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哲学者か道化師 -A philosopher / A clown-

映画、小説、芸術、その他いろいろ

アゴタ・クリストフ『悪童日記』

2006-11-05 | 小説
 アゴタ・クリストフの『悪童日記』を読んだ。一見、文学的修辞などほとんどないながらも、良質の文学であり、何よりも面白い小説でなかなか楽しめた。

 舞台は明示されてはいないが、第二次世界大戦時のナチス・ドイツに占領されたハンガリーで、主人公の双子が母に連れられ、片田舎の祖母の家に預けられるところから始まる。この始まりかたから想像できるのは、戦争に翻弄される無垢な子供の姿だが、さにあらず。むしろ、ある意味では主人公の双子こそがもっとも冷酷な「恐るべき子供たち」なのだ。この小説は、子供達が極めて客観的に書いた日記として、超短編のエピソードをいくつも並べたかたちなのだが、そのどれもが抑制された含意やうーモアに満ちていて「文学的」なのである。
 詳しい解説は、本書の訳者が載せた解説に任せるとして、僕は訳者が取り上げなかった部分について述べてみたい。この小説は、まさに一心同体で思考・行動する双子が語り手となっているので、作中での一人称は「ぼくら」で統一されている。この「複数」というあいまいさが、感情を閉ざした客観的な文章が逆説的に孕んでしまう「逆向きの主観性」「私くささ」を回避、相対化させているように思われる。どんな文体で語ろうとも、それを語る語り手の立ち位置だけは通常、絶対的なものとならざるをえない。ここには、書き手/読者という取り消しえない差異が存在し、また、それぞれが単一のものと想定される(読者は、不特定多数に存在しうるが、それぞれの読書経験は、他者のそれと共訳できない単一ものもとして現れる)。こうした差異=前提が所与とされる限り、小説は書き手の「一人よがりくささ」を多かれ少なかれ逃れ得ないが、この小説では(想定上の)書き手を複数にすることで、この「くささ」の脱臭にかなりのところ成功しているように思われる。『悪童日記』の続編『ふたりの証明』『第三の嘘』を読まないことにはなんとも言えないが、この試みは文学の伝統に対する正統な挑戦になりうるのかもしれない。近々、続編を読み終えたときには、またここにコメントを書きたい。

 多少繰り返すことにもなるが、この小説は実に読みやすく、物語的でありながら物語に束縛されず、様々なテーマを内包し、冷酷かつ残酷であり、それゆえに実存的である。訳者が解説でJ.P.サルトルの名を挙げるのも、僕がこの小説を気にいった理由と関係しているのだろう。この小説は、現実との闘い方を教えてくれるのである。

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フョードル・ミハイロウィチ・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』「カラマーゾフ万歳!」

2006-10-30 | 小説
「だが、陪審員のみなさん、そのほかにさらに何かがあるのです。魂の中で絶叫し、たえず理性をたたいて、死ぬほど心を苦しめている、何かがあるのです――それは良心であります。陪審員のみなさん、良心の裁きであり、恐ろしい良心の苛責であり、ほかに道はない、だがその先は――その瞬間カラマーゾフが『その先には何があるか』と考えたかどうか、またカラマーゾフがハムレット的に、その先に何があるかを考えたりできるのかどうか、わたしにはわかりません。そう、陪審員のみなさん、ハムレットはあちらの話で、わが国では今のところまだカラマーゾフなのであります」(下、P215-216)

「カラマーゾフはまさしく二つの面を、二つの深淵をそなえた天性であるため、抑えきれぬ遊興の欲望にかられた際でも、もしもう一つの面から何かに心を打たれたならば、踏みとどまることが出来るのです。そのもう一つの面とは、愛です。まさにそのとき、火薬のように燃え上がった愛情であります」(下、P555)

 世界文学の最高峰の一つ、世界一面白い小説との呼び声の高い、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(上、中、下、新潮文庫)を5、6月から読み続け、ようやく読み終えた。実に、半年近くかかったわけだが、まあ、あいだにほかの小説を読んでいたりもしたからなあ。でも確かに面白かった。つーか、凄い小説である。さまざまなテーマが詰め込まれ、さまざまな人間が描かれ、さまざまな事件が起こる。宗教があり、医学があり、法があり、思想があると。あらすじとかを紹介することもできるが、こういった古典というのは、実際に読まねば意味がないので、割愛。この小説を勧めるために、せめて気に入った部分のうち3つを引用しておく。読むのは大変だけど、ぜひ一度チャレンジしてほしい。超名作。

「いいですか、これからの人生にとって、何かすばらしい思い出、それも特に子供のころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。君たちは教育に関していろいろ話してもらうでしょうが、少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく、最良の教育にほかならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作りあげるなら、その人はその後一生、救われるでしょう。そして、たった一つしかすばらしい思い出が心に残らなかったとしても、それがいつの日か僕たちの救いに役立ちうるのです」(下、P652-653)

