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日々あれこれ思いつきメモ

日記というよりもメモ? そんな思いつきを書いただけ……。

祖父の詩を読んで……

2012-12-28 17:01:46 | 読書
祖父が学校の先生で、詩人であったということは子供の頃に聞かされていた。しかし、僕はそのことにはそれほど興味を示さなかったし、その詩を読もうとも思わなかった。
遺影でしか知らない祖父、その人柄などはほとんど聞いたこともなかった。
正直な話、僕はそれほど家というものに関心を抱いたことがなかった。
今回、祖母の自伝というより、もはや物語となろうものを僕が書くことになって、初めて祖父の全集に目を通したのだった。

最近、ちょっと詩というもの触れる機会が幾度となくあったのも、それを予見していたのかもしれない。
先日最終回を迎えた四万十市を舞台にしたドラマにはなぜか初回から見なければという思いで、毎週見たのも何かの縁なのだろう。

祖父の詩を読むとさまざまな情景を浮かんでくるはずだ。
でも、それは僕自身が祖父は知らなくとも、祖母、母を知っているからで、そして何よりそれが書かれた場所を知っているからだ。
その意味では、決して彼の詩をスクエアな気持ちで、目で見ることが出来ないという思いから、僕はずっと彼の詩を避けていた。

でも、いざ読んでみると、思っていた通りスクエアに読むことの出来ない詩とそうではなくて、見ず知らずの人の詩として読むことの出来る作品とそれぞれが共存していた。
考えて見ればそのはずで、祖母や母を題材にしたものに対しては、僕自身の思い入れもそこに大きく反映されてしまうが、
一方それ以外のものを題材にした作品に反映されているものは、僕が生まれるよりも遥か以前に亡くなった彼の世界であり、
それが僕の世界はリンクしているはずがない。
そして、不思議なことにそのリンクしていない詩に惹かれるものが数篇あったりもする。

僕は小さな頃から、僕が生まれる三ヶ月前に祖父が亡くなったと聞いていた。が、それは母の祖父のことだった。つまりは曽祖父のことだった。僕はてっきり祖父が僕の生まれる三ヶ月前に亡くなったのだと思い込んでいた。
でも実際は、祖父は三三歳でこの世を去っている。
僕は今、四五歳だ。
つまり祖父を一回りも越えてしまっているのだ。
祖父よりも長く生きた一二年間で、一体に何を残したのか?
それを自問すると……。
何ひとつ残していない。

もちろん、雑誌の奥付やページのクレジットなどに名前は載っている。
でも、それだけだ。

これからきちんと残せるものを作っていこうと、今さらながらに思う。

ちなみに、今ではもう祖父の全集は手に入らないと思うが、一応紹介だけしておく。
『正木聖夫全詩集』(地球社刊)

気狂いピエロを観ながら

2012-12-26 09:23:05 | 映画
ワインを飲んで、ちょっとばかりいい気分で『気狂いピエロ』を観た。
ゴダールの映画の特徴として、とにかく出演者がしゃべりまくる。
カップルがしゃべりまくったり、時に観客に話しかけたり。
とにかく文学のこと、音楽のこと、社会のこと、政治のこと。
そこで語られる話題は尽きない。

ゴダールはよく難解だと言われる。
特にフランス語を解さない僕らが見る時、必死で字幕を追いながら見ている。しかし、それでもなお内容が分からないことがある。この場面でなぜこの言葉なのかと。

でも、今回ワインを飲んでいたこともあって、字幕を無理に追わずにボーッと観ていた。
そこでふと気づいたことがあった。
「ゴダールって決して難解じゃないんだ」と。
というよりも、なんとも分かりやすい単純なドラマであるのだと。

ゴダールの特に初期の作品(全部とは言わないが)は、犯罪を犯したもしくは巻き込まれたカップルが、力(警察権力だったり、社会体制だったり、あるいは犯罪組織であったり)から逃げるという物語が多いのだ。
これは、のちのゴダール作品に通じて行くのだが。

そんな単純化して見ると、つまり機関銃のようなセリフを無視して見ると、
構図、色彩の美しさ、俳優たちの動きの美しさ、カメラの動きのムダのなさがとても際立って見えてくる。
そして、俳優たち、特に主演の二人(J.P.ベルモンドとアンナ・カリーナ)の機関銃のような会話は音楽のように聞こえてくる。
それはのちに生まれるポエトリーリーディングのようでもある。
そして、この作品が公開された1965年は、ビートルズが「リボルバー」を発表してサイケデリックの幕を開けようとした年。
『気狂いピエロ』で描かれる色彩と構図は、それを予見しているように思えた。

興味を持った人はゴダール作品については多くの人たちが解説しているので、そんな本でも読んで欲しい。でも、そんな解説がなくとも、この頃までのゴダールは十分に楽しめるはずだ。

久しぶりに見たゴダールは今でも新鮮さを失わない!

