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哲学者か道化師 -A philosopher / A clown-

映画、小説、芸術、その他いろいろ

中山元『はじめて読むフーコー』

2007-03-15 | 
「人間の人生は一個の芸術作品になりえないのでしょうか。なぜひとつのランプとか一軒の家が芸術の対象であって、わたしたちの人生がそうでないのでしょうか」ミシェル・フーコー「倫理の系譜額について」『思考集成』

 今日はちょっと専門的な話。

 言説分析という社会学の調査技法に興味があったので大学院の同輩にこれを知るために良い本を教えてもらったところ、中山元氏のフーコー本と佐藤俊樹氏と友枝敏雄の『言説分析の可能性』を薦められたので、とりあえずいかにも入門ぽい『はじめて読むフーコー』を読んだ。
 基本的にフーコーの思想的遍歴を追いながら、その思想の特徴を解説していく構成。「狂気」「真理」「権力」「主体」という四つのメインテーマにそれぞれ項を設けてまとめて説明してくれる丁寧さ。とりあえずわかった気にさせながら、もっと深い理解に分け入っていくための手引きを含んだ理想的な入門書。良い仕事をしている。個人的には、「真理」そのものを問うのではなく、「真理」語る「権力」をもった「主体」は誰か?といったような思考方法がニーチェと似ているなと思って興味深かった。というか、哲学とか社会学とか面白いよなあ。職業としてやるのはちょっとためらいがあるが、趣味として読むのにはとても良い。まあ、あまり他人には理解されない趣味だが。

 フーコーは死んだが、フーコーの思考、たとえば「生の権力」などの概念は未だ死なないどころか、ますます重要性をはらんでいるような気がする。そういう意味じゃ、われわれはフーコーを読み直していくことは必要なのだろう。と言っても、その「われわれ」ってのが誰なのかは微妙なとこだが。

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大塚英志『少女たちの「かわいい」天皇 サブカルチャー天皇論』「臆面のなさについて」

2007-01-05 | 
「ぼくがサブカルチャー化というとき、それは何もコミックやTVゲームの領域が文化のなかで肥大することを意味するのではない。そうではなく、ことばや思想や経験が、帰属すべき大文字の歴史や体系から乖離して断片化し、その断片が無秩序に集積していき、それによって人々の日常が変質していく過程をいう」(P.147)

「今の日本人の多くが、自身に権力が内在化し、それを可視化する装置として「天皇」を受け止めるのではなく、超越的な権威としての「天皇」を求めることを断念できないどころか、この国の近代がかつて「国家」を可視化し「国民」という共通感覚を持たせるために天皇を必要とした時と同じ状況下であると考えるからです」(P.258~259)

「今日ナショナリズムは「私」の仮託先として「国家」や「日本」や「石原慎太郎」が語られながら、しかし「天皇」が何気に忌避されている。「天皇抜きのナショナリズム」に変質していった点が現在のサブカルチャー化するナショナリズムの大きな特徴である」(P.268)

「ぼくは、「国家」に対する政治的主体を獲得するために「天皇」のみならず「日本」やあるいは「日本の伝統」といった「国民国家」を演出してきたナショナルなものの表象もまた批判の対象に曝されるべきである、と考える。表象をすべて剥ぎ取った、政治システムでしかないただの「国家」を私たちは再発見し、そこに個々人(つまり「主権者」として)コミットし、あるいは運営のあり方を批判していくことが必要だ」(P.272)

