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日々あれこれ思いつきメモ

日記というよりもメモ? そんな思いつきを書いただけ……。

雑誌について

2015-10-02 09:42:55 | 時事
どうも、最近雑誌の形態が変わってきたなと感じる。これまで雑誌といえば、出版社が出すものだった。特例としては初期の「本の雑誌」などがあったが、あれはとても優秀な学生たちが、若さと勢いと力に任せて作って成功したもの。

最近は出版社ではないところが雑誌を出すのが、やたらと目につく。で、そこには優秀な編集者たちがいる。それは裏返すと、雑誌がいかに危機に立たされているかということにを示しているように思われる。

正直な話、あまり雑誌を買う気になれない。
まず、内容と金額が見合わないような気がしてならない。もちろん、すべてがそうだというわけではない。広告が入らなければ、雑誌は成り立たないし、それでも作っていこうと思ったらそれなりの値段をつけなければいけないことは、その世界で仕事をしていた僕はもちろん分かっている。
それでも、ちょっとな~と思ってしまう。
これに数百円出す気になれないなと。

逆に専門性が高く、内容も充実していれば高くても買う。2000円近くても。

ただ、それを判断するには本屋で立ち読みをしないと判断できない。本屋で中身をザッと見て、コレはと思ったものはそのままレジに持っていく。
近頃の本屋さんは、それが分かっていて、椅子か置いてあったり、カフェを併設して何冊まで持ち込めるというサービスをしていたりする。(本屋さんもようやく海外並みになったようだ)

僕は雑誌に関しては、出版社自身がクビを締めたと思っている。
それは、立ち読みの出来ないような雑誌を作ったからだ。付録を付けることによって、ヒモで縛ったり、輪ゴムで閉じなければいけなくなった。中身を見ることの出来ない雑誌を買う気にはなれない。だって、表紙にいくら内容が書いてあっても、それが期待はずれになることなんて良くあることだから。逆に、表紙に書いてないようなページがグッときて、それだけのために買うことだってある。僕の場合は後者の方が圧倒的に多かった。

話は戻る。
最近は出版社ではない会社が雑誌を出している。詳しくは知らないけれど、有名な編集者や出版人たちがどこかからお金を調達してきて、自分たちがいいと思っている、もしくはこれなら売れると思っている雑誌を出してきている。
そのパワーはスゴいなと思う。
出したい、紙の雑誌を出したいという強い気持ちがそうさせているのだろうか?
そんな形態の雑誌を立ち上げようとしている人から、先日お誘いを頂いた。東京に帰るつもりはないので、丁重にお断りさせていただいたが……。(やがて50歳になるのに声をかけて頂いただけでもありがたいことだ)

ふと思う。僕が有名でお金を調達出来るような編集者だったら、同じことをしていただろうかと。

よくよく考えみると、たぶんやらないだろうな。今と同じように電子書籍をやっているだろうなと思う。まぁ、資金を調達出来る分、もっと大きくやっているだろうけど。人をたくさん雇って。
いや、資金調達もしないだろうな~。
結局、今と変わらないことやってるだろうなと思う。

今の新しい(厳密には新しくもないけど)カタチの雑誌には頑張って欲しい。
いい雑誌を作ってたくさん売って、雑誌文化を絶やさないで欲しい。
それは、雑誌で育ったやがて50歳になる人間としては切実に思う。


*別に大手出版社の雑誌のすべてがダメとは言ってませんので。中にはそういうものもあるということ。それはそうと、雑誌の値段って上がってませんか? 長く雑誌を買わなかったら、そう感じてしまったのは気のせいでしょうか?

