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 ~ それでも世界は希望の糸を紡ぐ ~

早川太海、人と自然から様々な教えを頂きながら
つまずきつつ・・迷いつつ・・
作曲の道を歩いております。

フレデリック・ファンファーレ

2020-12-13 14:53:55 | 音楽
去る11月23日(月)、千葉市生涯学習センター・ホールにて、
ザ・ミューズウィンドオーケストラ(以下 TMWO)・
第8回定期演奏会が開催されました。

トロンボーン奏者でTMWO創立メンバーの笠川由之さんから、
その演奏会の模様を収めた映像を送って頂きました。
笠川さんは、演奏技術はもちろんのこと、人格に優れ、また、
企画・計画を実現させる実行力と継続力に秀でた人物で、
誠に「心・技・体」の三拍子が揃った演奏家であります。

今公演は、コロナ禍に在っての開催の為、
検温・マスク着用・アルコール消毒・3密を避ける等々、
感染予防対策が図られると同時に、公演中の定期的な換気、
手渡しでの接触を回避するため印刷物の配布中止、
演奏プログラムは〈QRコード〉からのダウンロードなど、
様々な工夫が施された上での演奏会であったと聞き及びます。

               

TMWO定期演奏会では、いつもオープニング・ピースとして、
拙曲“ フレデリック・ファンファーレ ”を演奏して頂いており、
心から感謝を申し上げるものであります。

2010年に開催された〈ラ・フォル・ジュルネ音楽祭〉は、その年が、
フレデリック・ショパン(1810~1849)の生誕200年という、
いわゆる「ショパン・イヤー」に当たった為、
音楽祭ではショパン先生の楽曲が特集されました。
“ フレデリック・ファンファーレ ”は、
その時の公式イメージ・ファンファーレとして、
ショパン先生の名曲から幾つかを編み込んで作曲致しました。

今回の演奏は、須藤卓眞先生の指揮によるものですが、
その音楽作りの明瞭さ、豊かさ、奥深さといったものが、
映像の視聴からだけでも、充分に伝わってきました。
“ フレデリック・ファンファーレ ”は、
1分30秒という短い尺の中、目まぐるしくも7回ほど転調します。
私は“ 意図 ”を持ってそのように作曲したわけですが、
須藤先生は、この“ 意図 ”を、
私が“ 意図 ”した以上に汲み上げ、TMWOの方々と共に、
音楽化して下さっています。



このファンファーレは、フィナーレに入る直前辺りで、
テューバ・ユーフォニアム・コントラバスという低音楽器により、
♪ファ~ド・ドー♪という4度下降音型が奏されます。
音名アルファベットで“ F ”→“ C ”という流れで、
これは“ Frédéric Chopin ”の頭文字。

ショパンという音楽史上の巨星に対する、
早川なりの敬意を楽譜の中に潜ませていることを、
多少なりとも面白く感じて頂けましたら幸いに存じます。




              









新しい明日へ ~ 気ノ森 編

2020-11-01 14:48:22 | 音楽
10年以上前に作りました楽曲「新しい明日へ」。
自身の動画チャンネル上で、既に公開済みの楽曲ですが、
作曲当時、別ヴァージョンも作成しており、
今回、気ノ森の風景と合わせてみました。
御視聴いただけましたら幸いに存じます。



               

上掲楽曲・冒頭の歌詞は、新約聖書に記され、
〈コリント人への手紙〉第1の第13章に記された一節。

『このように、いつまでも在り続けるのは、
 信仰と希望と愛の三つであり、
 これらの中で最も尊いのは愛である。』

ここで謳われているのは男女の“ 愛 ”ではなく、
より大きな“ 人間愛 ”なのでありますが、一般的に、
“ 愛の賛歌 ”として広く世の中に知られているものであり、
私自身、読む度に名状しがたい感銘を受けます。
只、歳月の河を下る内には、
この「感銘を受けている」自分というものを客観的に眺めては、
一体、自分が何に感銘を受けているのか?・・・という辺りを、
自らの心に問うようにもなりました。

