ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

鷹ノ巣山探鳥山行30回

2007年09月22日 19時22分11秒 | 観察記録から
鷹ノ巣山探鳥山行30回
1996年12月19日

山の鳥を知りたい
 同じ山に登りつづけるという話は以前に聞いたことがある。たとえば富士山に毎年登っているとか、生涯に何回登ったとか、六甲山に毎朝、早朝登山をしているとか、いつだったか、谷川岳に1000回登ったという人のことがテレビで紹介されていた。数多くの山に登るのはもちろんおもしろいが、こんなふうに、ひとつの山にくりかえし登りつづけるという山とのつきあいかたもある。そうやっておなじ山に登りつづけている人はその山にどんな魅力を感じているのだろう。なにを見ているのだろうか。
 わたしの場合は、山の鳥を見たいということでこれまで2年あまり、毎月奥多摩の鷹ノ巣山へ通いつづけた。べつに山の名前にこだわって鷹ノ巣山と決めているわけではない。奥多摩では比較的自然林が保たれている地域だからだ。それに日帰りで一応亜高山の鳥まで見られるところはあまりない。とくに山の鳥の垂直分布を知りたいと思った。鷹ノ巣山に達するいくつかのコースのうち、日原からの稲村岩尾根が、その点では、短い距離で一様に高度を上げていてちょうどうってつけだった。
 このコースは標高差約1200mで、ふつうは歩いてだいたい3時間半くらいで山頂に立てる。しかし、鳥を見て記録しながら登るとそうはいかない。夏場、鳥が多い時期だと6時間以上、冬の少ない時期でも5時間半はかかる。日原行きの始発バスを終点でおりて、歩きはじめるのが6時半、山頂につくのが12時過ぎから1時過ぎくらいの時刻になる。もっとも日のみじかい時期には歩きはじめはまだ暗く、夕方麓におりるころにはもう暗い。
 下山にはたいてい榧ノ木尾根を利用する。この尾根は広葉樹の林間を行く道が気持ちいい。スギ、ヒノキの中を歩かされるのは、もう奥多摩湖の湖岸近くまで下りてからのわずかの間ですむ。日中でも薄暗いスギ、ヒノキの植林のなかは変化にとぼしいから、あまり歩かずにすませたい。夏の暑い時期だけは水根沢林道を使う。沢沿いの道はいくらか涼しいし、途中3ヶ所くらいで水にありつける。石尾根を直接氷川へ下りれば、青梅線の終点奥多摩駅が近いが、六つ石山から先の下りでは、薄暗い植林地帯が多いし、あとのほうでは車道を歩くのでおもしろくない。

山の鳥は見るより聴く
 山で鳥を見るというが、実際には樹林帯のあまり見通しのよくないところがほとんどなので、声が聞こえるばかりで姿は見えないことが多い。それに、歩いているときは足元に注意する必要があるから、たいていは下を向いている。だから、鳥の探し方はゆっくり歩きながら、たえず耳をそばだてていて、鳥の声や動きのかすかな音を聞き逃さないようにするということになる。何も気配がなくてもときどきは立ち止まって周囲を見回したりもするが、それで鳥がみつかるということはあまりない。なんの手がかりもなしに双眼鏡を向けても何もみつからない。河原で鳥を見るように目で探すというのは山ではあまり役にたたないようだ。
 そこで耳から入る情報を逃すまいとするのだが、鳥がいるのはわかっても、それがなに鳥なのかは最初のうちはわからない。声だけでなんの鳥か確認するのはなかなかむずかしい。とくに山の鳥を見始めた最初のころは、登りながら、不明、不明、?、?ばかりで手帳に記録のしようがなくて無力感におそわれたほどだった。
 ふりかえってみると、昔せっせと山を登っていたころ、気がついていたのはウグイスの声ぐらいで、ほかにはなにも意識していなかった。あのころ、自分の耳には一体なにが聞こえていたのだろう。今になって不思議に思う。
 声だけでわからないことは今もときどきある。さえずってくれればけっこうわかるが、小声やみじかい声で地鳴きされるとむずかしい場合がある。たとえば、ウグイスとミソサザイの地鳴きはよく似ている。確かにいくらか違いがあって、ウグイスは「チャッチャッ」と鳴くし、ミソサザイもそのように鳴くが、もっとよく聴けば、ミソサザイはウグイスよりもやや強い調子で「キチョッキチョッ」と鳴く。さらに言えばミソサザイの「キチョッ」の最初の「キ」はつまっていて小文字の「キ」であるし、「チョッ」は「チャッ」と「チョッ」の中間くらいだ。でもこの区別がだれの耳にもそう感じられるのか、自分の耳だけにそう感じられるのかはわからない。それに文字にあらわす時には、それらの微妙な差異は表現しにくい。聴覚のするどい人の耳にはどんなふうに聞こえているのか知りたいものだ。わたしはどうもあまり鋭いほうではないらしい。というのも、いまだにヒガラとメジロの地鳴きが区別できないことがある。
 地鳴きにもそれぞれの鳥に何種類かあって、その典型的な鳴き方をしてくれれば、まずわからないことはないのだが、そう都合よくはいかない。あまり耳に神経を集中しすぎて、というよりも鳥の声を聴こう聴こうとこだわりすぎて、自分がかついでいるザックのきしむ音なんかについ立ち止まったりすることがある。なにも鳴いてないのに、なにかの声がしたような、空耳ということだってある。
 なかなか声を出さない鳥もいる。ツグミ類のアカハラやトラツグミなどは、繁殖期のさえずりはそれぞれ独特でまちがえることはないし、シロハラは冬鳥で、春に渡去するころさえずりを聞くことがある。でもふだんはあまり声を出さない。単独でいることが多いので、仲間同士呼び交わす必要がないからだろうか。地鳴きもよく似ている。こちらが知らずに近づいて、逃げる際に声を聞かされてはじめて存在に気がつくことになる。でも時すでに遅く、鳥種を確認できなくてくやしい思いをすることが少なくない。

