7月24日午後埼玉県秩父市大滝の奥秩父山系笠取山(1953メートル)ブドウ沢で、東京都の山岳会「沢ネットワーク」の8人パーティーが沢登り中に女性1名(55)が滝つぼに転落死亡。
翌7月25日午前8時半に下山した山岳パーティーメンバーが携帯電話で警察に救助要請を行い、埼玉県防災航空センターから防災ヘリ『あらかわ1』(救助要員7名)は同9時40分離陸し救助に向かったが、11時吊り上げの為ホバリング中に墜落し乗っていた5名が死亡。
気象庁によるとヘリが墜落する前の遭難事故当時の24日は午前10時40分ごろ、秩父地方に大雨、洪水、雷注意報が出た。熊谷地方気象台の観測では墜落後の同11時半ごろ急速に雨雲が発達。担当者は「大気が不安定な状態だった」という。
7月25日午後2時半、埼玉県防災ヘリの墜落現場へ向かう途中の埼玉県警秩父署員が谷でうずくまっている東京都あきる野市の無職Kさん(45)を発見。救助隊員に『50メートルくらい上から落ちました』と語るが県警ヘリで秩父市内の病院へ運ばれたが死亡が確認された。Kさんは山岳ブロガーとして有名だったという。24日早朝に家族に『山に写真を撮りにいく』といって自宅を出て行方不明になっていた。
7月26日NHKの取材クルーが入山し、墜落現場の映像を取材、放映した。
7月27日、県警本部が『取材活動中における山岳事故防止について』と題した、『現場周辺は極めて険しい山岳地帯となっており、山岳登山の経験者も綿密な計画と十分な資器材を携行して入山している。現場取材活動については三次被害を防止するうえで極力控えてほしい』とする広報課長名の警告文書を報道機関に送付した。
また、取材記者らが詰めかけていた秩父署でも、県警幹部が口頭で注意していた。
7月31日県警から取材自粛の要請が出ていたにも拘らず、日本テレビの記者とカメラマンが山岳ガイドを同行して入山を強行するが、装備、技量体力の不足、天候不順で沢登の継続が無謀とガイドが判断し午前10時には入山口まで下山している。
しかし、その後に日テレの2名は無断で強行入山したらしく行方不明になり8月1日入山口から約2キロ入ったブドウ沢で水死体で発見される。
発見されたのは、登山道から約800メートル離れた場所だった。
(最初の遭難事故)
4次遭難まで発生して合計9人の命が失われた山岳史上の記録に残る大事故であるが、何とも情けなさすぎる遭難事故の数々で言葉も無い。
最初の一次遭難であるが『滝つぼに転落』とあるが、『滝を転落』では無い。
また滝の高さの記載が何処にも無いところを見ると、墜死するような大きな滝ではなく単なる数メートル程度の滝様の段差から滝つぼ様の大きな淵に転落水死した遭難事件では無いかと思われる。
事故時は大雨、洪水、雷の注意報が出ていたのであるから、増水による気象遭難事故に近いのではないか。
現場は谷が深く携帯電話は圏外であったので、翌朝明るくなってから通じるところまで下山して救助要請した為に8時半の時間になったようであるが、この時点では遭難者は既に死亡していたと思われる。
生きて下山出来る可能性が0・01%でもあれば今回のような緊急な救助要請は非常に大事で、すべてに優先される事柄である。
しかし、連絡時に既に死亡していたら話は全く違う。
『夜道は暮れない』
何ら慌てる事柄は一つも無いのである。すべては安全優先で早急さは何一つ要求されないのである。
7人も居れば足場さえ良ければ遭難者を担いで下山出来るし、『入山口まで』が無理でもヘリの吊り上げに安全な開けた場所までなら何とか移動は可能では無いのか。安易に救助隊に頼るなど登山者の力量や判断が問題となろう。
(二重遭難の悲劇)
二次遭難であるが、機体の整備不良の可能性も有るが県消防防災課によると防災へり『あらかわ1』は事故10日前の今月12~14日に100時間点検をしたばかりである。
上空約30メートルでホバリング中にプロペラから異音が聞こえ地上の隊員が上空を見上げると機体が傾き始めていたということから、狭いV字谷に低く降りすぎて機体が揺れたり上下した弾みにヘリの回転翼が立ち木の枝などに触れて損傷した可能性が高い。
去年、岩稜の凹み地点から遭難者を吊り上げようとして岩峰に回転翼が接触して墜落した奥穂高岳ジャンダルムの岐阜県警防災ヘリの墜落事故と全く同一の事故であろう。
基本的に急峻な山岳地形では安全の為に、より小回りのきく小型機が使われるのですが、去年の奥穂高でも今回の奥秩父の遭難でも沢山乗れる中型機が使用されているが、根本的な視点が欠落している。
危険地帯であるとの認識が救助側に欠けているし、そもそも『大は小を兼ねない』のです。
危険回避の為に最初から小型機使用なら奥穂高の事故も今回の事故も起きなかった可能性は非常に高い。
一人の救助(遺体搬送)に7人も救助要員を送り込んだ防災ヘリセンターの危機管理にも大きな疑問符がつく。
乗員が限られる小型機なら墜落しても犠牲者は最小限に抑えれれるので、今後の防災ヘリセンター側の管理責任が問われなければならないだろう。
基本的に山の頂上は気流が単純で弱いが山体にぶつかった気流が集まる谷は風が強く不安定で、一定以上の距離を保つのは山岳救助の鉄則である。ちなみに天候は晴れで風も弱かったというが、V字地形では思わぬ突風が時として吹くことがある。
防災ヘリは救急車と同じ消防の管轄でレスキュー隊員でも山岳遭難専門とはいえない。
日本の中高年の登山ブームは高く、去年の山岳遭難の死者行方不明者は300人の大台を超えているのに、山岳遭難を専門に取り扱うレスキュー側の現状は救助ヘリ等が警察と消防とがそりぞれ別々に組織されていて、しかも必ずしも『専門家である』といえない人員が救助に向かう状態は異常で有る。早急な改善が望まれる。
(3次遭難のブロガーの悲劇)
携帯電話の発達で遭難から遭難救助要請の時間が短縮されたことは喜ばしい変化であるが、余りに短縮化されすぎている。
携帯電話で助かった命もあれば、なまじ携帯を持っていたばかりに失われた命もあるのではないかと疑われる。
メディアで遭難事故が報じられた時に、他のそれ以外の報道機関が他所に遅れないように安易に取材競争に走れば山岳遭難報道では『事故』は免れまい。
