またしても、「遅咲きのヒマワリ……」かと思われるだろうが、気になって仕方ない。
昨晩もテレビでミスチルの「常套句」を聞いた。ストレートな歌詞とミスチルらしいメロディに思わず画面に釘付けになった。でも、頭に浮かぶのは、やはり四万十川の風景だった。もちろん、この曲が「遅咲きのヒマワリ……」のエンディングテーマだからなのだが(もし宇多田ヒカルが「桜流し」でも歌っていたら、僕の頭の中はエヴェンゲリオンでいっぱいに
なっていたはず)、どうしても僕の頭から離れない景色が浮かび上がってくるのだ。
今では廃屋となって放置されている実家の小さな井戸、その前に広がる田んぼ(これは人に貸している)、その田んぼの先にあるうちの山。
小学生の頃は、その山まで歩いて行くのに難儀をした記憶がある。が、のちに高校生になった時に訪れた時には、あんなに近かかったのかとそのギャップになれるのに時間を要した記憶がある。
さて、ミスチルの「常套句」によって、再び僕の頭の中には四万十市(旧中村市)の風景が広がってしまった。すると、以前にもブログで書いたが、とてつもなく山下達郎の「高気圧ガール」が聞きたくてどうしようもなくなった。沖縄の久米島キャンペーンのCMソングだった例の曲だ。
沖縄に行くなど夢の夢だった高校生の僕らは、「高気圧ガール」を四万十市で聴きまくったのだ。
ドラマを見ている人した分からない話だが、ただ一度だけ(おそらく)生田斗真と真木よう子のふたりが海辺で語り合うシーンがあった。海辺が出てきたのは多分あのシーンが初めてだったと思う。
僕らはあの海辺で「高気圧ガール」を繰り返し繰り返し聞いたのだった。
僕は山下達郎のCDを引っ張りだし、すぐにitunesに取り込んで、いまや僕のiPod touchと化しているiPhone3Gに取り込んだ。
話は変わっていくが……。
山下達郎ほどポップ・ミュージックに精通した日本人はいないのではないかと、僕は思う。彼の知識は音楽評論家を称して生活している人たちよりもはるかにスゴい。山下達郎のラジオを聞いたことのある人なら分かるだろうが、彼が音楽にについて(それも一曲の歌について)語り出したら、一体どこまでしゃべるのだろうかと思うほどである。多分、自らミュージシャンでありながらも、間違いなく日本一のポップ・ミュージックオタクである。
さらに時代は遡る。僕が最初に山下達郎というミュージシャンを知ったのは、おそらく僕ら世代の多くの人がそうであったように、マクセルのカセットテープのCMソングだった「ライドオンタイム」からだった。
透き通るような高音の歌い出しに、すぐに虜になった。しかしだ。どうしても彼のビジュアルが当時小学六年生だった僕は受け付けられなかった。
「音楽は好きだけど、見たくない」とそんなことを思ったものである。
まあ、小学六年生だったので仕方ないということにしておこう。やはり、子供にあの風貌は恐ろしかった。
でも、あの音楽は本当に魅力的で、とにかく引きこまれていったのだ。
今思えば、なぜそこから直接ビーチボーイズへといかなかったのか不思議だった……。山下達朗ほどのビーチボーイズファンはいないはずだ。
でも、当時の僕は彼の音楽には耳を傾けたが、彼の話に耳を傾けていなかった。ただし、彼の周辺にいる人たちの音楽はたくさん聴いた。大滝詠一、大貫妙子、佐野元春、杉真理、細野晴臣……。すべての人達が、ナイアガラトライアングルやはっぴいえんどなどに繋がっていく人たち。そしてさらに、ビートルズやビーチボーイズへとつながるはずだったのだが、僕はそこでとまっていた。
なぜそこでとまっていたのか。それは当時のカルチャーを振り返る必要がある。山下達郎が大ヒットをしたのは80年の「RIDE ON TIME」が最初だっただろう。でも、当時はパンクがまだ隆盛(後半だけど)で、海外ではテクノポップという新しいジャンルの音楽をイエロー・マジック・オーケストラが受けていた。同時、ロンドンからはニューウェーヴが脚光を浴びてきていた。