そうして浮き彫りになってきたのは、
自分は“ 愛 ”に「感銘を受けている」のではなくて、
“ 愛について ”説かれた言葉と、
“ 愛 ”という抽象語がもたらす雰囲気やイメージ的なものに、
酔っているに過ぎない・・・ということ。

               

そもそも“ 愛 ”という言葉の意味するところは実に広大で、
試みに広辞苑・第六版を引いてみますと、そこには、

1、親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生物への思いやり。
2、男女間の、相手を慕う情。恋。
3、かわいがること。大切にすること。
4、このむこと。めでること。
5、愛敬(あいきょう)愛想(あいそ)
6、仏教においては、愛欲。愛着。渇愛。強い欲望。十二因縁では、
  第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的にみられる。
7、キリスト教で、神が、自らを犠牲にして、
  人間をあまねく限りなく いつくしむこと。

と書かれています。私自身は、
これを読んで“ 愛 ”の片鱗なりともが分かるというよりは、
これだから“ 愛 ”は分からない、というのが正直なところ。

“ 愛 ”は、言葉で理解するものではなく実感するものであり、
“ 愛について ”や“ 愛の周辺 ”は言語化され得たとしても、
“ 愛 ”は、言語化が不可能なものなのでありましょう。

先に触れた〈コリント人への手紙〉の一節も、これは、
あくまでも“ 愛について ”書かれた文言であって、
当然のことながら“ 愛 ”そのものではありません。
先人の遺した言葉の数々は、闇路を照らす灯火、鍵、地図、ヒント、
羅針盤、暗号等々といった、言わば優れたアイテムの数々。

肝心なのは、アイテムを駆使して“ 道 ”を歩むことなのですが、
アイテム自体(古典・名言・箴言の数々)が素晴らしいと、
私などはアイテムに酔い、アイテムを手にして事足れりとし、
肝心の“ 道 ”を忘れるのであります。

               

音楽はどうでしょうか。
音楽も又、音楽についての歴史・理論・解釈・意味などに、
千言万語を費やしたところで音楽に触れることは出来ません。
音楽は、実際に音楽を聴く、奏でる、作る、といった、
音楽行為の中に心と身体を置いている時にのみ、
現れては消え、消えては現れるもの。

“ 愛 ”について読んだり語ったりすることと、
“ 愛 ”を行い“ 愛 ”に生きることとが、
全くの別事象であることを想い合わせてみますと、
“ 愛 ”と“ 音楽 ”は、その性質において同義であり、
“ 愛 ”と“ 音楽 ”は、ほぼ同体と察せられます。


in silent harmony and endless symphony,

I pray to gods for shining on your way !


                   







気ノ池の蓮

2020-08-23 15:35:33 | 音楽
以前、自身の動画チャンネルにアップした楽曲の中に、
“ LOTUS ~蓮~ ”という小品があります。
当時は関東に在住しており、
その時の動画内写真は、東京・台東区・上野の地に水を湛える、
不忍池(しのばずのいけ)の蓮でありました。
その後愛知県に転居し、現在住まいしております場所の近くには、
江戸時代に造られたと伝わる灌漑池を中心とした緑地が広がり、
建造物規制区域ということもあって、僅かながらも自然が残ります。

笑止なことではありますが、
この灌漑池を“ 気ノ池 ”、周辺緑地を“ 気ノ森 ”と呼んで、
セルフ・リカヴァリーの場所としていることは、
当ブログにて折に触れ書かせて頂いておりますところ。

“ 気ノ池 ”の一角では、蓮が花期を終えようとしています。
その場所は、ワタクシめの短い足で十歩四方程度の小さなエリアで、

不忍池や大賀ハスで有名な千葉公園等々といった、
広大壮麗な蓮池の景観には比すべくもありません。

しかしながら古来、蓮という花は、
その美しく咲く姿を観賞するだけの花、というより、
それを美しく咲かせているものは何か?といった形而上的世界に、
観る者の意識をいざなう花、という側面を持ちます。