山岳写真のブログ管理者が単独で危険地帯に入り込み事故死する今回の事故は疑問が有り過ぎて論評を控えられる。
『甲 武 相 山 の 旅』で『北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。』とする連載記事で山岳における商業主義を批判する論陣を張っていた当人が自ら悪しきメディアの商業主義の落とし穴に嵌ってしまったのだろうか。
(山岳事故としては例外的な4重遭難)
四次遭難であるが、これだけ酷いと遭難『事故』ではなく今年の正月のお粗末極まる片山右京の富士山での不思議な労災事故に近い、悲しい宮仕えの労災遭難『事件』であろう。
先ず、地元警察が入山自粛を警告していた事実を日本テレビの会社幹部達は如何言い訳する心算だろうか。
基本的に今のこの不況時に『危ないから出来ない』と会社の命令を無視できる社員など一人も居ないのですよ。
『絵になるテレビ映像を撮って来い』との上からの指示があれば、プロガイドの制止を無視して(嘘をついて)までも強行入山しても、あながち本人達だけをせめられないだろう。
それにしても『宮仕え』とは何とも因果な商売である。
30歳の記者は若いので体力はあったかもしれないが如何せん。技術も知識も経験も装備も無いではインパール戦やガダルカナルに投入された日本兵と同じで生きて帰る事はそもそも不可能だったのでしょう。
Tシャツで2000メートル級の沢登りなど無知の極みで、狂気の沙汰である。
43歳で大学山岳部出身で日テレ一の山岳取材の第一人者であったと会社がいうカメラマンは3年前の07年からデスクに回っていて最近は現場に出ていない。
装備的には一応整っていたらしいが残念ながら中年の体がついていかない。
同行した山岳プロガイドによれば到底現場のような本格的な沢登りができる足つきではなかったと言う。
給料取りの悲しさで、しかも一番断り難い立場の中間管理職として上司の命令とあれば鈍った体に鞭打って入山を強行したのだろうが、これでは『死にに行く』のと同じである。
それにしてもデスクワークのカメラマンが大学山岳部出身であるからベテランであったとの会社側の言い分には首を傾げざるをえない。
何時の話ですか。
大学山岳部出身が山の『ベテラン』になれたのは敗戦前の大昔の出来事ですよ。当時は在学年数が10年近い、年間200日以上入山する豪の者が何処の大学にもごろごろしていて休みが取りづらい社会人山岳会などよりも遥かにレベルが高かった。
ところが新制の4年生大学では最高学年でも、そもそも山のベテランになり様が無いのですよ。
新制では上級生に実力が無いから体罰やしごきが横行したが、旧制大学では他の体育会系クラブで体罰が頻発していた軍国主義の時代でも、大学山岳部だけは『体罰』とは無縁だった。
ところが時代は移り4年生大学ではレベルが急降下してしまい60年代には体罰(しごき)でニュースになるまでに落ちぶれる。
70年以降は何処の大学でも新入部員が急減して仕舞い一桁の部員数では、最早『山岳部』の体をなさない水準まで落ちていたのです。
会社に殉じて無駄に死んだ日テレ社員二人が哀れである。
これは日本テレビの業務として行われたのであるから、完全な労災事故で、二人も命が失われた会社の労務管理責任は厳しく問われるべきであろう。
『絵になるビデオを撮って来い』との上からの職務命令が出ていれば従うしかない。
昨今の厳しい雇用事情なら無理を承知で神風登山して、文字どうり全員が白兵突撃し玉砕するとは、企業戦士として痛ましい限りである。
『民主党政権、初めての死刑執行の無残』
死刑廃止議員連盟の千葉景子氏が民主党政権下で初めてで、法務大臣としても初めて死刑執行に実際に立ち会い、二人の死を最期まで見届けたというので、護憲左派系の死刑反対のブログでは非難がごうごうと湧き上がる。
今度の千葉法務大臣ですが、私としては座布団を一枚進呈したい心境ですね。
護憲派の死刑反対のみなさん方の仰られている論理は重々承知していますし、死刑制度に対しては同意見であるのですが、自分が署名した死刑囚の『処刑現場』に立ち会った千葉法務大臣は、賛否や立場を超えて『あんたはエライ』としか言いようがないのですよ。
テレビや映画での絞首刑や絞殺場面で、すぐさま被害者が死ぬ場面が描かれていますが、実は首を絞めた位では人間は簡単には死なないのです。
絞めるだけでは5分以上も被害者(死刑囚)は苦しみ続け暴れ断末魔で凄まじくもがき続けるのです。
絞殺とはそんなに簡単ではなく、もっとも力が要る『ちからわざ』なのですね。
それでは実際の処刑現場では如何するかというと、適当な距離を落下させて体重の落下エネルギーで頚椎をへし折って絶命させるのですが、落下距離が大きすぎると胴体から首が千切れて凄惨極まる修羅場になるし、少なすぎると死なないのでその後長い間暴れ続ける結果になり矢張り凄惨な見るに耐えない修羅場になる。
昔は絞首刑が主流だった理由はヒモ一本と道具か簡単で経費節減できるからですが、唯一の先進国の死刑大国アメリカでは絞首刑は少数派で薬物や電気などが主流なのは技術的に高度のテクニックが必要だからなのですよ。
薬物注射はその点マニュアルが簡便なので死刑大国アメリカで大流行したのです。
『モラトリアム』
民主党新政権での初めての死刑執行の意味ですが、日本の法務省の官僚組織としては今まで死刑で培った高度な技術水準を死刑の一時中止(モラトリアム)で失われてしまうことを恐れていて、それで何としても死刑の執行を1年以上空けることなく、今回のように定期的に行うように制度と技術水準を維持したいのですよ。
何やら、オーストラリアに国際司法裁判所に提訴されても、捕鯨のモラトリアムに抵抗して行っている南極海での日本の調査捕鯨と同じ動機です。純粋な学術調査だけなら今のように何百頭もクジラを捕獲する必要性は無いのですよ。
皆さん、想像してみてください。
最後の装置のスイッチを入れたのは刑務所の職員でしょうが、御自分の権限で死刑執行命令書に署名した当人が死ぬ現場に立ち会えますか。?