【食】について思うこと

2015-05-30 20:27:28 | 時事


『THETHE』を始めてから、【食】に関してとても多くのことを学ばせていただいている。
 
以前の僕は? といえば、軽く栄養バランスくらいは考えたけれど、それも野菜を多く摂るという程度のもので、特に何かを気にしたりはしていなかった。有機野菜が体にいいというくらいの知識はあったけれども、詳しく知っていたわけではない。
というのも、僕は好き嫌いはあるもののアレルギーなどはまったくなく、特に【食】の危険性を実感したことがなかったからだ。(もちろん知識もなかったのだが)
さまざまな偽装問題が取り立たされていたときですら、「ひどいな」くらいにしか思っていなかった。(実際はもう少し何か考えていたとは思うが......)自らが被害に合っていないため、そんなこともすぐに忘れてしまっていた。
 
先日、マウイ取材に行ったとき、初めて【グルテン・フリー】という言葉を知った。僕の周りにベジタリアンの人はいるけれど、小麦がダメだいう人がいなかったので、まさか小麦がダメだいう人がいるとは思わなかった。あとで思えば、アレルギー情報として小麦の使用の有無が記されていることは知っていたのだが、そこまで多くの人がアレルギーに苦しんでいるとは思っていなかったのだ。
ところが、沖縄に戻ってからVegan料理店をやっている人に聞いてみたら、小麦がダメだという人のほとんどが小麦に使われる大量の農薬に反応するのだという。どのような種類の農薬なのかまでは知らないが......。

そんな中、Facebookで日本の農薬使用の基準が変わったということを知った。
簡単に言えば、許可される使用量が倍近くになったというのだ。【グルテン・フリー】のことを知ったばかりだったので、そのニュースは僕にとって衝撃的だった。ただでさえ、多くの人が農薬や化学肥料などのアレルギーで苦しんでいる人がたくさんいるというのに、農薬の使用量を倍にしてもいいというのだ。しかも、人体に影響があるとされている物質らしいのだ。

いろいろなところで「食の安全」という言葉が使われている中、このニュースを知ったのはFacebookだったのというのも驚きだ。まあ、あまりニュースを見ていないからといえばそれまでだが、もっと報道されるべきものじゃないかと思う。

今、世間が注目しているものは何だろう?

「安全保障関連法案」か? だったらまだいい。でも、そうじゃないと思う。だって、テレビを見て一番最初のニュースが「東京湾にシャチが現れた」ことなのだから。「これか一番最初のニュースか?」と自分の目を疑った。しかも、それを生で中継していた。
 
ちょっと話が逸れるが……。

4月に東京で内部被曝の検査をした。
僕は大丈夫だと思っていたし、何かカラダに変化があったわけじゃない。ただ、体調をよく崩していたのと、『原発村の1年半』という本のために双葉町に入ったことを知った友人が心配してくれて手配してくれたのだった。
結果は「問題なし」。
まぁ当然だと思ったのだけれど、どうやら《当然》と思うのは間違いだというのだ。内部被曝とは体内に放射線物質を取り込むことによって被曝することをいう。今、東北に限らず、全国的に体内の放射線量が増えている人が多いそうだ。食べ物からという場合もあるだろうし、空気、水などで取り込んだという人もいるだろう。

ちなみに、内部被曝にも国が決めた基準値というものがあって、その基準値はいつの間にか上がっているのだと聞いた。その量は確かにすぐにカラダに影響が出る数値ではないらしい。しかし、その数値は蓄積されていくことは考慮されていない。

この数値は体内から放射された放射線量÷体重で計算される。つまり、同じ量の放射線量が計測されても、僕のような体重の重い大人と20キロ~30キロの子どもとでは明らかにその影響は違うのだ。

農薬でも同じことが言えるのではないだろうか?

ここから先は、僕の想像でしかないので間違いがあったら指摘して頂きたい。

カラダにいいものを摂ることが出来るのが一番だたも思う。でも、そもそもカラダにいいものは、それを必要としている人たち全員に行き渡るほどの量はない。それ故に高いものとなるのだが……。
ならば、カラダに悪くないものを出来るだけ摂ってみてはどうだろうか? 無農薬(今、無農薬という言葉は使ってはいけないらしい)のものが手に入りにくいのであれば、減農薬というものがある。減農薬で野菜などを作っている農家さんは、ゆくゆく無農薬をやろうとしている人たちだ。ただ、長年農薬を使い続けた土から農薬を完全に抜くには時間がかかる。一度でも使ったら、元に戻すまでには相当な時間がかかるという。でも、そっちの方がまだカラダに悪くないのではないかと思う。もちろん、カラダにいいとは言えないけれど。