2012-12-24 15:59:15 | 映画
ジャン・リュック・ゴダールという名前を知ったのは一体いつのことだっただろうか? それがどうして思い出せない。そもそもヌーヴェル・ヴァーグなんて言葉をいつ覚えたのだろうか?
大げさに言えば、現代の映画はヌーヴェル・ヴァーグから始まったと言っていいほどの大きな波だったはずだ。それまで映画は撮影所が強い力を持っていた。それは映画の撮影は撮影所でするものだったからだ。スタジオにセットを組み立て、女優たちが美しく見えるライティングをし、カメラの位置もある程度固定された、ある意味で完全に作られた世界観をフィルムに収めたのだった。
そんな世界観をぶち破ったのが、ゴダールだった。
カメラをスタジオから外に持ち出し、オールロケで撮影。
それだけで、すでに映画の常識を壊してしまった。
ゴダール以前と以後の映画を見比べてみるとはっきりと分かるだろう。
ゴダールの、特に「勝手にしやがれ」には普通にパリの街を歩いている人たちが写り込んでいる。
実際のところは、秦早穂子先生か山田宏一先生に聞かないと分からないけれども、おそらく無許可で撮影したのではないかとさえ思えて仕方ないのだ。
だから、多分日本などでドラマや映画のロケ撮影などをしていると、時々ちょっと待ってくれと止められることがあるが、「勝手にしやがれ」はそれすらしていないように思えて仕方がない。
そういう意味では、「勝手にしやがれ」はある物語を撮りながらも、当時のパリの活気ある町並みをも同時に撮っていたのでないだろうか。
だからこそ、すでに作られてから五〇年以上も経つのに、活き活きとした新鮮さを失っていないような気がするのだ。

そして、ゴダールの映画といえば欠かせないのがカップルの存在だ。基本的にその主題にあるのがカップルだ。その形はさまざまだが……。
J.P.ベルモンドとジーン・セバーグのカップルは実に洒落ている。とにかくカッコいい。ジーン・セバーグの何気ないボーダーのカットソーとAラインのスカートというコーディーネートは、ファッション雑誌などで幾度と無く出てきたスタリングだし、ベルモンドのタイトなジャケットとパンツはここ最近の流行とマッチしている。わざわざファッション写真を撮るまでもなく、ベルモンドの全身の写真を探して掲載すればスタイリングだけなら見せることが出来る。そのくらい完成されたコーディネートだった。そして、これ以上のカップル像があるだろうかと思わせるゴダールはやっぱりスゴい。

最初の問題。一体いつゴダールを知ったのか?
それがどうして思い出せない。僕の中の最初のゴダール体験(記憶として残っているもの)は「アルファビル」なのだ。
でも、それが最初であるはずがない。いずれにせよ、僕が生まれる前に、ゴダールは映画表現に自由を与えた。
僕が生まれた時にはすでにゴダールのような表現方法はごく普通に受け入れられるようなっていた。
つまり、僕はというより僕らの世代以降の人たちは、すでにゴダールの恩恵を受けていたのだ。知らぬ間に。

そんなわけで、残り少ない今年数日は、1日1本ゴダールを観ることに決めた。今日は「気狂いピエロ」だ!

