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日々あれこれ思いつきメモ

日記というよりもメモ? そんな思いつきを書いただけ……。

「旅立ちの島唄~十五の春~」のプレミアム上映会にて(再掲)

2013-05-14 12:45:26 | 読書
ようやく公開されるようなので、再掲します。

ほとんどの人はいずれ親から巣立っていく。
その機会はさまざまで、進学だったり、就職だったり、結婚だったり。
もちろん、そのまま実家に残り、家業を継ぐ人もいるが、家業を継ぐことが出来る人はパーセンテージとしてはそれほど多くはないと思う。

島嶼県である沖縄には49の有人島がある。
しかし、それらの島のすべてに高校があるわけではない。
おそらく、他の島の多い県でも同じような状況だと思うが、
沖縄の場合はその数の多さは比にならないだろう。

映画の舞台は南大東島。那覇から360キロ離れた島。
主な産業はサトウキビを中心とした農業と漁業だ。
ゆえに、島を離れざるを得ない人が多いのも事実なのだが、
この島ではその選択を15歳で強いられるのだ。

南大東島には、島を代表する民謡グループがいる。
ボロジノ娘というグループで、小学生から中学生の少女たちで構成されている。
新垣則夫という素晴らしい師匠にきちんと指導受けた彼女らの演奏は素晴らしく、また楽しげで見ている人たちを楽しませてくれる。
このグループもまた15歳、中学卒業時に卒業を迎え、村民を集めて卒業コンサートが開催される。
卒業生は最後に「あばよーい」という歌を独唱する。
とても難しい歌だ。

「旅立ちの島唄~十五の春~」という物語は
こんな事実をまるでそのまま脚本に起こしたのではないかと
思わせるほどのリアリティーを持った作品だ。
何と言っても、カメラと役者の距離感がとてもいい。
監督である吉田康弘はもともと井筒監督作品の脚本を書いていたそうだ。
この作品ももちろん書いている。
そのことを知らずに見ていた僕は、監督と脚本と役者の距離とバランスがとてもいいなと思っていた。
入れ込み過ぎず、引きすぎず。
言葉はないが、そこに心の中での会話が聞こえてくるようなカット。
(どんなカットかは書かないでおく)
ものすごい監督だなと思いながら見ていた。

主演の三吉彩花。彼女も素晴らしかった。
方言も違和感なく聞こえ、初めて触ったという三線の腕も素晴らしかった。
相当練習したと見える。
三線のコンクールで言えば最高賞クラスの歌を堂々と演奏していた。
この映画が初主演という彼女。これからいい女優に成長してくだろうと期待させられる演技だった。

物語をいかにしてリアルに見せるか、というのはとても難しいことだ。
非現実の世界を描く方が、おそらく作り手としては楽だと思う。
それは物語を破綻させないことに心を砕けば、それなりのものになるからだ。
しかし、日常を日常として描くこと。これは非常に難しい。
その点でも素晴らしい映画だった。


上映会では、映画の終盤、あちこちからすすり泣く声が聞こえてきた。
実は、映画の最中うるさかった後ろのおじいも最後はすすり泣いていた。
この映画はそんな映画だ。


http://www.bitters.co.jp/shimauta/

伊坂幸太郎とフランソワ・トリュフォーと

2013-02-25 11:24:00 | 読書
勘の良い人であれば、おそらくタイトルだけで何が言いたいのか分かると思う。
これから書こうとしているのは、その想像通りのこと。
ひねりも何もありません。

先日高知県へ行く前の日のこと。
僕は何か本を買っていこうと思い、実家の近所のTSUTAYAへ行った。
実家の近くのTSUTAYAにはそれほど本の種類が豊富ではなかったが、電車に乗ってまで本を買いに行く気も起きず、特に目的の本があったわけでもなく、とりあえず長い移動時間の暇つぶしになるようなものを探しに行ったのだった。
そんな具合だったので、文庫のコーナーの棚を一冊一冊見ていくのも面倒で、平積みになっているものだけを見ていた。
そこで目についたのが、伊坂幸太郎の『モダンタイムス』だった。
この本は、実は単行本で買っていながら、時間がなくて読まずに沖縄の家に置いてあった本だった。そもそも読む気があった本で、おそらく沖縄に戻ったら読まないだろうと、上下巻を買って帰った。

この作品は本人がそう語っているかどうかは知らないが、間違いなくチャップリンの「モダン・タイムス」へのオマージュ的な作品だ。
同名タイトルのチャップリンの映画の歯車の中を逃げまわるシーンは、おそらく多くの人が印象に残っているだろう。記憶違いかもしれないが、歯車の中で進めど進めど前に進むことが出来なかった気がする。そもそも歯車とはそんなものだ。
チャップリンの映画では、最後は人間性を求めて、自由を求めて旅に出る。

