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 ~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

澄心得妙観

2019-03-03 13:30:33 | 仏教関係
昨日の当地は快晴。
このところワケあって足が遠のいておりました、

〈奥の細道〉ならぬ〈音の細道〉へ。


久しぶりに〈気の森〉に入れることが有り難く感じられ、

至らぬながらも、まずは一木一草への感謝を捧げます。


僅かな気温上昇と「三月に入った」という意識が結び合い、

微細に五感を震わせるのは早春の調べでしょうか。

               

さて数日前の就寝中、
ドドーンッ・・という音と共に何かが落ちてきました。

それがこちら

揮毫そのものは「かなり古い」と生前の両親から聞いており、
半世紀以上前から和室に掲げていた額ということもあって、
見れば額を支えていたが紐が、経年劣化のため切れていました。

揮毫されている「澄心得妙観」は、

「澄心(ちょうしん)妙観(みょうかん)を得る」

と読むのだそうです。
禅道と茶道という二つの道が交わる辺りに咲いた、
一輪の言葉として伝わると聞きます。

「心を澄ませば、妙観を得ることが出来る」・・・と、
そう言われても愚鈍なワタクシめにはピンと来ません。
そもそも「心」は澄んだり濁ったりするものなのでしょうか。

日常においては、
「心が折れる」「心が傷つく」「心が明るい」「心が広い」
「心が汚い」「心が弱い」「心を強く持て」等々と言われますが、
「心」に実体がなく実在物として取り出すことが出来ない以上、
「心」は折れたり傷ついたりする事が不可能であり又、
「心」に明暗・清濁・強弱・大小などあろうはずも無い・・・と、
「心」を「心」から尊びつつも、時折は、
「心」を疑わしいものとして感じるのであります。

では「澄心得妙観」に謳われる「澄心」とは何なのでしょうか。

古来、
心と身体は一つである・・として「心身一如」と説かれます。
そこで「澄心」を「澄身」と受け止めた時、
「澄心」の「澄(ちょう)」は「調(ちょう)」と重なり、
禅で重視される「調息・調心・調身」が浮かぶのであります。

『調息・調心・調身の三調を以って「妙観」を得る』

として、では「妙観」とは何なのでしょうか。
仏教用語事典等を紐解きますと「妙観察智」と絡めて、
「存在の相を正しくとらえ、仏教の実践を支える智慧」
などと書かれていたりもしますが、益々分かりません。

               

ここで少し道筋をそれますが、日本では古来、
「音楽」のことを「調(しらべ)」と総称し、
歌打管弦の作曲・演奏を「調ぶ・調べる」と呼び慣わしました。
近世から現在にあって「調べる」は、
研究や調査といった学問事象を意味しますが、
元々、現象の根源を「調べる」のは音楽でありました。

音楽は、まず以って耳を澄ますことを本義としますので、
先の「調息・調心・調身」を、
息を調べ、心を調べ、身を調べる事と考えれば、
自己の呼吸という音楽に耳を澄まし、
自己の内界という音楽に耳を澄まし、
自己の身体という音楽に耳を澄ます、
というようにも、いささか強引ながら解釈出来ます。

翻って現代、音楽の制作作業はスタジオで行われますが、
「スタジオ」の語源はラテン語の“ studium ”であり、
「勤勉・研究・調査」を意味し、その派生語が他ならぬ
“ study・スタディ ”であることを考え合わせますと、
洋の東西を問わず「音楽」とは「調べ」と「学び」であり、
大宇宙・大生命・大自然等々の探究手段であったことが、
自ずと透けて観えて来るようにも思えるのであります。

               

さて今一度「妙観」とは何なのでしょうか。
観世音菩薩・普門品・第二十五・世尊偈(せそんげ)の中には

『妙音(みょうおん)
 観世音(かんぜおん)
 梵音(ぼんのん)
 海潮音(かいちょうおん)
 勝彼世間音(しょうひ せけんのん)』

と、五つの音声(おんじょう)が説かれています。

中野東禅師の訳語をお借りしますと、

妙音:観音菩薩と共鳴し、不思議と人々を安らかにする音と声
観世音:世間の悲しみと痛みを包み抱える音と声
梵音:エゴと煩悩の苦しみを超えた清らかな音と声
海潮音:海鳴りのように全てを包んで許す音と声
勝彼世間音:人間世界の損得や利害を超えた音と声
         (中野東禅著「観音経」講談社刊より取意)

ということであり、ここに示されているのは、
〈音の細道〉を行く者が目指したい音楽の理想形。

上記「妙音・観世音」から「妙・観」の二文字を選び、
「世尊偈」に説かれる五つの音声の全てを、
そこに集約させたもの、これ即ち「妙観」と考えれば、

「澄心(ちょうしん)妙観(みょうかん)を得る」とは、

「自己の呼吸・内界・身体に耳を澄まし探究することで、
 神秘にして偉大な音・声・旋律・響き・リズムの全て、
 大音楽と一つに溶け合うことが出来る・・・。」

               

