アゴタ・クリストフの『悪童日記』を読んだ。一見、文学的修辞などほとんどないながらも、良質の文学であり、何よりも面白い小説でなかなか楽しめた。
舞台は明示されてはいないが、第二次世界大戦時のナチス・ドイツに占領されたハンガリーで、主人公の双子が母に連れられ、片田舎の祖母の家に預けられるところから始まる。この始まりかたから想像できるのは、戦争に翻弄される無垢な子供の姿だが、さにあらず。むしろ、ある意味では主人公の双子こそがもっとも冷酷な「恐るべき子供たち」なのだ。この小説は、子供達が極めて客観的に書いた日記として、超短編のエピソードをいくつも並べたかたちなのだが、そのどれもが抑制された含意やうーモアに満ちていて「文学的」なのである。
詳しい解説は、本書の訳者が載せた解説に任せるとして、僕は訳者が取り上げなかった部分について述べてみたい。この小説は、まさに一心同体で思考・行動する双子が語り手となっているので、作中での一人称は「ぼくら」で統一されている。この「複数」というあいまいさが、感情を閉ざした客観的な文章が逆説的に孕んでしまう「逆向きの主観性」「私くささ」を回避、相対化させているように思われる。どんな文体で語ろうとも、それを語る語り手の立ち位置だけは通常、絶対的なものとならざるをえない。ここには、書き手/読者という取り消しえない差異が存在し、また、それぞれが単一のものと想定される(読者は、不特定多数に存在しうるが、それぞれの読書経験は、他者のそれと共訳できない単一ものもとして現れる)。こうした差異=前提が所与とされる限り、小説は書き手の「一人よがりくささ」を多かれ少なかれ逃れ得ないが、この小説では(想定上の)書き手を複数にすることで、この「くささ」の脱臭にかなりのところ成功しているように思われる。『悪童日記』の続編『ふたりの証明』『第三の嘘』を読まないことにはなんとも言えないが、この試みは文学の伝統に対する正統な挑戦になりうるのかもしれない。近々、続編を読み終えたときには、またここにコメントを書きたい。
多少繰り返すことにもなるが、この小説は実に読みやすく、物語的でありながら物語に束縛されず、様々なテーマを内包し、冷酷かつ残酷であり、それゆえに実存的である。訳者が解説でJ.P.サルトルの名を挙げるのも、僕がこの小説を気にいった理由と関係しているのだろう。この小説は、現実との闘い方を教えてくれるのである。
舞台は明示されてはいないが、第二次世界大戦時のナチス・ドイツに占領されたハンガリーで、主人公の双子が母に連れられ、片田舎の祖母の家に預けられるところから始まる。この始まりかたから想像できるのは、戦争に翻弄される無垢な子供の姿だが、さにあらず。むしろ、ある意味では主人公の双子こそがもっとも冷酷な「恐るべき子供たち」なのだ。この小説は、子供達が極めて客観的に書いた日記として、超短編のエピソードをいくつも並べたかたちなのだが、そのどれもが抑制された含意やうーモアに満ちていて「文学的」なのである。
詳しい解説は、本書の訳者が載せた解説に任せるとして、僕は訳者が取り上げなかった部分について述べてみたい。この小説は、まさに一心同体で思考・行動する双子が語り手となっているので、作中での一人称は「ぼくら」で統一されている。この「複数」というあいまいさが、感情を閉ざした客観的な文章が逆説的に孕んでしまう「逆向きの主観性」「私くささ」を回避、相対化させているように思われる。どんな文体で語ろうとも、それを語る語り手の立ち位置だけは通常、絶対的なものとならざるをえない。ここには、書き手/読者という取り消しえない差異が存在し、また、それぞれが単一のものと想定される(読者は、不特定多数に存在しうるが、それぞれの読書経験は、他者のそれと共訳できない単一ものもとして現れる)。こうした差異=前提が所与とされる限り、小説は書き手の「一人よがりくささ」を多かれ少なかれ逃れ得ないが、この小説では(想定上の)書き手を複数にすることで、この「くささ」の脱臭にかなりのところ成功しているように思われる。『悪童日記』の続編『ふたりの証明』『第三の嘘』を読まないことにはなんとも言えないが、この試みは文学の伝統に対する正統な挑戦になりうるのかもしれない。近々、続編を読み終えたときには、またここにコメントを書きたい。
多少繰り返すことにもなるが、この小説は実に読みやすく、物語的でありながら物語に束縛されず、様々なテーマを内包し、冷酷かつ残酷であり、それゆえに実存的である。訳者が解説でJ.P.サルトルの名を挙げるのも、僕がこの小説を気にいった理由と関係しているのだろう。この小説は、現実との闘い方を教えてくれるのである。