千葉法相が自分で死刑の最後のボタンを押したのであれば、これ以上ないのですが、そこまでしなくても署名した本人が立ち会えば意味的には同じです。
私としては法務大臣の署名の義務を明記している法案に、但し書きを追加して、署名した当該法務大臣は『立ち会い義務がある』とすべきですね。
12人の死刑執行に署名して『死神』と揶揄された鳩山弟の『自分は署名するのが嫌だから死刑をベルトコンベアー方式にするべき』との発言があったが、このアホ発言にも一定の真実部分は含まれているのですね。
『署名義務のある法務大臣、立会いの義務化』
法務大臣に死刑の署名には自動的に立会い義務があれば、千葉法相に続く人物は日本では多分出てきませんよ。
それで、自動的に日本国はお隣の韓国のような死刑のモラトリアム国になります。
普通、常識的に考えてみて、生きている人間をいくら必要な仕事とはいえ殺せる人物はそれ程多くはないのです。
殺すどころか、既に死んでいる状態でも矢張り何も出来ないのですよ。
昔、厳冬期の雪崩事故で氷点下20度以下の山中で鉄棒を突き刺す原始的方法のゾンデ探査で凍っている遭難者を発見することに成功したのですが、困ったことに彼はニューヨークの自由の女神と同じ手を大きく突き出したポーズで遭難死していたのです。
人間いくら忙しくても死ぬ時は姿勢には気をつけたいものです。これではそのままではバランスが悪すぎて担いでは山を下りられない。
それで仕方無しに凍った腕をへし折る必要があるのですが、良く知っている知りすぎている友人なので誰一人も、しり込みして出来ないのです。
誰もやりたくないが誰かがやらないと如何しようも無い。責任上仕方なくチーフリーダーと二人がかりで全体重をかけて何とか担げる状態にしたのですが、死人の腕一本でも結構辛いものがありました。
ましてや生きているなら、これは出来ませんよ。千葉はエライ。
翌7月25日午前8時半に下山した山岳パーティーメンバーが携帯電話で警察に救助要請を行い、埼玉県防災航空センターから防災ヘリ『あらかわ1』(救助要員7名)は同9時40分離陸し救助に向かったが、11時吊り上げの為ホバリング中に墜落し乗っていた5名が死亡。
気象庁によるとヘリが墜落する前の遭難事故当時の24日は午前10時40分ごろ、秩父地方に大雨、洪水、雷注意報が出た。熊谷地方気象台の観測では墜落後の同11時半ごろ急速に雨雲が発達。担当者は「大気が不安定な状態だった」という。
7月25日午後2時半、埼玉県防災ヘリの墜落現場へ向かう途中の埼玉県警秩父署員が谷でうずくまっている東京都あきる野市の無職Kさん(45)を発見。救助隊員に『50メートルくらい上から落ちました』と語るが県警ヘリで秩父市内の病院へ運ばれたが死亡が確認された。Kさんは山岳ブロガーとして有名だったという。24日早朝に家族に『山に写真を撮りにいく』といって自宅を出て行方不明になっていた。
7月26日NHKの取材クルーが入山し、墜落現場の映像を取材、放映した。
7月27日、県警本部が『取材活動中における山岳事故防止について』と題した、『現場周辺は極めて険しい山岳地帯となっており、山岳登山の経験者も綿密な計画と十分な資器材を携行して入山している。現場取材活動については三次被害を防止するうえで極力控えてほしい』とする広報課長名の警告文書を報道機関に送付した。
また、取材記者らが詰めかけていた秩父署でも、県警幹部が口頭で注意していた。
7月31日県警から取材自粛の要請が出ていたにも拘らず、日本テレビの記者とカメラマンが山岳ガイドを同行して入山を強行するが、装備、技量体力の不足、天候不順で沢登の継続が無謀とガイドが判断し午前10時には入山口まで下山している。
しかし、その後に日テレの2名は無断で強行入山したらしく行方不明になり8月1日入山口から約2キロ入ったブドウ沢で水死体で発見される。
発見されたのは、登山道から約800メートル離れた場所だった。
(最初の遭難事故)
4次遭難まで発生して合計9人の命が失われた山岳史上の記録に残る大事故であるが、何とも情けなさすぎる遭難事故の数々で言葉も無い。
最初の一次遭難であるが『滝つぼに転落』とあるが、『滝を転落』では無い。
また滝の高さの記載が何処にも無いところを見ると、墜死するような大きな滝ではなく単なる数メートル程度の滝様の段差から滝つぼ様の大きな淵に転落水死した遭難事件では無いかと思われる。
事故時は大雨、洪水、雷の注意報が出ていたのであるから、増水による気象遭難事故に近いのではないか。
現場は谷が深く携帯電話は圏外であったので、翌朝明るくなってから通じるところまで下山して救助要請した為に8時半の時間になったようであるが、この時点では遭難者は既に死亡していたと思われる。
生きて下山出来る可能性が0・01%でもあれば今回のような緊急な救助要請は非常に大事で、すべてに優先される事柄である。
しかし、連絡時に既に死亡していたら話は全く違う。
『夜道は暮れない』
何ら慌てる事柄は一つも無いのである。すべては安全優先で早急さは何一つ要求されないのである。
7人も居れば足場さえ良ければ遭難者を担いで下山出来るし、『入山口まで』が無理でもヘリの吊り上げに安全な開けた場所までなら何とか移動は可能では無いのか。安易に救助隊に頼るなど登山者の力量や判断が問題となろう。
(二重遭難の悲劇)
二次遭難であるが、機体の整備不良の可能性も有るが県消防防災課によると防災へり『あらかわ1』は事故10日前の今月12~14日に100時間点検をしたばかりである。
