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日々あれこれ思いつきメモ

日記というよりもメモ? そんな思いつきを書いただけ……。

禁煙日記 意外なことに潜んでいる誘惑

2014-03-17 07:56:08 | 音楽
禁煙に関する山場は越えたような気がする。
ただ、病院の先生から言われてるのが、次の区切りは1年だというのだ。
さすがにこれは気が遠くなる。
確かに以前喫煙をしていてつい1本だけ吸ったけど、その後は一切吸ってないという友だちもいる。
その人は吸わなくなってかなりの年月が経っていたとのことだった。
多分、タバコを吸ったけどおいしいとも思わなかったんだろう。
そう考えると、残念なことに僕はまだその域には達していない。
一応、自分のことは分かっているつもりだから、1本吸おうものならそのままズルズルといってしまうだろう。

前日も書いたが、何ともやりきれないという気持ちになったときタバコがとても欲しくてなった。
でも、タバコの誘惑は意外なところにも潜んでいた。

それは満足したとき。

まあ、確かに食事のあとに吸いたくなるというのは(今はそんなことはありません)、まさにそれだろう。
でも、精神的に気持ち的に満足したときはそれ以上だった。

ももクロのライブのあと、なんかとてもタバコを吸いたくなってしまった。
もちろん、すぐにガムを口に放り込んだけれど。

タバコの誘惑はいろいろなところに潜んでいる。
だがら、僕はまだ常に自覚していくことが必要なのだと再確認したのだった。

時代のアイコン

2013-08-01 14:59:10 | 音楽
時代ごとにそれぞれを代表するアイコンがあると思う。
それは文化・風俗の面での話なのだが、時にそれは政治的背景に関わってくることもある。
時代のアイコンというものを考えた時、単にその時代に限られたものもあれば、
後の時代に大きな影響を与えたものもある。
そんなものをひっくるめて、時代のアイコンと考えたい。

今、振り返ると、そんなアイコン的存在はとてもたくさんあって、しかもそれが複雑にからみ合っているような気がする。

1950年代はアメリカの時代と言っていいだろう。
この時代のアイコンはエルビス・プレスリーとマリリン・モンロー、
そしてオードリー・ヘップバーン、チャールズ・イームズだ。
しかし、前者2名と後者2名とでは意味合いが違う。
前者2名は’50年代の若者文化を象徴するものであり、
後者2名はアメリカ自体が憧れたものだ。
特に後者2名について語れば、アメリカのごく平均的な中産階級が夢を見たもの。
オードリー・ヘップバーンの映画のほとんどがシンデレラ・ストーリーかヨーロッパが舞台だ。
この時代のアメリカ人のヨーロッパ(特にパリだが)への憧れは強かった。
僕が思うに、世界一となったアメリカが唯一持っていないもの、つまりは由緒正しい歴史を求めたのだろう。
つまりはアメリカの正当性を。
チャールズ・イームズとはシェル・チェアなどで知られるプロダクトデザイナーであり建築家である。
彼の創りだした椅子は大量生産可能でしかもデザイン性に優れた椅子だ。
そんな椅子を部屋の置くこと、これこそがアメリカの中産階級のステータスでもあったのだ。
あのノーマン・ロックウェルが描いた世界がその一部を表している。
素朴なようで実はどこかで見栄を張っている。
もうひとつ言えば「奥様は魔女」の世界だ。

さて、1960年代に入ると文化的な面での力関係が変わってくる。
ブリティッシュ・イノベーションと呼ばれるものだ。
つまりはビートルズの登場だ。
エルビスがいくら黒人的な音楽を歌おうが、黒人と白人の隔たりは大きかった。
しかし、イギリスではそんなものは関係なく、ビートルズ、ストーンズらはいいものはいいと取り入れていった。
そして、彼らならでは音楽を作り出していった。
’60年代のアイコンは言うまでもなく、ザ・ビートルズだ。これには異論はないはず。

