昨日の当地は快晴。
このところワケあって足が遠のいておりました、

〈奥の細道〉ならぬ〈音の細道〉へ。
久しぶりに〈気の森〉に入れることが有り難く感じられ、

至らぬながらも、まずは一木一草への感謝を捧げます。
僅かな気温上昇と「三月に入った」という意識が結び合い、

微細に五感を震わせるのは早春の調べでしょうか。



さて数日前の就寝中、
ドドーンッ・・という音と共に何かが落ちてきました。
それがこちら

揮毫そのものは「かなり古い」と生前の両親から聞いており、
半世紀以上前から和室に掲げていた額ということもあって、
見れば額を支えていたが紐が、経年劣化のため切れていました。
揮毫されている「澄心得妙観」は、
「澄心(ちょうしん)妙観(みょうかん)を得る」
と読むのだそうです。
禅道と茶道という二つの道が交わる辺りに咲いた、
一輪の言葉として伝わると聞きます。
「心を澄ませば、妙観を得ることが出来る」・・・と、
そう言われても愚鈍なワタクシめにはピンと来ません。
そもそも「心」は澄んだり濁ったりするものなのでしょうか。
日常においては、
「心が折れる」「心が傷つく」「心が明るい」「心が広い」
「心が汚い」「心が弱い」「心を強く持て」等々と言われますが、
「心」に実体がなく実在物として取り出すことが出来ない以上、
「心」は折れたり傷ついたりする事が不可能であり又、
「心」に明暗・清濁・強弱・大小などあろうはずも無い・・・と、
「心」を「心」から尊びつつも、時折は、
「心」を疑わしいものとして感じるのであります。
では「澄心得妙観」に謳われる「澄心」とは何なのでしょうか。
古来、
心と身体は一つである・・として「心身一如」と説かれます。
そこで「澄心」を「澄身」と受け止めた時、
「澄心」の「澄(ちょう)」は「調(ちょう)」と重なり、
禅で重視される「調息・調心・調身」が浮かぶのであります。
『調息・調心・調身の三調を以って「妙観」を得る』
として、では「妙観」とは何なのでしょうか。
仏教用語事典等を紐解きますと「妙観察智」と絡めて、
「存在の相を正しくとらえ、仏教の実践を支える智慧」
などと書かれていたりもしますが、益々分かりません。



ここで少し道筋をそれますが、日本では古来、
「音楽」のことを「調(しらべ)」と総称し、
歌打管弦の作曲・演奏を「調ぶ・調べる」と呼び慣わしました。
近世から現在にあって「調べる」は、
研究や調査といった学問事象を意味しますが、
元々、現象の根源を「調べる」のは音楽でありました。
音楽は、まず以って耳を澄ますことを本義としますので、
先の「調息・調心・調身」を、
息を調べ、心を調べ、身を調べる事と考えれば、
自己の呼吸という音楽に耳を澄まし、
自己の内界という音楽に耳を澄まし、
自己の身体という音楽に耳を澄ます、
というようにも、いささか強引ながら解釈出来ます。
翻って現代、音楽の制作作業はスタジオで行われますが、
「スタジオ」の語源はラテン語の“ studium ”であり、
「勤勉・研究・調査」を意味し、その派生語が他ならぬ
“ study・スタディ ”であることを考え合わせますと、
洋の東西を問わず「音楽」とは「調べ」と「学び」であり、
大宇宙・大生命・大自然等々の探究手段であったことが、
自ずと透けて観えて来るようにも思えるのであります。



さて今一度「妙観」とは何なのでしょうか。
観世音菩薩・普門品・第二十五・世尊偈(せそんげ)の中には
『妙音(みょうおん)
観世音(かんぜおん)
梵音(ぼんのん)
海潮音(かいちょうおん)
勝彼世間音(しょうひ せけんのん)』
と、五つの音声(おんじょう)が説かれています。
中野東禅師の訳語をお借りしますと、
妙音:観音菩薩と共鳴し、不思議と人々を安らかにする音と声
観世音:世間の悲しみと痛みを包み抱える音と声
梵音:エゴと煩悩の苦しみを超えた清らかな音と声
海潮音:海鳴りのように全てを包んで許す音と声
勝彼世間音:人間世界の損得や利害を超えた音と声
(中野東禅著「観音経」講談社刊より取意)
ということであり、ここに示されているのは、
〈音の細道〉を行く者が目指したい音楽の理想形。
上記「妙音・観世音」から「妙・観」の二文字を選び、
「世尊偈」に説かれる五つの音声の全てを、
そこに集約させたもの、これ即ち「妙観」と考えれば、
「澄心(ちょうしん)妙観(みょうかん)を得る」とは、
「自己の呼吸・内界・身体に耳を澄まし探究することで、
神秘にして偉大な音・声・旋律・響き・リズムの全て、
大音楽と一つに溶け合うことが出来る・・・。」



普段は気にも留めなかった額と、そこに書かれた五つの文字。
紐が切れて落ちてきたことで、否が応でもと申しましょうか、
その意味に想いを巡らせる事になり、
またまた浅はかな妄想の世界を彷徨ってしまいました。
しかしこれもまた何かの縁。
件の額は、紐を新しく付け替えて掲げ直します。
心澄みて

