庵野秀明は現在を切り取る名監督。というよりも職人のような監督であるような気がするのは僕だけだろうか?
村上龍の「ラブポップ」を映画化した時も、彼ならではの現在のほんの一部、いや一瞬を切り取り、それがすべてを象徴するかのように感じさせた。庵野秀明は、ある一部分だけを深く描くことによって、観るものに時代そのものを想像をさせようとしているのではないかと思うのだ。
それは、正しい映画のあり方だ。以前、黒沢清が「映画の本質はホラーにある」というようなことを言っていたが、「エヴァンゲリオン新劇場版Q」はホラーではないけれども、映画の本質を突いた作品だったと思う。
昔の名監督と言われた人たちは、「見せないことによって見せる」という手法をとった。それは予算もなくフィルムを無駄に出来ないという制限の中から生まれた手法なのだが、でもそれが名作を生んだのだった。
音声のなかった時代、映画は動きだけですべての物語を伝えた。
映画が言葉を持った時代に入ってからは、言葉が費やす時間(つまりフィルムを使う分)その他の部分を省略せざるを得なかったのだと思う。しかし、それが、映画の本質である省略によって観客に想像を促すという、数々の名作を生んだのだ。ジャン・ルノワールしかり、ジャン・コクトーしかり、ロベルト・ロッセリーニしかりだ。もちろんアメリカも素晴らしい監督たちを生んだ。スタージェスやオーソン・ウェルズなど。
どの映画だったのか記憶にないが、ある男女が朝食に半熟のゆで卵を食べるシーンがあった。日本人にはこれが何を意味しているのかは当時も今もわからないと思うのだが、これはその前の晩に二人に何かがあったことを意味していたのだという。それはアメリカ人にとっての共通認識だった。一昔前の日本で言えばモーニングコーヒーということになるのだろうか。
そのような世間の共通認識を通して、描くことなく映画を描いたのだった。
黒沢清の言葉に戻ろう。
「映画の本質はホラーにある」
ホラー映画がなぜ怖いのか、それは怖いものの実態を見せないからだ。
例えば、遠くで響く物音などがその代表的な例だという。
つまり、見せない、描かないことによって、観客の想像力を喚起させるものこそが映画で、そのような映画こそが素晴らしいとされる映画なのだと。
国内外の名作と言われる映画にはどこかにそのような要素が入っているはずだ。北野武が海外で評価されるのは、そのことをきちんと踏まえた上で映画を作っているからだ。しかも、それが非常に上手いし、構図も素晴らしい。
話がだいぶ逸れたが、「エヴァンゲリオン新劇場版Q」は、この描かないということを大胆にやってのけた。
しかも、次への期待をさらに膨らませる形で。
この映画を観る時に当ってピッタリの言葉がある。
それは、あのブルース・リーの言葉。
「Don’t think,Feel!」
賛否両論あるようだが、時代のある瞬間を切り取る名人庵野秀明のエヴァンゲリオンは時代ともに進化し、時代にシンクロしていっているように思えた。だからこそ、テレビ版とも違うし、いわゆる旧劇とも違う。
まさに今という時代を見事なまでに描いていると思う。
村上龍の「ラブポップ」を映画化した時も、彼ならではの現在のほんの一部、いや一瞬を切り取り、それがすべてを象徴するかのように感じさせた。庵野秀明は、ある一部分だけを深く描くことによって、観るものに時代そのものを想像をさせようとしているのではないかと思うのだ。
それは、正しい映画のあり方だ。以前、黒沢清が「映画の本質はホラーにある」というようなことを言っていたが、「エヴァンゲリオン新劇場版Q」はホラーではないけれども、映画の本質を突いた作品だったと思う。
昔の名監督と言われた人たちは、「見せないことによって見せる」という手法をとった。それは予算もなくフィルムを無駄に出来ないという制限の中から生まれた手法なのだが、でもそれが名作を生んだのだった。
音声のなかった時代、映画は動きだけですべての物語を伝えた。
映画が言葉を持った時代に入ってからは、言葉が費やす時間(つまりフィルムを使う分)その他の部分を省略せざるを得なかったのだと思う。しかし、それが、映画の本質である省略によって観客に想像を促すという、数々の名作を生んだのだ。ジャン・ルノワールしかり、ジャン・コクトーしかり、ロベルト・ロッセリーニしかりだ。もちろんアメリカも素晴らしい監督たちを生んだ。スタージェスやオーソン・ウェルズなど。
どの映画だったのか記憶にないが、ある男女が朝食に半熟のゆで卵を食べるシーンがあった。日本人にはこれが何を意味しているのかは当時も今もわからないと思うのだが、これはその前の晩に二人に何かがあったことを意味していたのだという。それはアメリカ人にとっての共通認識だった。一昔前の日本で言えばモーニングコーヒーということになるのだろうか。
そのような世間の共通認識を通して、描くことなく映画を描いたのだった。
黒沢清の言葉に戻ろう。
「映画の本質はホラーにある」
ホラー映画がなぜ怖いのか、それは怖いものの実態を見せないからだ。
例えば、遠くで響く物音などがその代表的な例だという。
つまり、見せない、描かないことによって、観客の想像力を喚起させるものこそが映画で、そのような映画こそが素晴らしいとされる映画なのだと。
国内外の名作と言われる映画にはどこかにそのような要素が入っているはずだ。北野武が海外で評価されるのは、そのことをきちんと踏まえた上で映画を作っているからだ。しかも、それが非常に上手いし、構図も素晴らしい。
話がだいぶ逸れたが、「エヴァンゲリオン新劇場版Q」は、この描かないということを大胆にやってのけた。
しかも、次への期待をさらに膨らませる形で。
この映画を観る時に当ってピッタリの言葉がある。
それは、あのブルース・リーの言葉。
「Don’t think,Feel!」
賛否両論あるようだが、時代のある瞬間を切り取る名人庵野秀明のエヴァンゲリオンは時代ともに進化し、時代にシンクロしていっているように思えた。だからこそ、テレビ版とも違うし、いわゆる旧劇とも違う。
まさに今という時代を見事なまでに描いていると思う。