でも、なぜか日本では音楽シーンとファッションシーンがリンクしていなかった。それは、「POPEYE」という雑誌の力が大きかった。ここからは記憶でしかないので、間違いがあればぜひ指摘して欲しいのだが、「POPEYE」は80年代当時、カリフォリニアのファッション、つまり西海岸のカルチャーを全面的に紹介していたように覚えている。今思うと何ともかっこ悪い短パンをはいて、ウォークマンを聞きながら海岸沿いを走っている写真が妙に記憶に残っているのだが。当然中学生から高校生半ばくらいまではそんな西海岸のカルチャー、カリフォルニアのスタイル、分かりやすい例で言えばUCLAのトレーナーに憧れたものだった。
そして、サーフィンにも。「POPEYE」がカリフォルニアのカルチャーを紹介したのは70年代後半からのことだが、80年代前半はまだそれを少し引きずっていたのだ。
しかし、時代の流れは早かった。今考えると80年代という時代は本当に不思議な時代だったと言えよう。
音楽が一番分かりやすい例だと思うので、僕の中の音楽の流行で例えてみる。前述の山下達郎を通して知った大滝詠一らの日本のポップ・ミュージック(当時はニューミージックなどという言い方もしていた)、同時にパンクの終焉を目の当たりにし、テクノポップ(今のテクノとは別物)にはまり、当時の高校生でバンドをやるものならば必ず通る道だったと言ってもいい、ディープ・パープル、レインボウ、マイケル・シェンカー・グループ、デフ・レパード……などのハードロック。さらに世間的に全盛を極めていたアイドルたち(特に松田聖子と早見優が好きだった)。そしてデュランデュランなどのニューウェーブなどもよく聴いた。そしてマドンナが彗星のごとく登場したのを覚えている(ニューヨークのアンダーグランドシーンではすでに有名だった)。もちろん、マイケル・ジャクソンの新しい表現には目を見張った。
話はずいぶんと長く、そしてずいぶんと逸れてしまったが、西海岸に対する憧れを抱いていた中学生から高校生の間に、カルチャーシーンはカリフォルニアからロンドンとニューヨークへと移ってしまっていたのだ。
もちろん、バイブルだった「POPEYE」もまた取り上げるものが変化していっていた。
西海岸と山下達郎という組み合わせが導く場所は、間違いなくThe Beach Boysであったはず。その道は直結している。なのに、なぜか大きく遠回りをした。当時まだ小学生だった頃に「RIDE ON TIME」で山下達郎に惹かれ、中学生の時に「POPEYE」を通してカリフォルニア、西海岸という言葉の響きに憧れた。そしてサーフィンに。その頃、僕はすでに洋楽ばかりを聞いていたので、山下達郎を聞くという選択肢はなかった。なんと言っても少ないお小遣いをすべて使ってレコードを買うのだから。
で、高校生の時に友人たちと過ごした四万十市(当時中村市)で、聴いた山下達郎は僕に以前の西海岸への憧れを思い出させたのだと思う。自覚はなかったが。実はそれが、大学生になった僕をアメリカに行かせたのではないかと思っている。あの西海岸のカルチャーを想像させた山下達郎の音楽が、僕を西海岸に向かわせたのではないかと。
詳しくは書かないが、大学3年の時に僕はロサンゼルス往復のチケットだけを買って、バックパックを背負って一人でアメリカに行った。何の計画もなく、ただ行くということだけを決めて。いろいろなことがあったが、それはのちほど。そして、以前書いたイリノイ州の田舎でビートルズの素晴らしさに気づき、ビーチボーイズへとたどり着いたのだ。
なんという遠回りだったろうか。
でも、直接そこにたどり着くのではなく、様々ななものを見聞きしてたどり着いたからこそ、その素晴らしさをより深く理解出来たのではないかとも思っている。
そして、今、再び四万十市へ行くことになった。これも自分が予定したものではない。そうしなければいけなくなったのだ。
でもきっと、そこで再び何かに出会う予感がしている。
僕の原点にある何かに。
四万十市に行くときは、ミスチルの「常套句」と一緒に山下達郎をiPodに入れて出かけようと思っている。