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恩田陸『黒と茶の幻想』

2006-06-10 | 小説
―そう。俺はこの目を知っている。決して自分の求める愛を得られないと知っている目。
―そう。この目は昔からよく知っている。これは、俺自身の目だ。愛されることを知らない人間の目なのだ。(文庫版下巻P164より)

 恩田陸の『黒と茶の幻想』を読了。傑作、傑作。ミステリーのような、旅物語のような、群像劇のような、愛憎劇のような。とにかく、物語を読む楽しみを味わえる本だった。といっても、『六番目の小夜子』や『真昼の月を追いかけて』のような超盛り上がりの展開はなかったが、それだけに説明不足な部分がなく、きれいな終わり方をしていたと思う。恩田陸の作品は、結末次第で作品全体の質が大きく分かれてしまうので、ここは重要である。
 ある大学以前からの友人たちである、男女四人(男2人女2人)は30代後半になって、ある島(モデルは屋久島)に旅行する。その三泊四日の旅行の中で、主人公たちは「美しい謎」を提示し合い、解決し合いながら、島の森を散策する。その中で、過去の辛い経験を思い起こしたり、新しい何かを見つけ出したりしていく。
 あらすじを語ってもあまりぱっとしないのだが、それはこの作品がエンターテインメントに似つかわしくないほどに、何も起こらない話だからである。その一方で、語られていること自体はとても深い。これは恩田陸の衒学趣味にもよるものだが、主人公たちが話していることが、けっこう興味深く楽しめるのだ。それに主人公たちの友人関係は一筋縄ではいかず、隠し事をし合いながらも、それがお互いのためと大人の関係をむすんでいるところも面白い。章ごとに語り手が変わることで、それぞれの友人関係に何があるのかが明かされるのだ。私的にとてもよかったのは、第三章の蒔生の語り。「人でなし」である、蒔生のつかみどころのない生き方は、筆者にも当てはまりそうで(もっとも蒔生ほど万能ではないが)、筆者には珍しく語り手に共感した。あと、『麦の海に沈む果実』の主要な登場人物であった、憂理のその後が語られることも、ファンにはポイントが高い。
 と、ずらずら言ってみたが、どうにもこの小説についてちゃんと語った気にならない。なぜかと考えれば、この作品には、わかりやすい意味での作品の核というものが存在しなくて(あったとしても「ノスタルジー」とかいう、あいまいな言葉になってしまう)、全体から同じように魅力が発せられているようなのだ。物語のどこが面白いとかいう問題ではなく、物語を読むこと自体が楽しいという感じ。これぞ、恩田陸である。当たり前のことだが、物語を読むことは楽しいのである。この単純なことを教えてくれる作家として、筆者は恩田陸を無二の作家だと思っている。

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村上龍『イン ザ・ミソスープ』「サバイバルの論理」

2006-05-25 | 小説
「…人間は想像する、あらゆる動物のなかで、想像力、を持っているのは人間だけだ、他の大型獣に比べて圧倒的に非力な人間が生き延びていくためには、想像する力が必要だった、危機を回避して生き延びていくためには、予測、表現、伝達、確認、などが絶対に必要で、それを支えるのは想像力だ、われわれの祖先は、ありとあらゆる恐怖を想像して、それらが現実になるのを防ごうとした、だから、現代の人間たちにもそういう想像力が残っていて、それが、ポジティブに発揮されれば、芸術や科学を生むし、ネガティブに発揮されるとそれは必ず恐怖や不安や憎悪という形になって、われわれ自身に帰ってくる…」(本文p262)

 村上龍の「インザ・ミソスープ」を読了。普通におもしろい小説だった。話としては、倍黒人向けに歌舞伎町のアテンドをしている青年が、一人の変なアメリカ人の客を取ったところから、その客の妙な性愛へと引き込まれていく…、というような話。大塚英志は、小説の作り方を教えるときに揶揄をまじえながら、村上龍の小説は物語の構造としてうまくできている(「文学」といってもそんな大それたものではない)、といい、高橋源一郎は、現在の小説家のなかで文章の一番の天才は村上龍だ(小説の内容については、ほぼノーコメント)といっている。この小説も、村上龍一流の「哲学」(歴史、生物、社会…)というかウンチクが披露されるわけだが、筆者はこれがけっこう好きだ。なんだか、いろいろと大げさに表現されている気がするかもしれないが、少なくともこうした切り口から現代の状況を語れるのは村上龍しかいないのは確かなので、貴重ではある。小説としては、十分楽しめるもの。読め、とは言わないが、読んでいい小説だと思う。