そういう意味では、早朝などの時間帯、
ほとんど誰も訪れることのない“ 気ノ池 ”の一角は、
そこに命を営む蓮の声に耳を澄ませる環境としては、
願ってもない場所と言えます。





今年は気候の影響か、花が少なく、蕾の映像に偏っていますが、
“ 気ノ池 ”の一角に揺れる蓮の姿を御覧頂きたく存じます。


ソプラノ:新藤清子   作曲:早川太海

               

ご承知置きの通り、蓮はインドを原産とし、
仏教もまた、古代インドに発祥しました。
仏教が成立した最初期の経典「スッタニパータ」には、

『汚水に染まらない 蓮の華のように・・・』

と記され、既に仏教と蓮との深い関係性が見て取れます。

こうした初期経典内の記述を始めとして、仏教は、
汚泥・汚水に浸かりながらも美しい花を咲かせる蓮の姿に、
その教えを託してきました。

しかしながら、お盆休みの間、毎朝“ 気ノ池 ”を訪れ、
蓮の花のみならず、蓮が根を下ろしているところの、
汚泥・汚水を眺め続けております内に、
「汚泥の中に在ってさえ、蓮は美しく咲く・・・」
「汚水の中に浸かって尚、蓮は浄らかに歌う・・」
という教えの中の、
「汚泥の中に在ってさえ」「汚水の中に浸かって尚」という辺りに、
いささか異なった考えを巡らせるようになりました。

蓮が生息している場所の水なり環境なりというものは、
確かに濁りがひどく、澱んでいて汚いのですが、

いかに濁ろうとも、どれほど汚かろうとも、
汚泥が蓮を育み、汚水が蓮を咲かせていることは、
紛れもない事実として目の前に広がっています。

汚泥の、汚水のと、
あたかも厭うべきもの、染まらざるべきものとされていても、
汀に佇み、それら汚泥・汚水を眺めていて分かるのは、
汚泥・汚水を構成しているものの何割かは、
蓮の花、茎、葉、花托等々が散り落ち、或いは枯れ落ちて、
水中で腐敗分解する過程で生じているものでもあるということ。
つまり「汚泥・汚水」と呼ばれるものは、
かつて「蓮」と呼ばれたものによって作られ、そこでは、
やがて「蓮」と呼ばれるものが育まれている、ということ。

               

もっとも、仏教が蓮に託しているところは、
不安や苦悩の絶えることなき現実世界に在りながらも、
〈道〉を求めてゆこう、という仏道精神の象徴的役割であり、
私が池畔で巡らせたような考えは、浅慮に過ぎません。

只その上で、仏教が説くところの、
「汚泥の中に在ってさえ、蓮は美しく咲く・・・」
「汚水の中に浸かって尚、蓮は浄らかに歌う・・」
という大きな光明と共に、
「汚泥の中に在るからこそ、蓮は美しく咲くことができる・・・」
「汚水の中に浸かってこそ、蓮は浄らかに歌うことができる・・」
という小さな燈明も又、わが心の片隅に灯しておきたいと、
そのような想いを抱くものであります。




              








アジサイは〈水の器〉

2020-06-21 15:18:50 | 音楽
東海地方も梅雨入りしてから一週間以上が過ぎました。
大気中に増してゆく水はアジサイの喉を潤し、

アジサイは花の球を揺らして水に応えます。


紫陽花は英語で“ Hydrangea ”。

“ Hydrangea ”の語源は、ギリシャ語の、
“ hydro(水)”と“ angeion(器)”の合成語なのだそうで、
“ Hydrangea ”とは、つまり〈水の器〉。
     