昨晩もテレビでミスチルの「常套句」を聞いた。ストレートな歌詞とミスチルらしいメロディに思わず画面に釘付けになった。でも、頭に浮かぶのは、やはり四万十川の風景だった。もちろん、この曲が「遅咲きのヒマワリ……」のエンディングテーマだからなのだが(もし宇多田ヒカルが「桜流し」でも歌っていたら、僕の頭の中はエヴェンゲリオンでいっぱいに
なっていたはず)、どうしても僕の頭から離れない景色が浮かび上がってくるのだ。
今では廃屋となって放置されている実家の小さな井戸、その前に広がる田んぼ(これは人に貸している)、その田んぼの先にあるうちの山。
小学生の頃は、その山まで歩いて行くのに難儀をした記憶がある。が、のちに高校生になった時に訪れた時には、あんなに近かかったのかとそのギャップになれるのに時間を要した記憶がある。
さて、ミスチルの「常套句」によって、再び僕の頭の中には四万十市(旧中村市)の風景が広がってしまった。すると、以前にもブログで書いたが、とてつもなく山下達郎の「高気圧ガール」が聞きたくてどうしようもなくなった。沖縄の久米島キャンペーンのCMソングだった例の曲だ。
沖縄に行くなど夢の夢だった高校生の僕らは、「高気圧ガール」を四万十市で聴きまくったのだ。
ドラマを見ている人した分からない話だが、ただ一度だけ(おそらく)生田斗真と真木よう子のふたりが海辺で語り合うシーンがあった。海辺が出てきたのは多分あのシーンが初めてだったと思う。
僕らはあの海辺で「高気圧ガール」を繰り返し繰り返し聞いたのだった。
僕は山下達郎のCDを引っ張りだし、すぐにitunesに取り込んで、いまや僕のiPod touchと化しているiPhone3Gに取り込んだ。
話は変わっていくが……。
山下達郎ほどポップ・ミュージックに精通した日本人はいないのではないかと、僕は思う。彼の知識は音楽評論家を称して生活している人たちよりもはるかにスゴい。山下達郎のラジオを聞いたことのある人なら分かるだろうが、彼が音楽にについて(それも一曲の歌について)語り出したら、一体どこまでしゃべるのだろうかと思うほどである。多分、自らミュージシャンでありながらも、間違いなく日本一のポップ・ミュージックオタクである。
さらに時代は遡る。僕が最初に山下達郎というミュージシャンを知ったのは、おそらく僕ら世代の多くの人がそうであったように、マクセルのカセットテープのCMソングだった「ライドオンタイム」からだった。
透き通るような高音の歌い出しに、すぐに虜になった。しかしだ。どうしても彼のビジュアルが当時小学六年生だった僕は受け付けられなかった。
「音楽は好きだけど、見たくない」とそんなことを思ったものである。
まあ、小学六年生だったので仕方ないということにしておこう。やはり、子供にあの風貌は恐ろしかった。
でも、あの音楽は本当に魅力的で、とにかく引きこまれていったのだ。
今思えば、なぜそこから直接ビーチボーイズへといかなかったのか不思議だった……。山下達朗ほどのビーチボーイズファンはいないはずだ。
でも、当時の僕は彼の音楽には耳を傾けたが、彼の話に耳を傾けていなかった。ただし、彼の周辺にいる人たちの音楽はたくさん聴いた。大滝詠一、大貫妙子、佐野元春、杉真理、細野晴臣……。すべての人達が、ナイアガラトライアングルやはっぴいえんどなどに繋がっていく人たち。そしてさらに、ビートルズやビーチボーイズへとつながるはずだったのだが、僕はそこでとまっていた。
なぜそこでとまっていたのか。それは当時のカルチャーを振り返る必要がある。山下達郎が大ヒットをしたのは80年の「RIDE ON TIME」が最初だっただろう。でも、当時はパンクがまだ隆盛(後半だけど)で、海外ではテクノポップという新しいジャンルの音楽をイエロー・マジック・オーケストラが受けていた。同時、ロンドンからはニューウェーヴが脚光を浴びてきていた。
