今、僕の興味は「編集をしない」ということにある。
「編集をしない」というのは、「生」なものを「生」のままで出すことが出来ないかということだ。
もちろん、編集をしなければ本も雑誌も映画もテレビも何もかもが成り立たなくなる。
そんなことは百も承知だ。一応編集者という仕事をしていたので。
以前、ドキュメンタリーについて書いたことがあったけれども、編集と作業は白いものを黒くも出来るし、右のもにを左にも出来る。
つまり、作為がどうして見えてしまうということだ。
僕はその作為が見えないようにしたいというのではなくて、作為自体がないものを作ってみたいと思うのだ。
もちろん、整えたりという作業はどうしても必要になる。
でも、出来る限り手を触れないというカタチのものが出来ないかを模索している。
ムリな話と言われるだろうことは重々承知している。
でも、なぜ編集をしないといけないのかと言えば、それはページ数が決まっているから、時間が決まっているからだ。限られた中でいかにいいものを作るか、それが編集の仕事だ。
一時期、編集というものがもてはやされた時代があった。
思想哲学のテーマにもなって語られたこともある。
その頃、僕は編集することでさまざまな表現が出来るを信じていた。
全てを編集することで新しいものを作ると。
言って見れば、音楽でいうリミックスみたいなものだ。
でも、本質の部分では音楽のリミックスと近い部分はあると思っているのだが、出来上がって来るものには大きな差があることに気づいた。
そこには臨場感というものがない。
音楽の場合はライブとかクラブなどでカラダを通して感じることが出来る。
でも、他の編集を必要とされるものには、どうしても臨場感というものが欠けてしまう気がする。
まあ、映像の場合はどうとでも演出が可能なので臨場感を作り出すことは出来る。
でも、やはりそこには作為が存在する。
紙媒体の場合はさらに難しい。
発想豊かな優秀な編集者ならば可能なのかもしれないけれど、僕のように平凡な編集者にはムリな話しだ。
そこで、今考えているのが、最初に言った「編集をしない」ことだ。
構成はする。無秩序では何も伝わらないから。
おそらく電子媒体をきちんと構成さえすれば、それに近いものが出来るのではないかと思っている。
電子媒体の本質は、例えば映像を載せられるとか、音声を載せられるとかそんなところにあるのではないという気がしている。
それはあくまでも付属、おまけみたいなもので、出来る限り「生」であること再現することが出来るのではないかと考えているのだ。
なぜなら、上限はあるけれど、その上限は紙媒体や映像などと比べてはるかにゆるい。
もちろん、ダウンロードにかかる時間や3Gでは厳しいなどという問題は存在するが、表現として自由度は比較的高いのではないかと思っている。
もちろん、膨大な分量の文章を読むとか、何百枚もの写真を見るとうことは苦痛に。
でも、編集するのではなく、整理して構成をきちんとして見る側が好きなものだけ、興味のあるものだけをセレクト出来る仕組みさえ作れば、「生」そのものはムリかもしれないけれど、それに近づくことが出来るのではないかと思っている。
読む側はセレクトを出来る仕組みさえ作れば、文章はどれだけ長くてもいいし、写真をどれだけ使ってもいい。
上限さえ越えなければ。
そうすれば、ちょっとした言葉の機微みたいなものを再現出来るのではと思っている。
僕は編集と作業をやめて、構成・整理に徹したモノを作ってみたい。
作為ではなく、意図のあるものを。