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日々あれこれ思いつきメモ

日記というよりもメモ? そんな思いつきを書いただけ……。

徒然なるままに‥‥‥、今年出会ったおばあさん先生

2013-12-27 09:50:24 | 日記
今年出会ったおばあさん先生との話。沖縄ではゆんたくと言います。
そのおばあさんは昔民謡クラブで歌っていた方で、民謡についていろいろと話してくれる。そして、教えてもくれる。
知り合いの研究所の発表会に連れて行ってくれたり、沖縄芝居に連れて行ってもくれた。
先日、ある琉歌の意味を教えてもらった。
僕も三線をやっていたので、おおまかな意味は分かるのだが、より細かく教えてくれた。
これは敬語だから、この言葉は年下の人が話しているとか。
また、僕の好きな曲の意味もついでに聞いたら、その歌の下地になっている物語を教えてもらった。

たかが8,8,8,6という文字数の中にそれだけの物語や意味合いがあったのかと、改めて詩というものが内包しているものの素晴らしさを知る同時に、その本質を知るのにどれだけの知識が必要なのかを思い知らされた。
多分昔の沖縄では一般に広く知れ渡っていた物語が、歌という形で伝えられたのだろうということを再確認することが出来た。
ほんの少しの言葉、敬語かどうかで物語の意味は変わる。
ただ、僕にはどれが稽古で、どれが命令口調でということなど分からない。
そんなことを教えて貰えるのは実に有意義なひとときだ。

それたけではない。
戦中戦後の話などもしてくれる。
その話は文献などには載っていない話。
僕はそんな話を集めたかった。
おばあさんの話は本当にためになる。

僕は諸事情があって、ずっと三線をやめていた。
たまに弾く程度だった。
夏くらいから、そのおばあさんと知り合って三線を教えてもらったりしていたが、来年からまた本格的に始めたいと思った。
そして、またコンクールを新人賞から受けたいと思った。
そのことを、おばあさんに話したら、協会どこでもよければ何とかすると言ってくれた。
ちなみに、そのおばあさんは今はどこにも所属していない。
いわく、協会に入る意味がないという。
僕もそう思うのたけれど、受験資格を失った最高賞を今一度受けたく、また一から始めようと思っている。
最低でも5年かかるけれども。

何かにハマるとき

2013-12-20 09:42:36 | 日記
最近、僕はmiwaをよく聴いている。
まあ、miwaクロを見てからのことなのだが。
ちなみにmiwaクロとはももクロとmiwaのコラボだ。

僕の場合、何か気に入っているものから、それに関連するものに興味を持つことが多い。
ビーチボーイズもポール・マッカートニーのインタビューを読んでから興味をもって、次第にビートルズよりもはまっていった。
まぁ、それと同じよう語るのはちょっと気が引けるけど、同じようなことだ。

文学でもそうだった。
子供の頃、僕は偉人の伝記ばかりを読んでいた。
確か小学校5~6年のことだったと思う。
教科書に志賀直哉の『小僧の神様』の一部が載っていた。
今となっては、何が僕の心をとらえたのかは覚えていないけれど、全部読みたいと思った。
すぐに親に買ってきてもらい、一気に読んでしまった。
何が他の作品も掲載されていたと思うが、それは忘れてしまった。
まだ、白樺派とか知らない頃。
それからというもの、明治の文豪たちに興味を持った。
小学校6年生の時の僕が一番好きな作家は森鴎外だった。
『高瀬舟』や『山椒大夫』などは大のお気に入りだった。
僕の日本文学への入り口はそこにあった。
いらい、中学生までやたらとその辺りの作家の作品を読み漁った。
うちの親は本にだけは惜しみなくお金を出してくれた。

中学生の半ばだったと思う。
本屋で本を探していたら、ふと目に留まったタイトルかあった。
なんかおしゃれな感じがして、少しばかり色気づいた中学生には魅力的なタイトルだった。
それが片岡義男の『彼のオートバイ、彼女の島』という小説だった。
中学生の僕にはまだ感覚的によく分からない部分が多々あったが、なんかそんな本を読んでる自分がカッコいいと思っていた。
まぁ、人の前で読んだワケではないので、自己満足というか自己陶酔だったと思う。
以来、様々な現代作家を読み漁ったが、コレというものには出会えなかった。
ようやく出会ったのが、『1973年のピンボール』だった。
もう高校生にはなっていたかな?