四万十市と山下達郎と西海岸と

2012-12-22 22:46:50 | 音楽
またしても、「遅咲きのヒマワリ……」かと思われるだろうが、気になって仕方ない。
昨晩もテレビでミスチルの「常套句」を聞いた。ストレートな歌詞とミスチルらしいメロディに思わず画面に釘付けになった。でも、頭に浮かぶのは、やはり四万十川の風景だった。もちろん、この曲が「遅咲きのヒマワリ……」のエンディングテーマだからなのだが(もし宇多田ヒカルが「桜流し」でも歌っていたら、僕の頭の中はエヴェンゲリオンでいっぱいに
なっていたはず)、どうしても僕の頭から離れない景色が浮かび上がってくるのだ。

今では廃屋となって放置されている実家の小さな井戸、その前に広がる田んぼ(これは人に貸している)、その田んぼの先にあるうちの山。
小学生の頃は、その山まで歩いて行くのに難儀をした記憶がある。が、のちに高校生になった時に訪れた時には、あんなに近かかったのかとそのギャップになれるのに時間を要した記憶がある。

さて、ミスチルの「常套句」によって、再び僕の頭の中には四万十市(旧中村市)の風景が広がってしまった。すると、以前にもブログで書いたが、とてつもなく山下達郎の「高気圧ガール」が聞きたくてどうしようもなくなった。沖縄の久米島キャンペーンのCMソングだった例の曲だ。
沖縄に行くなど夢の夢だった高校生の僕らは、「高気圧ガール」を四万十市で聴きまくったのだ。
ドラマを見ている人した分からない話だが、ただ一度だけ(おそらく)生田斗真と真木よう子のふたりが海辺で語り合うシーンがあった。海辺が出てきたのは多分あのシーンが初めてだったと思う。
僕らはあの海辺で「高気圧ガール」を繰り返し繰り返し聞いたのだった。

僕は山下達郎のCDを引っ張りだし、すぐにitunesに取り込んで、いまや僕のiPod touchと化しているiPhone3Gに取り込んだ。

話は変わっていくが……。
山下達郎ほどポップ・ミュージックに精通した日本人はいないのではないかと、僕は思う。彼の知識は音楽評論家を称して生活している人たちよりもはるかにスゴい。山下達郎のラジオを聞いたことのある人なら分かるだろうが、彼が音楽にについて(それも一曲の歌について)語り出したら、一体どこまでしゃべるのだろうかと思うほどである。多分、自らミュージシャンでありながらも、間違いなく日本一のポップ・ミュージックオタクである。

さらに時代は遡る。僕が最初に山下達郎というミュージシャンを知ったのは、おそらく僕ら世代の多くの人がそうであったように、マクセルのカセットテープのCMソングだった「ライドオンタイム」からだった。
透き通るような高音の歌い出しに、すぐに虜になった。しかしだ。どうしても彼のビジュアルが当時小学六年生だった僕は受け付けられなかった。
「音楽は好きだけど、見たくない」とそんなことを思ったものである。
まあ、小学六年生だったので仕方ないということにしておこう。やはり、子供にあの風貌は恐ろしかった。
でも、あの音楽は本当に魅力的で、とにかく引きこまれていったのだ。

今思えば、なぜそこから直接ビーチボーイズへといかなかったのか不思議だった……。山下達朗ほどのビーチボーイズファンはいないはずだ。
でも、当時の僕は彼の音楽には耳を傾けたが、彼の話に耳を傾けていなかった。ただし、彼の周辺にいる人たちの音楽はたくさん聴いた。大滝詠一、大貫妙子、佐野元春、杉真理、細野晴臣……。すべての人達が、ナイアガラトライアングルやはっぴいえんどなどに繋がっていく人たち。そしてさらに、ビートルズやビーチボーイズへとつながるはずだったのだが、僕はそこでとまっていた。

なぜそこでとまっていたのか。それは当時のカルチャーを振り返る必要がある。山下達郎が大ヒットをしたのは80年の「RIDE ON TIME」が最初だっただろう。でも、当時はパンクがまだ隆盛(後半だけど)で、海外ではテクノポップという新しいジャンルの音楽をイエロー・マジック・オーケストラが受けていた。同時、ロンドンからはニューウェーヴが脚光を浴びてきていた。
でも、なぜか日本では音楽シーンとファッションシーンがリンクしていなかった。それは、「POPEYE」という雑誌の力が大きかった。ここからは記憶でしかないので、間違いがあればぜひ指摘して欲しいのだが、「POPEYE」は80年代当時、カリフォリニアのファッション、つまり西海岸のカルチャーを全面的に紹介していたように覚えている。今思うと何ともかっこ悪い短パンをはいて、ウォークマンを聞きながら海岸沿いを走っている写真が妙に記憶に残っているのだが。当然中学生から高校生半ばくらいまではそんな西海岸のカルチャー、カリフォルニアのスタイル、分かりやすい例で言えばUCLAのトレーナーに憧れたものだった。
 そして、サーフィンにも。「POPEYE」がカリフォルニアのカルチャーを紹介したのは70年代後半からのことだが、80年代前半はまだそれを少し引きずっていたのだ。

