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日々あれこれ思いつきメモ

日記というよりもメモ? そんな思いつきを書いただけ……。

エヴァンゲリオン新劇場版Q

2012-12-12 23:54:07 | 映画
庵野秀明は現在を切り取る名監督。というよりも職人のような監督であるような気がするのは僕だけだろうか?
村上龍の「ラブポップ」を映画化した時も、彼ならではの現在のほんの一部、いや一瞬を切り取り、それがすべてを象徴するかのように感じさせた。庵野秀明は、ある一部分だけを深く描くことによって、観るものに時代そのものを想像をさせようとしているのではないかと思うのだ。
それは、正しい映画のあり方だ。以前、黒沢清が「映画の本質はホラーにある」というようなことを言っていたが、「エヴァンゲリオン新劇場版Q」はホラーではないけれども、映画の本質を突いた作品だったと思う。

昔の名監督と言われた人たちは、「見せないことによって見せる」という手法をとった。それは予算もなくフィルムを無駄に出来ないという制限の中から生まれた手法なのだが、でもそれが名作を生んだのだった。

音声のなかった時代、映画は動きだけですべての物語を伝えた。
映画が言葉を持った時代に入ってからは、言葉が費やす時間(つまりフィルムを使う分)その他の部分を省略せざるを得なかったのだと思う。しかし、それが、映画の本質である省略によって観客に想像を促すという、数々の名作を生んだのだ。ジャン・ルノワールしかり、ジャン・コクトーしかり、ロベルト・ロッセリーニしかりだ。もちろんアメリカも素晴らしい監督たちを生んだ。スタージェスやオーソン・ウェルズなど。

どの映画だったのか記憶にないが、ある男女が朝食に半熟のゆで卵を食べるシーンがあった。日本人にはこれが何を意味しているのかは当時も今もわからないと思うのだが、これはその前の晩に二人に何かがあったことを意味していたのだという。それはアメリカ人にとっての共通認識だった。一昔前の日本で言えばモーニングコーヒーということになるのだろうか。
そのような世間の共通認識を通して、描くことなく映画を描いたのだった。

黒沢清の言葉に戻ろう。
「映画の本質はホラーにある」
ホラー映画がなぜ怖いのか、それは怖いものの実態を見せないからだ。
例えば、遠くで響く物音などがその代表的な例だという。
つまり、見せない、描かないことによって、観客の想像力を喚起させるものこそが映画で、そのような映画こそが素晴らしいとされる映画なのだと。

国内外の名作と言われる映画にはどこかにそのような要素が入っているはずだ。北野武が海外で評価されるのは、そのことをきちんと踏まえた上で映画を作っているからだ。しかも、それが非常に上手いし、構図も素晴らしい。

話がだいぶ逸れたが、「エヴァンゲリオン新劇場版Q」は、この描かないということを大胆にやってのけた。
しかも、次への期待をさらに膨らませる形で。

この映画を観る時に当ってピッタリの言葉がある。
それは、あのブルース・リーの言葉。
「Don’t think,Feel!」


賛否両論あるようだが、時代のある瞬間を切り取る名人庵野秀明のエヴァンゲリオンは時代ともに進化し、時代にシンクロしていっているように思えた。だからこそ、テレビ版とも違うし、いわゆる旧劇とも違う。
まさに今という時代を見事なまでに描いていると思う。



沖縄との邂逅

2012-12-12 15:48:11 | 旅行
話はいきなり沖縄とは何の関係もないところから始まります。

滅多に日本のドラマは見ない僕が、今必ず見ているドラマがある。
それは「遅咲きのヒマワリ~ボクの人生、リニューアル~」という、生田斗真主演のドラマだ。NHKの朝ドラではない。なぜ、このドラマが沖縄と関係あるのかは後ほど。

僕がこのドラマを見る理由はただひとつ。舞台が高知県四万十市であること。
四万十市とは市町村合併でこのような名前となったのだが、その市の大部分は旧中村市が占めている。
正木家はその中村市の山間の小さな村落を出自としているのだ。
僕自身はそこに住んだことはない。けれども、小学生の頃には、夏休みになると高知県の田舎へ行って過ごしたりもした。
その後、そこに住んでいた祖母も埼玉県に移り住み、そこは廃屋と化してしまった。
そして、家の裏山にあった正木家のお墓も埼玉県に移した。
今でも、そこには正木家の土地はあり、たしか誰かに貸しているというようなことを聞いたことがある。

一度でもこのドラマを見たことのある人なら分かると思うが、四万十市は地方都市ではなく、本当に田舎という言葉がぴったりとくるような場所だ。テレビの中で描かれている大手スーパーの進出によって、小さな商店街が潰れていくというのも本当の話だし、あそこに映し出される山間を流れる四万十川の美しさ、手すりのない橋など、まさに子供の頃に見た、僕の記憶の中にある風景そのものだ。
だから、ついつい「遅咲きのヒマワリ……」というドラマを見てしまうのだ。