 『少女たちの「かわいい」天皇』は大塚氏のナショナリズム論をまとめた本である。この本の中で、80年代~90年代くらいの論考では、首相などの政治的権力から現在天皇が表象する権威をアクセス不能にするために、象徴天皇制が肯定されるのだが、上に引用したような理由において、象徴天皇制が棄却されるのである。つまり、現在において、「天皇」こそはむしろナショナリズムの隠れ蓑になっているのではないかと(だから、ナショナリズム自体からは「天皇」が消えていく)。私は大塚英志はてっきり左側の人かと思っていたが、どうも自身が語るには保守系らしい。というのも、大塚氏自身が引用し指摘しているのだが、福田和也や最近「あえて」保守を語る宮台真司の言説と問題意識が同一で、違いといえばそれへの処方箋くらいなのである。この本を真に受けると(そして、私はかなり説得されているのだが)、「押し付け憲法」などの凡庸な保守のレトリックを論外とするなら、現在は保守について語ることこそ、まともな言説の条件にさえなっているのかもしれない。そして、問題が何を「保守」するのかということに及ばば、福田氏や宮台氏が語る「日常」を守れ、という主張に首肯せざるを得ない。今日的な保守やナショナリズムを考えるために、この本は格好の入門書となるだろう。
 さて、この本の中で筆者にとって興味深いのは、石原慎太郎の小説の批評=批判などで取り上げられている。「臆面のなさ」ないし「イノセンス」である。まあ、単純に言えば、悪気なく、悪的な行動や言説を行なえる心性のことだろうか。筆者などには、ナショナリズム的な文脈で、オリンピックなどで「感動をありがとう!」と無邪気にいってしまうことが思い浮かぶ。あとは、ギャルゲーやエロゲーを趣味にするような「オタク」がメディアを通して「外」に出てきたことだろうか(言うまでもなく、こういった趣味はもっと後ろ暗い趣味であった。それが経済的に恋愛的に動員されて、オタクたち自身も少なからずその気になっている)。この「臆面のなさ」においては、今日までに積み上げられたフェミニズムなどの言説も脱力化され、「だってそういうもんじゃん」と言われてしまう。ちなみに、この石原慎太郎批評において、私は「フェミニズムとは『女』に甘えないことだ」と感じた。付け加えていえば、「女の『欲望』を認める」つまり「女の甘えを適度に許す」ことも必要だろう。
 あと、本書の三島由紀夫論において「ジャンク」(にせもの、まがいもの)という言葉が出てくるのであるが、この言葉は言うまでもなく『ローゼンメイデン』シリーズに登場するドールたちの間で特別な意味をもった罵り言葉である。この批評が面白いのは、三島がジャンクになろうとすることを通して、「ホンモノ性」を保持しようとしたことである。左翼の学生達に向けた有名なことば、「一言『天皇』と言ってくれれば共闘できる」がこれに当たる。この批評を裏返し適用すれば、ドールたちは自分達が人間に対する「ジャンク」としての人形にあたることを、すでに知り、無意識に隠蔽しているからこそ、この言葉を忌避すべき呪詛と捉えているのではないか。とすれば、ドールたちはすでにジャンクでありながら、ジャンクであることを呪い、唯一のホンモノである「アリス」へと駆り立てられている、ということが出来るだろう。そして、たぶん『ローゼンメイデン』の最終回では、直接そうは言わないだろうが、「アリス」というホンモノの虚構性が語られ、ドールたちのジャンク性がそのまま認められ、救われるというオチになりそうだと思う。
 とまあ、むりやり『ローゼンメイデン』を引き合いに出してみたが、大きな引き出しをもったステキな本です。

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ナンシー関『何が何だか』

2006-12-02 | 
「はたして「感動させてくれ」と叫ぶことが一目をはばかるべきことなのかという問題もあるが、私は“べきこと”だと思えてならない。はばかってくれよ、と思う」

 ナンシー関の『何が何だか』を読了。これは八柏龍紀の『「感動禁止!」』に引用されていたのが、気になって読んでみたのだが、脱帽。ナンシー関は消しゴム版画家兼テレビ評論家として、テレビの、特にタレントについてのコラムを自分でつくった消しゴム版画と一緒に載せている人なのだが、このコラムが面白いのだ。この分析の対象と、分析する自分自身の距離感、立ち位置が絶妙である。洒脱なユーモアとアイロニー、諧謔とすばらしいのなんの。私がエッセイ的な文章(つまり、このブログのような)を書くときに、影響を受けていたのは主に椎名誠や村上春樹、村上龍のエッセイだが、作家の自意識過剰なエッセイと比べると、よりエッセイとして洗練されている感じがある。そして、『何が何だか』が記述の対象としているのは、96年のいまから10年ほど前のテレビ界で、ネタ自体は古いのだが、分析自体はいまだ古びていない(たとえば、冒頭の引用)。残念ながら、ナンシー関は今は亡き人なので、現在のテレビ界についての分析はないのだが、昔のでもいいから読み直して、私は文章の勉強をしたいと思う。面白いコラムやエッセイ的文章を書きたい人は、ぜひ一度目を通されては。

「消しゴム彫るのうまいのになあ」

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八柏龍紀『「感動」禁止!「涙」を消費する人々』

2006-11-20 | 
 八柏龍紀の『「感動」禁止!「涙」を消費する人々』を読んだ。この本の主張は、簡単に言えば、「感動」を求め、押し付け、消費することは、良いことでもなんでもなくものすごいエゴっぽいことなのでやめよう、という話である。このことを論証するために、「消費」というキーワードで70年代以降の大量消費文化の流れを追った記述を行なっているが(以外にも)これが出色の出来。新書という一般向けのレーベルのためか、印象論的なところや説教くささも見受けられるものの、書いていることは至極まとも。特に、若者の「右傾化」「保守化」は正確にはただの「一方化」だと看破したのには説得させられた。読みやすく、おもしろく、ためになるので図書館ででも借りて読んでほしい。

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林香里『「冬ソナ」にハマった私たち 純愛、涙、マスコミ……そして韓国』

2006-11-11 | 
P111)ペ・ヨンジュンという偶像は、ファンたちの感情生活を完全な遠足に連れ出してくれる。けれども彼女達にはちゃんと帰り道がわかっている。「安全」――これは「冬のソナタ」の人気の一つのキーワードではないだろうか。あらゆる意味で、「冬のソナタ」というドラマは安全な娯楽である。

