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 ~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

宮沢賢治「おきなぐさ」

2020-10-25 14:43:36 | 
宮沢賢治(1896~1933)の童話「おきなぐさ」
(出典および以下の引用:宮沢賢治童話大全/講談社刊)。

漢字では「翁草」と書かれるキンポウゲ科オキナグサ属の植物を、
賢治が「うずのしゅげ」と呼び、その植物の可憐さを讃え、
人間の賢治が、昆虫の蟻と会話を交わすところから始まる小品。

春まだ浅い季節の中、
小岩井農場の南「七ツ森のいちばん西のはずれの西がわ」に咲く、
二輪の翁草つまり「うずのしゅげ」は、花どうしで語り合い、
天地を照らす変幻自在の光に感じ入り、
風の流れの一つ一つ、雲の動きの一つ一つにも、

『不思議だねえ・・・』
『奇麗だねえ、ああ奇麗・・・』

と感動を分かち合っています。
そこへ雲雀(ひばり)が降りて来て、
いま自分が羽ばたいていた上空は風が余りにも強く、

『わめくも歌うも容易のこっちゃありませんよ』

と「うずのしゅげ」たちに話します。
それを聞いた二輪の花は、確かにそうかもしれないけれど、
自分たちも一度でいいから風に乗って飛んでみたい・・・、
と雲雀に夢を語ります。それを聞いた雲雀は、

『もう二ヶ月お待ちなさい。
 いやでも飛ばなくちゃなりません』

               

二ヶ月が経ち、賢治が再びその場所を訪れると、

『丘はすっかり緑で「ほたるかずら」の花が子どもの青い瞳のよう、
 小岩井の野原には牧草や燕麦(オート)が
 きんきん光っておりました。』

風も二ヶ月前とは違って、南から吹いています。
二輪の「うずのしゅげ」は既に花期を終え、
「翁草」という名前の由来ともなった、
白くて長い髭状の毛を伴った種子へと変容していて、

『すっかり ふさふさした銀毛の房にかわっていました。』

あの雲雀が丘の上を越えて来て、二輪に話しかけます。

『どうです。もう飛ぶばかりでしょう』

風に吹かれて『飛ぶ』。
それは二輪の「うずのしゅげ」にとっては“ 死 ”を意味します。
二輪には、そのことが分かっているので、

『ええ、もう僕たち遠いとこへ行きますよ。
 どの風が僕たちを連れて行くか さっきから見ているんです』

雲雀は問いかけます。

『飛んで行くのはいやですか』

「うずのしゅげ」は答えます。

『なんともありません。
 僕たちの仕事はもう済んだんです』

重ねて雲雀は問いかけます。

『こわかありませんか』

「うずのしゅげ」は答えます。

『いいえ、飛んだって どこへ行ったって
 野はらは お日さんのひかりでいっぱいですよ。
 僕たち ばらばらになろうたって、
 どこかの たまり水の上に落ちようたって、
 お日さん ちゃんと見ていらっしゃるんですよ』

               

いよいよ、二輪の「うずのしゅげ」を次の世界へ送り届ける、

『奇麗な すきとおった風』

がやってきます。その風は、

『まず向こうのポプラをひるがえし、
 青の燕麦(オート)に波をたて
 それから丘をのぼってきました。』

「うずのしゅげ」は叫びます。

『さよなら、ひばりさん、
 さよなら、みなさん。
 お日さん、ありがとうございました』

「うずのしゅげ」の種子、銀毛の房はバラバラになり、
その一本一本が、風に吹かれて北の方角へと飛んで行くのと同時に、
雲雀は猛スピードで垂直に上昇し、

『鋭い みじかい歌を ほんのちょっと歌ったのでした。』

なぜ雲雀は、
「うずのしゅげ」の銀毛が散り去った北の方角へと飛ばずに、
真直ぐに上空へと飛び上がったのか。
賢治は、こう考えます。

『それはたしかに、
 二つの「うずのしゅげ」のたましいが 天の方へ行ったからです。
 そして もう追いつけなくなったとき、ひばりは
 あのみじかい別れの歌を贈ったのだろうと思います。』

さらに賢治は、二つの魂が宇宙空間で変光星になったと推測して、
物語は終わります。

               

久しぶりに読み返した「おきなぐさ」。
物語が始まってすぐの辺り、
“ 山男 ”が登場し、鳥を引き裂いて食べようとしますが、
視線の先に「うずのしゅげ」を捉えた途端、何かを感じたのか、
食べることを忘れて、ジィーっと「うずのしゅげ」を見つめる、
そういう不思議な場面が差し挿まれています。