妙観を得る




このところワケあって足が遠のいておりました、

〈奥の細道〉ならぬ〈音の細道〉へ。
久しぶりに〈気の森〉に入れることが有り難く感じられ、

至らぬながらも、まずは一木一草への感謝を捧げます。
僅かな気温上昇と「三月に入った」という意識が結び合い、

微細に五感を震わせるのは早春の調べでしょうか。



さて数日前の就寝中、
ドドーンッ・・という音と共に何かが落ちてきました。
それがこちら

揮毫そのものは「かなり古い」と生前の両親から聞いており、
半世紀以上前から和室に掲げていた額ということもあって、
見れば額を支えていたが紐が、経年劣化のため切れていました。
揮毫されている「澄心得妙観」は、
「澄心(ちょうしん)妙観(みょうかん)を得る」
と読むのだそうです。
禅道と茶道という二つの道が交わる辺りに咲いた、
一輪の言葉として伝わると聞きます。
「心を澄ませば、妙観を得ることが出来る」・・・と、
そう言われても愚鈍なワタクシめにはピンと来ません。
そもそも「心」は澄んだり濁ったりするものなのでしょうか。
日常においては、
「心が折れる」「心が傷つく」「心が明るい」「心が広い」
「心が汚い」「心が弱い」「心を強く持て」等々と言われますが、
「心」に実体がなく実在物として取り出すことが出来ない以上、
「心」は折れたり傷ついたりする事が不可能であり又、
「心」に明暗・清濁・強弱・大小などあろうはずも無い・・・と、
「心」を「心」から尊びつつも、時折は、
「心」を疑わしいものとして感じるのであります。
では「澄心得妙観」に謳われる「澄心」とは何なのでしょうか。
古来、
心と身体は一つである・・として「心身一如」と説かれます。
そこで「澄心」を「澄身」と受け止めた時、
「澄心」の「澄(ちょう)」は「調(ちょう)」と重なり、
禅で重視される「調息・調心・調身」が浮かぶのであります。
『調息・調心・調身の三調を以って「妙観」を得る』
として、では「妙観」とは何なのでしょうか。
仏教用語事典等を紐解きますと「妙観察智」と絡めて、
「存在の相を正しくとらえ、仏教の実践を支える智慧」
などと書かれていたりもしますが、益々分かりません。



ここで少し道筋をそれますが、日本では古来、
「音楽」のことを「調(しらべ)」と総称し、
歌打管弦の作曲・演奏を「調ぶ・調べる」と呼び慣わしました。
近世から現在にあって「調べる」は、
研究や調査といった学問事象を意味しますが、
元々、現象の根源を「調べる」のは音楽でありました。
音楽は、まず以って耳を澄ますことを本義としますので、
先の「調息・調心・調身」を、
息を調べ、心を調べ、身を調べる事と考えれば、
自己の呼吸という音楽に耳を澄まし、
自己の内界という音楽に耳を澄まし、
自己の身体という音楽に耳を澄ます、
というようにも、いささか強引ながら解釈出来ます。
翻って現代、音楽の制作作業はスタジオで行われますが、
「スタジオ」の語源はラテン語の“ studium ”であり、
「勤勉・研究・調査」を意味し、その派生語が他ならぬ
“ study・スタディ ”であることを考え合わせますと、
洋の東西を問わず「音楽」とは「調べ」と「学び」であり、
大宇宙・大生命・大自然等々の探究手段であったことが、
自ずと透けて観えて来るようにも思えるのであります。



さて今一度「妙観」とは何なのでしょうか。
観世音菩薩・普門品・第二十五・世尊偈(せそんげ)の中には
『妙音(みょうおん)
観世音(かんぜおん)
梵音(ぼんのん)
海潮音(かいちょうおん)
勝彼世間音(しょうひ せけんのん)』
と、五つの音声(おんじょう)が説かれています。
中野東禅師の訳語をお借りしますと、
妙音:観音菩薩と共鳴し、不思議と人々を安らかにする音と声
観世音:世間の悲しみと痛みを包み抱える音と声
梵音:エゴと煩悩の苦しみを超えた清らかな音と声
海潮音:海鳴りのように全てを包んで許す音と声
勝彼世間音:人間世界の損得や利害を超えた音と声
(中野東禅著「観音経」講談社刊より取意)
ということであり、ここに示されているのは、
〈音の細道〉を行く者が目指したい音楽の理想形。
上記「妙音・観世音」から「妙・観」の二文字を選び、
「世尊偈」に説かれる五つの音声の全てを、
そこに集約させたもの、これ即ち「妙観」と考えれば、
「澄心(ちょうしん)妙観(みょうかん)を得る」とは、
「自己の呼吸・内界・身体に耳を澄まし探究することで、
神秘にして偉大な音・声・旋律・響き・リズムの全て、
大音楽と一つに溶け合うことが出来る・・・。」



普段は気にも留めなかった額と、そこに書かれた五つの文字。
紐が切れて落ちてきたことで、否が応でもと申しましょうか、
その意味に想いを巡らせる事になり、
またまた浅はかな妄想の世界を彷徨ってしまいました。
しかしこれもまた何かの縁。
件の額は、紐を新しく付け替えて掲げ直します。
心澄みて

妙観を得る