その後、僕はアメリカ現代文学に傾倒していく。
いうまでもなく、ポール・オースターだ。
ニューヨーク3部作。
村上春樹に近いなとは思っていたけど、その関係性まで知らなかった。僕はどんどんアメリカ現代文学にはまっていった。

ある時、ふと気づいた。僕が気に入った本の全ての翻訳家が同じ人だということに。
柴田元幸。
それからというもの、柴田さんが翻訳しているということが、本を選ぶひとつの基準となっていた。
すでに編集者だった僕は、ただ自分が読みたいがために原稿
頼んだこともあった。

この場合は、あとから繋がったというパターンで僕の中では特殊なケースだけれど、いずれにしても何かにハマると、それがどんどん広がっていく。
このように僕の興味はどんどん広がっていく。


本当はもっと書きたいのだけど、nexus7は文章が書きにくい。何か気に入っているアプリを買わないといけないな。
もはやiPad2は重くて持ち歩けないし。miniを買うべきなのかな?

祖父のこと

2013-12-16 09:54:49 | 日記
僕は祖父のことを全く知らない。
父方はもちろん、母方の祖父も。
父は正木家に婿養子として入った。その時すでに祖父はいなく、祖母だけが生きていた。
父方の祖母は、正木家に遠慮していたのか、あまり顔を合わせる機会もなく、
僕が幼少の頃のほんの少しの記憶しかない。
母方の祖母はまだ健在で、3ヶ月ほど前に祖母の半生を綴った本を作ったばかりだ。
今、そのKindle本を出そうと思っているのだが、その夫である僕の母方の祖父について加筆している。

僕は本当に祖父に関する知識が全くと言っていいほどない。
祖母から話を聞いた記憶もないし、今でもほとんど本に書いたという。
子供の頃に母から話を聞いたことはあったが、なにしろ母が小学校低学年の頃に亡くなったので、それほど知っているわけではない。
僕が知っていたのは、祖父は学校の先生で詩人でもあったということだけだった。
母は長生きした曾祖父のことはよく話した。
とはいえ、曾祖父も僕が生まれる3ヶ月前に亡くなったので当然僕は彼のことを知らないも同然だった。
祖父は、僕にとって高校の歴史の教科書に20文字程度で出てくる、絶対に試験には出ないような人物というイメージだった。
つまり、20文字で語れるような人物で、かつ重要性を持たない人物だったということ。

今すぐに見つからないのでどのくらい前だったか分からないが、10数年前に祖父の全詩集が編纂され発売された。
僕も贈呈本としてもらったのだが、それを開くことはなかった。
どうしても読みたくない理由があったのだ。
詳しくは書かないけれど。

祖母の本をまとめる時に初めて彼の詩を読み、彼の人生を調べた。
でも、どこか実態のつかめない人という印象だった。
その本に事実が書かれている。
でも、事実だけではどんな人だったのか分からない。
ただ、子供たちの教育と詩作に人生を注いだ人だということだけは分かった。
そのあふれる情熱は僕には決してまねの出来ないものだった。

彼はとても心の弱い人だった。
その心の弱さを克服しようとせず、その弱さを詩というカタチにすることでバランスを取っていたように思える。
彼の詩はどこか厭世的で、でも何かを鼓舞しようとしていた。
それは、ある種宗教的でもあった。

母が生まれてから、彼の詩は変わる。
僕の母は生まれてすぐに病気をして、そのせいで障害を持った。
当時それはいかんともしがたい障害で、そんな娘を案じながらも優しい眼差しで見つめる、そんな詩が増えていった。
僕はそれを読みたくなかったのだ。