 林香里先生の『「冬ソナ」にハマった私たち 純愛、涙、マスコミ……そして韓国』を読んだ。本書の中心的な性格としては、『冬ソナ』を頼りに、マスメディアにおけるジェンダー描写(特に日本のドラマなどとの比較から)、大衆娯楽と大文字の政治の関係などが語られた時評に近いものである。特に、これまで(そして現在でも)「性のない性別」として扱われてきた「おばさん」のマスメディアでの描写のされ方を、「おばさん」たちが『冬のソナタ』に惹かれる理由から分析したことがミソになっている。とはいえ、社会学の本として読むと、ちょっと一般的過ぎて軽いし、言葉や概念の用い方もあいまい過ぎるという難はある。
 それにしても、ぺ・ヨンジュンはどこまでが本音なんだか演出なんだかわからないけど、ドラマ以外でも言っていることが凄い。一般的な好き嫌いはあるんだとしても、確かに、ハマってしまう人がいるというのは、うなずけることである。今度、『冬のソナタ』見てみようかなあ。


P209)本書では、『冬のソナタ』という韓国製の娯楽ドラマが日本において社会的な人気を博した現象について、さまざまな角度から分析をした。問題はここまでで述べたとおり、およそ三つの局面において観察された。日本の中高年女性が抱えている不安や不満、日本の(中高年)男性と女性に間に横たわるコミュニケーション・ギャップ、そして日本と韓国という二つの国家間のコミュニケーションの希薄さ。この三つは、どれも全て事前の異なる現代日本社会の問題である。けれども、これらはすえて、コミュニケーションや対話という行為を社会でどのように構想し活用していくか、という日本人のちょっと苦手なテーマを今一度立ち止まって考えなければ解決できない類の問題である点において、共通点をもつ。

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高橋徹『意味の歴史社会学 ルーマンの近代ゼマンティク論』

2006-11-07 | 
P111)「つまり、相互作用は、「否定」によって人間が形成される場所とは別の場所になっている。これらの状況を総合的にみれば、人間形成の場、言い換えれば、人間がはっきりとした輪郭を持った何ものかになる場所は、権力、貨幣、真理、法といった「否定」を処理する独自のメディアを備えた機能システムとなり、相互作用はなるべく「否定」を排除することで互いに心地よい会話の場として次第に分化してきているということである」

 ↑を読んだ。まあ、特にコメントできることもないのだが、本書はルーマン理論理解の見通しには格好の本である。馬場靖雄先生の『ルーマンの社会理論』がルーマンの機能的分化に関する理論的研究が主であるのに対し、本書はゼマンティクという知識の歴史社会学的な研究に焦点を当てている(もっとも、双方はともに密接に関わっているというのが、この本のポイントなのだが)。とりあえず、ルーマンに興味のある人には必読の書だろう。お勧め。
 なお、冒頭に引用した部分は、本書の中でももっとも興味深かった言及である。マス・メディアなどのコミュニケーション技術の発達により、その量を加速度的に増やしていったコミュニケーションは、同時にコミュニケーションにおける否定や拒絶の量も増やしていったため、そうした否定を処理するするメディアである、象徴的一般化メディア(権力、貨幣、真理など)を発達させてきた。こうして(主に)非対面的なコミュニケーションが、受容か拒否かを明確に決定するように発達してきたのに対し、対面コミュニケーションは、否定の可能性をなるべく排除した「心地よい」場として成立するようになってきたというのである。ということは、周囲との親密な関係のためには、心地よい場を作ることが重要だということだ。こう考えると、ひきこもりなどの人間嫌い系の人は(ブログなぞを書いている僕もだ!)、そうした心地よい場を作る能力に欠けている(コミュニケーションで否定したり)などの理由から、心地よさを演出しなければならないという圧力に嫌気がさしてしまった人かもしれない。日常的なコミュニケーションの場面では、「心地よさ」が重要なメディアとして機能しているのだろうか。

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ニクラス・ルーマン著 林香里訳『マスメディアのリアリティ』「それにしてもルーマンは読みにくい」

2006-10-01 | 
 一応、私はマスメディア、特に娯楽やフィクションについて研究している人なので、こういう本も読むのだ。というか、このブログもそういう関心に根ざしているのだが、方向が偏っているのはご愛嬌。今回は(も?)、もはや分かる人しか分からないコメントなので、関係ねーやと思った人は、スルーしてくださって全然かまわないのである。なおもしルーマンに興味がある、という奇特な方がいれば、馬場靖雄先生の『ルーマンの社会理論』を入門書としてお勧めしておく。