 もともとロクに大学にも通わなかった村上龍が、最近ではやたらと職業的なコミットメントを説いている。いかにも凡庸といわざるをえないが、これは村上龍の主張が、筆者が「サバイバルの論理」と読んでいるもので貫かれているからだと考えている。村上龍の論理の始点にして支店には「サバイバル」ということが据えられていて、それが最重要点として全体を規程しているということだ(たまにプライドが優先されるが)。だから、「サバイバル」せず、ただ単に状況に流されながら生きている人間や甘えている人間が許せないのだ。この倫理は、言ってみれば、かっこいい。まあ、せめてかっこいいというのは良いのだけれど、この論理はどこか空回りしているように感じられもするんだけどなあ。

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町田康『きれぎれ』

2006-05-21 | 小説
 町田康の芥川受賞作である表題作を含む短編集『きれぎれ』(他、『人生の聖』所収)を読了。…最近、小説の読書ペースがものすごく遅くなってる。もともと速いほうではなかったが、最近小説を読む時間自体がとれず、まさに激減状態。小説を読むことは、単なる趣味でも実益でもなく、ライフワークのようなものなので、まずいなあと思いつつ。

 さて、『きれぎれ』と『人生の聖』である。特に物語がどうのこうのというのではなく、文体くらいに話を絞ろうとおもうので、まとめて扱ってしまっても問題はない。やはり特徴的なのは文体である。いっけんめちゃくちゃに見えるが、その実一寸の隙もないくらい「出来上がった」文体である。前に紹介した『くっすん大黒』ではまだ物語に頼っている部分があって、読後の感想は「ちょっと変わっているけれども、生真面目なほどの日本文学」であったけれども、『きれぎれ』は、まったくといっていいほど町田康のオリジンで形成されている。はっきりいって、何を書いているのかよくわからないところがあるが、別にそんなことはいいのである。単純な文体の快楽、妙、粋というようなものが、そこに存在しているからである。解説の池澤夏樹にならって、ある部分を引用してみよう。

「やはりこの王国の現実の民草というものは大多数が愚民で、口当たりのよい言説はなんでもこれを食らい、紋切り型のロマン、月並みのファンタジーに酔い痴れる馬鹿豚が多く、あの船が馬鹿馬鹿しい、と思う人は実は少なくて、そういうことを云っていると偏屈と嘲られ嗤われ、孤独と絶望のなかで窮死するも知らんのだ、と思うからで、しかし馬鹿馬鹿しいものはやはり馬鹿馬鹿しいし、それに第一、あんな船を素敵などという馬鹿豚新田富子を妻にしたらどうなるんだろうか? 家庭内はありとあらゆる紋切り型・月並みの展示会場と化し、テレビを見て二人で笑い、近所のレストランで愚劣ランチ、珍乱弁当を食べるのだ。俺は絶対にそんなのは厭だ」

と、こういう具合である。
 なんでこんな文体が要請されたかといえば、現在の文学の行き詰まり、閉塞感を挙げねばならないだろう。まあ、端的には文学をどうやればいいのか、誰もが迷走している感がある。そのために、村上春樹や龍なんかは社会的なコミットメントをそれぞれの方法で説き、よしもとばななは不倫ネタばかりを再生産し、などなどの状況があるのだが、ある意味では文学のネタは単純なはずだ。すなわち、文学は文学を書けばいいのである。文学は文学を書けばいい、という言明は単純なトートロジーで、「文学」という主語は「文学」という述語から何の規定を受けていないため、論理的には無意味である。だが、その無規定性、無意味さこそ文学の一つの強みであったはずである。文学は文学である、だから文学である限り何をやってもよい。何をやってもいいとなれば、なにが文学を特徴付けるかといえば、結局のところ言語であり文字である。文学は何をやってもいい、ただしその媒介でありツールであるところのものは、つねに言語である。だから、文学をやるときの王道(ここで王道というのは、その周りには無数のわき道がありうるからである)は言語を鍛えること、ということになる。
 そういうわけで、『きれぎれ』の何がすごいかというと、この作品では言語であり文学であるところのものしか書いていないからなのである。言葉がすごい、ただこれでいいのである。
 が、である。町田康流の文学が、文学という領域においてメジャーになれるかというと、まずなれまい、とは思うのである。もし、この方向を突き詰めていったならば、きっとほとんど誰にもわからないような小説になってしまう。それは、文学者たちには受け入れられるものかもしれないが、より多くの圧倒的に多くの一般読者にはついていけないものになる。それはそれで、文学を貧困にさせてしまう。だから、『きれぎれ』は新しさと理解不可能の間、微妙なバランスの上に立つ小説だと、筆者は思う。はたしてその後町田康はどこに向かったのか/これから向かうのかを見てみたくはあるが、しばらくは町田康を離れ、他の小説を読んでいたいと思います。