 しかし、時代の流れは早かった。今考えると80年代という時代は本当に不思議な時代だったと言えよう。
 音楽が一番分かりやすい例だと思うので、僕の中の音楽の流行で例えてみる。前述の山下達郎を通して知った大滝詠一らの日本のポップ・ミュージック(当時はニューミージックなどという言い方もしていた)、同時にパンクの終焉を目の当たりにし、テクノポップ(今のテクノとは別物)にはまり、当時の高校生でバンドをやるものならば必ず通る道だったと言ってもいい、ディープ・パープル、レインボウ、マイケル・シェンカー・グループ、デフ・レパード……などのハードロック。さらに世間的に全盛を極めていたアイドルたち(特に松田聖子と早見優が好きだった)。そしてデュランデュランなどのニューウェーブなどもよく聴いた。そしてマドンナが彗星のごとく登場したのを覚えている(ニューヨークのアンダーグランドシーンではすでに有名だった)。もちろん、マイケル・ジャクソンの新しい表現には目を見張った。

話はずいぶんと長く、そしてずいぶんと逸れてしまったが、西海岸に対する憧れを抱いていた中学生から高校生の間に、カルチャーシーンはカリフォルニアからロンドンとニューヨークへと移ってしまっていたのだ。
もちろん、バイブルだった「POPEYE」もまた取り上げるものが変化していっていた。
西海岸と山下達郎という組み合わせが導く場所は、間違いなくThe Beach Boysであったはず。その道は直結している。なのに、なぜか大きく遠回りをした。当時まだ小学生だった頃に「RIDE ON TIME」で山下達郎に惹かれ、中学生の時に「POPEYE」を通してカリフォルニア、西海岸という言葉の響きに憧れた。そしてサーフィンに。その頃、僕はすでに洋楽ばかりを聞いていたので、山下達郎を聞くという選択肢はなかった。なんと言っても少ないお小遣いをすべて使ってレコードを買うのだから。
で、高校生の時に友人たちと過ごした四万十市(当時中村市)で、聴いた山下達郎は僕に以前の西海岸への憧れを思い出させたのだと思う。自覚はなかったが。実はそれが、大学生になった僕をアメリカに行かせたのではないかと思っている。あの西海岸のカルチャーを想像させた山下達郎の音楽が、僕を西海岸に向かわせたのではないかと。
 詳しくは書かないが、大学3年の時に僕はロサンゼルス往復のチケットだけを買って、バックパックを背負って一人でアメリカに行った。何の計画もなく、ただ行くということだけを決めて。いろいろなことがあったが、それはのちほど。そして、以前書いたイリノイ州の田舎でビートルズの素晴らしさに気づき、ビーチボーイズへとたどり着いたのだ。

なんという遠回りだったろうか。
でも、直接そこにたどり着くのではなく、様々ななものを見聞きしてたどり着いたからこそ、その素晴らしさをより深く理解出来たのではないかとも思っている。

そして、今、再び四万十市へ行くことになった。これも自分が予定したものではない。そうしなければいけなくなったのだ。
でもきっと、そこで再び何かに出会う予感がしている。
僕の原点にある何かに。

四万十市に行くときは、ミスチルの「常套句」と一緒に山下達郎をiPodに入れて出かけようと思っている。


名画とは何をさしてそう呼ぶのか?