上空約30メートルでホバリング中にプロペラから異音が聞こえ地上の隊員が上空を見上げると機体が傾き始めていたということから、狭いV字谷に低く降りすぎて機体が揺れたり上下した弾みにヘリの回転翼が立ち木の枝などに触れて損傷した可能性が高い。
去年、岩稜の凹み地点から遭難者を吊り上げようとして岩峰に回転翼が接触して墜落した奥穂高岳ジャンダルムの岐阜県警防災ヘリの墜落事故と全く同一の事故であろう。
基本的に急峻な山岳地形では安全の為に、より小回りのきく小型機が使われるのですが、去年の奥穂高でも今回の奥秩父の遭難でも沢山乗れる中型機が使用されているが、根本的な視点が欠落している。
危険地帯であるとの認識が救助側に欠けているし、そもそも『大は小を兼ねない』のです。
危険回避の為に最初から小型機使用なら奥穂高の事故も今回の事故も起きなかった可能性は非常に高い。
一人の救助(遺体搬送)に7人も救助要員を送り込んだ防災ヘリセンターの危機管理にも大きな疑問符がつく。
乗員が限られる小型機なら墜落しても犠牲者は最小限に抑えれれるので、今後の防災ヘリセンター側の管理責任が問われなければならないだろう。
基本的に山の頂上は気流が単純で弱いが山体にぶつかった気流が集まる谷は風が強く不安定で、一定以上の距離を保つのは山岳救助の鉄則である。ちなみに天候は晴れで風も弱かったというが、V字地形では思わぬ突風が時として吹くことがある。
防災ヘリは救急車と同じ消防の管轄でレスキュー隊員でも山岳遭難専門とはいえない。
日本の中高年の登山ブームは高く、去年の山岳遭難の死者行方不明者は300人の大台を超えているのに、山岳遭難を専門に取り扱うレスキュー側の現状は救助ヘリ等が警察と消防とがそりぞれ別々に組織されていて、しかも必ずしも『専門家である』といえない人員が救助に向かう状態は異常で有る。早急な改善が望まれる。
(3次遭難のブロガーの悲劇)
携帯電話の発達で遭難から遭難救助要請の時間が短縮されたことは喜ばしい変化であるが、余りに短縮化されすぎている。
携帯電話で助かった命もあれば、なまじ携帯を持っていたばかりに失われた命もあるのではないかと疑われる。
メディアで遭難事故が報じられた時に、他のそれ以外の報道機関が他所に遅れないように安易に取材競争に走れば山岳遭難報道では『事故』は免れまい。
山岳写真のブログ管理者が単独で危険地帯に入り込み事故死する今回の事故は疑問が有り過ぎて論評を控えられる。
『甲 武 相 山 の 旅』で『北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。』とする連載記事で山岳における商業主義を批判する論陣を張っていた当人が自ら悪しきメディアの商業主義の落とし穴に嵌ってしまったのだろうか。
(山岳事故としては例外的な4重遭難)
四次遭難であるが、これだけ酷いと遭難『事故』ではなく今年の正月のお粗末極まる片山右京の富士山での不思議な労災事故に近い、悲しい宮仕えの労災遭難『事件』であろう。
先ず、地元警察が入山自粛を警告していた事実を日本テレビの会社幹部達は如何言い訳する心算だろうか。
基本的に今のこの不況時に『危ないから出来ない』と会社の命令を無視できる社員など一人も居ないのですよ。
『絵になるテレビ映像を撮って来い』との上からの指示があれば、プロガイドの制止を無視して(嘘をついて)までも強行入山しても、あながち本人達だけをせめられないだろう。
それにしても『宮仕え』とは何とも因果な商売である。
30歳の記者は若いので体力はあったかもしれないが如何せん。技術も知識も経験も装備も無いではインパール戦やガダルカナルに投入された日本兵と同じで生きて帰る事はそもそも不可能だったのでしょう。
Tシャツで2000メートル級の沢登りなど無知の極みで、狂気の沙汰である。
43歳で大学山岳部出身で日テレ一の山岳取材の第一人者であったと会社がいうカメラマンは3年前の07年からデスクに回っていて最近は現場に出ていない。
装備的には一応整っていたらしいが残念ながら中年の体がついていかない。
同行した山岳プロガイドによれば到底現場のような本格的な沢登りができる足つきではなかったと言う。
給料取りの悲しさで、しかも一番断り難い立場の中間管理職として上司の命令とあれば鈍った体に鞭打って入山を強行したのだろうが、これでは『死にに行く』のと同じである。
それにしてもデスクワークのカメラマンが大学山岳部出身であるからベテランであったとの会社側の言い分には首を傾げざるをえない。
何時の話ですか。
大学山岳部出身が山の『ベテラン』になれたのは敗戦前の大昔の出来事ですよ。当時は在学年数が10年近い、年間200日以上入山する豪の者が何処の大学にもごろごろしていて休みが取りづらい社会人山岳会などよりも遥かにレベルが高かった。
ところが新制の4年生大学では最高学年でも、そもそも山のベテランになり様が無いのですよ。
新制では上級生に実力が無いから体罰やしごきが横行したが、旧制大学では他の体育会系クラブで体罰が頻発していた軍国主義の時代でも、大学山岳部だけは『体罰』とは無縁だった。
ところが時代は移り4年生大学ではレベルが急降下してしまい60年代には体罰(しごき)でニュースになるまでに落ちぶれる。
70年以降は何処の大学でも新入部員が急減して仕舞い一桁の部員数では、最早『山岳部』の体をなさない水準まで落ちていたのです。
会社に殉じて無駄に死んだ日テレ社員二人が哀れである。
これは日本テレビの業務として行われたのであるから、完全な労災事故で、二人も命が失われた会社の労務管理責任は厳しく問われるべきであろう。
『絵になるビデオを撮って来い』との上からの職務命令が出ていれば従うしかない。
