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日々あれこれ思いつきメモ

日記というよりもメモ? そんな思いつきを書いただけ……。

禁煙日記 14日目

2014-01-19 23:30:34 | テレビ
今日、祖母の葬儀も無事に終え、ようやく落ち着いた。
ただ、やはり一人の人間が亡くなると、いろいろと大変で事務的な仕事が実に多い。
さすがにタバコをほとんと吸わなくなった父もかなりのかなりの本数を吸っていた。
それに加えて、弟のスモーカーだ。
相も変わらす、マルボロの赤を吸っていた。
さすがに誘惑の惑わされたがガマンすることが出来た。結構行けそうな手応えを感じている。
あとは、お酒の席でガマン出来るか?
でも、それはもっと先にしよう。
そこには、まだ自信を持てないから。

ドラマ性を失ったドラマ

2013-08-25 01:09:15 | テレビ
この1年ほど、これまで全く見ていなかった日本のテレビドラマを見ている。
それ以前はドラマといえば、海外ドラマをレンタルDVDで見るだけで、日本のドラマなど見ていなかった。
というのも、日本のドラマに惹かれるものがなかったからだ。
ちょっと興味を持ったのが、『家政婦のミタ』だった。
それが特に優れていたというワケではなかったが、日本のテレビドラマも悪くはないと思ったからだ。

しかし、やはり日本のドラマはダメだなと最近思う。
まず、先が分かってしまうからだ。
次にどんなシーンがまっているのか。
さらには、結末までが分かってしまう。
特に、フジテレビのドラマはヒドい。
ヒドいものについて書くということはあまりしたくはないのだか、あまりのヒドさに呆れてしまう。
結末が分かるのはまだいい。
でも。それが1話で分かってしまうというのは論外だ。
もちろん、海外ドラマと比較するのは間違いだと思う。
まず、予算が違う。
ただ、日本のドラマ、特にフジテレビのドラマはまず俳優(タレント)ありきでシナリオが出来ている。
それは物語を作る上での足かせになっている。
視聴率の取れるタレントを使う。
商売の方法としてはアリなのかもしれない。
でも、そんな時代はとっくに終わった。それが分からないというのは大きな問題だ。

『あまちゃん』の成功は脚本の素晴らしさは、よく言われる小ネタはもちろんだが、1話目でこの展開が読めた人はいるだろうか?
おそらく、いないはずだ。
そして、展開のスピードが早過ぎず、遅過ぎず。適度に次回に期待を持たせるスピードなのだ。

同じNHKのドラマでも、悪い例のものはある。それは『大河ドラマ』だ。
『八重の桜』というタイトルなのに、この半年の間八重はほとんど出てこなかった。幕末の出来事を事細かに描写するあまり、主人公である八重の描写がおろそかになっていた。
さらに、八重にとって大切な人物である新島襄についてはほとんど触れていなかった。
さらに、オダギリジョーの主演ドラマが低視聴率に喘いだことを理由に、オダギリジョーのシーンを大幅にカットしたという。
全くのお門違いだ。
これもシナリオがダメだった例と言える。
最近話題の『半沢直樹』はシナリオもだから、演出の妙も成功の理由だと思う。
ある意味で映画的とも言える。

では、海外ドラマがなぜ流行っているのか?
はやり、シナリオのレベルが違い過ぎる。
アメリカでは、シナリオを一人の人間が書いているワケではない。
チームで書いているのだ。
さまざまなアイディアをまとめたものが物語となってテレビで放映されるのだ。
あり得ないような物語にリアリティを与える方法にも長けている。
そして、有名な映画監督を起用しているのも見逃せない。
映画では2時間半程度に編集しなければいけない物語を細部を描くことによって、視聴者の興味を惹いている。
もちろん予算があるから出来ると言えばそれまでだが。

しかし、なにより先の読めないシナリオが用意されていることが、一番の違いだと思う。

結末の分かる物語ほど面白くないものはない。
仮に結末が想像出来たとしても、その展開に意外性を用意出来ないのは、脚本家の問題なのか、テレビ局の問題なのか……。
おそらく後者だと想像するが。

日本映画は頑張っているだけに、何とも歯がゆい。
民放は『あまちゃん』のパロディをやっているのではなく、きちんとそれが何故ここまでヒットしたのかを分析して、もっとよく考えて欲しいと思うのは、僕だけだろうか?