しかし、それは1968年で終わる。
ビートルズの解散した年だ。

僕は1968年から1973年の5年間をひとつの時代と考えている。
この5年間が時代の変換期だったからだ。
文化面で言えば、カウンターカルチャー。日本ではアングラ。
カウンターカルチャーを代表するのはボブ・デュランだろうか。ただ、象徴的な存在はデニス・ポッパーじゃないかと思う。
日本のアングラは言うまでもなく天井桟敷と寺山修司だ。
アートの世界では「フルクサス」。特にヨーゼフ・ボイスの「フェルト・スーツ」だ。
これら全ては反体制的な動きであり、すべてがそこに繋がっていく。
こんな時代はこの5年間以外はない。
この後はさまざまなものが混在して行くことになるからだ。

それでも、時代ごとに象徴的なアイコンがある。
あまり詳しく書いていくと長くなるので、端折って書いていく。

’78年も象徴的な年だ。
’77年にデビューしてヴィヴィアン・ウエストウッドの服を着て世界を席巻したセックス・ピストルズが解散。
そして、イエロー・マジック・オーケストラのメンバー3名が、
細野晴臣のアルバム『はらいそ』で一緒にレコーディングする。
そして翌年デビューし、瞬く間に世界を席巻する。
もうひとつ忘れてはいけないのは映画「スター・ウォーズ」だ。
この映画の成功がのちの映画を変えていくことになる。いいか悪いかは別として。


すでに長いので、以降の時代は気が向いたら。
本当の今の時代アイコンについて書きたかったのだけれど。

音楽で風景が変わる。

2013-07-21 00:25:41 | 音楽


相も変わらずももクロばかりを聴いている僕。クルマの中ではもちろん、歩いている時も。
最近、僕のiPodはももクロの3枚のアルバムのいずれかを再生している。
何故か飽きない。
聴いていると気分が上がる。

でも、たまには違う音楽を聴くこともある。
それはサーフィンに行く時。
IZやジャック・ジョンソンなど。
すると、普段通る道がまるて違う風景に見えてくる。
さすがにハワイには見えないけど、
でも普段の沖縄ではない何か。
沖縄はすでに生活の場であり、その風景は僕にとっては日常だ。
そういう意味では、もはやももクロは僕の日常なのか?

おそらく、普段行かない北部へ行くと違うのだろうけど、
那覇周辺からサーフポイントのある糸満市当たりの道のりは日常である。

でも、クルマで聴く音楽を聴くだけで、ウィンドウから見える風景が非日常的に見えてくる。
東京に住んでいた頃の「沖縄に来た」という特別感というか……。
旅ではないけれど、日常ではないという気分。
そんな気持ちで見る風景は日常と非日常の狭間のような
不思議な気分にさせられるのだ。
それを演出してくれるのが音楽である。

僕はそんな音楽のチカラのスゴさにただただ驚くばかりだ。


声に勝る楽器なし!?

2013-07-20 09:46:09 | 音楽
最近感じるのは、人の声が奏でる音楽のスゴさである。
声は直接感情に訴えかけるし、様々なメロディーはもちろんリズムも刻む。
以前書いたハワイのIZもそうだった。
彼の声でしか表現出来ない歌。
他の人が歌ってもあれほど心に響くことはなかっただろう。

東欧にはポリフォニーという音楽がある。
それは非常に珍しい音楽で、打楽器と歌だけで構成されている。
打楽器は非常に原始的なもの。
ほとんどのもの、手作りで作られたものらしい。
とにかく、リズムさえ刻めればなんでもいい。
よく使われるのは、アフリカの打楽器と手拍子、足踏みだ。
そこまではそう珍しいものではない。
珍しいのは、歌である。
2人以上の人数で、それぞれが違うメロディー、違う歌詞を歌う。
時にリズムなどもバラバラ。
しかし、それが合わさってなんとも素晴らしい音楽と化すのだ。
初めて聴くと、戸惑いを覚える。
しかし、徐々にその全くバラバラな音楽が一つのハーモニーとなっていく。

ハーモニーの素晴らしい音楽に、ゴスペルがあるがそれとは全く違う。
ゴスペルはしっかりと計算された調和のもとに成立している。
ゴスペルの素晴らしさは、見事な和音にある。
それは音楽の常識に則ったもの。
しかし、ポリフォニーは全く違う。
あえて言えば、音楽の常識を全く無視したと言ってもいい。
でも、それが実に素晴らしいのだ。
ポリフォニーは多声音楽と訳される。
そして、その特徴は全く違う音楽を混ぜこぜ、沖縄風に言えばチャンプルーして、
いくつかの空間を作り出すのだ。
マイクなど一切使わず、生声で歌われるこの音楽は、一カ所にさまざまな空間領域を作り出して行く。
それは不完全調和が、調和をもたらすという不思議な空間だ。