昨今の厳しい雇用事情なら無理を承知で神風登山して、文字どうり全員が白兵突撃し玉砕するとは、企業戦士として痛ましい限りである。
『民主党政権、初めての死刑執行の無残』
死刑廃止議員連盟の千葉景子氏が民主党政権下で初めてで、法務大臣としても初めて死刑執行に実際に立ち会い、二人の死を最期まで見届けたというので、護憲左派系の死刑反対のブログでは非難がごうごうと湧き上がる。
今度の千葉法務大臣ですが、私としては座布団を一枚進呈したい心境ですね。
護憲派の死刑反対のみなさん方の仰られている論理は重々承知していますし、死刑制度に対しては同意見であるのですが、自分が署名した死刑囚の『処刑現場』に立ち会った千葉法務大臣は、賛否や立場を超えて『あんたはエライ』としか言いようがないのですよ。
テレビや映画での絞首刑や絞殺場面で、すぐさま被害者が死ぬ場面が描かれていますが、実は首を絞めた位では人間は簡単には死なないのです。
絞めるだけでは5分以上も被害者(死刑囚)は苦しみ続け暴れ断末魔で凄まじくもがき続けるのです。
絞殺とはそんなに簡単ではなく、もっとも力が要る『ちからわざ』なのですね。
それでは実際の処刑現場では如何するかというと、適当な距離を落下させて体重の落下エネルギーで頚椎をへし折って絶命させるのですが、落下距離が大きすぎると胴体から首が千切れて凄惨極まる修羅場になるし、少なすぎると死なないのでその後長い間暴れ続ける結果になり矢張り凄惨な見るに耐えない修羅場になる。
昔は絞首刑が主流だった理由はヒモ一本と道具か簡単で経費節減できるからですが、唯一の先進国の死刑大国アメリカでは絞首刑は少数派で薬物や電気などが主流なのは技術的に高度のテクニックが必要だからなのですよ。
薬物注射はその点マニュアルが簡便なので死刑大国アメリカで大流行したのです。
『モラトリアム』
民主党新政権での初めての死刑執行の意味ですが、日本の法務省の官僚組織としては今まで死刑で培った高度な技術水準を死刑の一時中止(モラトリアム)で失われてしまうことを恐れていて、それで何としても死刑の執行を1年以上空けることなく、今回のように定期的に行うように制度と技術水準を維持したいのですよ。
何やら、オーストラリアに国際司法裁判所に提訴されても、捕鯨のモラトリアムに抵抗して行っている南極海での日本の調査捕鯨と同じ動機です。純粋な学術調査だけなら今のように何百頭もクジラを捕獲する必要性は無いのですよ。
皆さん、想像してみてください。
最後の装置のスイッチを入れたのは刑務所の職員でしょうが、御自分の権限で死刑執行命令書に署名した当人が死ぬ現場に立ち会えますか。?
千葉法相が自分で死刑の最後のボタンを押したのであれば、これ以上ないのですが、そこまでしなくても署名した本人が立ち会えば意味的には同じです。
私としては法務大臣の署名の義務を明記している法案に、但し書きを追加して、署名した当該法務大臣は『立ち会い義務がある』とすべきですね。
12人の死刑執行に署名して『死神』と揶揄された鳩山弟の『自分は署名するのが嫌だから死刑をベルトコンベアー方式にするべき』との発言があったが、このアホ発言にも一定の真実部分は含まれているのですね。
『署名義務のある法務大臣、立会いの義務化』
法務大臣に死刑の署名には自動的に立会い義務があれば、千葉法相に続く人物は日本では多分出てきませんよ。
それで、自動的に日本国はお隣の韓国のような死刑のモラトリアム国になります。
普通、常識的に考えてみて、生きている人間をいくら必要な仕事とはいえ殺せる人物はそれ程多くはないのです。
殺すどころか、既に死んでいる状態でも矢張り何も出来ないのですよ。
昔、厳冬期の雪崩事故で氷点下20度以下の山中で鉄棒を突き刺す原始的方法のゾンデ探査で凍っている遭難者を発見することに成功したのですが、困ったことに彼はニューヨークの自由の女神と同じ手を大きく突き出したポーズで遭難死していたのです。
人間いくら忙しくても死ぬ時は姿勢には気をつけたいものです。これではそのままではバランスが悪すぎて担いでは山を下りられない。
それで仕方無しに凍った腕をへし折る必要があるのですが、良く知っている知りすぎている友人なので誰一人も、しり込みして出来ないのです。
誰もやりたくないが誰かがやらないと如何しようも無い。責任上仕方なくチーフリーダーと二人がかりで全体重をかけて何とか担げる状態にしたのですが、死人の腕一本でも結構辛いものがありました。
ましてや生きているなら、これは出来ませんよ。千葉はエライ。
昔、著名に作家だったと思いますが、ソ連を訪れて社会主義を礼賛、資本主義国にあるのは「自殺する自由だ」といっていました。
死刑の変わりに終身刑を採用した場合、犯人が罪の深さを意識し「死んでお詫びをしたい」と思ってもそれを許されず、公費をもって生かされ続ける。これも残酷な話だと思います。
ただ冤罪防止のため、否認し続ける犯人や、各種情状を総合判断して法務大臣が死刑執行を停止できる権限を持つと解釈したらどうでしょうか。
大臣になったら、思想信条の自由もない、というのもおかしな話です。
当方も過去の記事を読み返してみたら死刑制度に言及した記事は全く無い。同じような立ち居地なのでしょう。
それにしても護憲左派のそれ以外のブログでは何処もこの死刑制度には熱心で何度も記事を書いているので、何かが大きく違っているのでしょう。
親しくしている護憲派ブログで死刑反対の記事が出た時には、他の人とは違いなるべく話が盛り上がらない様に『微妙に話の方向をずらす』(盛り下がる?)コメントを常に送っています。