時代劇と現代劇

2013-06-23 08:54:19 | テレビ
最近、僕は時代劇をよく見ている。
もう民放では多分ほとんどやっていないが、NHKやBSなどでは新しい作品が作られている。
古い時代劇のほとんどは勧善懲悪の物語だ。
それが受けた時代だったことは言うまでもない。
人々はそんな物語に飽きてしまったから、民放は時代劇から手を引いたのだ。
しかし、原作はそうではない。
実は、時代物の多くの小説は勧善懲悪の物語ではない。
でも、テレビの制作者たちは、人々が好きであろうという想像から
そんな原作の細部を省いて勧善懲悪の物語に作り直したのだった、

少し話しが変わるが、ゲームは全く違う物語を用意したように見えた。
それはゲームのプレイヤー自身が結末を決めるというものだ。
また、マンガは奇想天外な物語を作り出した。
でも、やっぱりそれらはほとんどは勧善懲悪の物語だし、結末はこうあって欲しいというものになっている、

坪内逍遥は『小説神髄』で、小説は新しい時代の芸術だと言っている。
そして、小説はこれまでの勧善懲悪というものから脱し、
人の生活が人情を描かなければいけないと書いている。
その影響を受けた、いわゆる明治の文豪たちは新しい小説を生み出した。
夏目漱石しかり、二葉亭四迷しかり、幸田露伴しかり。
彼らは、生身の人間の姿を描き出した。
これは江戸時代にはなかった 文学だった。

さて、現代の文学はどうだろうか。
現代文学は決して単純な勧善懲悪の物語ではない。
でも、大枠で言えば、勧善懲悪の枠を超えるものではないと思う。
ミステリーは時代が現代であるだけで、構造として昔からある物語の焼き直しだ。
恋愛ものに関して言えば、悲劇はシェイクスピアを超えるものはないし、
ハッピーエンドのものは少女マンガにかなわない。

僕は、村上春樹が好きだし、ポール・オースターが好きだし、
トマス・ピンチョンが好きだし、スティーブ・エリクソンが好きだし……。
でも、昔に読んだ作品はその内容を忘れてしまっていたりする。
僕は比較的小説を読んでいる方だと思うが、その多くは忘れ去ってしまっている。
でも、小学生の頃に読んで、未だにその内容を忘れない作品が2つある。
志賀直哉の『小僧の神様』と森鴎外の『高瀬舟』だ。
『小僧の神様』は別としても、『高瀬舟』は小学生に難しい内容だと思う。
でも、強烈に残っている。
自然主義を元にした白樺派の志賀直哉、ロマン派の森鴎外。
その表現方法は違っていても、いずれも坪内逍遥が説いた新しい芸術であり、
江戸時代の勧善懲悪を超えた、人の生の姿を描いている。

さて、時代劇の話だが、これまでの時代劇は勧善懲悪で出来ていた。
しかし、今はちょっと違う。
より複雑な物語となり、人の心情や江戸時代の文化、江戸時代の人の生活がきちんと描かれている。
それは何故か? 出来るだけ原作に近い形で脚本が書かれているからだ。
時代物と呼ばれる文学は、実は坪内逍遥の提唱した文学神髄をきちんと取り込んだ形で江戸という時代を描いているのだ。
その最たるものは池波正太郎だろう。
ただ、捕物帳や武士道を描いているだけではない。
盗人の側の心情や江戸の食文化、江戸の生活などを細かに描き出している。
池波正太郎に続く作家たちも同じだ。
素晴らしい原作を壊さずに、その世界観を出来るだけ忠実に脚本化することによって、
今の時代劇は深みのある作品となっているのだ。

一方、現代劇は違う。
作品をドラマや映画を見ると、どうしても原作の方が面白いと感じる人が多いはずだ。
映画はまだしも、ドラマはひどいものだ。
とにかく、視聴率を取らなければという意識からか、
大して巧くもない、いや下手じゃないかと思えるような、でも人気のタレントを起用する。
そして、そのタレントを際立たせるために、脚本を書き換える。
それが鼻につくから、つまらないものに見えるのだ。
僕は、たまによく原作者がこれを許すなと思うことがよくある。