でも、なぜか日本では音楽シーンとファッションシーンがリンクしていなかった。それは、「POPEYE」という雑誌の力が大きかった。ここからは記憶でしかないので、間違いがあればぜひ指摘して欲しいのだが、「POPEYE」は80年代当時、カリフォリニアのファッション、つまり西海岸のカルチャーを全面的に紹介していたように覚えている。今思うと何ともかっこ悪い短パンをはいて、ウォークマンを聞きながら海岸沿いを走っている写真が妙に記憶に残っているのだが。当然中学生から高校生半ばくらいまではそんな西海岸のカルチャー、カリフォルニアのスタイル、分かりやすい例で言えばUCLAのトレーナーに憧れたものだった。
そして、サーフィンにも。「POPEYE」がカリフォルニアのカルチャーを紹介したのは70年代後半からのことだが、80年代前半はまだそれを少し引きずっていたのだ。
しかし、時代の流れは早かった。今考えると80年代という時代は本当に不思議な時代だったと言えよう。
音楽が一番分かりやすい例だと思うので、僕の中の音楽の流行で例えてみる。前述の山下達郎を通して知った大滝詠一らの日本のポップ・ミュージック(当時はニューミージックなどという言い方もしていた)、同時にパンクの終焉を目の当たりにし、テクノポップ(今のテクノとは別物)にはまり、当時の高校生でバンドをやるものならば必ず通る道だったと言ってもいい、ディープ・パープル、レインボウ、マイケル・シェンカー・グループ、デフ・レパード……などのハードロック。さらに世間的に全盛を極めていたアイドルたち(特に松田聖子と早見優が好きだった)。そしてデュランデュランなどのニューウェーブなどもよく聴いた。そしてマドンナが彗星のごとく登場したのを覚えている(ニューヨークのアンダーグランドシーンではすでに有名だった)。もちろん、マイケル・ジャクソンの新しい表現には目を見張った。
話はずいぶんと長く、そしてずいぶんと逸れてしまったが、西海岸に対する憧れを抱いていた中学生から高校生の間に、カルチャーシーンはカリフォルニアからロンドンとニューヨークへと移ってしまっていたのだ。
もちろん、バイブルだった「POPEYE」もまた取り上げるものが変化していっていた。
西海岸と山下達郎という組み合わせが導く場所は、間違いなくThe Beach Boysであったはず。その道は直結している。なのに、なぜか大きく遠回りをした。当時まだ小学生だった頃に「RIDE ON TIME」で山下達郎に惹かれ、中学生の時に「POPEYE」を通してカリフォルニア、西海岸という言葉の響きに憧れた。そしてサーフィンに。その頃、僕はすでに洋楽ばかりを聞いていたので、山下達郎を聞くという選択肢はなかった。なんと言っても少ないお小遣いをすべて使ってレコードを買うのだから。
で、高校生の時に友人たちと過ごした四万十市(当時中村市)で、聴いた山下達郎は僕に以前の西海岸への憧れを思い出させたのだと思う。自覚はなかったが。実はそれが、大学生になった僕をアメリカに行かせたのではないかと思っている。あの西海岸のカルチャーを想像させた山下達郎の音楽が、僕を西海岸に向かわせたのではないかと。
詳しくは書かないが、大学3年の時に僕はロサンゼルス往復のチケットだけを買って、バックパックを背負って一人でアメリカに行った。何の計画もなく、ただ行くということだけを決めて。いろいろなことがあったが、それはのちほど。そして、以前書いたイリノイ州の田舎でビートルズの素晴らしさに気づき、ビーチボーイズへとたどり着いたのだ。
なんという遠回りだったろうか。
でも、直接そこにたどり着くのではなく、様々ななものを見聞きしてたどり着いたからこそ、その素晴らしさをより深く理解出来たのではないかとも思っている。
そして、今、再び四万十市へ行くことになった。これも自分が予定したものではない。そうしなければいけなくなったのだ。
でもきっと、そこで再び何かに出会う予感がしている。
僕の原点にある何かに。
四万十市に行くときは、ミスチルの「常套句」と一緒に山下達郎をiPodに入れて出かけようと思っている。
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