永遠の生命、安心

永遠の生命と永遠の安心を得る方法を紹介します。

信頼関係2 (きらく仙女さんの日記の転載)

2022年10月10日 | 日記
大分寒くなってまいりましたね。
皆様、いかがお過ごしでしょうか?
さて、前回の続きをお話しさせて頂きます。

道院にも特定の故人の霊を供養して頂くような仕組みがありました。
香港フーチ実施の頃、常識程度の謝礼だけ納めれば、担当の神霊に由って
霊光や適当な霊修の機会などを授けられ、祈願者に特別の努力は不要でした。

もちろん修養者は最初から「誠」を持つというルールを承諾の上で入会します。
ですから、特に個人的な祈願をする場合には、言われるまでも無く自分なりの
真剣さ、熱心さで修養や慈善を実行するという前提であったと思われます。

元々道院は、後天の健康回復や家系繁栄を求める人が対象ではありません。
それらは各宗教の仕事です。道院は後天身体の健康や経済状況に問題が無く、
良識や教養を有する人が次の段階として進むべき研修の場とされていました。

現在は入会条件も緩く尊厳も軽いようですが、今も真剣に修養を続けるなら、
それなりの効果が現われてくるはずです。現実に、道院の坐の実行に由って、
個人の過去世にまつわるカルマは順次、結構早い時期から消去され始めます。

その変化は勿論、各々個人によって異なりますけれど、自身で体感可能です。
例えば、この世界での記憶が無いケガの痛みなどが坐の時間にだけ現れて、
やがて夢だったように去ってゆき、体調が良くなるという現象があります。

過ぎ去ってしまうと、その痛みの記憶も次第に薄らいで、またいつの間にか
日常の行動パターンが変化している、例えば対人関係での反応が適正になる、
以前なら必ず慌てている、怒っている場面でも余裕が生じている等々です。

そういう変化を機に修養が進展してゆく筈です。ところが、将にこれから!
という時に何か個人的な事情が発生して、結局は好機を逸してしまいます。
というケースが多くて、その度に私も残念と不審を痛感しておりました。

そこへ今回の天与の応援で、私も全く意外だった事実に気付いた訳です。
自己の過去とは別に、現身の先祖から受け継ぐカルマ、家系の因があって、
例えば細胞のDNA特徴や罹病の傾向、先祖の言動の影響も無視できません。

そう思って観察しますと、この種の影響らしきケースが少なくありません。
現に、私が僧侶の応援を受ける事を理解できず、道の理論や坐の効果を疑い、
坐をやめた人もおられます。余程その種のカルマがキツイのかもしれません。

そのような立場の方達にも、できれば良縁を得て然るべき対策をされるよう、
お奨めしたいのですが、それとても信頼関係が有りませんと、ヘンな思想や、
怪しい集団への勧誘の様に誤解されるなど、困難または不可能になるでしょう。

鎮心経にしましても、気休めや暇つぶし、実験的興味、回数達成のゲーム感覚
などで誦経しては、自心の安寧は得難く、客観的な効果も上がらないでしょう。
その結果を道理や経咒のせいにしては、神仏などの御加護も遠のいてしまいます。

誰しも、誠の有る人と親しく交流したいでしょう。けれど、外に求めるだけでは
実現は困難です。自己自身が誠の有る人になるか、そのように努力していますと、
同様に努力している人と結縁します。それは相互に有意義な善縁と言えましょう。

誠を尽くしていても、寿命や様々な事情で、誠の人と縁が薄い場合もあります。
理想的には皆が誠を尽くし合うのが善い世界でしょうが、不本意な状況の時は
却って善い結果になる、とポジティブに捉える事も自己に対する誠でしょう。

信頼関係は実に重要です。神仏はもちろん、周囲の人々、様々な物たちとも、
自己の身体の各細胞や臓器とも、信頼関係が有れば、安心感が違うでしょう。
そして又、具体的に大小様々な善い変化が、現れてこない理由がありません。

もし、家系の流れを整えて、先祖の方達とも信頼関係を築くことができれば、
カルマを背負わされるどころか、応援されるようになるのは当然の道理です。
この話さえも、最初から疑う人や他人事のように感じる場合は要注意です。

ともかく、誠が大事です。自己自身の本心に誠意を以て向き合うことです。
そのような誠を持つ事は、宇宙の偉大な存在と通じている自己固有の本心と
後天意識の心の間に信頼関係が結ばれるという功候である事に他なりません。

その誠を基礎として心坐や形坐を実行しますと、心地良い時間を楽しみながら
順調な進歩が期待できるでしょう。また、誠を以て鎮心経などをお誦えしますと、
心身に穏やかな自信が満ち溢れ、周囲にも明るい波動が行き渡ってゆくでしょう。

更に又、真坐が順調に進んできますと、微妙な神経感覚が磨かれてきますから、
その場の状況、物事の良し悪し、人の誠意の有無などが特に注意せずとも自然に
感じられてきます。また、同様に生きる誠の人と出会う機会も増えるでしょう。

喜ばしい実例もお伝えしておきましょう。多少は体調を崩されても、偏な事情や
事件に巻き込まれず経典の学習や修坐を続けている同修がおられます。その人は
家の宗教も軽視せず、親しい宗教者達とも誠を持って交流されているようです。

今回応援を受ける修方も、要領良く行動した訳でもなく、偶然の幸運でもなく、
困っている友人に自分の貯金を渡すというような誠の積み重ねが長年月を経て
善果として現れて、新たな修養の機会を頂ける運びとなったように思います。

また別に、もう少しの所で出発点に戻る体験を何度もされた同修がおられます。
それ自体は善い事と言えませんが、その危機にも道を離れず、一命を落とす事態
にも至らず、その度に観音様や済仏様が親身になって救援して下さったそうです。

因みに、そのような危機に生命を終える事は必ずしも悲惨な事ではありません。
長年コツコツと蓄えていた真霊を一気に放出しそうな時に、その損失を最小限に
抑えるべく後天の命を終えさせる救済システムが作動する場合もあるそうです。

この世界に生れて修養法を学び努力してきた成果を瞬時に失う、その直前の帰道
という処置は慈悲であり、また後進者に警戒を促す意味もあるかもしれません。
逆に、ダメージが大でも、人身での修養継続の道が示される場合もあります。

それぞれの人生です。具体的な対策やタイミングも各々でしょう。けれど、
今一度、本心の誠に思いを致し、ご自身の人生の経緯を振り返るとともに、
御家系の運気の流れが順調であるように祈念される事は有意義でしょう。

どうぞ、静かな気持ちで、今の自分に適当な事、必要な事、これだけは
本当に実現したいと感じる事だけを素直に受け入れて保って下さい。
それが最も本心を喜ばせる誠になるのではないでしょうか。
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