観察して記録して
 鳥がいると立ち止まって小さいノートに記録する。時刻、標高、鳥の種類、羽数、わかれば何の木でなにをしているかといったことを書いておく。標高は10mの単位まで記録する。登山道にはどこかの団体がつけたらしい、50m間隔で標高を記した数cmの白いパネルが立ち木の根元に釘付けされている。これは、ふつうに山を登っている時はよけいなおせっかいでわずらわしいものだが、このたびは役に立った。そのパネルと2万5千分の一地図とを見比べながら地形を確認していくと、かなり細かいところまで判断できる。むかし使っていた5万分の一地図にくらべて、2万5千分の一地図はおどろくほど精度が高い。白いパネルはその後なくなってしまったが、最近また新たにつけられた。以前の位置と少しずれているが、だいたいにおいて支障はない。
 鳥の動きの大きさからすれば、標高10mの差は問題にならないのだが、たとえばウグイスやコマドリが右に左に頻繁に鳴くところでは、それぞれの声を区別しておく必要がある。ゆっくり歩いていると、ある個体の声が最初は前のほうから、次第に近づいてそれから後ろへ遠ざかるわけで、そこへ別の個体の声が重なって、2羽3羽と鳴くと、前後左右で重なりあってしまう。それが頭のなかでごっちゃにならないようにするために、10mの単位までわけて記載しておく。ずっと後になって記録を読みかえす際にもそのほうがいいだろう。実際にはそんな正確な標高の数字が出せているとは思わないが、50mの標高差の中を、目測と歩いた感覚で五等分するわけだから、誤差は最大でも10~20m以内くらいにおさまっていると思う。これら山の鳥を見ること、そして記録していく要領は何度もやっているうちに定まってきた。
 記録コースを稲村岩尾根にしてから、出来るだけ多く行こうとして月2回出かけたこともある。しかし、あまりやり過ぎてはいけないと思った。月に一度と思うから気合が入るが、二度になると翌月までの間隔が短くなって、つぎに行くときまでに意欲が充分に満ちてこない感じがする。あきるほどやってはいけない、というのが永く続けるコツらしい。食べ過ぎるといくら好物でも、しばらくは食べたくないものだ。ただし、わたしの場合は満腹感が早く来るらしい。もっと意欲が続かないものかと、自分ではその点がものたりない。
 いつもおなじ山を、しかもおなじコースばかり歩くというのは、登山をする人には、もったいない、あるいは理解しがたいことかもしれない。でもひとつの山に深くつきあうという登りかたをするようになって、むしろほんとうに山の良さがわかるようになったような気がする。日程に追われて消化するように、あたふたと通過していくだけの登りかたではもう満足できない。毎月登るようになって、2年と2ヶ月で30回、それ以前に、コースを決めずに歩いていた、いわば準備期間といえるのをあわせると40回近く登ったことになる。そのたびに鷹ノ巣山の表情は四季折々ではあるが、むしろわたしにはその表面の変化よりも、ジッと黙ってそこにいつづける、いつ行っても重く大きく変わらないという気がする。わたしはいっとき、その表面の細い線の上を通過させてもらうにすぎない。たまたま、そのときの山の表情に出会えるだけで、鳥にも動物にも木々にも、みんなわずかに垣間見て、ちょっとあいさつしてくるだけにすぎないという気がする。だから、まだまだ通い続けなければならないだろう。

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