2012-12-21 01:15:59 | 映画
先日、那覇市のパレット久茂地の屋上へ行った。
そこにはいくつかのレストランとパレットシネマという映画館がある。
桜坂劇場と関係があるのか、桜坂劇場の上映前には必ずと言っていいほどパレットシネマの上映予告が流れる。
それは、いわゆる予算のない地方局の地方ならではのテレビコマーシャルのようなものなのだが、それはそれで味わいがある。

今、そのパレットシネマで午前10時の映画祭という企画をしている。
過去の作品をランダムに上映。その期間は1週間から10日程度。
で、そのセレクトがスゴい。

ちなみに……
~12月21日(金)『シザーハンズ』
12月22日(土)~28日(金)『バック・トゥ・ザ・フューチャー』
以降、ジョージ・ルーカスの『アメリカン・グラフィティ』、ビリー・ワイルダーの『情事』『サンセット大通り』、ヒッチコックも『レベッカ』『鳥』、そして『エイリアン』、『キャリー』。

この企画は今年の3月からやっていたらしい。以前のラインナップを見てみると、フェリーニの『道』『甘い生活』やアメリカン・ニューシネマの名作『卒業』や『タクシードライバー』など過去の名作もあれば、アッバス・キアロスタミの『友だちのうちはどこ?』なんていう比較的新しい(と言っても16年前の作品だ)作品まで上映されていた。

それにしても、実に脈絡の感じられないセレクトに最初に戸惑いを覚えたのだが、よくよく考えてみたら、これでいいのだという結論に達したのだった。
先日、一回りつまり12歳年下の奴と話をしていた時に、映画の話しになった。彼がもっとも好きで影響を受けた映画は、なんと『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だと言っていた。
それは、僕にとって驚きだった。
僕の中で名作と定義されていたものは、映画的表現を画期的に変えたような作品だった。
例えば、ヌーヴェル・ヴァーグの幕を開けたゴダールの『勝手にしやがれ』だったり、アメリカン・ニューシネマの代表作『イージーライダー』だったり、ニーノ・ロータの音楽が印象的な『ゴッドファーザー』だったり。
もちろん、黒澤明の作品群や小津映画なども。

でも、よく考えてみると、それらは決してリアルタイムで見たものではない。僕は、編集者として映画もページなど、担当していたからこそ、それらを知っているのであって、そんな映画など知らない人の方がはるかに多いということを忘れていたのだ。

映画は音楽同様リアルタイムで聴く方が、その良さを実体験の中で感じることが出来るはずで、いくら名作と言われても、過去の作品はただの古い映画としか思われても仕方ない。それに、2時間近い時間を費やすのだから、そうやすやすと見られるものでもないだろう。

でもだ。やはり今でも名作と呼ばれる作品は素晴らしい。
時代を象徴しつつも、それが今という時代にも通じる普遍性を持っている作品が多いのだ。

先ほど例に挙げたジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』。見たことのある人でも、おそらくただジャン・ポール・ベルモントとジーン・セバーグがひたすら走っているというシーンを思い浮かべるはずだ。
乱暴なことを言えば、その印象通りただ走っているだけの映画なのだ。
でも、そこには当時のパリの若者の焦燥感が見事に表現されていた。
その表現が斬新過ぎて、当時は賛否両論だったという。
この映画、原題をÀ bout de souffleという。直訳は「息切れ」。
そんな邦題では間違いなく当たらなかっただろう。この邦題をつけたのが、秦早穂子先生。(僕は若い頃とても秦先生にお世話になったのだ)
秦先生は、1959年にパリの試写会でÀ bout de souffleを観て、あまりの衝撃に買い付けしないとダメだと、日本側(日本の配給会社)の了解を得ずに、すぐに買ってしまという。その時はクビ覚悟していたと本人は言っていた。


僕が思うに、名作と呼ばれる作品はその時代を象徴しながらも、そのどこかに人や社会が持つ普遍的なもの、それは愛でもいいし、若者特有の焦りでもいいし、哀しみでもいいし。
そんなものを見事に表現したものを名作の呼ぶのだろう。

前述の一回り年下奴が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』言ったのも、そこ何らかの普遍的なテーマが隠されていたからだと思う。
それは、人が誰しも望むであろう、過去の訂正。つまりやり直したいという願望ではなかろうかと思うのだ。
そして、自分も未来を思う通りのものにしたいという願望。

あの映画はそんな願望を擬似的に叶えてくれた。

だからこそ、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を名作と呼ぶ人が存在するし、
今、那覇市のパレットシネマで開催されている「午前10時の映画祭」でラインナップされているのであろう。

いい映画を観終えた時、いつも見慣れた風景ちょっとだけ違って見えるのは僕だけだろうか。