 ルーマンによれば、マスメディアも機能分化システムの一つであり、しかも、彼の機能分化システム間の無階層性のテーゼに反して、マスメディアは他の機能分化システムを取りまとめるような機能があるという。いわく、我々は、知っていることについて、マスメディアを通して知っている、ということだ。マスメディアはインフォメーション/非インフォメーションのコードでオペレートし、その内部ではニュース/ジャーナリズム、娯楽、広告という三つのプログラムが柱になって働いている。マスメディアは我々のリアリティの見方をゆがめているのではなく、当のリアリティを構成しているのである…。
 まあ、ルーマンは相変わらず分かりにくい論述の仕方をしているので、とにかくわかりずらい。林先生が4年もかけて丁寧に訳しているので、日本語でもルーマン独特の論述の仕方の「風味」が伝わってくるいい訳なのだが。そして、録画放映のスポーツの試合はなぜニュースではなくて、エンターテインメントとして扱われるのか、などの興味深い問題の立て方をしながら、それについてしっかりと語ってくれるわけではない…。林先生はルーマンはわざとわかりにくく書いているのではないか?と怒った経験についてあとがきで語っているが、その気持ちはかなりわかる。その一方で、ルーマンの論述は分かりにくく読みにくいながらも、問題の立て方が巧妙なのでなんだか面白い。実に奇妙な魅力をもったもの書きではある。
 ただし、ルーマンの論述自体の意味がわからんくても(私もそれに近い)、後ろに載っている林先生の論文やあとがきが有用である。ルーマンのマスメディア論に対する批判が紹介され、それはそれでなかなか的を得た批判だったりして、ルーマンを叩き台にしたマスメディア論の可能性が感じられるのである。また、林先生自身、ルーマン読みの体験を語り、我々にルーマンの読み方、そして読む訓練の仕方を少し教えてくれる。馬場先生の『ルーマンの社会理論』を読み、ルーマンの基本用語を抑えた人なら、とりあえずチャレンジするのに適した本だと思う。

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森川嘉一郎『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』

2006-07-23 | 
P78)日本中の都市が個性を失い、均質化されてしまっていると指摘されて久しい。あらゆるものを相対化する資本というものの性格が、コマーシャリズムとともに、歴史に根ざした街の貌をことごとく塗りつぶしたのである。ところが秋葉原では、旧来場所の固有性を決定してきた諸構造とはまったく異なる仕組みで、自然発生的に、新たな個性を街が獲得し始めたのである。

P268)都市的スケールの変化を引き起こした、実態的な趣味の構造こそが「オタク」なのだ…。(『趣都の誕生』)

 森川嘉一郎『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』を読んだ。この本は、都市論や建築学の方向からオタク現象についてアプローチした本で、特にわかりにくいところもなく、それでも筆者にはやや不慣れな分野のせいか、知的な好奇心をくすぐられるいい本だったと思う。主張は単純で、戦後では「官」主導の国の権威のための都市開発が行なわれたが、高度経済成長期になって電鉄系などの「民」主導の都市開発が行なわれ、そして現在、アキハバラがそうであるように「民」の「趣味の構造」をもとにしたローカルな都市開発が、都市の容貌そのものを変質させつつあるということ。そういったことが、万博の建築やポケモンジェット機などの具体例を持ち出しながら、語られている。オタクといえば、セクシュアリティや恋愛の問題と絡めて論じられることが多いため、こういった切り口は新鮮であり、かつ社会のプレイヤーとしてのオタクをどう見ていくかということに一つの視点を用意するという意味で、有用なものだと思う。
 だが、それ以上に筆者にとって興味深かったのは、論旨自体には直接関わりない以下の言及である。

P153-154)古典的な恋愛譚では身分制に代表される〈制度〉が恋の障壁を成していたのに対し、現代では「不倫」などの延命策を採る物語も含め―もともと「恋愛」とは不倫や反秩序以外の何ものでもなかったはずだが―旧来の〈制度〉を補填するかのように〈恋愛〉それ自体が権威的に奉られ、少なからず通過儀礼の試練の役割を担わされている。それゆえ、現代のラブうストーリーの内実は古典的な意味での恋愛と言うよりはむしろ、ビルドゥングスロマンと呼んだ方がはるかにふさわしいものが多くなっている。そしてそれら物語が「一億層恋愛願望時代」とまで言われる〈恋愛〉のエスタブリッシュメントを維持する機構を成し、その制度化の内に、実体を喪った〈東京〉の幻想が〈恋愛〉という別の幻想に紛れて残留せしめられるといった現象が発生する。
(また、このコメントの一番下に書いた引用(P242-253)も参照のこと)

