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カワウの飛来状況-多摩川、秋川合流付近について- (グラフ省略)

2007年09月24日 20時31分44秒 | 観察記録から
カワウの飛来状況
-多摩川、秋川合流付近について-
1997年2月20日

はじめに
 カワウが多摩川の中流域までさかのぼってくるようになったのは、もっとも初期の記録からでもまだ10年あまりしかたっていない。なかでも秋川合流点より上流へ来るようになったのは1989年のことらしい。
 わたしが当地で鳥を見るようになったのは90年の11月からで、記録をつけはじめたのは翌91年3月からである。つけはじめた当初からすでにカワウは飛来しており、以後、年を追うごとに飛来数が増えて、飛来する期間も次第に長期化する傾向がみられる。
 ここでは、わたしの観察地域におけるカワウの飛来状況など、その5年あまりの移り変わりについて報告する。

観察地域と記録方法
 多摩川、秋川合流点付近は中流域の上部であり、奥多摩の山から派生した丘陵地帯の末端がせまっている。河口からの直線距離は約45kmで、カワウのコロニーがある上野不忍池や浜離宮からは約40kmある。
 観察と記録のしかたは特にカワウを対象にしたものではない。早朝、河川敷を1時間半前後かけて歩き、その間に出現した鳥をすべて記録する。それを91年3月から続けている。その中で目撃したカワウについての記録である。したがってカワウが見やすい本流の水面やその上空をいつも注視し続けているわけではない。そのため、記録は観察時間内に現われたすべてのカワウではなく、見落としもあるはずである。
 また、カワウは早朝から飛来するが、それらが皆、下流から飛んでくるわけではなく、上流から飛んでくるものもいる。それらが早朝さかのぼってきれ、もうすでに下流へ下りていこうとしているのかは不明であるが、上流からの個体はすでにカウントされたものである可能性がある。その場合は、それまでにカウントされた数の合計を上回るものであれば、その数をとって、それまでの数を捨て、それまでの数に達しないものであれば、ダブってカウントする可能性があるとして、その数をとらなかった。
 観察時刻は日の出直後くらいからの早朝だけで、日中や夕方についての状況は調べていない。
 したがって、結果としての数字を見ると確かそうに見えるが、実際にはかなりの曖昧さを含んだものにならざるを得なかった。このように不確かさをともなったデータではあるが、集計してみるとカワウのこの地域への飛来状況についての一側面はつかめたと思う。
結果
 9ページのグラフは91年から96年まで、5シーズンあまりのカワウの飛来数を現わしたものである。1~10羽を10、11~20羽を20としている。































 グラフは各月を上中下旬に分け、さらにその中を前後半に分けて、1ヵ月を6等分にした。つまり、5日間で区切り、その中でもっとも数の多かった日の個体数を現わしている。ただし、観察に出かけなかった日が若干ふくまれる。
 グラフを見て気がつく特徴は、年を追うごとに、飛来数のピークが春から次第に早まり、真冬、さらに冬の初めへと移っていることである。これは何を意味するのか。それと関係があるかどうかわからないが、カワウの個体数が87年を境に急激に増えており、特に秋の増え方が著しいという資料がある(日本野鳥の会東京支部報『ユリカモメ』№490 1996年「1995年度シギ・チドリ類調査結果」)。内陸部へのカワウの飛来が次第に多くなるのもこの増加を反映していると考えられる。また、飛来する期間も少しずつ長くなっており、96年には7月にも出現し、通年化する勢いである。
 つぎにおもな記録を列記する。初認日とはその年にはじめてその種の鳥を確認した日、終認日とはその年の確認できた最後の日を意味する。カワウの場合は冬鳥として現われるので初認日は秋、終認日が春になる。
       初認日   終認日
1991年 11月23日  5月6日
1992年  11月13日  5月25日
1993年  11月23日  5月19日
1994年  10月23日  5月22日
1995年  10月17日  6月1日
1996年  10月16日  7月17日

 一度に100羽以上で現われた記録はつぎのものがある。
1994年11月23日  8時40分  130±羽 下流へ飛ぶ
1994年12月11日  8時03分  150±羽 上流へ飛ぶ
       同日  8時05分  160±羽 上流へ飛ぶ
1995年11月3日   7時31分  350±羽 上流へ飛ぶ

 96年には、100羽以上の大群は見ていない。

 カワウはカワウだけの群れで現われることが多いが、時にはサギ類やユリカモメなど、他の水鳥との混群で飛来してくることもある。その際はたいていコサギとダイサギをともなっている。アオサギが混ざっていることもある。サギ類はカワウの群れのかたまりの後半に、やや遅れてついてくる形をとることが多い。それは、カワウの動きに注意を向けながら、といった様子に見える。
 また、カワウが流れの中央で騒々しく水音をたてながら採食しているとき、サギ類は遠巻きにして、岸近くからその騒がしい食事ぶりを、半ばあっけにとられたという様子でながめている感じに見える。これはカワウの騒ぎをきらって浅瀬に寄ってくるかもしれない小魚を待っているようにも見えるが、確かにそれによって餌にありついたというところは確認していない。

 最後に多摩川中流域でのカワウの初見などについて文献から紹介する。
 日本野鳥の会東京支部では、京王線の聖蹟桜ヶ丘付近の多摩川で1980年から探鳥会をおこなっているが、その中で、はじめてカワウが記録されたのは85年3月3日である(東京支部報『ユリカモメ』№352)。また、この周辺での報告のあった最初の記録は同年2月16日となっている(『ユリカモメ』№353)。86年には観察されなかったものの、87年以後は観察される回数が増えている(日本野鳥の会研究センター『ストリクス』vol.10 1991年)。
 浅川水系では八王子カワセミ会が1985年から探鳥会を続けている。カワウは89年1月30日に初記録され、翌90年2月から突如大群が現われるようになる(『数えあげた浅川の野鳥』1996年)。
 日本野鳥の会奥多摩支部の初記録は91年3月30日、昭和記念公園である(『多摩の鳥』№80 1991年)。わたしの多摩川秋川合流点付近での初記録は同年3月13日。これより先、90年7月6日の読売新聞夕刊で「多摩川に大量のカワウが飛来してアユなどを捕食している」との記事があり、「昨年からは奥多摩や秋川にも姿を現わし始めている」となっている。地域をいう際に、「秋川」は「奥多摩」に含むと考えられるからこの場合の奥多摩はどこなのか判然としないが、89年中には秋川合流点よりも上流に進出していることは確かである。なお、浜離宮のカワウは「追い出し作戦により、今年1月9日以後姿を見ない」と97年2月19日、朝日新聞夕刊に記事がある。

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