そう知ってみますと“ Hydrangea/水の器 ”という名前からは、

この植物と雨期との関係性や、
この植物と水との親和性が伝わってくるように感じられます。


梅雨の時期、とかく心は湿りを帯び、気持ちも曇りがちですが、
雨期がなければ作物は育たず、
水がなければ生命は存続し得ない事を想えば、

〈水の器〉の意を秘めた紫陽花に心惹かれるのは、
唯その花が美しいから・・・というだけではなく、
もしかしたら紫陽花と触れ合う度、自身では気付かずとも、
“ 水 ”に生かされていることの不思議さや、
“ 水 ”という〈命のふるさと〉への思慕といったようなものが、
意識の奥深いところに、小さく灯るからなのかも知れません。

               

関東在住時に作曲しました組曲「うつろい」から〈紫陽花の章〉。
何年か前、既に動画サイトに上げた楽曲ですが、
楽曲はそのままに、映像は今月の紫陽花を幾つか並べてみました。
御視聴頂けましたら幸いに存じます。

組曲「うつろい」より“ 紫陽花の章 ”


組曲「うつろい」は、今のところ、
桜・紫陽花・キンモクセイ・コスモスの4曲がありますが、
構想としては、あと8曲が加わっての全12曲。
作曲に取り掛かれる日が来るのかどうかさえ分かりませんが、
それもこれも“ うつろい ”のままに。


              








聖地巡礼 Ⅱ ~ 城山八幡宮 ~

2020-06-07 15:33:08 | 音楽
デパートの入り口に座る百獣の王もマスクを着用。


               

室町時代末期、天文十七年(1538)、
織田信長(1534~1582)の父、織田信秀(1511~1552)が、
尾張国・愛知郡・末森(末盛とも)の地に築いたのが末森城。
信秀は末森城を拠点として織田家の勢力を養い、その逝去後は、
信長の弟・信勝(生年不詳~1558)が城主となるものの、
信勝は、兄の信長と尾張の覇権を争った後、討ち取られます。
(信勝には、他に信行・達成・信成等の名前があります。)

現在、城山八幡宮が建つ場所は、その末森城の跡地だそうで、
〈お堀〉など、それと察せられる遺構が歴史を今に伝えています。
八幡宮の前身は、創建を五百年ほど前に遡ることが出来るとされ、
現在の城山八幡宮には、
八幡神(応神天皇・神功皇后・仲哀天皇の御神霊)の他に、
明治時代に合祀された何柱もの神々が鎮座しておられます。
主だった神々としては、
木花開耶媛命(このはなさくやひめのみこと)
大山祗神(おおやまつみのかみ)
菊理媛命(くくりひめのみこと)
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
伊邪那美命(いざなみのみこと)

上記のうちの一柱“ 菊理媛命 ”は、
先の信勝が、加賀国(石川県)白山比咩神社から勧請し、
末森城内に祀っていた分霊を引き継いだものと聞き及びます。

実の親子兄弟が命を奪い合う戦乱の時代、
争いたくなくとも争わざるを得ない人間の業、
時の移ろいにかかわりなく営まれる人々の暮らし、
繰り返される平穏と不穏、それでも明日を信じる心、
時と場所を超えて祀られる神々、人々の祈り・・・、

城山八幡宮を参拝する度、

“ 全ての場所には歴史があり、全ての人には物語がある ”

この想いを強くするものであります。

御視聴頂けましたら幸いに存じます。

背景音楽には、2007年に作曲したストック楽曲を使用。

動画中には〈連理木〉が登場します。御承知置きの通り、
〈連理木〉は、概ね一つの根から生え育った樹木の幹なり枝なりが、
一旦は別方向に分かれ伸びるも、再び繋がり融合する樹態の総称で、
その姿が、人智を超えた運命や巡り合わせの不思議さを想わせ、
古来より“ 縁結び ”の願いを託されてきました。

城山八幡宮の〈連理木〉は、霊験あらたかと伝わります。