ポリフォニーという音楽が生まれたのは、中世からルネッサンス期にかけてだという。
そしてそれは東ヨーロッパの教会音楽の系統にあるという。
ポリフォニーという言葉の語源は複数の声という意味らしい。
単に複数の声というのであれば、完全調和のゴスペルなどもその範疇に入りそうだが、
ここでの複数にはおそらく、複数の“独立した”という意味合いが含まれているのだと思う。

テレビで知ったのだが、フランス・マルセイユのマニュ・テロンという人がすごい。
彼はポリフォニーを進化させている。
ポリフォニーに魅せられて、ブルガリアへ行ってポリフォニーを学んだという。
彼が作るものは、打楽器のリズムも違えば、メロディーも違う。さらには歌詞も違うし、歌のリズムも違う。
彼の音楽はどこかアフリカの原初的な印象と、教会音楽的な響きとが入り混ざって聞こえてくる。
声が奏でる音楽、これはどんな楽器で奏でる音楽よりも素晴らしいと思った。
正に、声に勝る楽器などないのだと。
おそらく、ポリフォニーを楽器で弾くと、とても気持ち悪いものになりそうな気がする。
でも、人の声だからこそ、不完全調和から調和を引き出すのではないかと思った。

ポリフォニーを聞いていると、何も調和だけがすべてではないということを改めて思い知らされる。
何も、何かに迎合する必要はないのではないかと。
調和しないものを取り込んでこそ、素晴らしいものが出来上がるのではないかと。
もちろん、それはそれをまとめる人があってこそのものだ。
その点で、マニュ・テロンという人はスゴい。
彼自身が、彼の声が、全く違う音楽を一つにまとめ上げている。

世の中にはまだまだ素晴らしい音楽があるものだ。

リズムが人を惹き付ける

2013-06-22 13:54:38 | 音楽
僕は究極の音楽は原始的(?)な打楽器によるリズムだと思っている。
リズムこそが人を昂揚させ、ハレの空気を作り出す。
そして、人に神の存在を感じさせる。
リズムというものはそんな力を持っている。
人を踊らせ、日常を忘れさせ、精神のありようを変えてしまう。
どんなに美しいメロディでも、どんなに胸に突き刺さる歌詞でもそこまでの力は持たない。
だからこそ、どんな音楽でもリズム隊が重要とされるのだ。
ピアノだけの独奏でも、同じようにリズムが狂ったら、それだけ素晴らしい曲でも台無しになる。

僕は初めて打楽器の魅力に気づいたのは、湘南で開催されたレゲエのフェスでのこと。
そこではレゲエだけではなく、アフリカのミュージシャンによる太鼓だけの演奏があった。
それは、メインを飾るマキシ・プリーストなどもかすむようなステージだった。
まるで、僕はどこか別の世界に連れて行かれたような、そんな気がしたものだ。
次に同じような経験をしたのは、石川県輪島市で毎年行われる祭りでのことだった。
そこで叩かれる和太鼓は神聖な空気を作り出し、とても大きな音だあるにも関わらず、
どこか静寂さを感じたのだ。本当に神が海の向こうからやってきたような感じ。

僕はリズムというものが生み出すもののスゴさに圧倒された。
以来、自分の中にあるリズムと同調するリズムを持つ曲ということを重視してCDを選ぶようになった。
というより、おそらく以前から無意識にそういう選び方をしていたのだと思うのだが、
それを意識するようになった。
もちろんメロディも大切だし、歌詞も大切だ。
しかし、どんな素晴らしいメロディでも、どんなに素晴らしい歌詞でも、
リズムが自分の中にあるものと同調しなければ、いいと思えなかった。
それは言い過ぎかもしれないが、それにお金を支払う気にはならなかった。