伊坂幸太郎の『モダンタイムス』は大きな意味では同じような展開を繰り広げていく。しかし、それは近未来の出来事。大きなシステムの中に取り込まれた人の、仕事という概念とその仕事に対する疑問を抱くことのない姿勢。言ってみれば思考停止した人々の姿を描いている。そして、そのことに気づいた人たちが次々と姿を消していくのだ。
さすがに伊坂幸太郎の作品はエンターテインメントとしてとてもよく出来た小説だ。早く次の展開を知りたいを思わせる筆力はスゴいものだと思う。
これほど多くの作品が映画化された作家もそうはいないだろう。

そんな伊坂幸太郎の『モダンタイムス』を読み終えて、ふと頭に浮かんだ映画があった。
それが、フランソワ・トリュフォーの『華氏451』だった。
この作品はトリュフォーには珍しく原作のある作品だ。
法律によって本を禁じられた世界で、本を守ろうとする人たちの姿を描いている。
最初はファイアーマンとして焚書をする側だった主人公が、本に触れて世の中に疑問を持ち始める。そして本の必要性に気づくのだ。
この映画では、テレビという情報だけが唯一の情報源で、誰もが本は法律で禁止されているからいけないものだと信じこまされている。いわゆる思想統制だ。
そして、いけないからダメなのだというのである。
つまり、なぜいけないのかを考えようとしないのだ。

伊坂幸太郎の『モダンタイムス』では、働く人々が自分が何のために働いているのかに疑問を持たない。たとえ、それが暴力であっても仕事だから人を傷つけていいという理論のもと動いている。そして、会社で働く人たちも、自分に与えられた仕事がどのように機能していくのかを知らない。そして、疑問を持つこともない。

トリュフォーの「華氏451」は1966年に製作された映画だ。
『モダンタイムス』は2008年に発表された作品だ。
時代は変われど、現代社会に生きる人が抱える問題は変わらないということなのだろうか?

そんなことを考えたら、『華氏451度』のレイ・ブラッドベリの原作を読む気になった。
近所のジュンク堂でもさすがにそれは置いてなかったので、週末にアマゾンに注文した。
今日明日には着くだろう。
この原作が書かれたのは1953年のことだ。原作がどのように描かれているのかが楽しみだ。

祖父の詩を読んで……

2012-12-28 17:01:46 | 読書
祖父が学校の先生で、詩人であったということは子供の頃に聞かされていた。しかし、僕はそのことにはそれほど興味を示さなかったし、その詩を読もうとも思わなかった。
遺影でしか知らない祖父、その人柄などはほとんど聞いたこともなかった。
正直な話、僕はそれほど家というものに関心を抱いたことがなかった。
今回、祖母の自伝というより、もはや物語となろうものを僕が書くことになって、初めて祖父の全集に目を通したのだった。

最近、ちょっと詩というもの触れる機会が幾度となくあったのも、それを予見していたのかもしれない。
先日最終回を迎えた四万十市を舞台にしたドラマにはなぜか初回から見なければという思いで、毎週見たのも何かの縁なのだろう。

祖父の詩を読むとさまざまな情景を浮かんでくるはずだ。
でも、それは僕自身が祖父は知らなくとも、祖母、母を知っているからで、そして何よりそれが書かれた場所を知っているからだ。
その意味では、決して彼の詩をスクエアな気持ちで、目で見ることが出来ないという思いから、僕はずっと彼の詩を避けていた。

でも、いざ読んでみると、思っていた通りスクエアに読むことの出来ない詩とそうではなくて、見ず知らずの人の詩として読むことの出来る作品とそれぞれが共存していた。
考えて見ればそのはずで、祖母や母を題材にしたものに対しては、僕自身の思い入れもそこに大きく反映されてしまうが、
一方それ以外のものを題材にした作品に反映されているものは、僕が生まれるよりも遥か以前に亡くなった彼の世界であり、
それが僕の世界はリンクしているはずがない。
そして、不思議なことにそのリンクしていない詩に惹かれるものが数篇あったりもする。

僕は小さな頃から、僕が生まれる三ヶ月前に祖父が亡くなったと聞いていた。が、それは母の祖父のことだった。つまりは曽祖父のことだった。僕はてっきり祖父が僕の生まれる三ヶ月前に亡くなったのだと思い込んでいた。
でも実際は、祖父は三三歳でこの世を去っている。
僕は今、四五歳だ。
つまり祖父を一回りも越えてしまっているのだ。
祖父よりも長く生きた一二年間で、一体に何を残したのか?
それを自問すると……。
何ひとつ残していない。

もちろん、雑誌の奥付やページのクレジットなどに名前は載っている。
でも、それだけだ。

これからきちんと残せるものを作っていこうと、今さらながらに思う。

ちなみに、今ではもう祖父の全集は手に入らないと思うが、一応紹介だけしておく。
『正木聖夫全詩集』(地球社刊)