祖父はとても裕福な家庭に生まれた。
でも、それが彼を苦しめた。彼は子供の頃から心に病を持っていた。
というより、裕福であることと父(僕の曾祖父)の生き方を否定していたきらいがある。
曾祖父は想像するに、いわゆる昔の金持ちの放蕩息子という感じだった。
実際、曾祖父の代で正木家の土地は半分に減ったという。
それでも今残っているものを見ると、相当な金持ちだったことが伺える。
そんな父親への反発もあったのだろう。彼は父(曾祖父)とは真逆の道を選んだ。
学校の先生になり、学校に通うことの出来ない子供たちには
道ばたで自作の童話を聞かせながら、いわゆるスラム街に足を運びそこに住む人たちの
支援をしていた。
結果、彼は病気になってしまうのだが、それも承知の上で彼はスラム街に通い続けたのだった。

僕は今Kindle本のために大幅な書き直しと祖父に関する情報を出来限り集め、詩人という生き物とはどんなものなのかを探っている。
僕には韻文というものがずっと分からなかった。
もちろん今は理解しているし、優れた韻文には素直に感動することが出来るが、
昔は一切の興味もわかなかった。

改めて、祖父の詩を読み、祖父と付き合いの深かった詩人の詩を読み、
そこから時代を感じ取ろうとしている。
そう、単なる事実ではなく、その頃の詩人たちが感じ取っていた時代の空気を。

ただ、そうしてもまだ祖父という存在が身近に感じられない。
写真でしか見たことのない人。
伝聞と全詩集に書いてある評伝と郷土史などに数行で紹介されている文章。
彼のことをもっとよく知るためには、もっと深く彼の詩を読み込むしかないのだろう。

僕には韻文を書く能力は皆無だ。でも、韻文を書くこと、韻文でいかにして伝えるのか、
そもそも定型詩ではない自由詩の存在を今僕は考えている。

海の上でぷかぷかとうねりに身を任せながら何となくボーッと考えたこと

2013-12-15 19:45:24 | 日記
10月にサーフィンに行って以来体調を崩し、およそ2ヶ月ぶりのサーフィンだった。
10月はまだラッシュガードとサーフパンツで大丈夫だったが、12月ともなるとさすがにそうはいかない。
買い替えたばかりの真新しいウエットスーツに路上で着替えて、サーフボードを片手で持った瞬間に自分の筋肉の衰えを感じた。
軽々と持っていたサーフボードが重く感じたのだ。
仕方なく、僕はボードを頭の上に乗せてビーチへと向かった。
ビーチへの道は木々に覆われていて、ゴツゴツとした岩だらけの道だ。
そのゴツゴツとした岩を避けながら、ビーチへと下って行く。
海を眺めるとサーファーは数名しかいない。
それもそのはずで、その日はとてもいい波は期待出来ない状態だったのだ。
小潮で浅く、波の立つポイントも大潮の時と比べると岸に近い。
もちろん大きな波はほとんどなく、北風がようやく小さな波をブレイクさせているといった状態だ。
元々、そんないい波は期待していなかったので、僕はがっかりとすることもなく、海に足を入れた。
足先に触れた海水が冷たい。やっぱり10月とはまるで違う。
それでも歩を進めると、次第に水の冷たさに慣れてくる。
というよりも温かく感じてくる。ひざくらいまで浸かると海の中の方が温かくなってきた。
僕は足元の岩だか珊瑚の死骸だかに注意を払いながら、さらに沖へと歩いていった。
ようやく腰が浸かる程度まで歩いてようやくボードに乗り目指すポイントへパドリングを始めた。
僕がいつもやっていたポイントにはほとんど波が立っている様子がなかったので、波が大きくいつもなら混み合っているポイントを目指した。
そこには2~3人しかいなかった。
特に波を取り合っている様子もなく、ゆったりサーフィンを楽しんでいる様子だった。
ようやくポイントへとたどり着いた僕は、ポイント少し沖側でとりあえずボードの上に座った。
そして、沖からブレイクする場所を観察し波待ちに最適なポイントを見極めようとした。
何本かの波に乗り遅れ、パドリングの力が衰えているの再び実感しながら、それでも何本かの波に乗り、そしてまた沖へと戻って行った。
ポイントよりさらに沖へ出て、ボーッと海と空を見ていた。
糸満で旋回して那覇空港へと向かう飛行機が数機飛んで行く。
水平線は時折差し込む陽の光にキラキラと輝いていた。
僕はボードの上に座るのやめて、腹這いに寝た。肘を立てて、ただただボーッとしていた。
小さなうねりがボードを持ち上げてはスーッと降りて行く。
僕はそのままうねりに身を任せていた。
時折、自分がどこに流させているかを確認しながら……。