リズムの持つ力は、ただ人を昂揚させるだけではない。
時に人をリラックスさせたり、厳粛な気持ちにさせたり、心を洗われた気持ちにさせたりする。
もちろんメロディがそれを強調するし、歌詞のあるものであれば言葉がそれを補完する。
でも、その根幹にあるものはリズムだ。

分かりやすく言えば、タテノリとヨコノリというものがある。
そのノリを作るのはリズムである。
盆踊りのようなものは何ノリというの知らないが、あれも太鼓のリズムが人を踊らせる。
古典芸能に於いても、やっぱりリズムだ。
拍子を打つタイミングがちょっとでもずれたらすべてが台無しだ。
役者、踊り手はちょっとしたタイミングのずれで調子を狂わさせるはずだ。

沖縄民謡(一応宮古、八重山を含める)では、三線は打楽器も兼ねると言われる。
確かにリズムの悪い、リズムの狂った三線で歌う人の歌は聞けたものじゃない。
たとえ、どれだけ歌は巧くてもだ。

ロックならば、あまり目立つことのないドラムとベースがしっかりしていないとやっぱり聞けたものじゃない。
ギターが巧くても、ヴォーカルが巧くてもだ。



まだ、僕がリズムというもの特別に意識していなかった頃の話だ。
ロックバンドをやっていた高校時代、僕はデフ・レパードが大好きだった。
確か、最初に聞いたのは『Pyromania』(邦題「炎のターゲット」)だったと思う。
「フォトグラフ」とか「フーリン」とか、レコードがすり切れるのでは?と思うほど聞いた。
なぜデフ・レパードに注目したかというと、それはフィル・コリンというギタリストの存在があったからだ。
フィル・コリンは僕が中学生の頃に好きだったロックバンド「ガール」のギタリストだった。
「ガール」は多分ほとんどの人が知らないのではないかと思う。
確か、アルバム2枚で解散したのだったと思う。
デフ・レパードの音楽はそれに近いものを感じたのだ。
その後も、デフ・レパードは好きでよく聞いていた。

大学3年の時、僕は何一つ計画をたてることなく、往復のチケットだけ持ってアメリカへ行った。
ロサンゼルスからバスでニューヨークまで行った。
気に入った街には長居し、あまり興味がない場所はすぐに離れ、バスの経路を調べて次に行く場所を決めた。
ただ、最後にニューヨークへ行こうと、それだけは決めていた。
そしてニューヨークに着いて、ジャズやミュージカルを堪能しながら過ごしたのだが、
道を歩いていてデフ・レパードのライブのポスターを見た。
場所はニュージャージー。
即座に行くことにした。
ニューヨークでは、アメリカで知り合い、同じ大学の同じ学年でしかも同じ学部だった人と知り合い、ニューヨークで一緒に行動していたが、
彼はデフ・レパードには一切興味がなかったので、一人で行くことにした。
そんな話を「キャッツ」を見た帰りに話していたら、後ろから女子大生2人組に声をかけられた。
彼女たちの一人がデフ・レパードの大ファンだったらしく、
一人で行くのはちょっとという感じだった。
一緒に行きませんかと誘われ、もちろんと僕は答えた。
そして、これまたチケットも持たずに二人でバスに乗ってニュージャージーの会場へ向かった。
ダフ屋からチケットを買い、前から4列目という最高の席で彼らの演奏を見た。

その時、僕がとても気になっていたのは、ドラムのリック・アレンだった。
リック・アレンは交通事故で左腕を失っていた。
一体どうやってドラムの叩くのか。
アレンのドラムはすごかった。もちろん、右腕一本で叩けるアレンジに変えてあったとはいえ、
彼の刻むリズムは単に正確というだけでなく、バンドを、演奏をリードしていたし、観客を乗せていた。
確か、「ヒステリア」のツアーだったと思う。

その後就職してからも、確か武道館だったと思うのだけれど、見に行った。
その時もとても感動したし、アメリカを旅した時の自分を思い出せてくれた。
もちろん、その時もリック・アレンは右腕一本でドラムを叩いていた。



おそらく、リズムは古来の祭祀などでも重要なものだったに違いない。
人にとって、リズムは重要なものだと思う。
最後に誤解のないように。リズムとはテンポではない。リズムはリズムだ。