とはいえ、減農薬も誰でもが買えるほどの量はない。
僕も含めて多くの人は甘んじて農薬を使ったものを食べざるを得ない。

そこで僕らに大切なのは【デトックス】だ。
本来、人はカラダに悪いものを外に出す力を持っている。多分、今その力が弱まっているような気がする。もしくは、その力では敵わないほどの農薬が使われているか。

カラダが弱ると、必ずカラダに悪いものの影響が出てくる。異物を排出できなくなってしまうのだと思う。排出できない時はどうすればいいか?
これは僕の体験だが、まずはカラダに悪いものは一切摂らないことにする。
一度の【デトックス】は断食だと思うが、それはなかなかハードルが高い。そしたら、最低限摂取するものはカラダにいいものだけにすればいい。毎日の食事を無農薬や自然栽培のものに変えるのは、量の問題もあるし、経済的な問題も出てくるだろう。でも、体調を崩した時だけは食事を変えるということならば、そのハードルは相当下がるのではないだろうか。

もちろん、【デトックス】の方法はいろいろある。その人に合ったやり方というものなあるはずだ。だから、ここで僕のやり方を書くつもりはないけれど(サプリというお金のかかる方法だから)、調べてみることをお勧めする。

ちなみに、僕の、内部被曝の検査の結果は3.11以前の通常の値よりも低かった。これも【デトックス】のおかげだと思っている。

合間合間に書いたので、ちょっと文章の構成とかどんなか分からないけれど、まぁ、どうでもいいブログなのでこのままアップしてしまう……。

力の入れ方、抜き方

2015-02-10 10:42:53 | 時事

僕の腰痛の原因は力の抜き方を間違えたことにある。その瞬間のことは覚えていないけれど、「あ、やった!」と思った。力をうまく抜けなかったのだ。力を逃がすことに失敗したのだ。

僕は高校生の頃から腰痛持ちだった。もちろん、これほどひどくはなく、時々痛くて辛いなという程度のものだったのだけれど、そこできちんと対処しておかなかったためにここまで悪化した。

それでもいくども大変な目に合って、ようやく自分なりの対処方法を会得した。会得というのはちょっと大げさな言い方だけれど。

 

それは、力を抜くということ。激痛に襲われそうになる瞬間が自分で分かる。その瞬間に余計な力を入れず、そこにかかっている力を逃がすのだ。そうすると、最小限の痛みでおさまる。こうして、最小限の痛みに抑えながら、根本の部分の治療を施し、さらには自重を支えるだけの筋力のアップに努めてきた。筋力のアップに関しては、予定通りはいっていないけれど、理想とする筋肉が僕の中には明確にあり、50歳前だけれどそれに近い筋肉を付けたいと思っているのだ。

 

ようやく、それに向かって動き出した直後の出来事だった。僕は多分油断していたのだろう。「やろう! やろう!」という前のめりの気持ちが全面に出ていて、それが僕の中の基本である「力を抜く」ことを、瞬時に出来なかったのだと思う。そう、力の入れ方と抜き方を間違えたのだ。

 

今、「神様」という表現は微妙かもしれないけれど、ここで僕が言う「神様」は僕らがよく言う類の「神様、仏様」の「神様」のこと。

多分、「神様」が僕に『ちゃんと基本を忘れずにやりなさいよ』と忠告してくれたのだと今は思っている。

ちょうど、いろいろなことに「前のめり」になっていたので、一度冷静になるためのいい教訓だった。「前のめり」になっていたのは、Facebookなどで書いたような『マラソンがしたい』とか『山登りしたい』といった遊びのことではない。仕事の面での話し。ちょうど、さまざまなことを考えるのにちょうどいい10日間だった。

ようやく、そこそこの時間椅子に座ってられる状態まで回復している。

 

動くことが出来ず、テレビやネットや本などを見たり読んだりしていた時にさまざまなことを感じた。

 

そのひとつが「今の日本には一切の余裕がない」ということ。

つまり「力を入れっぱなし」だということ。

 