もうひとつ言えば、独自の脚本というものが最近はほとんどない。
多分、プロデューサーなどのお金を集める人たち、スポンサーなどのお金を出す人たちが、
すでに結果を出している原作の映画化、ドラマ化でないとお金を集められないし、
それでないとお金を出さないのだろう。
あとは人気タレントを使うことも必須条件だ。
そんな制約の中で作るものが面白いわけがない。

時代劇のほとんどは原作がある。
でも、原作を壊さないからこそ、今は意外にも時代劇が面白いのだ。

海外ドラマと日本のドラマ

2013-06-05 09:19:40 | テレビ
ここで僕の言う海外ドラマとは主にアメリカのドラマを指す。
僕は子供の頃から、アメリカのドラマが好きだった。
特に昔、日本テレビで日曜日の夜10時半からやっていた海外ドラマのシリーズだ。
子供の頃の僕はあまりドラマというものに興味を持たなかった。
でも、日本テレビのシリーズだけは別だった。
例えば、「スパイ大作戦」「探偵レミントン・スティール」(あのピアース・ブロスナンが主演している)「チャーリーズ・エンジェル」「刑事コロンボ」「アウターリミッツ」「ミステリーゾーン」など。もう少しあとになると、「マイアミ・バイス」とか「ナイトライダー」なんていうドラマもあった。日本でももっとも話題になったのは「Xファイル」だと思う。

最近、BSで昔のアメリカのドラマが放送されている。
「我らブルームーン探偵社」という番組だ。
この番組も昔はまったドラマだった。
若い頃の(まだ髪の毛のあった)ブルース・ウィルスが主演で、彼はこのドラマで有名になった。
僕はこのドラマも毎週欠かさず見ていた。

久しぶりに昔のドラマを見ると、海外(アメリカ)ドラマの進化のすごさに気づく。
最近の海外ドラマはある意味で映画を超えている。
1シーズン24話として、およそ22~3時間。
それだけの時間をかけて描くドラマは、細かい描写と様々な人間関係を描くことが出来、
脚本も非常に凝ったものとなっている。
そして、何よりも予算のすごさも見逃せない。
有名な映画監督を起用して作られるドラマには、様々な技術が使われている。
また、発想も豊富である。
2時間強の映画では描ききれないものをドラマとして描いている。
複雑な話を脚本化して、こと細かにその複雑さをとき解いていく。
そう、人が想像出来ない話を作ろうということに腐心しているのだ。
だから時折、話が破綻してしまっているものもある。

ただ、僕は昔のドラマの緩さも好きだ。
脚本もとても甘い。
でも、時にその甘くて緩い話というものは、すべてが想定内の中で話が収まっている。
想像した通りの結末を迎える。
すべてがそれでは困るが、たまに見る分にはいい。

昔のアメリカ映画は描かないことによって、描く。
つまり、ちょっとした象徴的なシーンを差し込むことによって、描かれていないシーンを想像させるのだ。
例えば、朝食の食卓にゆで卵が乗っているとする。
脚の付いた卵入れ(?)に入った半熟のゆで卵の頭をスプーンでコンコンと叩いて割って……。
このシーンは前の晩にその男女の間で何かがあったことを意味する。
昔の日本で言えば、一緒の飲む朝のコーヒーだ。

しかし、そんなことは今や誰も知らない。
そこでハリウッドは、想像力をかき立てるためには、
人の想像を超える出来事を描くということに腐心することになったのだと思う。
実際、いくつかの海外ドラマはそれで成功している。
だから、僕は今でも海外ドラマが好きなのだ。


さて、日本のドラマだが……。
正直な話、日本のドラマにはあまり進化を感じられない。
それは、やっぱり予定調和の世界から抜け出すことが出来ないことと、
脚本よりも役者を重視している傾向にあるからだと思う。
つまり、視聴率が取れる役者を使うことで見てもらおうという魂胆が丸見えなのだ。
朝ドラも同じ予定調和の世界にありながら、フレッシュな役者を起用することで、
脚本がある程度自由さを得ている。つまり、少しはゆとりがあるのだ。
でも、民放のほとんどの(決してすべてではない)ドラマは役者に合わせた脚本という感じがどうしても否めない。
あえて役者と書くが、言うまでもなく人気のアイドル、人気の俳優のこと。
日本映画のいくつかは世界的に評価されているのに、
(世界的に評価されているものは日本ではあまり興行成績が良くないことが多いが)
日本のドラマは一体どうだろうか?