何故そんな嫌がらせめいた事をするかと言うと、死刑反対の記事には必ずネットウヨが大勢押しかけてきて、『被害者や家族の気持ちを無視する心算か』との批判を繰り返すのです。
これ、勝てないですよ。
左翼は理論、右翼は情念なので理論闘争なら左翼が勝つのです。
ところが死刑問題では右翼が得意の『情念』で攻めて来る。
勿論死刑問題でも論理では絶対に勝てるのですが何しろ多勢に無勢で、こればかりは勝つことは困難です。
必ず勝てる『勝利の秘訣』とは負ける勝負には、最初から出ないことなのです。
防衛問題でネットウヨ氏が『日本が外国軍に占領されたら如何する。?』
なる質問が出されて若い護憲左派のブログ主が困っている例が多いが、何とも歯がゆくネットウヨだけでなく護憲派の軍事知識の無さにはがっかりしています。
『外国軍に日本が占領されたら』
なんかの馬鹿馬鹿しすぎる質問ですが日本国が60年前にアメリカ軍に全面軍事占領されていた(今でも沖縄や首都の周辺を占領されている)事実を失念しているのですよ。
戦争に負けて、外国軍に占領されたらじっと辛抱する以外、何の方法も無いのです。
戦争と死刑は国家による合法的な殺人行為という共通項があるのですが、これを根拠として護憲派が死刑問題を取り上げるのですが、
積極的に反対すべきは死刑ではなく戦争ですよ。
光市事件が騒がれる以前までは死刑は年に数件で今は何倍にも増えたがそれでも10人程度ですよ。
日本人は1億2千万人以上の大国ですよ。
どんな原理原則でも例外生まれるので、数人の例外が出ても仕方がないのです。語るだけの値打ちが無い。
それにしても今度の私の記事ですが、これ死刑制度を語っているようで、実は少しも死刑制度の是非は述べていないのですよ。
タイトルにあるように自分の政治信条に反して仕事なので仕方なく、心ならずも処刑を命令した千葉法相の悲劇と、(真の政治家にとっては政治信条とは自分の命以上に大切にするべきものなのです)
自分では登山する気がないのに上司の命令で仕方なく入山して死んだ日テレの二人の悲劇を書いた記事なのです。
千葉法務大臣が山本五十六の悲劇なら日テレの二人はガダルカナル島で玉砕した兵士の悲劇と同じ種類のものですね。
人の命は限りがあり何時かは死なねばならないのですが、無駄に命が失われるほど腹立たしく口惜しいものはありません。
さあ、それはどうか。得々と死刑立ち会いを語りそうなのもいるような気がしますけどね。
それに、です。立ち会いの義務化を課すなら、「署名が義務ある」の法務大臣より「判決を下す」裁判官でしょう。現在は裁判員制度ですから、もちろん、死刑に賛成した裁判員にも立ち会いを義務化するべし。そして関係者が一堂に揃わなければ執行は見送られることにすればよい。
そうなれば、死刑判決そのものがほぼ皆無になると予想されますし、仮に宣告がでても、執行へのハードルは高くなる。
そして、私が死刑制度に反対する理由もここにある。とどのつまり死刑宣告なんてものは、見て見ぬふりができるから下せるものに過ぎない。そんなものなら廃止してもよかろう、ということです。
“そんなもの”が廃止されずにあるのは、国家の権威を誇示したいがためでしょう。人が人を殺せば国家に裁かれるが、国家が人を殺しても裁かれない。民主主義国家は一応、選挙という「裁き」はありますが、国家と個人の非対称性を補うものには全くなっていない。選挙はむしろ非対称性の免罪符になっています。
この非対称性は至る所に見受けられます。今、話題になっているのが所在不明の高齢者ですが、年金詐取ということですよね、話の要点は。
個人が国家のカネを詐取すると罰せられる。ところが国家が個人の金を詐取しても罰せられない。もっと正確に言うと、国家の衣を着ていさえすれば、罰せられないのですね。
親族の死亡届を出さずに年金を詐取するのは確かに悪です。が、これは裁かれる悪。対して、役人の天下りによって行なわれる悪は、裁かれない悪。どちらがより悪質かは言うまでもないでしょう。
死刑制度も同じです。もし冤罪であったとしても国家の衣を着た者が裁かれることはない。死刑執行の立ち会いは自らの判断と結果を対照させるということなのですが、その程度の「対称」ですら、義務化されれば死刑は実質なくなると予想される。
そんなものを支持する理由など、これっぽっちもないのです。
裁判官検事弁護士の法曹三者は建前上は同等なのですね。
ですから当然死刑の求刑した検事は必ず立会い義務がある。
ただ、反対した弁護側だけは(求めれば)義務ではなく『権利』として矢張り『立会い出来る』とする。
弁護士であれ誰であれ、自分の『失敗』(敗北)を噛み締めることが成功を掴むよりも何よりも大事な事柄なのです。
死刑囚側も最後の場面で『自分を信じてくれた人、心を許した人』が一人いるのか一人も居ないのかは天と地ほど意味が大きく違うでしょう。
ですから、大賛成というか素晴らしいアイデアで是非とも法制化するべきでしょう。
愚樵さん、『得々と死刑立ち会いを語る人』ですが、それは現実には居ませんよ。
何事にも例外はあるので、数百人居る与党議員の中には必ず数人以上が『とくとくと語る』が生まれるのでが、国会議員が人気商売であることに気が付いていない共産党議員以外は思っていても、『奇人変人と思われて』票が減ることが考えられ落選が怖いので世間には公表しません。
ようは、口で言うのと自分が行動するのとは全く違うと言いたいのです。
あの光市事件で少年に対して『死刑』を連呼していた橋下徹的なネットウヨ連中ですが、それなら彼等が本当に首吊り人の足を引っ張れるとおもいますか。?
