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日々あれこれ思いつきメモ

日記というよりもメモ? そんな思いつきを書いただけ……。

編集という作業について~病院の待合室にて

2014-07-10 11:17:24 | アート

今、僕の興味は「編集をしない」ということにある。

「編集をしない」というのは、「生」なものを「生」のままで出すことが出来ないかということだ。
もちろん、編集をしなければ本も雑誌も映画もテレビも何もかもが成り立たなくなる。
そんなことは百も承知だ。一応編集者という仕事をしていたので。
以前、ドキュメンタリーについて書いたことがあったけれども、編集と作業は白いものを黒くも出来るし、右のもにを左にも出来る。
つまり、作為がどうして見えてしまうということだ。
僕はその作為が見えないようにしたいというのではなくて、作為自体がないものを作ってみたいと思うのだ。
もちろん、整えたりという作業はどうしても必要になる。
でも、出来る限り手を触れないというカタチのものが出来ないかを模索している。

ムリな話と言われるだろうことは重々承知している。
でも、なぜ編集をしないといけないのかと言えば、それはページ数が決まっているから、時間が決まっているからだ。限られた中でいかにいいものを作るか、それが編集の仕事だ。

一時期、編集というものがもてはやされた時代があった。
思想哲学のテーマにもなって語られたこともある。
その頃、僕は編集することでさまざまな表現が出来るを信じていた。
全てを編集することで新しいものを作ると。
言って見れば、音楽でいうリミックスみたいなものだ。
でも、本質の部分では音楽のリミックスと近い部分はあると思っているのだが、出来上がって来るものには大きな差があることに気づいた。
そこには臨場感というものがない。
音楽の場合はライブとかクラブなどでカラダを通して感じることが出来る。
でも、他の編集を必要とされるものには、どうしても臨場感というものが欠けてしまう気がする。
まあ、映像の場合はどうとでも演出が可能なので臨場感を作り出すことは出来る。
でも、やはりそこには作為が存在する。
紙媒体の場合はさらに難しい。
発想豊かな優秀な編集者ならば可能なのかもしれないけれど、僕のように平凡な編集者にはムリな話しだ。

そこで、今考えているのが、最初に言った「編集をしない」ことだ。
構成はする。無秩序では何も伝わらないから。
おそらく電子媒体をきちんと構成さえすれば、それに近いものが出来るのではないかと思っている。
電子媒体の本質は、例えば映像を載せられるとか、音声を載せられるとかそんなところにあるのではないという気がしている。
それはあくまでも付属、おまけみたいなもので、出来る限り「生」であること再現することが出来るのではないかと考えているのだ。
なぜなら、上限はあるけれど、その上限は紙媒体や映像などと比べてはるかにゆるい。
もちろん、ダウンロードにかかる時間や3Gでは厳しいなどという問題は存在するが、表現として自由度は比較的高いのではないかと思っている。

もちろん、膨大な分量の文章を読むとか、何百枚もの写真を見るとうことは苦痛に。
でも、編集するのではなく、整理して構成をきちんとして見る側が好きなものだけ、興味のあるものだけをセレクト出来る仕組みさえ作れば、「生」そのものはムリかもしれないけれど、それに近づくことが出来るのではないかと思っている。

読む側はセレクトを出来る仕組みさえ作れば、文章はどれだけ長くてもいいし、写真をどれだけ使ってもいい。
上限さえ越えなければ。
そうすれば、ちょっとした言葉の機微みたいなものを再現出来るのではと思っている。

僕は編集と作業をやめて、構成・整理に徹したモノを作ってみたい。
作為ではなく、意図のあるものを。


「会田誠展:天才でごめんなさい」

2013-02-13 11:35:52 | アート
会田誠と会ったのは2007年に上野の森美術館で開催された、山口晃との共同展「アートで候」の時だった。
あれからもう6年も経つ。その6年の間の彼の作品の進化を目の当たりにしてきた。
今、その時に自分が書いたインタビュー記事を読み返している。
なかなか面白いこと書いているなと自画自賛しつつ(笑)。

