沖縄に住むこと、計3年半。沖縄に来ること数知れず。
しかし、その場所を訪れたのは初めてだった。
たまたま名護市に用事があって、車に乗った。とはいえ、時間が決まっている用事でもなく、それほど急ぎの用事でもなかったので、58号線を北上していくことにした。
僕はあまり那覇市を出ることがないのだが、それでも北谷町あたりまでは時折行く事はあった。それより北となると、ドライブ気分になってくる。つまり、北谷より北にはほとんど用事がないのだ。
自宅のある那覇市から北谷町へ行くまでの間に、浦添市にあるキャンプ・ギンザーのフェンス沿いを走り、それを超えるといつもニュースの的になる(というかこの基地に関することしか報道されない)普天間基地を越えていく。ちなみに普天間基地には2700メートルの滑走路があり、基地全体の面積は宜野湾市の約25%だと言われている。
この普天間基地の越えるとようやく北谷町に入るのだが、実際に58号線を走っていると、普天間基地が右手に見えたら北谷町に入った気分になる。つまり、そこから先は風景ががらりと変わるからだ。
英語と日本語が入り混じった看板、中古車に貼られたドル建ての価格表示、グアムやサイパンなどで見かけるようなTATOOの店など。
そんな普天間基地のフェンス沿いを越えるとすぐにキャンプ瑞慶覧やキャンプ桑江といった北谷町にある基地のそばを道は走る。実際のところ、基地の切れ目とかはよく分からない。県道などが走っていると、そこで基地が終わるのだなと思うだけだ。
で、その先に北谷町、沖縄市、嘉手納町にまたがる広大な基地カデナが登場する。これまで幾度と無く嘉手納町を通る度に、フェンスとフェンスに挟まれた58号線を走ったものだ。とにかく、いけどもいけどもフェンスというイメージ。なにしろ、日本全国の空港の中で最も大きな空港が嘉手納基地だというのだから。この通りを走っていると、3車線という道の広さのせいか、または中央分離帯に植えられた椰子の木の南国的な雰囲気に浸ってしまうせいか、フェンスが長く続いているということを感じさせない。しかも嘉手納ロータリーでフェンスから離れていく。58号線を走っているだけでは、嘉手納基地が羽田空港や成田空港といった日本の国際空港よりははるかに広いという感じが決して実感することはないのだ。
その光景に特に違和感も感じることなく、それどころか異国情緒というか、これが沖縄なんだなと感じてしまう僕がいたのも事実だった。以前は。
今日は時間に余裕のあったので、58号線を走りながら、ふと「かでなの道の駅」に立ち寄ってみようと思った。特に意味はなかった。単に看板が見えたから。そして、まだ行ったことがなかったから。
「かでなの道の駅」の展望台から嘉手納基地が見えるということは、もちろん知っていた。
道の駅に着いた僕は車を降りて、すぐにそのまま展望台へのエレベーターに乗った。意外と人が多いことに驚いたのがだ、その半分はおそらく中国人だったと思う。中国語らしき言葉があちこちから聞こえてきたから。
中国人はこの光景をどのような気持ちで見ているのだろうか? と思っていたところ、日本語が聞こえてきた。多分ツアーの観光客だ。
「オスプレイは見れないの?」(おばさん)
「オスプレイは嘉手納基地には配備されていないんですよ」(添乗員)
「飛行機は飛ばないんだね」(別のおばさん)
「私が前来たときは、戦闘機が飛んでいたのを見たわよ」(自慢気にしゃべる別のおばさん)
実は、これが現実なのだ。
そう人にとっては、自身に害の及ばぬ悲劇は見世物なのだ。
沖縄の人がいくら騒音に苦しんでいることを叫ぼうがとか、オスプレイの危険性を叫ぼうが、観光で来たおばちゃんたちは、騒音を聞いてみたいし、オスプレイだって見てみたいのだ。
高いお金(といってもオフシーズンだから随分安い料金でお得なツアーだと思うが)を払ったからには、おばちゃんたちの本音は、戦闘機や軍用機の発着陸を見たいし、危険だと騒がれ散々テレビのニュースで見たオスプレイを見たいのだ。
もし、僕が沖縄に住んでいるわけでもなく、特別な思いもなく、一観光客として嘉手納に来たら、もしかしたらそう思ったかもしれない。口では反対といいながら、でもせっかくだから見てみたいと。そんな貧乏根性を出していたかもしれない。それはわからない。だから、あのおばちゃんたちを避難する気は毛頭ない。
いくら沖縄の人たちが声をあげようとも、それが中央政界に届かないのは当たり前のことで、中央政界の人たちの票を持っているのはそれらのおばちゃんたちなのだから。
票を入れてくれる限りは、余計なことをするはずがない。
でもだ。それでいいのか? でも、一体何ができて、そもそも何が必要なのか? どうしたらわかってもらえるのか?