そう主張するのと、自分がそう現実に実行出来るのとの間にはとんでもなく大きな、容易には超えられない深い深い谷があるのですよ。
飛び越すことができるのは極少数です。
ネットで大増殖している怒り狂う嫌韓嫌中や『死刑』『死刑』ですが、所詮脳内のバーチャル空間の話なのです。
口で言うだけで自分では出来ないのです。
欧米のホンモノのネオナチとは大違いで誰一人も在日朝鮮人や華僑を襲って殺すなんて出来ないのですよ。
それにしても死刑問題は『語るだけの値打ちが無い』の立場なので、
意識的にこの記事は『死刑の是非』には一言も言及していないのですよ。
もっと大きな問題にするべき課題が多いのです。『みんなの党』が今国会で盛んに国会議員歳費の日割り法案を取り上げてりるが、連中の主張では『当選して一週間の議員が1ヶ月分受け取るのは納得行かない』として大問題であるとしているが、
何とも情けなさすぎる低レベルな『国会の権威を貶める』話では有る。
政治家は何時から日雇いのパートの臨時雇用になったのだろうか。?
そもそも政治家の仕事は国会審議に出ることだけが仕事ではない。
国会審議は最後の仕上げで、それ以前に日々寸暇を惜しんで自分で政策研究するべき大事な勤めがあるのですよ。
自分が日頃政治家の仕事をしたことが無いからこんなアホ話ができるのだが、彼等の問題にしている金額は1億数千万円。庶民に負っては大金だが天下国家を論じるべき国会審議から見ればはした金以下の些細な金額である。
国会を一日開いて審議すればどれだか莫大な税金が使われているか考えて主張しているのだろうか。?みんなの党の国会議員とは小学生程度の算数も出来ないのです。
タイトルにあった千葉法相の悲劇を、千葉法相の無残に変えておきました。
愚樵さnには死刑ではなく悲惨な三次山岳遭難の方に何かのコメントを期待していたのですが、・・・・・
死刑は、人それぞれですが、少なくとも部外者が遺族の気持ちを考えろ等と軽々に言えるものなのか。これって、英霊に感謝するのは当然として、死ぬのに至った経緯を省みない連中と同じ気がします。基本的に、そういう事を言う奴に限って、人の気持ちを全く考えない。
山ですが、最近うちの母親が何をとち狂ったか、登山を始めたのですよ。その親が、先月終りに屋久島に行ったのですが、数ヶ月前に行方不明になった人がようやく見つかったと話していました。人気観光地のように言われる屋久島ですら、遭難する人がいるのですから、山登りにはリスクは付き物でしょう。
昨日、田中康夫が良い事を言っていたのですが、県のヘリだとタダで、民間ヘリだと有料。これはおかしいから、入山者全員で料金を負担すべきだと。しかし、議会は何でも反対で立ち消え、国会でも利権にならないのか相手にされないと言っていました。
基本的に山岳救助は助ける側も命がけなのですが、最近登山者のモラル低下が酷く、ちょっとした事で、ヘリを呼ぶらしいのですが、救急車を呼ぶのとは訳が違う。新田次郎の小説に、ボランティアで救助に向かった男性が死ぬが、助けられた側は感謝するどころか、逆に管理責任を言ってくるというのがありましたが、現実に起こりかねないですね。
基本的にこのブログでは死刑問題は話さないことにしていたのですよ。
ところがですね。
千葉法務大臣の死刑の立会いに対して護憲派のブログでは非難の声が沸きあがる。
誰一人も法務官僚に屈服してしまった千葉氏の悲しさ悔しさを理解しているとは思えないのですね。
自分の判断や信念に背いて真珠湾のアメリカ海軍を攻撃した連合艦隊の山本五十六と千葉法務大臣は似ていると思ったんで、何か一言でも弁護したかった。
装備も食料もなしにインパール作戦に動員された日本兵に似ている日本テレビの2人の死とダブって見えたのですが、
この全く違う二つの事件を、無理やり一つの記事にするのは矢張り無謀だったようです。
『靖国公式参拝』支持ののネットウヨと、『光市母子殺害事件』の18歳1ヶ月の少年を『殺せ』『殺せ』と扇動した橋下徹大阪府知事のネットウヨ支持層は全く同じだとの『疑問に思う人』さんの指摘はまさに的を射た慧眼です。
考えの基礎になっている思考方法が同一なのですが、多分人脈的に同一の層である可能性が高いが、多分騒いでいた人物達は全く同じ人々ですよ。
去年は年間300人が山で死んだのですが、家の階段で死んだ人数は十倍近い毎年2000人ですよ。だから登山は危なくありません。とまあ、相手を煙に巻いて騙すなど、いくらでも数字の操作で誤魔化すことが可能なのですね。
この手のインチキを共産党指導部は20年間もやってきたのですよ。
どんどん左翼護憲勢力が後退していて毎年選挙では負けていたのですが、得票数は減っても得票率は僅かに増加しているとか、何か一つ良い点を見つけ出して『負けていない』と支持者や党員に幻想をいだかしていたのですが、党員は自分達が『負けている』との自覚は生まれるはずもなく改革も出来ないのですから、20年間もの隠蔽行為を続けていた共産党指導部の過ちは大きく犯罪的でもあります。