先日、ある御縁を以って偶々手に取らせて頂いた、
「宮沢賢治の童話でまなぶ ココロの寄り添い方」
(著者:長野保健医療大学教授・外里冨佐江/シービーアール刊)
の中に、この場面には〈許し〉というテーマが潜んでいるのでは?
という問いかけが為されているのを読みました。

上掲書は、
主に学生諸氏の自由な発想とディベートを促すという書籍の性格上、
問いかけだけが示されるに留まり、こうした書籍にありがちな、
「これが正解」という押しつけがましいものがありません。

私は、“ 山男 ”のシーンに〈許し〉という命題が潜在するとは、
考えたことがなかったので、今までとは違う新鮮な視点で、
この場面を読むことが出来ました。

鳥を引き裂いて食べる“ 山男 ”というのは、
動植物の命を摂取して生きる存在のことであり、それはつまり、
宮沢賢治その人のことであり、私自身のことであり、
広くは人類のことであろうかと思います。
〈他者の死〉の上に〈自身の生〉を紡がざるを得ない“ 山男 ”が、
「うずのしゅげ」を目にした途端、鳥を食べることすら忘れ、
「うずのしゅげ」が風に揺れている様子に見入って動かないのは、
この時“ 山男 ”が「うずのしゅげ」の姿や雰囲気に触発され、
自身の内側に在りながらも普段は忘れ果てている暴力性に気付き、
その気付きゆえに思わずたじろぎかけるものの、その“ 山男 ”に、
「うずのしゅげ」から何かが響こうとしているから。

そう考えてみますと、ここは見入っていると同時に、
「うずのしゅげ」から響いて来る何かに“ 山男 ”が耳を澄まし、
聴き入っている光景・・・というようにも感じられます。

では一体“ 山男 ”は「うずのしゅげ」から何を聴いているのか?
それは、もしかしたら〈許しの歌〉とでも言うべきもの。
その歌が心の耳に届けられた時、“ 山男 ”は、
まるで自分が「うずのしゅげ」に許されている・・・と、
そんな感覚に打たれ、それで身じろぎもせず立っている。

これは私の勝手な解釈に過ぎませんが、“ 山男 ”の場面に、
もしも〈許し〉という命題が潜在するとしたならば、
そのようにも読めるのかな?と思いました。

又そういう視点で「おきなぐさ」を味わってみますと、
二輪の「うずのしゅげ」が、いよいよ風に散るという時、
雲雀から『飛んで行くのはいやですか』と問われて、

『なんともありません。
 僕たちの仕事はもう済んだんです』

と答えた時の、この『僕たちの仕事』というのも、
「利益を上げよう」とか「高い評価を得よう」等々といった、
一般的に想像されるような仕事とは次元を異にする仕事、
太古の昔から連綿と続く〈生命の秘密〉に携わる仕事、
それも〈許し〉に関わる仕事、という風にも思われてきます。

前掲書の中で、外里先生も言及されておられますが、
宮沢賢治作品の魅力の一つは「正解がない」というところ。
言い方を変えれば、読む人の数だけ正解があり、
また同じ人が同じ箇所を読んでも、読む度に感じ方が変わり、
どのような解釈をもが許されているということであり、
賢治作品が永く読み継がれている理由の一つと言えます。

               

「おきなぐさ」の終盤では、
風に散る間際の「うずのしゅげ」に寄り添い、
形が消滅する、つまり現象としての“ 死 ”は、

『なんにも こわいことはありません』

と伝え、旅立つ二輪の「うずのしゅげ」に、

『お大事においでなさい』

と、言わば“ はなむけの言葉 ”を贈り、のみならず、
風に散ったあと天へと昇ってゆく二つの魂を、
追えるところまで追いかけて見送る雲雀の姿が描かれています。

この場面を繰り返し読むうち、
これは、ある意味“ 看取り ”であると感じ、かつて私自身が、
父を看取った時のこと、母を看取った時のこと、
その時何が起こり、何を観、何を聴き、何を感じたのかといった、
記憶の数々が鮮やかに甦ってきました。

最後に雲雀は、
大気圏を離れて宇宙空間へ向かう「うずのしゅげ」の魂に向け、

『鋭い みじかい歌を ほんのちょっと歌った』

のですが、この、

『鋭い みじかい歌』

というのは、音楽が抱く陰陽の理から察するに、それは同時に、
どこまでも丸く柔らかな歌、
どこまでも長大な時間を鳴り渡る歌、
どこまでも広大な空間に響き続ける歌のようにも想われ、
“ レクイエム ”の本質と理想形が、ここに在るものと心得ます。






              








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