 まさに、という感じである。以前は(例えば、島崎藤村の『夜明け前』や夏目漱石の作品の多くがそうであるが)、恋愛は、家長父制をはじめとする制度のアンチとしてあった。つまり、より人間性の本質に近い(と考えられる)「恋愛」が人間を疎外する「制度」を批判する戦略としてありえたのである。しかし、現在では、高度成長期の「民」の時代に、資本の力によって「恋愛」が制度化され、本田透が「恋愛資本主義」と呼ぶ新たな制度が出来上がっている。この「恋愛資本主義」の社会では、恋愛は制度に対するアンチでは絶対にありえず、むしろ、多くのギャルゲーがそうであるように、制度に適応するための社会化の過程を描く「ビルドゥング・ロマン」にしかなりえない。「恋愛」は、もはや「薬」ではあっても「毒」ではないである。ついでに言えば、「恋愛」を「制度」を批判する戦略として用いてきた文学もその様相を変えざるを得ないはず、なのだが、まあ、「恋愛」だの「純愛」だの「性愛」だのといいながらヌルい戯れを続けているわけだ。「文学」は、近代化/工業化を批判し続けるという意味で、いわば望むと望まざるに関わらず「近代」と結託して現れ、これまで続いているわけだが、近代自体が行き着き、戯れと化してしまった「ポスト・モダン」では、果たして批判的な「倫理」を掲げる文学は何をすればいいのか。筆者には、もはや「道化」としてしか存在し得ないような感じもするが、いかがだろう?
 ひとまず、筆者が関心として持ち続けているのは、社会的な通念とは真逆に、実際にはあまりに肯社会的なオタクたち(私自身も)である。人気のある多くのギャルゲー/エロゲーは、実際の社会的な水準以上に肯社会的なテーマを描き続けているようだ(「恋愛」によって人間が救われる!)。あるいは、強姦や監禁、殺人など反社会的な内容を描いたものでも(もっとも、これらを描いたゲームとて、結局は「善」や「正義」の勝利を描くものが大半だが)、それらは淡々と消費されるのみで、実際的な反社会性は皆無に近いものと考えられる(実際には、エロさのスパイスづけみたいなものだろう)。マスメディアの流すイメージとは反対に、オタクとは結局のところ社会を肯定する存在なのである。彼らに罪があるとすれば、せいぜい彼らが「過剰適応」なことであろうか。(ちなみに、筆者が一番ヤバいと思ったギャルゲー/エロゲーは、年齢制限もないのにヒロインを半ば強姦してしまった工画堂の『シンフォニック・レイン』だ。あれは…文脈のせいもあるがけっこうショックだった。その他、Key『CLLANAD』、KID『EVER17』とあわせて、筆者は三大非年齢制限ギャルゲーと呼んでいるが、いずれにも直接は描かれないもののヒロインとのセックス・シーンがある。しかも、いずれも凡百のエロゲーよりもセックスの作品内での必然性が高い…。私は好きなギャルゲー&エロゲー3つと訊かれたら、この3つを挙げる)
 筆者はオタク(だと思うが、アキハバラやコミケとか、オタクの集まる場所は苦手だ)だが、別に本田透のようにオタクを持ち上げようとは思わない。しかし、ある程度、擁護しなくてはならないと思っているのは、オタクをバカにして「こいつらよりはマシだ」とか思って、安穏としている人々が許せないからである。こんな人々には、フョードル・カラマーゾフのあの言葉、「わたしゃいつも、どこかへ行くと自分がだれよりも卑劣な人間なんだ、みなに道化者と思われているんだ、という気がしてならないんです。それならいっそ、本当に道化を演じてやろう、なぜってあんたらは一人残らず、このわたしより卑劣で愚かなんだから、と思うんでさ」(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(上)』新潮社)を返さなければならない。
 …とか言ってたら、『趣都の誕生』の本筋からはずれまくってしまった。まあ、それ以上書くこともなかったのであるが。とりあえず、ちょっとした建築学の知識も仕入れられるので、読んでいい本だと思う。

P242-243)それまでのバックボーンが喪われたこともあって、建築家たちは強大なキャピタリズムの力に無関心ではいられなくなった。公共的理想の追求といった綺麗事ばかりにこだわってはいられなくなり、大企業から超高層ビルは巨大商業施設のコミッションを得るべく、国境を越えて景気の良い国に群がるようになった。/ところが、営利企業に採用されるためには、大衆のテイストに合致するようにしなければならない。そして企業側も、建築家をハイヤーするからには自らのイメージアップのための材料として利用したいという思惑がある。この共犯関係を粉飾するために編み出されたのが、ポストモダンという標語なのである。建築家たちがどんなに大衆に媚びただけの理念なきデザインをしようとも、「多様性の祝福」だの「引用」だのといった理屈を使って取り澄ますための、それは隠れ蓑なのである。前述したように、大阪万博では安保闘争から大衆の関心を逸らすべく、多くの前衛芸術家が文化的粉飾として体制側に利用された。これと同じように、批判にせよ祝福にせよ、ポストモダンを説く哲学者ら文化人たちは、このイメージアップに加担することとなったのである。例外的事例もないことはないものの、ポストモダニズムの建築とは実質上、キャピタリズムの建築なのである。

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斎藤環『社会的ひきこもり』「社会と精神分析/社会の精神分析」