作品は進化しているが、彼の考えは一貫して変わっていないことも分かる。
当時、彼はこんなことを言っていた。
「僕の作品は本当は僕が作らなくてもいいものなんだけど、だれも作ってくれない。でも
現代の日本にあるべきだよなと思うから……」と。
実際、彼はキュレーターとしても類稀なる才能を発揮している。新しい才能を見つけ出し、それを世の中に出すという手腕は専門のキュレーター以上だ。
今回の展覧会でもその過程を展示していて、それはとても興味深いものだった。

会田誠は常に作品にストーリー性を求めていた。
それは会田誠以前の美術にはなかったもの。ある意味でタブーに近いものだった。
以前の美術と言えば、瞬時の美しさ、瞬間の美しさ(あるいは醜さ)を表現するものだった。その表現方法は進化していってはいたが、表現する対象は変わらなかった。
そこで、会田誠は漫画や小説などの表現からはじめていったのだ。
そしてそれ自体を作品化していったのだ。

会田誠の作風は固まっていないという人がいる。
確かに、その作風はさまざまで、精緻な筆致で描かれる屏風画があるかと思えば、美少女のフィギアがあったり、エログロとしか表現の出来ない絵画、まるで子供が描いたような筆致の水彩画……。
それは、先に彼が言った「現代の日本にあるべきもの」だからだ。
そして、それらの作品はすべて現代社会へのある種の警告を意味している。
歪んだ社会、文化を誇張して見せている。
ゆえに、テーマもさまざまなのだ。

それにしても、やはり彼は天才だと思う。
タイトルに誇大表現はない!

現代美術の伝えるものーーヤノベケンジ

2013-01-15 00:10:35 | アート
現代美術というと難しいというイメージを持っている人が意外と多い。
それはなぜか? 現代美術のアーティストたちは現代のあらゆる問題を一つの作品にして伝えようとしているからだ。
そして、その一つの作品をどう読み取っていいのかが分からないから難しいと感じるのだ。

でも、彼らが作品を通して伝えようとしているものは非常に単純であることが多い。一つの作品に多くのことを詰め込もうとしてはない。ほとんどのアーティストたちは、ただ一つの、現代社会が抱える問題を表現している。
特に現代美術を牽引している人たちはそうだ。

僕は編集者時代に数多くの現代美術のアーティストたちと接してきた。
彼ら、彼女らは現代だけでなく、現代の問題をそのままにしていたらおそらくこんな事態が起こりえるであろう未来の姿を予測していた。そして、それももちろん作品の中に盛り込まれているのである。

取り上げる題材はもちろん人それぞれ違う。
インタビューや取材を通して印象に残った人はたくさんいるが、今回はヤノベケンジ氏を特に取り上げたいと思う。
もちろん、時節柄も考慮してのことだ。
ヤノベケンジはチェルノブイリ以降、放射能汚染を題材にずっと作品を作り続けてきた人だ。ガイガーカウンターを設置した防護服などを作品化していた。それは一作品としてもとても魅力的で完成度の高い作品だった。

彼の言葉に「どこで起きてもおかしくない」という趣旨のものがあったのを何となく覚えている。今手元に自分が書いた原稿がないので、正確な発言を記すことが出来ないのだが。
そして、彼の言っていたことが現実になってしまった。
彼が十数年もかけて、警鐘を鳴らせ続けていたことが。

一体、今ヤノベケンジはどのように思っているのだろうか?
今、彼の作品はより進化し、今その一部はYOU YUBEなどで見ることが出来る。彼は、チェルノブイル以降、原子力への警鐘を鳴らすとともに、原子力以降の世界を模索していた。それはある意味、一度破壊されてしまった世界の再生とでもいおうか。

その原子力以降の世界の一部が作品となって発表されている。
ヤノベケンジを知らない人はぜひ一度見てほしい。

今後はこのブログでアートや建築などにも触れて行きたいと思っている。
次回は草間彌生さんか横尾忠則さんあたり、もしくは会田誠さんのことで何か思い出したら……。