普段は気にも留めなかった額と、そこに書かれた五つの文字。
紐が切れて落ちてきたことで、否が応でもと申しましょうか、
その意味に想いを巡らせる事になり、
またまた浅はかな妄想の世界を彷徨ってしまいました。

しかしこれもまた何かの縁。
件の額は、紐を新しく付け替えて掲げ直します。


心澄みて

妙観を得る



              













印旛沼(いんばぬま)

2018-10-21 15:45:21 | 仏教関係
本日21日は、空海上人の月命日(祥月は3月)に因み、
覚王山日泰寺では〈弘法市(こうぼういち)〉が開かれ

大勢の参拝客で賑わっていました。

本殿手前に据えられた大香炉には、
普段にも増して浄煙が立ち込めていましたが

よく見ますと、香炉の縁には小銭が置かれています。
浅草寺や深川不動堂を始め、関東では見かけなかった参拝習俗。
それぞれの土地には、それぞれの願い方があります。

               

過日は、奈良・東大寺を始めとする華厳の道場で説かれる
〈海印三昧〉について駄文を連ねましたが、
その際ワタクシめは華厳教学とは全く関係のない、
もう一つの〈海印〉を思い出しておりました。

それは「海底の印文(いんもん)」という意味の〈海印〉。
奇怪な伝説に彩られた謎の〈海印〉について愚考の段、
少々お付き合い下さい。

               

古代インドのブラーフミー系文字「シッダマートリカー」は、
「悉曇(しったん)」と音訳されて密教と共に日本に伝わり、
平安時代以降「梵字(ぼんじ)」として知られるようになります。

密教で説かれるマンダラには大きく分けて、
大曼荼羅・三昧耶(さんまや)曼荼羅・羯磨(かつま)曼荼羅・
法曼荼羅の四種類があります。
大曼荼羅はホトケの絵画や図像によるマンダラ、
三昧耶曼荼羅はホトケの持物や象徴的法具等によるマンダラ、
羯磨曼荼羅は仏像を配した立体的なマンダラ(例:東寺講堂)、
そして法曼荼羅は、梵字によって描かれたマンダラ。

法曼荼羅では、ホトケは梵字であり梵字はホトケであるという
「梵字即仏(ぼんじそくぶつ)」の思想が徹底され、
仏尊を現した梵字は、一つの文字が一粒の種(たね)となり、
一人一人の中で大きく育つ、という密教独特の考え方から、
「種字(しゅじ)」と呼ばれるように。

弘法大師・空海上人が開いた真言密教の主尊は
《大日如来》ですが、この尊格を種字(=梵字)で表しますと、

大悲胎蔵生(だいひたいぞうしょう)曼荼羅・大日如来の種字は

「ア」(徳山暉純 著「梵字手帖」木耳社刊より転載)


金剛界曼荼羅・大日如来の種字は

「バン」(転載元:上掲書)

という具合に、
マンダラ内の全尊格に種字が定められています。

               

さて皆さま御承知置きの通り、
平安時代後期から前近代にかけて、仏教の中でも、
殊に密教の立場から日本古来の神々を体系づけた思想に
〈両部神道〉なるものがあります。

この両部神道の一派・御流(ごりゅう)神道に伝わる
「御流神道 類聚集」の中の一章・・・
〈印文 至極ノ大事(しごくのだいじ )〉には、

“ 日本という国ができるよりも遥か昔、
 大日如来が八万の法蔵を掌中に入れて海の底に納めた。
 その大日如来の種子(印文)は「バン」。
 法蔵(≒印文)は三千年に一度海底から湧き上がってくるが、
 人間の目には、それが宝珠として映る。”
         (出典「神仏習合の本」学研社刊より取意)

とあり、その海というのが、

「下総国(しもうさのくに)印西・印東・印庄、
 香取海(かとりのうみ)の印盤浦(いんばのうら)」
                (引用元:前掲書)

つまり現在の千葉県北西部に広がる印旛沼(いんばぬま)、
と説かれているのであります。

現在の地形からは想像しにくいのですが、印旛沼は、
太古の関東平野に湾入していた太平洋・香取海の名残り。
すると上記「印西・印東」の〈印〉は大日如来の〈印〉を指し、
現・印旛沼の旧名「印盤浦」には、

「バン(盤)という種字(梵字)と法蔵に集約された、
 大日如来の印が、水底に納められた浦・・・
 《印、バンの浦》」 

という意味が隠されていることになります。

と、このように、
中世・神仏習合時代に創出された異説・珍説の数々は、
ともすれば荒唐無稽かつ神秘奇怪に過ぎるがゆえに、
信ずるに値しない偽史・作り話として笑い捨てられてきました。

しかしながら、
いにしえの人々が真摯な態度で想像力を駆使し、
現実世界と想像世界とを照応させていった背景には、
思い切った発想の転換と、本来は相容れない領域の融合とで、
当時まさに滅ぼうとしていた善きものに対し、
瑞々しい生命を与えようという切実な願いが有りました。