それは波の乗るのとはまた違った心地よい時間だった。
海と空を見ていると次第に頭がボーッとしてきて、まるで空っぽになったように感じた。
もちろん、自分のいる場所だけは確認し、流されていると感じたら再びパドリングをして元の場所へ戻るのだが、一瞬の「頭が空っぽ」の状態は何とも言えない瞬間だった。

別に何かを悟ったとか、すごいことに気づいたとかそんなことない。
僕はただただ海の上でぷかぷかと浮いていただけだった。
でも、一瞬でも「頭が空っぽ」になる瞬間は実に贅沢な時間だった。

人は常に何かを考えている。
ボーッとしていても、何かを頭に浮かべている。
僕もあの瞬間に何かを思い浮かべていたのかもしれない。
でも、何も覚えていない。
ただ波の動きに身を任せて、遠くの水平線とその上に広がる空を眺めていただけだった。

今、あの瞬間を思い出してもどこか不思議な時間だったような気がする。
そして、ふと思い出す。
10数年も前のことだろうか。
コーネリアス(小山田圭吾)が『Point』というアルバムを出した時に、彼にインタビューをする機会があった。
そのアルバムのコンセプトは確か「音の隙間」だった。
常に音に囲まれた現代に一瞬訪れる無音の状態。
ちょうど、同じ頃に僕は何度か草間彌生に会う機会があった。
言うまでもなく、世界的アーティスト。説明するまでもない。
彼女の作品はよく“強迫観念”というキーワードで語られる。
でも、僕は実際に本人をお会いし、話をさせていただき、ちょうどコーネリアスの“隙間”の話を聞いた。
その時、僕の中で“隙間=余白”という言葉がひとつのキーワードとなっていた。

草間彌生の作品で有名な「増殖」などは正に“強迫観念”そのものだと言われている。
別に僕はそのことに何ら反論もないが、ふと芽生えた考えが、なぜ水玉なのだろうかということだった。
水玉はいくら増殖しようとそこにはどうしても“隙間”が生まれる。
つまり余白の空間が出来るのだ。
そして、丸が増えれば増えれるほど余白も増えていく。
空間を埋めたいのであれば、モンドリアンのように直線で表現するしかない。
近代の考えの基本にあったものは合理的であることだったと思う。
合理的であるためには、“隙間”という存在をなくすことが必要なのだと思う。
でも、ある時期から“余白”や“隙間”という存在をアーティストたちが探っていたのだ。

もしかしたら、僕も余白を求めていたのかもしれない。
意識をしていたわけではないが、沖縄に来た理由のひとつがそこにあるのかもしれない。
でも、沖縄といえど、そうそう“余白”や“隙間”があるわけではない。
僕は今自分でそんな“余白=隙間”を作って生活している。

さまざまなアーティストや思想家(実際に何を読んだわけではない)といった人たちがその重要性を表現しようとしても、
現代社会はますます“余白=隙間”の存在を消して行く方向に進んでいるように思えてならない。
その昔モダニズムが世界を覆い尽くし、そこから生まれた様々な問題に対して機能だけではないものを求めたポストモダンが生まれた。
でも、僕から見るとポストモダンは単純な話ではないため、それを体現することが出来たものは少なく、中々人々に伝わらなかったではないかと思う。
ただし、流行としてのポストモダンというものあった。その言葉を使えば「どこかかっこいい」というような。
結局のところ、大きな意味でのポストモダンは役割を果たすことが出来きないまま、
時代と世界の状況の変化により、再びモダニズム的な合理主義へと進んでいるよう思えてならない。

