永遠の生命、安心

永遠の生命と永遠の安心を得る方法を紹介します。

花火に思う

2023年07月29日 | 日記
今年も花火の季節が来たようです。
近所の花火大会のお知らせが届いたりしています。
縁側で家族と小さな花火をした遠い記憶がよみがえります。

打ち上げ花火はロケットと同様の軌道で上がるのだそうですね。
そう言えば、龍の上昇時なども、直線的ではなくて螺旋軌道です。
多分その方が空気抵抗が少なくて、エネルギー的に楽なのでしょう。

江戸時代の、玉屋,鍵屋の掛け声は、伏見稲荷の正面門前の一対のお狐の
一体が珠を咥え、一体が鍵の付いた巻物を咥えている事に由来するという説
もあるようです。日本に居ても各個人の花火によせる思いは夫々様々ですね。

南信州の飯田市は花火工場の爆発事故から街が大火になった歴史があるそうです。
住民の協力で道路幅拡張、区画整理がされた今は防災モデル都市になっています。
今も花火の工場は幾つかあるようで、お正月に花火を上げる風習さえあります。

私はどちらかと言いますと花火は好みません。火薬の臭いや煙が目鼻に沁みます。
何より爆発物なので常に危険性があります。瞬時の美のために長期間の研究や手間、
費用が掛かります。見物するだけでも蚊や蛾の対策が必要な防災訓練のようです。

それでも、シュルシュルという上昇音や、一呼吸後のドーンという大玉の爆発音、
ポンポンポンと小玉の連続爆発音、火の粉が降り注ぐパラパラ音が聞こえると、
ちょっと見てみようか、という気になっておりました。20年くらい前までは。

今はもう、殆ど関心も無い薄情な対応になっております。そうなった原因は、
非常に近くで花火大会の運営現場を見てしまった体験が大きいように思います。
ちょっと楽しむとか、夏の風情、風物詩というようなものではないのですね。

ムンムンする熱気、ケムケムの視界、失敗は許されない危険と隣り合う緊張感、
気象状況の変化への対処、見物人やスタッフの安全確保、機器のチェック。。。
あ~やだやだ、そんなに苦労してまで花火を燃やす必要性があるのでしょうか?

数秒間の本番のために何日も何週間も工夫を凝らし、手を火薬臭くしながら頑張る、
それが自分の一生の仕事、天命であると信じて頑張る人達も居られるのでしょうね。
ある意味、花火はこの世界の幻影の見本のような代表のような存在かもしれません。

それ故に、見終わった人々が「もののあわれ」を感じながら夫々の帰途について、
明日からまた地道な日常生活に戻ってゆくのかもしれません。各々の人生の一コマに
花火の映像が記録されます。花火が一つの刺激剤の役割を果たすことは確かでしょう。

自らが忙しく燃え尽きる事によって、逆に居合わせた人々に対して、永遠の時間や
永遠の生命に思いをはせる機会を与えてくれる花火たち。今年もご苦労さま。
そして、関係者の皆様にも、どうぞ、お怪我がありませんように。

と祈りつつ、今年もちょっとだけ見てみましょうか。
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鈴の音

2023年07月04日 | 日記
風鈴の音は人に涼しさを届けます。
巫女舞の鈴の音は人を別世界へと誘います。
座禅中の御リンの音は人に深い集中を促します。

道院では誦経の時に、金属製の御鈴でリズムを執ります。
形や種類の規定は無く、例えば林氏の愛用品は昔の校務員さんが
ガランガランと鳴らしていたカネのような持ち手が木の御鈴でした。

私の現在の愛用鈴は合掌した菩薩の顔が刻まれたネパール製の品です。
随分前にNPOの僧侶から分けてもらいました。使ううちに馴染んで、
今は透き通るような良い音で歌ってくれるので気に入っております。

道院では通常、個人的な練習の時は御鈴を鳴らしながら黙誦します。
静かな音で軽くリズムをとりながら経典の文字を拾ってゆきますと、
黙誦だけの時より丁寧に読めますし、飽きずに参経できるようです。

黙誦の目的は自身の修養です。そして静かな時間を楽しみながら
真理に触れて新たな発見があったり、自身を観察したりできます。
その時に鈴の音がありますと、気持ち良く集中できやすいようです。

合誦の時は最初と最後、又は一区切りの時に49鈴を鳴らしましす。
それは御縁を頂いてその場に集まって来ている霊達がその音に合わせて
大神霊に49叩するためだそうです。同時に参加者の気持ちを整います。

そして別の修方が合誦の御鈴を振り、それに由り参加者の声が揃います。
担当者の鈴の音色や響き、強弱、テンポなどは誦経の効果を左右します。
御鈴が良い場合は、参加者たちが心地好く貴重な時間を共有できます。

合誦の目的は天地の安寧や災劫の弭化などの為のボランティアですが、
御鈴の音が美しくてリズムが楽しいと、それだけで参加して良かった、
次回も参加したい、毎日でも合誦したい、などと思ってまいります。

因みに、49鈴や聖号の時と誦経の時では、鳴らし方が異なります。
どちかの場合も、通常片手で胸の辺りに鈴を持って前後に振りますが、
49鈴等の時は丁寧に礼拝する意識で前方へ振った時に音が発生します。

それに対して、誦経では経典の文字を一個一個ピックアップする感じで
手前に引いた時に音が鳴るようにします。絶対的な規則ではありませんが、
伝統的にそうするのが良いと台中の経院の古参から伺った事があります。

御鈴を用いる主目的は、楽しく秩序ある修養を補佐する為と思います。
途中で止められない合誦会などで御鈴を担当して長時間振り続けるのは
集中力も体力も結構大変ですが、鎮心経の数回なら楽しいだけでしょう。

心を平穏にする御鈴は実に善い楽器だと思います。また、合誦の場での
音楽的に良い御鈴の振り方を色々工夫して練習するのも楽しいでしょう。
参加者に喜んで頂ける善い奉仕を目指すのも有意義な事でありましょう。

その為には、先ず志、心境でしょう。けれど、技術的な力の入れ具合とか
角度とかも重要です。又それ以前の、体調の管理、ある程度の筋力を付け、
余裕をもった上で肩のリラックスとか、色々と奥深いものだと思います。

愛用の御鈴がありますと、修養生活が豊かになると思います。珍しい品や
高級品である必要はありませんが、美しいと感じる音である事は大切です。
坐や参経の最初と最後に2〜3音鳴らすだけでも、実用以上に素敵でしょう。

鈴も縁があって来てくれる物です。丁度見つけたり、先輩等から頂いたり、
鈴にも様々な経緯や思いが入ります。もしヘンな想念が付いていたとしても、
坐や参経の時に使っていますと自然に浄化されて、懸命に協力してくれます。

そのような変化も面白いです。それは鳴らす人の心境とも連結しています。
太鼓などは腹部や尾骶に力強く響きますが、鈴は脳に直接、微妙に響きます。
修養を応援してくれる大切な仲間として丁寧に扱えば必ず応えてくれます。

小さな飾り鈴などでも、鈴の音は邪気を払うとも謂われますね。
修養の道具としてのお鈴なら尚さらでしょう。暑い日々、
透き通った鈴の音を楽しんでみては如何でしょうか。
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