事実、多くの善きものが息を吹き返し、それらは、
その姿を大きく変えながらも現代にまで命脈を保ち、
私たちの意識・無意識を、ウチ側ソト側から支えています。

               

千葉県・市川市在住時、
成田山新勝寺を目指して成田街道を辿ってゆきますと、
佐倉市の北西部・臼井(うすい)を越した辺りから、
左手遥かに印旛沼が望まれました。

“ 三千年に一度、印旛の水面に浮かび上がる〈海底の印文〉、
 人にはそれが宝珠に見える・・・”

伝説の真意・真相はさて置き、
成田街道を歩んだ春夏秋冬の風光は、わが心の宝珠として、
朝な夕な、意識の海面に浮かび上がります。





              









その時 大地は六種に震動す

2018-06-24 18:50:24 | 仏教関係
1995年の阪神・淡路大震災発生当時、

「蓄積されたエネルギーが解放されたのだから、
 もう阪神地域では向こう百年、大きな地震は起きない」

と、まことしやかに囁かれていたように記憶します。
そこには《もうこのような地震は起きて欲しくない・・・》
という願いが込められていたことと思います。

そうした願いもむなしく大阪北部地震が発生しました。
多くの活断層が複雑に絡み合う場所では、
いつでもどこでもマグニチュード6級の地震が繰り返される、
という専門家の指摘には、只うなだれるしかありません。

被災者の方々および被災地に、
一日も早く平穏な日常が戻ることを心から願うものであります。

               =◯◯◯=

本日は6月24日ですが、毎月24日は地蔵菩薩の御縁日。
仏教発祥の地、古代インドにおけるサンスクリット名を
「クシティ(大地)・ガルバ(蔵)」
大地を蔵するもの・・・という原義から、漢字圏においては
「地蔵菩薩」の名を冠せられることになりました。

因みに虚空蔵菩薩のサンスクリット名は
「アカシャ(虚空)・ガルバ(蔵)」
虚空を蔵する〈虚空蔵菩薩〉と大地を蔵する〈地蔵菩薩〉、
この二体の尊格を以って宇宙の一切を蔵するところから、
虚空蔵菩薩と地蔵菩薩は同体であるとも説かれます。

地蔵菩薩について説かれた経典には、
インドで成立した大乗経典「地蔵菩薩本願経」、
密教経典の「地蔵菩薩陀羅尼経」、
日本で生み出された「延命地蔵菩薩経」等々ありますが、
それらのいずれにおいても共通して描かれているのは、
仏の滅後を任され、仏のいない世の中を託された地蔵尊の姿。

「延命地蔵菩薩経」の中、地蔵菩薩が現われる場面では、

『その時 大地は六種に震動す』

と説かれています。
この大地が震動する現象は地蔵菩薩に限った事ではなく、
例えば如意輪観世音菩薩は、

『この如意輪陀羅尼を説き巳(お)わるに
 大地は六種に震動す』(如意輪陀羅尼神咒経)

また毘沙門天王は、

『大地 震動して毘沙門天 出で来たり』(毘沙門天功徳経)

というように仏尊が出現する際には大地が震動します。

「六種」の震動については諸説あるものの概ね、
仏尊の〈入胎・出胎・出家・成道・転法輪・入滅〉という
六つの契機に、大地が感応・共鳴する六種類の震え方とされ、
「動・起・湧・震・吼(く)・撃」の六震と呼ばれます。

               =◯◯◯=

『その時 大地は六種に震動す』

六つの契機とは言え、経典には「その時」とありますので、
それぞれのタイミングは別々の時期・事象ではなく、
その時その瞬間に六つの世界が並列して現われ、
その時その刹那に六つの震動が同時に起きると解釈できます。

震動は「振動」でありますので、物理学の超弦理論で説かれる、
振動数の異なる〈超対称性ひも状粒子〉が想起されます。
超対称性の弦は、
多次元時空(超弦理論では9次元)において振動し、
本質的には一つの弦が、観測時の振動数の違いによって、
異なる現象として立ち現れます。

「地蔵菩薩本願経・見聞利益品(けんもんりやくぼん)」には、

『夢中において無辺を見て』

とあります。
この「無辺」は宇宙に存在する全てのものという意味であり、
それゆえに〈延命地蔵菩薩経〉において地蔵尊は、
医療従事者・農業従事者・商業従事者・物流関係者・
薬草・医薬品・医薬部外品・馬・牛・山岳・海洋・・・等々、
在りとあらゆる存在に変身すると説かれています。

               =◯◯◯=

「さまざまな作物や資源を生み出す大地の徳が象徴された菩薩」
(下泉全暁著「諸尊経典要義」青山社刊)

大地あっての私たちであり、また大地は動かないものとして、
私たちは日常を営み、歩行を始めとする動作を紡いでいますが、
そもそも地球は時速約1700㎞という高速で自転しながら
太陽の周りを公転しているので、大地は常に動いています。

『その時 大地は六種に震動す』

地蔵菩薩が私たちに問うている事の本質に、
想いを馳せるものであります。