先日、那覇市のパレット久茂地の屋上へ行った。
そこにはいくつかのレストランとパレットシネマという映画館がある。
桜坂劇場と関係があるのか、桜坂劇場の上映前には必ずと言っていいほどパレットシネマの上映予告が流れる。
それは、いわゆる予算のない地方局の地方ならではのテレビコマーシャルのようなものなのだが、それはそれで味わいがある。
今、そのパレットシネマで午前10時の映画祭という企画をしている。
過去の作品をランダムに上映。その期間は1週間から10日程度。
で、そのセレクトがスゴい。
ちなみに……
~12月21日(金)『シザーハンズ』
12月22日(土)~28日(金)『バック・トゥ・ザ・フューチャー』
以降、ジョージ・ルーカスの『アメリカン・グラフィティ』、ビリー・ワイルダーの『情事』『サンセット大通り』、ヒッチコックも『レベッカ』『鳥』、そして『エイリアン』、『キャリー』。
この企画は今年の3月からやっていたらしい。以前のラインナップを見てみると、フェリーニの『道』『甘い生活』やアメリカン・ニューシネマの名作『卒業』や『タクシードライバー』など過去の名作もあれば、アッバス・キアロスタミの『友だちのうちはどこ?』なんていう比較的新しい(と言っても16年前の作品だ)作品まで上映されていた。
それにしても、実に脈絡の感じられないセレクトに最初に戸惑いを覚えたのだが、よくよく考えてみたら、これでいいのだという結論に達したのだった。
先日、一回りつまり12歳年下の奴と話をしていた時に、映画の話しになった。彼がもっとも好きで影響を受けた映画は、なんと『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だと言っていた。
それは、僕にとって驚きだった。
僕の中で名作と定義されていたものは、映画的表現を画期的に変えたような作品だった。
例えば、ヌーヴェル・ヴァーグの幕を開けたゴダールの『勝手にしやがれ』だったり、アメリカン・ニューシネマの代表作『イージーライダー』だったり、ニーノ・ロータの音楽が印象的な『ゴッドファーザー』だったり。
もちろん、黒澤明の作品群や小津映画なども。
でも、よく考えてみると、それらは決してリアルタイムで見たものではない。僕は、編集者として映画もページなど、担当していたからこそ、それらを知っているのであって、そんな映画など知らない人の方がはるかに多いということを忘れていたのだ。
映画は音楽同様リアルタイムで聴く方が、その良さを実体験の中で感じることが出来るはずで、いくら名作と言われても、過去の作品はただの古い映画としか思われても仕方ない。それに、2時間近い時間を費やすのだから、そうやすやすと見られるものでもないだろう。
でもだ。やはり今でも名作と呼ばれる作品は素晴らしい。
時代を象徴しつつも、それが今という時代にも通じる普遍性を持っている作品が多いのだ。
先ほど例に挙げたジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』。見たことのある人でも、おそらくただジャン・ポール・ベルモントとジーン・セバーグがひたすら走っているというシーンを思い浮かべるはずだ。
乱暴なことを言えば、その印象通りただ走っているだけの映画なのだ。
でも、そこには当時のパリの若者の焦燥感が見事に表現されていた。
その表現が斬新過ぎて、当時は賛否両論だったという。
この映画、原題をÀ bout de souffleという。直訳は「息切れ」。
そんな邦題では間違いなく当たらなかっただろう。この邦題をつけたのが、秦早穂子先生。(僕は若い頃とても秦先生にお世話になったのだ)
秦先生は、1959年にパリの試写会でÀ bout de souffleを観て、あまりの衝撃に買い付けしないとダメだと、日本側(日本の配給会社)の了解を得ずに、すぐに買ってしまという。その時はクビ覚悟していたと本人は言っていた。
僕が思うに、名作と呼ばれる作品はその時代を象徴しながらも、そのどこかに人や社会が持つ普遍的なもの、それは愛でもいいし、若者特有の焦りでもいいし、哀しみでもいいし。
そんなものを見事に表現したものを名作の呼ぶのだろう。
前述の一回り年下奴が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』言ったのも、そこ何らかの普遍的なテーマが隠されていたからだと思う。
それは、人が誰しも望むであろう、過去の訂正。つまりやり直したいという願望ではなかろうかと思うのだ。
そして、自分も未来を思う通りのものにしたいという願望。
あの映画はそんな願望を擬似的に叶えてくれた。
だからこそ、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を名作と呼ぶ人が存在するし、
今、那覇市のパレットシネマで開催されている「午前10時の映画祭」でラインナップされているのであろう。
いい映画を観終えた時、いつも見慣れた風景ちょっとだけ違って見えるのは僕だけだろうか。