カンヌで審査員賞を撮った是枝監督が、
彼の作風のままに撮ったテレビドラマの視聴率が芳しくなかったことも
何かを意味しているのだと思う。

アニメは世界一と言ってもいいほどなのに……。

想像力を掻き立てるような、そんなドラマを作ってほしいものだ。

テレビ「遅咲きのヒマワリ~ボクの人生リニューアル~」を観て

2012-12-19 17:29:48 | テレビ
以前も書いたが、今季唯一楽しみにしているドラマが、生田斗真主演の「遅咲きのヒマワリ……」だ。
昨晩もこのドラマを見ていた。
あそこで描かれている風景は、僕の心の奥底をくすぐる。
四万十市(旧中村市)が僕の出自であることは以前も書いたが、
あの山間の荒れた果てた田んぼや生田斗真と真木ようこが語り合っていた海辺、何よりあの四万十川を渡る橋は、子供だった自分を思い出させるのだ。

実はこれまで自分の子供時代のことなど考えることなどほとんどなかった。
事実、あまり子供の頃の記憶がない。
何をして遊んでいたのか、何が好きだったのか、何になりたかったのか……。
旧中村市の山間田舎の家の庭先で水遊びに興じている写真があった。それは実に楽しそうに笑っている。おそらく3~4歳くらいのものだと思う。その記憶などは当然ない。記録として残っているだけ。
記憶にあるのは小学校3年生の夏休みを旧中村市で過ごしたことだ。その時の記憶とドラマで描かれている舞台の雰囲気はほとんど変わっていない。
もちろん、道はきれいに舗装されているし、街もそれなりにきれいになっている。多分、当時は国仲涼子がパートをしているようなスーパーなどはなかったと思う。
でも、心象風景としては全く変わっていないのだ。

以前に高校2年生の時に、友人たちを連れて旧中村市の実家で過ごしたことを書いたが、その時に見た記憶とも変わっていないのだ。
その記憶ははっきりとしている。
あの時、おそらく僕らは、生田斗真と真木ようこが語り合っていた海辺で遊んだはずだ。記憶にある海辺の風景と全く変わっていなかった。

あのドラマに描かれているのは、田舎の街に住むことを余儀なくされた、というか選ばざるを得なかった(もしくは自ら選んだ)人たちの、どこか行き詰まった生活感だ。そこでもがく、もう若いとは言えない中途半端な年代の男女のやりきれなさ。
そこに留まることの何とも言いようのない辛さを感じつつも、そこから足を踏み出すような勇気を持たない、そして踏み出すにはもう遅いと感じてしまう、30代というそんな中途半端な年代の焦燥感と喪失感をともなった心情がきちんと描かれていると思う。

事実、数年前にお墓を移すために四万十市を訪れた時に、街にはそのような空気感が漂っていた。
それだけに、決して新しくも、奇抜さもない、ある意味で陳腐とも言えるシナリオでも僕の心の奥底に響いてくるのだ。
そこに住んだこともないし、住んでみようと思ったこともないのだけれど、でも気持ちは分かってしまうのだ。なぜか……。

話は変わるが、あのドラマで俳優たち、特に桐谷健太の話す土佐弁は本当に上手い。方言指導の人がきちんとしているのだろう。
だから、余計に僕はそこに懐かしさを含めた様々な感情を持って観ることが出来るのだと思う。
某国営放送の朝のドラマとは大違いだ。
それだけ、方言というもの、言葉の響きは大切なのだ。
特に方言を知っている人にとっては。

そんなドラマも来週最終回を迎えるという。
まあ、エンディングはテレビドラマによくあるパターンのいくつかの中のひとつに当てはまるようなものであろうことは想像出来るのだけれど、
それでも楽しみに来週の火曜日待っている。