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日々あれこれ思いつきメモ

日記というよりもメモ? そんな思いつきを書いただけ……。

理想と現実の間

2012-12-12 09:48:07 | 日記
大きな理想を語るものほど、その理想から遠ざかっていくという人の姿を、
これまで嫌というほど目にしてきた。
大きな理想を語るものほど、なぜかその逆の行動をとってしまう。
そんな人間を嫌というほど目にしてきた。

それは、現実の姿を知らずに理想を語るからだ。
現実を知らぬものは、自身がその現実に飲み込まれていることに気づいていない。
だから、理想だけが独り歩きをしていく。
それほどやっかいなことはない。
そして、そんな人間はすべて自分が正しいことをしていると思い込んでいる。
何度もいうが、そんな人間は自分が理想に向かって突き進んでいるつもりになっているだけで、
実際は現実の中に取り込まれていることに気づいていないのだ。

しかし、理想というものは語ることによってのみ実現するものだと思う。
だから語ること、言葉を持つことは必要なことだ。
ただ、多くの場合、人はその理想に飲み込まれ、囚われ、そしてその苦しさから逃げ出そうとする。
だから、言葉と行動が乖離していくのだと思う。

僕自身、それほど大層なことを言えるほどの人間ではないことが重々承知している。
しかし、できるだけ言葉と行動が乖離していかないようにということは心がけている。
つまり、できるだけ大きな理想を語らないで、大きな理想はココロに秘めて、
そこに向かうに当って、まず出来ることを言葉に残すということに決めている。
とはいえ、なかなかそう上手くもいかず、逆に言葉が足りないということもあったりするのだが……。

ただ、僕が思うに理想を語るものはそれだけの覚悟を持って語らなければいけないのだということだ。
それは一個人に限った話ではない。集団になれば尚更だ。
くしくも、そのことを民主党が証明した。

ある理想を持って集団を率いていこうとするものは、言葉を尽くさなければいけないと思う。
言葉を尽くすということは、責任を持つということだ。
しかし、残念ながら、今の日本には理想(=言葉)と現実が乖離、時に真逆であることがとても多い。

いったいいつから人は言葉に責任を持たなくなったのだろうか?
僕は自戒も含めて、そのように思ってしまう。
特に最近はそのようなことばかりが続いているように感じてしまう。

しかし、なげくだけでは何も改善しないし、何も始まらない。
僕も自分の言葉を持って、それを実現すること。
理想と現実の距離を近づけていくことを改めてココロに誓わなければいけないと思っている。
そのためには、理想を曲げるのではなく、現実との距離感を徐々に近づけていくという心がけが必要だ。

今、僕らは間違いなく理想と現実の狭間を漂っている。
漂ってしまうからこそ、迷い、悩み、怒り、落胆するのだ。
これからは漂うことをやめようと強く思う。

出会いについて

2012-12-02 11:06:40 | 読書
出会いには能動的な出会いと受動的な出会いがあるような気がする。
例えば、本との出会いと音楽との出会いの違いがまさにそうだ。本と出会うためには、書店、もしくは図書館などへ行き、興味を抱きさらにそれを手に取るところから始まる。もちろん、たまたま書評などで見かけてという場合もあるが、それでもその書評を無視するのではなく、読むということが必要だ。
一方、音楽との出会いの場合は受動的な場合が多い。音楽はふと耳にすることがよくある。それはテレビ・コマーシャルだったり、ラジオであったり、たまたま入ったお店のBGMに使われていることもあるからだ。
僕の場合、ベベル・ジルベルトなどはまさにそんな出会いだった。

もう何年前になるだろうか。僕がまだ30代前半だった頃、少し長めに休みをもらうことができたので、パリに2週間行く事にした。仕事でパリに行ったことは幾度かあったが、多分プライベートでパリに行ったのはその時が初めてだったと思う。何か目的があったわけでもなく、アパルトメントを2週間借りて、ただブラブラしていただけ。
当時の僕にとって、パリはなぜかリラックス出来る場所だった。
5冊の本と着替えだけをスーツケースに詰めて出かけたのだった。