モダニズムの代表的建築家コルビュジエの建築は直線的で合理的でシンプルな建築が知られているが、そんなコルビュジエでさえ、
「ロンシャンの教会」は宗教的な、決して合理主義に寄っていないものを作っている。
実際に「ロンシャンの教会」をこの目にした時は、とても感動したものだった。
モダニズムの初期はまだ“余白=隙間”があったのだと思う。

でも、今はとても窮屈な世界としか感じられない。
世界はどこに向かって行くのだろうか?

海の上でぷかぷかと浮かんでいた時のことを思い出すと、そんな考えが湧き出て来た。

理想論的文化論

2013-12-07 11:32:42 | 日記
先日、雑誌についてFACE BOOK上で思いついたことを書いた。
で、一回整理しようと思う。
雑誌が面白かった時代はかなり昔のことだと思う。
僕が雑誌に関わるようになった頃は、すでに現在のように情報重視の方向へと進んでいた。
幸か不幸か、僕はそのような雑誌に関わることはなかったが、
その時代は読者が雑誌に情報を求めていた。

僕が中学生、高校生くらいの頃の『ポバイ』とかはめちゃくちゃ面白かった。
アメリカ西海岸のブームを日本に合うように紹介して、少年をワクワクさせる力を持っていた。
『オリーブ』なんかも同じように女性に憧れを抱かせるようなページ作りをしていた。
いずれも情報ではあるのだけれど、情報以上にの付加価値を持たせていたのだ。
それは文化的刺激だ。
そして、そこには物語があったのだ。

それがなぜ変容してしまったのか?
僕は『HANAKO』の大ヒットにその理由が隠されていると思っている。
最初は出したマガジンハウスでさえ、こんなの売れないと思ったしたらしい。
でも、とても優秀で、時代を捉えることの上手い編集者か上部を説得して創刊にこぎ着けたという。
その頃のマガジンハウスは売れないだろうと思いつつも、そこまで言うならやってみろと言えるだけの余裕と冒険心を持っていた。

そして、大ヒットした。
その時代が求めていたものがそれだったから。
そして、他の出版社も右に習えとばかりの似たような雑誌を出していった。

ちょうどバブルの時代のことだ。
人々は消費することにしか興味抱かなかった。
読者が消費することに目が向いているのだから、
情報だらけの雑誌は当然売れた。
そして、そんな中で育った編集者は当然情報至上主義となってしまう。
だから、ネットの普及に対応する策を持たなかったのだと思う。
ネットという無料の情報に何百円も出す価値のある情報などない。
なのに、情報で対抗しようとしたのだ。

情報に物語という付加価値の付け方を知らないのか、情報にも物語があることを知らないのか、ただただ限られた誌面に写真を小さくしてでも入れ込もうとした。
その結果は言うまでもない。

僕がまだ東京にいた頃、ある出版社の社長に紙媒体ならではの表現が必要だと話したことがある。
その時は、僕の中でもまだ明確なイメージがあったわけではなかったのだが、ひとつ考えていたのが、オブジェとしての本、雑誌。
もちろん、それをやるには流通関連など様々な障害があるのだけれど。

まぁ、それに対して何か行動を起こしたこともなければ、そもそも僕は物語至上主義だったので‥‥‥。

今、前に書いて本にした祖母の本の書き直しとデジタル化をしながら電子書籍の表現の可能性を試している。様々な種類の本や雑誌を購入して、どんなものが読みやすくて、どんな制約があって、どんな仕掛けが可能なのか。

でも、やっばり一番大切なのは物語だと思っている。

僕は雑誌はひとつの文化を作ってきたものだと思っている。
でも、今、雑誌がひとつの文化を終焉させようとしていると思う。