そこにはいくつかのレストランとパレットシネマという映画館がある。
桜坂劇場と関係があるのか、桜坂劇場の上映前には必ずと言っていいほどパレットシネマの上映予告が流れる。
それは、いわゆる予算のない地方局の地方ならではのテレビコマーシャルのようなものなのだが、それはそれで味わいがある。
今、そのパレットシネマで午前10時の映画祭という企画をしている。
過去の作品をランダムに上映。その期間は1週間から10日程度。
で、そのセレクトがスゴい。
ちなみに……
~12月21日(金)『シザーハンズ』
12月22日(土)~28日(金)『バック・トゥ・ザ・フューチャー』
以降、ジョージ・ルーカスの『アメリカン・グラフィティ』、ビリー・ワイルダーの『情事』『サンセット大通り』、ヒッチコックも『レベッカ』『鳥』、そして『エイリアン』、『キャリー』。
この企画は今年の3月からやっていたらしい。以前のラインナップを見てみると、フェリーニの『道』『甘い生活』やアメリカン・ニューシネマの名作『卒業』や『タクシードライバー』など過去の名作もあれば、アッバス・キアロスタミの『友だちのうちはどこ?』なんていう比較的新しい(と言っても16年前の作品だ)作品まで上映されていた。
それにしても、実に脈絡の感じられないセレクトに最初に戸惑いを覚えたのだが、よくよく考えてみたら、これでいいのだという結論に達したのだった。
先日、一回りつまり12歳年下の奴と話をしていた時に、映画の話しになった。彼がもっとも好きで影響を受けた映画は、なんと『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だと言っていた。
それは、僕にとって驚きだった。
僕の中で名作と定義されていたものは、映画的表現を画期的に変えたような作品だった。
例えば、ヌーヴェル・ヴァーグの幕を開けたゴダールの『勝手にしやがれ』だったり、アメリカン・ニューシネマの代表作『イージーライダー』だったり、ニーノ・ロータの音楽が印象的な『ゴッドファーザー』だったり。
もちろん、黒澤明の作品群や小津映画なども。
でも、よく考えてみると、それらは決してリアルタイムで見たものではない。僕は、編集者として映画もページなど、担当していたからこそ、それらを知っているのであって、そんな映画など知らない人の方がはるかに多いということを忘れていたのだ。
映画は音楽同様リアルタイムで聴く方が、その良さを実体験の中で感じることが出来るはずで、いくら名作と言われても、過去の作品はただの古い映画としか思われても仕方ない。それに、2時間近い時間を費やすのだから、そうやすやすと見られるものでもないだろう。
でもだ。やはり今でも名作と呼ばれる作品は素晴らしい。
時代を象徴しつつも、それが今という時代にも通じる普遍性を持っている作品が多いのだ。
先ほど例に挙げたジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』。見たことのある人でも、おそらくただジャン・ポール・ベルモントとジーン・セバーグがひたすら走っているというシーンを思い浮かべるはずだ。
乱暴なことを言えば、その印象通りただ走っているだけの映画なのだ。
でも、そこには当時のパリの若者の焦燥感が見事に表現されていた。
その表現が斬新過ぎて、当時は賛否両論だったという。
この映画、原題をÀ bout de souffleという。直訳は「息切れ」。
そんな邦題では間違いなく当たらなかっただろう。この邦題をつけたのが、秦早穂子先生。(僕は若い頃とても秦先生にお世話になったのだ)
秦先生は、1959年にパリの試写会でÀ bout de souffleを観て、あまりの衝撃に買い付けしないとダメだと、日本側(日本の配給会社)の了解を得ずに、すぐに買ってしまという。その時はクビ覚悟していたと本人は言っていた。
僕が思うに、名作と呼ばれる作品はその時代を象徴しながらも、そのどこかに人や社会が持つ普遍的なもの、それは愛でもいいし、若者特有の焦りでもいいし、哀しみでもいいし。
そんなものを見事に表現したものを名作の呼ぶのだろう。
前述の一回り年下奴が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』言ったのも、そこ何らかの普遍的なテーマが隠されていたからだと思う。
それは、人が誰しも望むであろう、過去の訂正。つまりやり直したいという願望ではなかろうかと思うのだ。
そして、自分も未来を思う通りのものにしたいという願望。
あの映画はそんな願望を擬似的に叶えてくれた。
だからこそ、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を名作と呼ぶ人が存在するし、
今、那覇市のパレットシネマで開催されている「午前10時の映画祭」でラインナップされているのであろう。
いい映画を観終えた時、いつも見慣れた風景ちょっとだけ違って見えるのは僕だけだろうか。