「今が戦前の日本と同じような雰囲気が漂っている」

「憲法改正を明確に打ち出した」

「原発が再稼働される」

「翁長知事はパフォーマンスしてるだけだろ!」

「辺野古で怪我人が出ている」

「辺野古は決まっている!」

「テロリストに……」

「自衛隊を邦人保護のために活動出来るようにすべきだ!」

「バカじゃないか!」

「アホじゃないか!」

 

ネットにあふれる言葉の数々。

 

もしかしたら、ネットに吐き出して解消しているのかもしれないのかなとも思うのだけれど、吐き出し方として決していい方向ではないと思う。

 

自称「イスラム国」の件でよく言われている「負の連鎖」。今の日本こそがこの「負の連鎖」に陥っていないだろうか? 感情だけがぶつかり合って、罵詈雑言が飛び交う。

 

多分「こいつらには何を言っても意味がない」ということから来る言葉だろうし、「こいつら一体何考えるんだ、バカじゃないの」という見下した気持ちを何の工夫もないそのままの言葉で表現している。(これを表現とは呼ばないと僕は思うが)

 

相手の言葉に耳をかさない。

 

まるで、日本国内がすでに終わったと言われていたイデオロギー対立の時代に逆戻りたようだ。逆戻りだけならまだしも、さらに悪化させている。しかも、そのやり方も安保運動の時代よりも陰湿になっている。過激な言葉で相手を挑発させるだけ。自らの姿はそこにはない。ネット時代の特徴だと言えばそうかもしれないけれど、単なるそういう問題でもない気がする。

 

その一方で、多くの人たちは「そんなことはどうでもいい」と思っている。「どうでもいい」と思っている人たちの気持ちも分からないではない。日々の生活に精一杯だし、自分が幸せになることが一番なのだから、そんなことに関わりたくないと思っているのだと思う。

正直、僕だって関わりたくない。でも、その先を想像する力がなくなってしまっていることは大問題だ。

 

そもそも、驚くべきことに「憲法」とは何か? という質問に答えられない人がいる。

別にバカにしているわけではない。実際に、それを考える機会は日本においてはほとんどなかったし、それをきちんと教えていたかどうかも疑問だ。憲法というものの本質すら知らない僕らが、もっと難しい「集団的自衛権」だとか「特定秘密保護法」だとかそんなことを理解出来るわけがない。

経済に関してもそうだ。そもそも経済に関してどれだけ知っているか? 僕は知らない。基本的なことのごく一部しか分からない。多分、ほとんど人がそうだろう。

 

まず、僕らはもっと基本的なことをきちんと知るべきだ。

知らないとその先を想像出来るだけがない。

 

一方はいろいろな物事を推し進めようとしている、今のうちにと焦って。他方は何とかそれを押しとどめようと躍起になっている、焦って。

この「焦り」が罵詈雑言となって飛び交うことに繋がっている。

 

でも、結局最終的に決定権を持っているのは僕らだということを忘れてはいけない。決定権を持っている僕らは、そんな罵詈雑言の中に巻き込まれてはいけない。僕らまでが「力を入れすぎて」はけがをするだけだ。

 

僕らは今こそ「力を抜いて」、冷静に物事を見つめるべきではないだろうか。僕がキレイ事を言っているのは百も承知の上。

 

でも、僕は昨日の池上彰氏の言葉、表情からそう思ったのだ。


2014年

2014-12-22 17:06:59 | 時事

このところ1年を振り返るという内容のテレビ番組が続いている。

いろいろな事件があったんだなぁとか、この人も亡くなっていたのか、などといろいろと感じるところはあるのだけれど、どう重要なことが抜け落ちているような気がしてならない。

別に真剣にテレビを見ているわけではないので、もしかしたらたまたま見落としたのかもしれないけれど。

 

今のところ気づいていないのは、秘密保護法案の施行のニュースや解釈を変えて集団自衛権を認めようとしたこと(先々憲法改正の問題が起きるからなかったことにしようとしているのかもしれけれど……)、原発再稼働の問題、沖縄の基地問題(沖縄県内のニュースは除く)などが振り返られていないような気がする。