2006-07-17 | 
↑を読んだ。というのは、「社会的ひきこもり」というイシューへの興味以上に、斎藤環という精神分析家への関心が大きい。今いる評論家とよばれる人々の中では、ある意味もっとも好感をもっている、とさえ言えるかもしれない。それは、精神分析家として、文字通りの「理論と実践」を実践しながら、どこかいかがわしさ、軽妙さをうかがわせるからかもしれない。たとえば、斎藤氏は、その当時ではさしたる裏づけもなく、マスメディア向けに「ひきこもり100万人説」をぶちあげたが、それはひきこもりに対する社会的な関心を呼び覚ます名目であっても、ただのトリックスターに成り下がる可能性をはらんでいる。また、軽妙な「動物化」論を語る東浩紀氏の対談(斎藤環『解離のポップスキル』所収)においても、なかば偽悪的なまでに才気をむき出しにしながら、「動物化」「工学化」した人間と社会を語る東氏に対し、「なんでそうなるかなあ?(笑)」と更なる軽妙さで相槌をうつ(東氏に比べれば、いささか凡庸という印象を禁じえない)斎藤氏は、議論では押されながらも、奇妙な存在感を孕んでいる。そもそも、精神分析自体が怪しいもので、現在の「認知革命」以後の心理学を学ぶものにとっては、精神分析はオカルティックに映らざるをえないのである。その精神分析で、今何を語れるのか、ということについては、私は皮肉な興味を持たずにはいられない。
 でまあ、『社会的ひきこもり』は、「ひきこもり」について、新書で3時間程度の量で、読みやすく、わかりやすく語られているので、イシュー自体に興味のある人には、とても良い本だと思う。それ以上に、筆者はそれなりに勉強してもよくわからなかった、統合失調症、境界性人格障害などの症候と「ひきこもり」の症候が比較されていて、精神医学的な症候についての知見がコンパクトにまとめられていたのが良かった。

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宮台真司×北田暁大『限界の思考』

2006-07-16 | 
宮台:ようは「弱者により添おうとして、今日じゃのポジションからの語りをうしろめたがる」がごときヘタレ左翼の言説は、「共振の言説」でしかあり得ない。「そういう、うしろめたがり自体が、今日じゃのポジションによって可能になっているんだよ」とマゼっ返せば、終了(笑)。強者であるなら、強者の立場を自覚的に最大限利用するような、逆向きの再帰性こそが、有効なんです。(P179-180)

宮台:「私を捨てて公に貢献せよ」というメッセージこそが、「私を幸せにしない公」を温存したり、「弱い私のために公を流用する頽廃」をを温存したりする。それが丸山真男の中心論点でした。そうではない。「まず私がある。私のために公に貢献せよ」が正しい。応用編で、「まず我われがある。我われのために『より大きな我われ』に貢献せよ」が正しいメッセージ。(P297-298)

宮台:没入を拒絶するための処方箋は、距離を取ることじゃない。距離を取ることへの没入があり得るからです。没入も自在。離脱も自在。それでこそ自由。すなわち、不安からの解放、依存からの解放、そこに真の平安がある。それがキュニコス学派ならざるキュレネ学派が推奨した立場です。あるいはストア学派ならざるエピキュロス学派が推奨した立場です。(P433)

 宮台真司と北田暁大『限界の思考』を読了。「アイロニー」や「全体性」をキー概念にしながらも、さまざまな知見を参照した密度の濃い対談集。読んで私が驚いたのは、両者のパースペクティヴがとても「かみ合って」いることである。ただの偏見と言われればそうかもしれないが、この2人が互いをリスペクトしあっているのを見る(読む)のは、出来過ぎ感すら漂ってしまう。とはいえ、「アイロニー」のあり方を巡って、宮台氏が「動物化」した人々をバカにしながら動員する戦略をとるのに対し、北田氏は「動物化」した人々を「人間化」させる方向に戦略をとる。この違いは、大衆をどれだけ信頼しているかという違いそのままである。現状への認識を元手に、一部のエリートに「動物化」した大衆を操縦させるという(ホンモノ右翼な)宮台氏に、(リベラリズムの)北田氏が懸命に追いすがっていく姿が印象的である。私的には、(大塚英志的な)戦後民主主義のフォーマットを何の疑いもなく信じてきてしまった人なので、これに近い北田氏の主張を応援したいところである。議論としては必ずしも決着がついているものでもないが(もっとも、宮台氏が本気になれば北田氏の主張は叩きつぶされたかもしれないが)、これだけの論点を引き出せただけでも、この対談は大成功だろう。というより、2000年以後の現代社会論としてはまさに金字塔。必読書とさえ言えるかもしれない。これだけ哲学や思想に対して「ハード」な思想書(?)は、他にないかもしれない(「歴史の終焉」という終焉)。正直、私にはコメントしづらい。評価うんぬんではなく、とりあえず読んで、論点を抽出することに意味がある。

北田:歴史認識からはなれた場合には、私は宮台さんとほとんどの価値観を共有できるんです。「視界の透明性」「開かれたアイロニー」というのは、まさしくリベラリズムの基本精神といえます。「距離化」の戦略ではない、つまり強迫的ではないアイロニーの論理と倫理ということなら、私も進んでコミットしたいと思います。/…/そのような宮台さんの危機意識と対処法は、アカデミズムという狭い言論空間のなかでは有効なのかもしれません。小室ゼミ的な教養主義の復権を、ということであれば、共感をよせる人も少なくないでしょう。とはいえ、より広い言説空間で、同じようなことを要求できるものかどうか疑問にもいます。いや、私もリベラリストとして、可能な限り、「教養」主義的なアイロニーを広めたいとは思っているのです。でも、限界も感じざるを得ない。「批評」ならぬ「教養」的なコミュニケーションに誘導していくには、別の手立てを考えなくてはならないのではないか…。(P390-391)(筆者注:宮台氏自身は、アカデミズムをすでに見放している)