出会いについて

2012-12-02 11:06:40 | 読書
出会いには能動的な出会いと受動的な出会いがあるような気がする。
例えば、本との出会いと音楽との出会いの違いがまさにそうだ。本と出会うためには、書店、もしくは図書館などへ行き、興味を抱きさらにそれを手に取るところから始まる。もちろん、たまたま書評などで見かけてという場合もあるが、それでもその書評を無視するのではなく、読むということが必要だ。
一方、音楽との出会いの場合は受動的な場合が多い。音楽はふと耳にすることがよくある。それはテレビ・コマーシャルだったり、ラジオであったり、たまたま入ったお店のBGMに使われていることもあるからだ。
僕の場合、ベベル・ジルベルトなどはまさにそんな出会いだった。

もう何年前になるだろうか。僕がまだ30代前半だった頃、少し長めに休みをもらうことができたので、パリに2週間行く事にした。仕事でパリに行ったことは幾度かあったが、多分プライベートでパリに行ったのはその時が初めてだったと思う。何か目的があったわけでもなく、アパルトメントを2週間借りて、ただブラブラしていただけ。
当時の僕にとって、パリはなぜかリラックス出来る場所だった。
5冊の本と着替えだけをスーツケースに詰めて出かけたのだった。

滞在したアパルトマンはレ・アール地区にあった。そこからならば、ポンピドー・センター、ピカソ美術館、ちょっと頑張ればルーブルにも徒歩で行けるような便利な場所だった。
特に、どこへ行くという計画も立てていなかった。あえて計画といえば、その日の気分で動くということ。
思うに、その2週間はほとんどどこにも行かなかった。出かけたのは、食事が目的。どこそののレストランに行くとか、フォーを食べに行くとか、中華(中華と言っても、日本の食堂的な中華。つまり本格的な中華料理でないところ)に行くとか。そんな感じだった。
ただ、ほぼ毎日行ったのが、近所のカフェ。まだオープンしたばかりのようで、あまりお客さんがいなかった。そもそも、場所も悪いと思ったのだが……。
僕は朝起きると、本を1冊持ってそのカフェに出かけた。そこで1杯(ダブルで頼んでいたけど)コーヒーとタバコで午前中を過ごした。そこが気に入ったのは、歩いて1~2分という場所、混んでいない、好みの音楽が流れているからだった。
そこで流れいたのが、ベベル・ジルベルトだった。
ベベル・ジルベルトはあのジョアン・ジルベルトの娘。さすがに歌はうまいし、何よりもセンスがいい。でも、僕は知らなかったので、カタコトの英語でそのカフェのマスター(?)に聞いた。
「今、流れているのは何?」
すると、彼は何も言わず、CDのケースを差し出した。
「メルシィ」と言ってそのCDケースを返して、読みかけの本に戻ったのだが、その午後のスケジュールは決まっていた。CDを買いに行くこと。
これもちょっとした偶然の、つまり受動的な出会いといえるだろう。以来、ベベル・ジルベルトの『Tanto Tempo』は僕の愛聴盤となった。

順序が逆になってしまったが、能動的な出会いといえば、やはり本だ。子供の頃、お小遣いはちょっとしかもらえなかった。でも、本だけは別に買ってくれた。以来、本を読むことが好きになっていた僕は、1冊読み終わると本屋に次に読むものを探しに行くというのが習慣となっていた。なぜ図書館に行かなかったのだろうかと、今は思うのだが、とにかく行く場所は本屋だった。本屋に行くとまず雑誌を立ち読みした。中学生の頃はサーフィン誌、高校生の頃はファッション誌、大学に入るとファッション誌と情報誌を立ち読みした。それから小説のコーナーに向かって、買う本を探すのだった。
確か高校生の頃だったと思う。タイトルだけで惹きつけられた本があった。それが『風の歌を聴け』。
なんだか分からないけど、その語感のかっこ良さに惹かれた。
実は、それまでは古い文学をメインに読んでいた。いわゆる名作と呼ばれたもの。たまに、暇つぶしに現代文学だったのが、村上春樹を読んでからは、それが逆になった。
そして行き着いた先がアメリカ現代文学だった。ポール・オースター、スティーブ・エリクソン、スティーブン・ミルハウザー……、ちょっとだけさかのぼってトマス・ピンチョンなども。
これは自分で調べて、探して出会った本(作家)だった。
雑誌の編集という忙しい仕事をしていた僕は、本を読む時間を取るために、わざわざ通勤時間に1時間程度かかる場所を選んで住んでいた。その通勤時間、往復2時間を読書の時間に当てていたのだった。

沖縄に住んでからは、その時間を取ることができない。それが唯一の不満といえば不満だ。本を読むときは、どこかのカフェに行って(最近はタバコを吸うことができる場所も少ないので、ドトールが多くなったのだが……)、本を読んでいる。

そういえば、最近はそこまで惹かれる本に出会えていない。
たまにジュンク堂に行くのだけれど、見ているだけで疲れてしまったりするのと、つい仕事に関連するような本を探してしまうからだろう。僕自身が能動的でなくなったのかもしれない。
多分、僕の知らない素晴らしい作家がいるに違いないということを願って、明日本屋に行ってこようと思っている。


沖縄との出会い、沖縄民謡との出会いについて書こうと思っていたのだけれど、結果として全く沖縄と関係のない内容になってしまった……。
次こそ、沖縄について書こうと思う。