何度も言うように、たまたま見逃したのかもしれないけれど。

 

なんでメディアが躊躇しているのかよく分からない。秘密保護法案って公務員に適用されるものじゃないの? 秘密保護法案が施行されたということは、報道関係者に秘密が漏れないということなのだから、もっと踏み込んで意見なり何なり言ってもいいのではないかと思うのだ。

もちろん、相当な圧力はあるだろうけれど。でも、法律に違反しているわけではない。知らされていないことで、でも国民にとって重要と思われることは、もはや憶測でものを言うしかない。政府がそうしたのだから、憶測でものを言って罰せられることはないはずなのだ。もし、それを罰することがあれ、そこれそ表現の自由を奪うことになる。

 

まあ、ヘイトスピーチなども「表現の自由」を盾に取っているのだと思うが、それを取り上げる方が悪い。まだ、読んでいないが、ヘイトスピーチに関する出版社の責任を問うというような内容の本があったようだけれど、おそらくそういうことを言っているのではないかと思う。(僕も憶測で今ものを書いている)

 

そんな重要なことを抜かして(見逃したのかもしれないけど)、2014年を振り返った(もしくは語った)と言えるのだろうか?

 

「よく終わったことは忘れて先に進め」などという意味合いのセリフがドラマなどで見られるが、果たしてこれらの問題は終わったことなのだろうか? 新聞だったかテレビだったか忘れたけれど、原発再稼働については半数弱の人たちが賛成しているという記事(もしくはニュース)を見た。その数字に、僕はどれほど驚いたことか。そこでは半数以上が反対という表現がされていたが、僕から見たら半数弱が賛成としか捉えられなかった。そんなに賛成の人がいるんだと。

 

それこそ、忘れて進めなのだろうか?

それとも経済問題?

再稼働したら景気が良くなるの?

命よりもお金なの?

国土の面積がこれ以上少なくなっていいの?

安全っていうけどそれが100%じゃなくても賛成なの?

そもそも基準ってどうやって決めているの?

なんで基準が変わるの?

基準を変えていいの?

それも込みで賛成なの?

 

20%くらいの人が賛成だったらまだ分かる数字だけど、40数%だったことのショックは大きかった。僕はすでの沖縄に住んでいたから、身に迫る危機感は正直なかった。

でも、3年経って、自分のこの目で惨状を見た時の衝撃はこれまで受けたことのないものだった。

それは稲葉氏の本「原発村の1年半」に書いている。

 

どうも話が随分とそれてしまった。

最初は自分の1年を振り返るつもりだったのが、妙なところで熱くなってしまった。

まあ、自分の1年なんてどうでもいい。

何も特別に人に伝えるようなものでもない。

それは個人的に振り返っておこう。

気が向いたら、また書くことにしよう。

 

先日の選挙結果が出てから、反安倍の人たちの言葉も実は気になっている。

バッシングを覚悟で言うと、もうあんな言葉をSNSやブログなどで流してもムダだということ。

どんどんヒートアップしていくだけで、おそらく政権から見たら「負け犬の遠吠え」にしか聞こえないはず。

そうであるならば、賢い人たちに言いたいのは、暴走を止める他の手立てを考えてくださいということ。

僕は賢くはないので、どうすることが一番なのか分からない。これまで政治活動に参加したこともないから。

 

僕の知り合いの多くは、先の選挙の沖縄の結果を賞賛する。でも、実は僕にとっては微妙なのだ。(すみません、話変わってます)微妙なのは沖縄1区。共産党候補であったこと。まあ、オール沖縄で選挙協力をして、それぞれの選挙区で調整をした結果がそうだったのだから仕方ないのだけれど、国政レベルではどうなんだろうという疑問がどうしても払拭出来ない。

 

もちろん共産党も辺野古反対で通すだろうけれど、なんで沖縄で協力出来たことが全国レベルで出来なかったのかと思うのだ。

だって、共産党候補が小選挙区で出馬したってほぼ当選出来ないのだから、各党と是々非々で調整しなかったことが不信感として残る。少ないなりに票は持っているのだから、各党と調整して選挙区と比例区とで分けておけば、ここまでの差が出ただろうかと思うのだ。