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本田透『電波男』

2006-06-13 | 
 本田透の『電波男』を読んだ。まあ、何かといわれている本ではある。本としては、ブラックユーモアのつもりで読めば、とりあえず楽しめるのではないかと思う。それに筆者は、本田透の主張にある程度賛同してもいいくらいだ。
 この本では、『恋愛資本主義』という、恋愛を媒介に資本を循環させようとするシステムを批判し、そのオルタナティヴとしてオタク文化を挙げる。『恋愛資本主義』システム下では、競争としての恋愛が奨励されているため、いわゆるブサイクな人は、恋愛弱者として、その恩恵を受けることができないからだ。愛を受け取ることのできない個人は、恋愛を奨励するシステムの中で、疎外され続ける。しかし、実際には『恋愛資本主義』システム内でも、ファッションとして、あるいはセックスを求めての恋愛しか行われておらず、このシステムの中には、そもそも愛が存在しない。それに対し、『恋愛資本主義』システムに疎外された他者であるオタクは、『萌え』という妄想を介した脳内恋愛により、愛を得ることができるうんぬん。
 本田氏が『恋愛資本主義』を批判する論旨については、状況認識の過度の単純さを除けば、かなりうなずけるものだと筆者は思う。思えば、容姿というきわめて偶然的なもので、まるで人の価値が決まるかのような価値観は批判されてしかるべきだろう。とは言え、このシステムを批判する者としてのオタクというのは、あまりにも強引なもっていきかただ。少なくとも筆者には、オタクが社会の中で重要なプレイヤーになる像というのは、思い浮かばない。以下は、筆者のコメント。
 恋愛資本主義においては、まるで恋愛が究極の救済であり、万人が享受できるものと提示される。しかし、実際においては、恋愛は競争過程に他ならないため、競争からあぶれるものが出てくる。このあぶれものに対し、無関心どころか不寛容なのは、恋愛が万人のためにある、という前提と矛盾しているではないか、という論理的な欠陥をわれわれは指摘・批判できる。何も、この世からあまねく孤独を救済できないから、恋愛資本主義がダメだと言っているわけではない。恋愛資本主義が、「恋愛は万人にある」「孤独は排除すべき恥である」というイメージを植えつける一方で、孤独や疎外を積極的に作り出すシステム、もっと言えば、孤独や疎外という犠牲を誰かに押し付けねば維持不可能なシステムだからこそ問題なのである。これは、本質論ではない。ただ単に、言説が内部で矛盾し、破綻しているではないかという指摘・批判なのである。
 本田氏は、オタクを『恋愛資本主義』を批判する者としてみるが、一方でオタクこそ二次元のかわいい女の子(男の子)しか見ないではないか、と批判することは可能だろう。それにそもそも、本田氏の措定する、恋愛資本主義対オタク世界、イケメン対キモメン、DQN(暴力男)対オタクという二項対立構造は、それほど自明のものではない。となれば、『電波男』という本自体、本田氏の妄想の産物(「他者」がいない)と批判されても仕方ないのである。。
 それに筆者としては、オタクはニッチな趣味だから面白いのであって、本田氏が妄想するようなオタクが天を取った社会などは、オタク趣味は至極つまらないものになっているだろうと思う。ある意味では、オタク趣味が社会的には後ろ指をさされる背徳的なものだからこそ、淫靡な快楽として、享楽できるのである。
 では、オタクはどうすればいいのであろうか。筆者に言わせれば、簡単である。つまり、オタクは二次元と三次元の両方での戦いという、『二重の闘争』を経験しなくてはならない。どちらかが、現実なのではない、どちらもが現実なのだ。最大の復讐とは幸福になること、というのと同様に、闘争とは「好むと好まざるに関わらず自らを楽しむ」ことなのである。現実の恋愛を批判したければ、ギャルゲーのほうが楽しいと言えばいいのである。ギャルゲーを批判したければ、現実の恋愛のほうが楽しいと言えばいいのである。そして、両方を楽しめれば、それに越したことはないのである(ほんとか?)。まあ、結局のところ、趣味や嗜好の問題ということになるのであるが。