ヘリを一時間チャーターすると50万~100万円近くもかかり現在の料金とそれ程違いが無いし、しかもヘリが松本とか富山の地元空港にあれば短時間で済むのですが運悪く東京などから呼ぶと当然地元までの往復料金がかかり負担が数百万円も吹っ飛ぶのですよ。
田中康夫元長野県知事によると県の所有するヘリは2機で遭難事件が同時に2件起こっても両方が無料なのですが3件目の遭難者は自動的に民間ヘリなどので料金が請求される。
遭難する順番が2番と3番ではまるっきり違うというのは如何かとの田中康夫元知事の考え方ですが、考えたら面白いですね。
遭難者を安易にヘリで救助するのが基本的に間違いなのですよ。
何かの事情で動けないとの救助要請があったなら、食料とかテントを空中投下して、時間がかかっても自力下山させるのが、本人達のためなのですよ。過保護すぎてかえって遭難救助の何たるかの意味を理解できないのです。
登山とはそういうスポーツなのです。
遭難者が救助された文句を言う話ですが、まあ新田次郎の話は法螺話が多すぎるのですが、これはある意味当たり前であるのです。
自分が遭難して『死にかかった』との自覚が無いのですよ。
何故『死の自覚』がないかといえば、これも当たり前で誰も死んだ経験が有る人物は一人も居ないので、だから自分が死に掛かっても本人が鈍感なら気が付かないんです。
去年でしたか一昨年でしたか東京の多摩川が増水してホームレスが何人か青テントごと流される事件があったのですが、救助しようと呼びかけても拒否した人物が居たのですね。
自分が死の直前に居るとの自覚が希薄なのです。
私も何度も経験していますが、7月末の一番暑い時期に炎天の道路で行き倒れている若い青年を見つけたのですが、
なんと『大丈夫ですか?』との私の問いかけにか細い聞こえるか聞こえないかの小さな声で『大丈夫です』と答えるのですよ。
アスファルトの路面温度は優に50度以上は有る手が触れれないほどの熱さなのですよ。
その路面で倒れて動けないのですから少しも『大丈夫』でないのです。
雪の剣岳の早月尾根上部で池ノ谷側に滑落して動けない青年を見つけて救助しようとして『大丈夫ですか』と大声で声をかけたら『大丈夫です』の返事返ってくる。
何故動かないのですかとの問いには『動くと落ちるんです』との返事なのですよ。
確かに滑落者の停止している雪面の位置は下が断崖で落ちたら助からないのですが、それなら少しも『大丈夫』ではない。
このまま放置すれば必ず死ぬという、自分の絶望的な状態を自分自身では理解出来ていないのです。
なにやらネット空間の危機的な現実を理解出来ない共産党員を連想する話ですね。
基本的に自分自身を理解してい人など極少数なのですよ。
だから何時までたっても遭難者は出続けるのです。
ははは。申し訳ありません。でも、なんともコメントしづらくて、この事故は。
なんていうのかな、劣化しているとしか言いようがないんですね、この一連の事故の顛末は。
沢に入って遭難する。遭難救助に向かって事故に遭う。危険な場所に取材に向かって事故に遭う。これらはことの性質上、みな、やむを得ないことではあるんです。
が、これほどやむを得ないことが重なるというのは、ちょっと偶然とは考えられない。やむを得ない危険を越えてものごとを成し遂げるのは「精度」なんですが、これだけ“やむを得ない”が重なるのは、品質が劣化しているとしか言いようがない。で、何の品質かといいますと、ひとり一人の「人間の品質」ということになってしまう。
ところが人間の品質の劣化なんて、非難できないんです。工業製品なら製造元を批判すればよいが、人間に「製造元」なんてありませんからね。下手に非難しようものなら、人権侵害になりかねない(苦笑)
>千葉法務大臣の死刑の立会いに対して護憲派のブログでは非難の声が沸きあがる。
>誰一人も法務官僚に屈服してしまった千葉氏の悲しさ悔しさを理解しているとは思えないのですね。
ここに「劣化」を感じるんです。
私だって死刑制度には反対なんですが、だからといって死刑執行に署名した法務大臣を直ちに非難できるものではない。それは法務大臣に課せられた役割なんですから。
その役割を果すに当たって、千葉法相には彼女なりの“人間としての葛藤”があった。その表れが執行立ち会いだったと受け取るわけです。
その“受け取り”が正しいかどうかはわかりません。私にはその正誤を判断するだけの情報が不足している。ですが“受け取った”ことは間違いないし、受け取れば自身の「人間性」に照らして解釈しようとするものです。
「劣化」していると感じるのは、「人間性」の部分です。ここが「理念」に置き換わっている。
「人間性」などというものは曖昧なものです。が、その曖昧さこそが人間であって、そこを追究するからこそ「精度」も上がってゆく。ところが「人間性」を「理念」などという明瞭なもので置き換えてしまうと「精度」の追究は放棄されてしまう。その結果出来上がるのが、なるほど、論理の扱いには長けて割り切る上手だが、ものごとを扱う「精度」が低くてすぐに遭難してしまうような輩。
共産党及びその支持者は、もちろん例外はありますが、大抵はそんな輩です。