そもそも政権が変わるという当てなどなかった選挙なのだから、せめて議席数が与野党拮抗するための作戦を考えるべきだったと思う。

 

小沢一郎の力がなくなってしまったということが大きいけれど、逆を言えば小沢アレルギーの人も多いのだから、そこに縛られずに選挙協力しておけば、多少なりともその差は縮まったのではないかと思うのだ。

 

まあ、終わってから言う話ではないけれど、切実そう思う。

 

僕がこの1年を振り返るならば、闇の入り口が開いた1年だったような気がする。

さて、これからはその入り口をどうやって塞ぐかが問題なのだと思う。

 

個人的にはいい1年だったので、残念だ。


突き付けられたショッキングな言葉

2014-07-07 18:24:39 | 時事

どこかのスピーカーから「警報が出されているので台風対策を」という内容の放送が流れている最中。

僕は雨が降る前にと、オンの散歩をしていた。

時折大粒の雨が落ちてくる中、少し足早にオンをいつもの児童公園を巡るコースを歩いた。

道すがらいくつもの家の前を通りながら、あちこちの家で台風対策をしていた。

ドアを紐で縛り付けたり、飛びそうなものをしまったりと。

早く帰らないとと思いながら、明日はオンに散歩させてやることが出来ないかもしれないなと思い、まあ、雨に濡れるくらいはいいかとオンを無人の公園で遊ばせていた。

その公園には幅7~8メートルほどの滑り台があり、公園自体が下の段と上の段に分かれていた。

好きにさせていたオンは階段を駆け上がり、上の段へと登っていった。

すると真っ黒に日焼けし目鼻立ちもハッキリとした、いかにも沖縄の少年たち3人が遊んでいた。

おそらく小学校1~2年生くらいだと思う。

彼らはオンを見つけると駆け寄ってきて、「触ってもいい?」と聞いてきた。

「いいよ。でも背中だけにしてね。顔とかは嫌がるから」

2人の少年はオンを恐恐と触りながら、「雨で濡れてるね」などと言っていた。

少しばかり少年たちと話しながら、オンと遊ばせてあげてから僕は彼らに

「もう台風が来るから早く帰った方がいいよ」と言った。

すると彼らは「家には誰もないから」「家が開いてないから入れない」などと口々に言っていた。

『こんな台風が来るの分かっているのにな』、と思いつつも

彼らに「じゃあ、帰れるようになったらすぐに帰るんだよ」と言い、そのまま少しオンと遊ばせてあげていた。

すると1人の少年が突然こんな言葉を発した。

 

「俺死にたい」

 

「なんでよ?」と僕。

「だってお母さんも学校もひどいんだもん」

「なんで、友だちだっているさ。今一緒に遊んでるさ」

「友だちなんかいないよ」

「死にたいなって言ったらダメだよ。また犬連れて公園に来るから、またおじちゃんと遊ぼう」

 

そして、僕は公園を去り彼らと別れた。

 

年端もいかない少年が「死にたい」と平気で言う。

彼がどの程度本気で言ったのかどうなのかは分からない。

でも、彼の目には子どもが持つ輝きはなかった。

本気ではないにしろ、ココロのどこかでそんな思いが見え隠れしているのは間違いないと思う。

 

僕が子どもの頃、そんな言葉を発する子どもがいただろうかと帰りながら考えたが、どうしも思いつかない。

子どもの頃にただ単に僕が気づかなかっただけなのだろうか?

それとも時代が変わったのだろうか?

子どものいる人たちならこんな現実を理解しているのだろうか?

僕には子どもがいない。

だから、僕には分からなかったのだろうか?

 

いじめなどの問題もニュースで知っているし、自死を選ぶ子どもがいるということも知っている。

でも、それは僕にとって遠い世界の出来事だった。

6~7歳の少年の口から実際に発せられた言葉を聞くと、突然そんないくつもの社会問題が目の前につきつけられたような気がした。