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藤原正彦『国家の品格』「どこにもない、ユートピア」

2006-05-17 | 
 最近売れていると言う藤原正彦『国家の品格』を家族が買ってきたので読んでみた。藤原氏は現役の数学者で、経歴等を読む限り、海外でけっこう活躍しているらしい。が、そのせいで、この本全体に数学者の文系かぶれ的な怪しさが漂っている。
 この本の主な主張は、論理批判であり、情緒の擁護である。もともと西欧で生まれアメリカに受け継がれた論理至上主義とでも言うべき考え方が、昨今の世界情勢を見る限り行き詰ってきたので、その代わりに情緒や形、美的感覚を中心とした国づくりをしようという話である。論理の行き詰まりの説明には、硬いところではクルト・ゲーデルの「不完全性定理」、やわらかいところでは世間一般の論理的思考のいかがわしさまで、いろいろなレベルで論じられて(?)いるが、中学生でもわかる程度にまとめられている(論理、というのがその始めには不当にも、正しいかわからない「仮説」からはじめなければならない、というくだりにはそれなりの説得力があった。その仮説が情緒により決められるというのは、話として飛躍しすぎだが)。たとえば、人を殺してはいけない、ということが論理的に根拠付けられないように、結局論理というのは限界があるのだから、論理的な説明をするよりも「ダメなものはダメ」と端的な禁止をしなければならない、ということだ。そのとき「ダメ」と言える根拠というのが、情緒などの非論理的なものだということである。
 だが、果たしてこの本は本当に「論理批判」として機能しているのだろうか?筆者のよく使う言葉を用いれば「誤爆」ではないだろうか?本書の主張である「論理一本ではダメなので、情緒を基盤にした国づくりを」とは、極単純ではあるが、それゆえに純粋な「論理的」思考ではないだろうか。それに、論理では片付かない問題ばかりあることなど、むしろ現在の世の中では常識に属してはいないだろうか。ある意味では、国のエリートに近づけば近づくほど、慣例や伝統(?)に縛られた考えかたをしているくらいである(官庁や役所、読売新聞の会長などを見よ)。また、この本で堀江元社長の批判がなされているが、堀江氏の(当時の)新しさとは、慣例や伝統など情緒的なものを下らないものとし、徹底的に自己功利型のスタイルを貫いたことである。言い換えれば、そういうものを本気でつぶそうとしていた。そうした堀江元社長にとっては藤原氏の考え方などは、どちらにしろつまらないものでしかないわけだ。だから堀江元社長が墜落した現在、藤原氏がいくら堀江元社長を批判したとしても、「ざまあみろ」というだけで、本当の批判にはならないのではないかと思う。こうした意味で、藤原氏は「痛いところを突く」ような批判はできておらず、「誤爆」としての批判をしている。そして、誤爆した対象は論理の代替としての「情緒」の重要性を主張する、自分自身の「論理」なのだ。
 なお、この本では「国民はアホなので、真のエリートを養成し国の舵取りを任せるべきだ」、という主張もなされている。その真のエリートとして新渡戸稲造などパトリオシズム(祖国愛)の人が挙げられるわけだが、どう考えても安易な回顧主義だという印象はぬぐえない。真のエリートに政治を任せるということは、いわゆる哲人政治になるわけだが、果たしてどこにそんな便利な人がいるのだろう?そもそもその哲人の選び方はどうするのだろうか?もしも、選挙制ならばもとの木阿弥である。世襲制なら王政だし、試験制ならば官僚制などなど、およそ今まで捨てられてきた、あるいは今ある政治制度の例しか思い出せない。問題は、どうやってエリートを養成するかではなく、どんな政治形態であれ、いかに権力をもたせるに足る人を選ぶかなのである。だから、筆者は今の政治を肯定したいとは思わないが、少なくとも政治形態を変える必要はないと考えている。(ただ、政治に緊張をもたせるために、一度でいいから民主党に政権を移してみたいとは考えている)
 結局のところ、藤原氏の主張は、時代の風潮に乗っかり出るべくして出たものだと言えるが、あまりに純朴素朴なので、実質的には無力であると断言する。せいぜい、「心ある」人が藤原氏の主張に共感し、「義憤」をなだめるくらいである。気持ちはわからなくもない。だが、藤原氏の主張は、藤原氏の意見に耳を傾け、共感する人にしか影響を及ぼさないのだ。藤原氏は、今の若者は本を読まないと嘆いているが、読まないからして藤原氏の意見にも触れることがなく、影響を受けないのである。これでは「誤爆」以前の「空回り」である。
 では、こうした硬軟の思想全体が「空回り」している状況をどう打開すべきか?残念ながら、打開できるという希望をもつことはかなわないように思う。だがせめてできることがあるとすれば、思想の内容的な充実を保ちながら、思想全体をその語り口からして「おもしろく」することだと思う。そうして、思想のソフト面でのアクセシビリティ(接近可能性)を高めること。それが何かになるなど、我々はもはや希望することもかなわないが、それでもまあ、やらないよりはマシではあるのだろう?

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社会学入門にうってつけの本

2006-04-09 | 
 今回は趣向を変えて、極ローカルネタ。大学の社会学科に入学した人が、社会学とはどんな学問か感じを知るための本。

『社会学のおしえ』馬場靖雄 ナカニシヤ出版
 さまざまな社会学的なイシューについて語っていく本。ただし、著者自身の動機付けを理由に、かなりオタッキーなネタもある。新書以上に読みやすい本ながら、いつのまにか社会学とは何なのかが語られてしまっている、という変な本。図書館に入っていたら、とりあえずめくってみるといい。

『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ イースト・プレス
 著者名は外国人だが、別に訳書でもなく、普通(以上)に日本語が出来るよう。『社会学のおしえ』が、理論的な話なら、こちらはデータをもとにした実証的な話。社会学を諧謔しながらも、それこそがより社会学的という切り口。

 どちらの本も、最近の社会学領域の研究の動向を抑えるという役には立たないけど、社会学がどんなものかというものは、結構わかる。あと、読み物としても結構おもしろい。

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