起キアガルヲ起シモ立ズ切殺シケレバ秀吉ノ兵夥シク討ルル」とあり、宇野氏の緒戦の活躍ぶりが描かれている。軍記は読み物ではあるが、安富町狭戸(せばと)の山蔭より待ち受けていた宇野祐清軍は林田から行軍する秀吉軍と激戦が繰り広げられたことは、狭戸集落とその周辺(三坂・植木・瀬川)に残された数多くの五輪塔が物語っている。


▼狭戸の五輪塔群           ▼三坂の五輪塔群

 
▼植木野の五輪塔群                                ▼新宮町香山の五輪塔群

※ 安富町の五輪塔群の案内は志水出世氏(安富町)の協力によります


▼五輪塔群位置図(姫路市安富町)




秀吉軍本陣を置いた聖山城

 秀吉が四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)に書いた手紙に、篠ノ丸・長水城攻めで「山峰けわしくして大河城のふもとを巻き候」「平城二ヶ所へたてこもり候、親子のもの後の山へにげり、民部大輔山城へ逃げ登る候」とあり、さらに田路・安積氏に長水城内の内偵を指示した文書が残っている。秀吉や官兵衛がこの場所にきたという確かな記録はない、しかし秀吉は一度はこの地にやってきたからこそ、このような情景描写や指示ができたのではないかと私は思っている。


 歴史を感じる格別の場所    
   

 


 ▲東出石・西出石浜の高瀬舟 絵:郷土史研究家 下村哲三氏


 聖山城址からの景色は格別である。それは、篠ノ丸、長水の二城が望めることのほかに、合戦後の江戸初期池田輝澄が入封し、元和年間(1615~22)山麓の揖保川に高瀬舟の発着場ができ、網干までの水運が物流の大動脈となり浜は大いに賑わった。大正中期から昭和中期にかけて宍粟市役所周辺一帯は郡是製糸山崎工場が宍粟郡の産業の中心となった。昭和初期には農家の半数が養蚕業を営み、集荷された繭が年間四万五千貫(165トン)あり、郡内の多くの工女がこの工場で繭(まゆ)を紡いだのである。 『宍粟1952 宍粟地方事務所編』
 川下には幾たびかの大洪水に耐えてきた宍粟橋が傘寿(80歳)を迎えなお健在である。
 山頂からは、宍粟市山崎町の山河に生きた人々の残像がここかしこに残されているのが見えてくる。



▲大正13年 聖山からの西方面  眼下に郡是製糸山崎工場が見える



▲現在 元郡是製糸工場の跡地には宍粟市役所が建っている。(写真中央)

※山崎郷土会報123号26.8.24より一部転載(修正・加筆及び写真カラー化と追加)


●播磨屋さんより
 なんとなく東の方から攻めてきたと思っていました。
こういうルートだったんですね。素晴らしい研究です。

●タケネットより返事
 研究というほどのものではないですが、さらに詳しく五輪塔などの分布を調べると行軍ルートが絞られるようにも思いますね。五輪塔が狭戸だけでなく三坂と植木野等に散在していることがわかり、南から狭戸と東から三坂への攻撃もあったかもわかりません。
 置塩城主赤松則房がこの宇野攻めに加わり先導していたなら、土地感があるため夢前川・菅生川を北上し護持を西進し三坂・安志に向かうこともありかな。
涼しくなったら行軍ルートにあたる林田の佐見山城や松山城を探索予定です。

●しんちゃんより    

 私の地元須賀沢では、こんな言い伝えがあります。
地図の地点、今ではちょうど中国道の真下に成りますが、殿様ヤブといいます。
此処は、秀吉軍と宇野軍との古戦場跡で、たくさんの刀や槍が埋めてあるとのこと。
ーと以前に、一度掘り出したことが有るらしいのですが、戦死者の祟りか?掘り出した家の家族が次々に原因不明の病気に、その後埋め戻し回復したとのこと。
中国道の建設時には、この話は表に出ずそのまま道路の下に今でも埋まっているようです。この付近には、たくさんの五輪さんも。

●タケネットより返事  
興味ある情報ありがとう。複数の刀が発見されたというのは、山崎庄能や林田町八幡で聞いています。五輪塔は見てみたいですね。


【関連】
聖山城跡

宍粟・播磨の城郭一覧アドレス

播磨 聖山城跡

2019-11-14 09:23:03 | 城跡巡り

     

播磨 聖山(ひじりやま)城跡      

 場所は宍粟市山崎町須賀沢(出石いだいし)。しそう50名山の一つ高取山の登山路に位置し、揖保川に向かって突き出た堅木山(かたぎやま)、通称愛宕山上に築かれた山城である。宍粟橋から東すぐである。

 聖山城というのは「堅木山」の別名が「ひちりき山」と呼ばれひちりきの「き」が省かれて聖山城と呼ばれている。





 聖山城は、中世の播磨の守護職の赤松一族の支配のころ、長水城・篠ノ丸城の周辺の防備のための出城の一つであったといわれている。現在は城のあった山頂のすぐ下に愛宕神社、麓に觱篥(ひちりき)神社が祀られている。

 揖保川東岸を往来するには、この堅木山の山麓を通らざるをえず、交通上・軍事上の要衝に位置していた。山麓には古町という地名(小字)が今に残っている。


▼須賀沢字限分縮図



秀吉、聖山城に本陣を張る

 播磨の中世の多くの城は、天正5年(1577)以後の羽柴秀吉の中国攻めで落城した。秀吉は、三木城(三木市)を兵糧攻めで落城させ、英賀城(姫路市飾磨区)を完全包囲したあと、最後まで抵抗する播磨国宍粟郡宇野氏の居城を目指した。天正8年(1580)4月、その最初の攻撃目標となったのがこの聖山城で、秀吉はこの城を落とし本陣を張り、篠の丸城と長水城に対峙したのである。戦いは、圧倒的な軍勢と秀吉の事前工作によって勝負は時間の問題であった。 



▲聖山城図 説明板より


         


      かゝり火に 鵜の首見ゆる 広瀬かな   紹巴  (里村紹巴:連歌師) 

 落城寸前の篠ノ丸城・長水城を目の前にし詠まれたとされる句が『豊鑑』に記されている。鵜の首とは宇野氏を指し、広瀬は眼下の揖保川流域に広がる広瀬郷のことで、今も中広瀬、下広瀬の地名が残る。
 愛宕神社からの景色は、山崎町を一望できる絶好の場所である



▲城跡に建てられた愛宕(あたご)神社


▲山麓の觱篥(ひちりき)神社

※地域情報誌「奥はりま」掲載より 一部修正、図等加える


アクセス

宍粟市役所の東に流れる揖保川の対岸。出石自治会のひじり広場に駐車場があります。觱篥神社前50m





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