そう、どの地方も抱える問題と同じ構造なのだ。そして、それはおそらく当分変わることはないだろう。
あの震災を経ても、何も変わらないのだから。
名護で用事を済ませ、そのついでに本部まで行って少し気分を変えてから、同じ道を那覇へと帰っていった。
自戒を込めて……。
しかし、その場所を訪れたのは初めてだった。
たまたま名護市に用事があって、車に乗った。とはいえ、時間が決まっている用事でもなく、それほど急ぎの用事でもなかったので、58号線を北上していくことにした。
僕はあまり那覇市を出ることがないのだが、それでも北谷町あたりまでは時折行く事はあった。それより北となると、ドライブ気分になってくる。つまり、北谷より北にはほとんど用事がないのだ。
自宅のある那覇市から北谷町へ行くまでの間に、浦添市にあるキャンプ・ギンザーのフェンス沿いを走り、それを超えるといつもニュースの的になる(というかこの基地に関することしか報道されない)普天間基地を越えていく。ちなみに普天間基地には2700メートルの滑走路があり、基地全体の面積は宜野湾市の約25%だと言われている。
この普天間基地の越えるとようやく北谷町に入るのだが、実際に58号線を走っていると、普天間基地が右手に見えたら北谷町に入った気分になる。つまり、そこから先は風景ががらりと変わるからだ。
英語と日本語が入り混じった看板、中古車に貼られたドル建ての価格表示、グアムやサイパンなどで見かけるようなTATOOの店など。
そんな普天間基地のフェンス沿いを越えるとすぐにキャンプ瑞慶覧やキャンプ桑江といった北谷町にある基地のそばを道は走る。実際のところ、基地の切れ目とかはよく分からない。県道などが走っていると、そこで基地が終わるのだなと思うだけだ。
で、その先に北谷町、沖縄市、嘉手納町にまたがる広大な基地カデナが登場する。これまで幾度と無く嘉手納町を通る度に、フェンスとフェンスに挟まれた58号線を走ったものだ。とにかく、いけどもいけどもフェンスというイメージ。なにしろ、日本全国の空港の中で最も大きな空港が嘉手納基地だというのだから。この通りを走っていると、3車線という道の広さのせいか、または中央分離帯に植えられた椰子の木の南国的な雰囲気に浸ってしまうせいか、フェンスが長く続いているということを感じさせない。しかも嘉手納ロータリーでフェンスから離れていく。58号線を走っているだけでは、嘉手納基地が羽田空港や成田空港といった日本の国際空港よりははるかに広いという感じが決して実感することはないのだ。
その光景に特に違和感も感じることなく、それどころか異国情緒というか、これが沖縄なんだなと感じてしまう僕がいたのも事実だった。以前は。
今日は時間に余裕のあったので、58号線を走りながら、ふと「かでなの道の駅」に立ち寄ってみようと思った。特に意味はなかった。単に看板が見えたから。そして、まだ行ったことがなかったから。
「かでなの道の駅」の展望台から嘉手納基地が見えるということは、もちろん知っていた。
道の駅に着いた僕は車を降りて、すぐにそのまま展望台へのエレベーターに乗った。意外と人が多いことに驚いたのがだ、その半分はおそらく中国人だったと思う。中国語らしき言葉があちこちから聞こえてきたから。
中国人はこの光景をどのような気持ちで見ているのだろうか? と思っていたところ、日本語が聞こえてきた。多分ツアーの観光客だ。
「オスプレイは見れないの?」(おばさん)
「オスプレイは嘉手納基地には配備されていないんですよ」(添乗員)
「飛行機は飛ばないんだね」(別のおばさん)
「私が前来たときは、戦闘機が飛んでいたのを見たわよ」(自慢気にしゃべる別のおばさん)
実は、これが現実なのだ。
そう人にとっては、自身に害の及ばぬ悲劇は見世物なのだ。
沖縄の人がいくら騒音に苦しんでいることを叫ぼうがとか、オスプレイの危険性を叫ぼうが、観光で来たおばちゃんたちは、騒音を聞いてみたいし、オスプレイだって見てみたいのだ。
高いお金(といってもオフシーズンだから随分安い料金でお得なツアーだと思うが)を払ったからには、おばちゃんたちの本音は、戦闘機や軍用機の発着陸を見たいし、危険だと騒がれ散々テレビのニュースで見たオスプレイを見たいのだ。
もし、僕が沖縄に住んでいるわけでもなく、特別な思いもなく、一観光客として嘉手納に来たら、もしかしたらそう思ったかもしれない。口では反対といいながら、でもせっかくだから見てみたいと。そんな貧乏根性を出していたかもしれない。それはわからない。だから、あのおばちゃんたちを避難する気は毛頭ない。
いくら沖縄の人たちが声をあげようとも、それが中央政界に届かないのは当たり前のことで、中央政界の人たちの票を持っているのはそれらのおばちゃんたちなのだから。
票を入れてくれる限りは、余計なことをするはずがない。
でもだ。それでいいのか? でも、一体何ができて、そもそも何が必要なのか? どうしたらわかってもらえるのか?
そう、どの地方も抱える問題と同じ構造なのだ。そして、それはおそらく当分変わることはないだろう。
あの震災を経ても、何も変わらないのだから。
名護で用事を済ませ、そのついでに本部まで行って少し気分を変えてから、同じ道を那覇へと帰っていった。
自戒を込めて……。
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