滞在したアパルトマンはレ・アール地区にあった。そこからならば、ポンピドー・センター、ピカソ美術館、ちょっと頑張ればルーブルにも徒歩で行けるような便利な場所だった。
特に、どこへ行くという計画も立てていなかった。あえて計画といえば、その日の気分で動くということ。
思うに、その2週間はほとんどどこにも行かなかった。出かけたのは、食事が目的。どこそののレストランに行くとか、フォーを食べに行くとか、中華(中華と言っても、日本の食堂的な中華。つまり本格的な中華料理でないところ)に行くとか。そんな感じだった。
ただ、ほぼ毎日行ったのが、近所のカフェ。まだオープンしたばかりのようで、あまりお客さんがいなかった。そもそも、場所も悪いと思ったのだが……。
僕は朝起きると、本を1冊持ってそのカフェに出かけた。そこで1杯(ダブルで頼んでいたけど)コーヒーとタバコで午前中を過ごした。そこが気に入ったのは、歩いて1~2分という場所、混んでいない、好みの音楽が流れているからだった。
そこで流れいたのが、ベベル・ジルベルトだった。
ベベル・ジルベルトはあのジョアン・ジルベルトの娘。さすがに歌はうまいし、何よりもセンスがいい。でも、僕は知らなかったので、カタコトの英語でそのカフェのマスター(?)に聞いた。
「今、流れているのは何?」
すると、彼は何も言わず、CDのケースを差し出した。
「メルシィ」と言ってそのCDケースを返して、読みかけの本に戻ったのだが、その午後のスケジュールは決まっていた。CDを買いに行くこと。
これもちょっとした偶然の、つまり受動的な出会いといえるだろう。以来、ベベル・ジルベルトの『Tanto Tempo』は僕の愛聴盤となった。

順序が逆になってしまったが、能動的な出会いといえば、やはり本だ。子供の頃、お小遣いはちょっとしかもらえなかった。でも、本だけは別に買ってくれた。以来、本を読むことが好きになっていた僕は、1冊読み終わると本屋に次に読むものを探しに行くというのが習慣となっていた。なぜ図書館に行かなかったのだろうかと、今は思うのだが、とにかく行く場所は本屋だった。本屋に行くとまず雑誌を立ち読みした。中学生の頃はサーフィン誌、高校生の頃はファッション誌、大学に入るとファッション誌と情報誌を立ち読みした。それから小説のコーナーに向かって、買う本を探すのだった。
確か高校生の頃だったと思う。タイトルだけで惹きつけられた本があった。それが『風の歌を聴け』。
なんだか分からないけど、その語感のかっこ良さに惹かれた。
実は、それまでは古い文学をメインに読んでいた。いわゆる名作と呼ばれたもの。たまに、暇つぶしに現代文学だったのが、村上春樹を読んでからは、それが逆になった。
そして行き着いた先がアメリカ現代文学だった。ポール・オースター、スティーブ・エリクソン、スティーブン・ミルハウザー……、ちょっとだけさかのぼってトマス・ピンチョンなども。
これは自分で調べて、探して出会った本(作家)だった。
雑誌の編集という忙しい仕事をしていた僕は、本を読む時間を取るために、わざわざ通勤時間に1時間程度かかる場所を選んで住んでいた。その通勤時間、往復2時間を読書の時間に当てていたのだった。

沖縄に住んでからは、その時間を取ることができない。それが唯一の不満といえば不満だ。本を読むときは、どこかのカフェに行って(最近はタバコを吸うことができる場所も少ないので、ドトールが多くなったのだが……)、本を読んでいる。

そういえば、最近はそこまで惹かれる本に出会えていない。
たまにジュンク堂に行くのだけれど、見ているだけで疲れてしまったりするのと、つい仕事に関連するような本を探してしまうからだろう。僕自身が能動的でなくなったのかもしれない。
多分、僕の知らない素晴らしい作家がいるに違いないということを願って、明日本屋に行ってこようと思っている。


沖縄との出会い、沖縄民謡との出会いについて書こうと思っていたのだけれど、結果として全く沖縄と関係のない内容になってしまった……。
次こそ、沖縄について書こうと思う。