以前も書いたが、今季唯一楽しみにしているドラマが、生田斗真主演の「遅咲きのヒマワリ……」だ。
昨晩もこのドラマを見ていた。
あそこで描かれている風景は、僕の心の奥底をくすぐる。
四万十市(旧中村市)が僕の出自であることは以前も書いたが、
あの山間の荒れた果てた田んぼや生田斗真と真木ようこが語り合っていた海辺、何よりあの四万十川を渡る橋は、子供だった自分を思い出させるのだ。
実はこれまで自分の子供時代のことなど考えることなどほとんどなかった。
事実、あまり子供の頃の記憶がない。
何をして遊んでいたのか、何が好きだったのか、何になりたかったのか……。
旧中村市の山間田舎の家の庭先で水遊びに興じている写真があった。それは実に楽しそうに笑っている。おそらく3~4歳くらいのものだと思う。その記憶などは当然ない。記録として残っているだけ。
記憶にあるのは小学校3年生の夏休みを旧中村市で過ごしたことだ。その時の記憶とドラマで描かれている舞台の雰囲気はほとんど変わっていない。
もちろん、道はきれいに舗装されているし、街もそれなりにきれいになっている。多分、当時は国仲涼子がパートをしているようなスーパーなどはなかったと思う。
でも、心象風景としては全く変わっていないのだ。
以前に高校2年生の時に、友人たちを連れて旧中村市の実家で過ごしたことを書いたが、その時に見た記憶とも変わっていないのだ。
その記憶ははっきりとしている。
あの時、おそらく僕らは、生田斗真と真木ようこが語り合っていた海辺で遊んだはずだ。記憶にある海辺の風景と全く変わっていなかった。
あのドラマに描かれているのは、田舎の街に住むことを余儀なくされた、というか選ばざるを得なかった(もしくは自ら選んだ)人たちの、どこか行き詰まった生活感だ。そこでもがく、もう若いとは言えない中途半端な年代の男女のやりきれなさ。
そこに留まることの何とも言いようのない辛さを感じつつも、そこから足を踏み出すような勇気を持たない、そして踏み出すにはもう遅いと感じてしまう、30代というそんな中途半端な年代の焦燥感と喪失感をともなった心情がきちんと描かれていると思う。
事実、数年前にお墓を移すために四万十市を訪れた時に、街にはそのような空気感が漂っていた。
それだけに、決して新しくも、奇抜さもない、ある意味で陳腐とも言えるシナリオでも僕の心の奥底に響いてくるのだ。
そこに住んだこともないし、住んでみようと思ったこともないのだけれど、でも気持ちは分かってしまうのだ。なぜか……。
話は変わるが、あのドラマで俳優たち、特に桐谷健太の話す土佐弁は本当に上手い。方言指導の人がきちんとしているのだろう。
だから、余計に僕はそこに懐かしさを含めた様々な感情を持って観ることが出来るのだと思う。
某国営放送の朝のドラマとは大違いだ。
それだけ、方言というもの、言葉の響きは大切なのだ。
特に方言を知っている人にとっては。
そんなドラマも来週最終回を迎えるという。
まあ、エンディングはテレビドラマによくあるパターンのいくつかの中のひとつに当てはまるようなものであろうことは想像出来るのだけれど、
それでも楽しみに来週の火曜日待っている。
昨晩もこのドラマを見ていた。
あそこで描かれている風景は、僕の心の奥底をくすぐる。
四万十市(旧中村市)が僕の出自であることは以前も書いたが、
あの山間の荒れた果てた田んぼや生田斗真と真木ようこが語り合っていた海辺、何よりあの四万十川を渡る橋は、子供だった自分を思い出させるのだ。
実はこれまで自分の子供時代のことなど考えることなどほとんどなかった。
事実、あまり子供の頃の記憶がない。
何をして遊んでいたのか、何が好きだったのか、何になりたかったのか……。
旧中村市の山間田舎の家の庭先で水遊びに興じている写真があった。それは実に楽しそうに笑っている。おそらく3~4歳くらいのものだと思う。その記憶などは当然ない。記録として残っているだけ。
記憶にあるのは小学校3年生の夏休みを旧中村市で過ごしたことだ。その時の記憶とドラマで描かれている舞台の雰囲気はほとんど変わっていない。
もちろん、道はきれいに舗装されているし、街もそれなりにきれいになっている。多分、当時は国仲涼子がパートをしているようなスーパーなどはなかったと思う。
でも、心象風景としては全く変わっていないのだ。
以前に高校2年生の時に、友人たちを連れて旧中村市の実家で過ごしたことを書いたが、その時に見た記憶とも変わっていないのだ。
その記憶ははっきりとしている。
あの時、おそらく僕らは、生田斗真と真木ようこが語り合っていた海辺で遊んだはずだ。記憶にある海辺の風景と全く変わっていなかった。
あのドラマに描かれているのは、田舎の街に住むことを余儀なくされた、というか選ばざるを得なかった(もしくは自ら選んだ)人たちの、どこか行き詰まった生活感だ。そこでもがく、もう若いとは言えない中途半端な年代の男女のやりきれなさ。
そこに留まることの何とも言いようのない辛さを感じつつも、そこから足を踏み出すような勇気を持たない、そして踏み出すにはもう遅いと感じてしまう、30代というそんな中途半端な年代の焦燥感と喪失感をともなった心情がきちんと描かれていると思う。
事実、数年前にお墓を移すために四万十市を訪れた時に、街にはそのような空気感が漂っていた。
それだけに、決して新しくも、奇抜さもない、ある意味で陳腐とも言えるシナリオでも僕の心の奥底に響いてくるのだ。
そこに住んだこともないし、住んでみようと思ったこともないのだけれど、でも気持ちは分かってしまうのだ。なぜか……。
話は変わるが、あのドラマで俳優たち、特に桐谷健太の話す土佐弁は本当に上手い。方言指導の人がきちんとしているのだろう。
だから、余計に僕はそこに懐かしさを含めた様々な感情を持って観ることが出来るのだと思う。
某国営放送の朝のドラマとは大違いだ。
それだけ、方言というもの、言葉の響きは大切なのだ。
特に方言を知っている人にとっては。
そんなドラマも来週最終回を迎えるという。
まあ、エンディングはテレビドラマによくあるパターンのいくつかの中のひとつに当てはまるようなものであろうことは想像出来るのだけれど、
それでも楽しみに来週の火曜日待っている。