話は変わるが、僕が「沖縄」という場所を意識したのは高校生の時だった。
おそらく、JALの沖縄キャンペーンのCMだったと思う。山下達郎の「高気圧ガール」という曲がテーマソングとなっていて、多分久米島のはての浜の風景が流れるというものだった。
海なし県である埼玉に住む高校生には、そこはまるで別世界のように見えたし、山下達郎の曲もまたその気持ちを盛り上げてくれた。
僕が沖縄に行ってみたいと思ったのは、このときが初めてだった。それ以前は、社会の授業で習う程度の知識しかなかった。つまりは、ほとんど知識がなかったということだ。学校の授業では沖縄県のことをほとんど教えなかったし、当然試験にも出てくることはなかった。

高校2年の夏休みのこと。ある友人が沖縄へ行こうと言い出した。しかし、さすがにアルバイト禁止の学校に通う高校生がそんなお金を持っているわけもなく、その代替案(今思えば代替にすらなっていない)として、高知県中村市にある正木家の家に行こうということになった。青春18きっぷ(今もあるのかな?)確か7日間分の電車乗り放題のきっぷだったと思う。それを人数で割って、ほぼ24時間かけて埼玉県から在来線を乗り継いで高知県まで行った。(当時は時刻表を見てきちんと計画を立てることの出来る人がクラスに一人はいたものだった)
正木家の実家は中村市の山間にあったのだが、バスに乗ればおよそ30分程度で海に行く事が出来た。
まだ、CDが出たばかりの時代。CDプレイヤーのような高価なものは買えなかったので、僕のラジカセを担いで海に出た。その時にかけていたのは、必ず山下達郎だった。「高気圧ガール」の入ったアルバム。(実はこのアルバムには名曲「クリスマス・イブ」も収録されていた)
高知県中村市の海は、もちろんテレビで見た沖縄のような透明感のある美しさはなかったけれども、東京近郊の海とは全く比べ物にならないほどの美しさだった。
僕らは毎日その海に出かけた。そして、その海に行くためにいつも四万十川にかかるあのテレビで出てくるような橋を渡った。
このドラマを見ると、あの夏のことを思い出すと同時に、ふと頭に浮かんでくるのがJALの沖縄キャンペーンのCMで流れたはての浜の景色なのだ。

今、その中村市(現四万十市)の風景を沖縄で見ているということがとても不思議に思えるのだ。


その後の話はまた気が向いた時に書こうと思う。

理想と現実の間

2012-12-12 09:48:07 | 日記
大きな理想を語るものほど、その理想から遠ざかっていくという人の姿を、
これまで嫌というほど目にしてきた。
大きな理想を語るものほど、なぜかその逆の行動をとってしまう。
そんな人間を嫌というほど目にしてきた。

それは、現実の姿を知らずに理想を語るからだ。
現実を知らぬものは、自身がその現実に飲み込まれていることに気づいていない。
だから、理想だけが独り歩きをしていく。
それほどやっかいなことはない。
そして、そんな人間はすべて自分が正しいことをしていると思い込んでいる。
何度もいうが、そんな人間は自分が理想に向かって突き進んでいるつもりになっているだけで、
実際は現実の中に取り込まれていることに気づいていないのだ。

しかし、理想というものは語ることによってのみ実現するものだと思う。
だから語ること、言葉を持つことは必要なことだ。
ただ、多くの場合、人はその理想に飲み込まれ、囚われ、そしてその苦しさから逃げ出そうとする。
だから、言葉と行動が乖離していくのだと思う。

僕自身、それほど大層なことを言えるほどの人間ではないことが重々承知している。
しかし、できるだけ言葉と行動が乖離していかないようにということは心がけている。
つまり、できるだけ大きな理想を語らないで、大きな理想はココロに秘めて、
そこに向かうに当って、まず出来ることを言葉に残すということに決めている。
とはいえ、なかなかそう上手くもいかず、逆に言葉が足りないということもあったりするのだが……。

ただ、僕が思うに理想を語るものはそれだけの覚悟を持って語らなければいけないのだということだ。
それは一個人に限った話ではない。集団になれば尚更だ。
くしくも、そのことを民主党が証明した。

ある理想を持って集団を率いていこうとするものは、言葉を尽くさなければいけないと思う。
言葉を尽くすということは、責任を持つということだ。
しかし、残念ながら、今の日本には理想(=言葉)と現実が乖離、時に真逆であることがとても多い。

いったいいつから人は言葉に責任を持たなくなったのだろうか?
僕は自戒も含めて、そのように思ってしまう。
特に最近はそのようなことばかりが続いているように感じてしまう。

しかし、なげくだけでは何も改善しないし、何も始まらない。
僕も自分の言葉を持って、それを実現すること。
理想と現実の距離を近づけていくことを改めてココロに誓わなければいけないと思っている。
そのためには、理想を曲げるのではなく、現実との距離感を徐々に近づけていくという心がけが必要だ。

今、僕らは間違いなく理想と現実の狭間を漂っている。
漂ってしまうからこそ、迷い、悩み、怒り、落胆するのだ。
これからは漂うことをやめようと強く思う。