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小川一水『老ヴォールの惑星』

2006-04-29 | 小説
 最近、なんとなく私的SFブーム。一時期はミステリーっぽいものを読むことのほうが多かったが、やっぱり自分はSF寄りの人間だったのかもと思う今日この頃。スタニスワフ・レムやカート・ヴォネガットなど、文学とSFの間を横断しているような作家も好きだし。

 さて、小川一水だが、今までに筆者は『復活の地』だけ読んだことがある。この小説は、映画化できるほどの大傑作長編で、筆者もけっこう楽しんだのだが、大時代的なテイストが少し肌にあわなかった。もっとも、作品の設定として関東大震災を用いたらしいので、そのせいかもしれない。『老ヴォールの惑星』もそんな大時代的なテイストが少しあったが、これは特に気にするほどでもなかった。この小説は中篇集なのだが、サバイバル物が多い。このテーマについては『復活の地』の影響が強いのかもしれない。楽観的過ぎず、悲観的過ぎず、話の最後に立派なオチがある点など、ヒマつぶしに読むにはうってつけの本だと思う。普通におもしろく、読み始めたら没入しやすいし。筆者は、条件付で『幸せになる箱庭』という一編が一番おもしろかったと思う。
 だが、この大時代的なテイストは小川一水に特有のものか、SFに不可避なものなのかは私的には考えてみたいテーマ。小川一水の文体自体がちょっと大時代っぽいのはある。しかし、SF自体に科学による人類・社会の進歩(進化)という大前提をもっていることは決定的な要素だろう。筆者のやっている「社会学」では、社会の進化というのは、バカにされるだけの考えだし。たとえば、N・ルーマンが社会の進化というのは、端的に社会に複雑な秩序が作られることで、どの社会が良くて悪いかということは問題にしない(社会学の対象にしていない)し、してはいけないくらいのなのである(文化差別になるし)。つまり、人類・社会の進歩(進化)という概念自体が近代に特有のもので、進歩(進化)という一直線的な運動が信じられなくなった今のポストモダン社会では、古く感じられて当たり前なのである。それでも、SFは技術や知識の積み重ねという一直線の運動を前提にしなければ、ありえないジャンルである。果たして、ポスト・モダンなSF小説とはいかにあるのだろうか。その答えをほとんど出しているのが、先述のスタニスワフ・レムやカート・ヴォネガットだろう。そのうちまたSF小説を読んだら、話の続きをしようかと思う。

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赤坂真理『ミューズ』

2006-04-23 | 小説
 今回は、至極簡潔に。
・『ミューズ』は赤坂真理が野間文芸新人賞を受賞した小説。
・母親に内緒でモデルのバイトをやっている女子高生が、歯の整形先で出会った妻子持ちの歯医者に恋をしかける。
・女子高生は、実は母が宗教の教祖みたいなことをしていて、過去の儀式とその失敗の経験から、セックスについて罪悪感をもっている。
・女子高生は、歯医者との恋愛とセックスを通じて、罪悪感を突破しようとするが、失敗してしまう。
・やたらとエロいが、女子高生は最後まで処女である。
・女子高生は「ミューズ」である。
・おもしろくない。
・なぜなら、女子高生は傲慢な被害者であり、そのように生きることをためらっていないからである。
・幸せになりたいなら、自分を大切に扱う一方で、自分をモノのように扱うことも必要である。

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田中康夫『なんとなく、クリスタル』「無意識、自然、さりげなさ…」

2006-04-08 | 小説
 現代日本文学の金字塔(!)、田中康夫『なんとなく、クリスタル』を読んだ。まあ、あまりおもしろくはないわな。大学生協でぱらぱらとページをめくったときには、左側が本文に対し、右側にその注釈(多くは、本文で言及されているブランドの説明)というつくりに噴出してしまったのだが。
 この小説は、一見、今でも新しいと感じるような感性で書かれている。そのテーマは、いわゆる「ブランド」も所属大学名などの社会的な肩書きも、みんなひっくるめて大きな<ブランド>というもので、社会と人間が動いていると。しかも、「なんとなく」(無意識に)何かを選ぼうとすると、自動的に<ブランド>をとってさえもするのだと。本文から印象的な箇所を引用しよう。「同じものを買うのなら、気分がいい方を選んでみたかった。/主体性がないわけではない。別にどちらでもよいのでもない。選ぶほうは最初から決まっていた。/ただ、肩ひじ張って選ぶことをしたくないだけだった。/無意識のうちに、なんとなく気分のいい方を選んでみると、今の私の生活(筆者注:ブランドに囲まれた生活)になっていた。」(新潮社文庫版、P54)
 こういった価値観は、今でも残っている。しかも、より徹底された形でだ。というのは、この小説は八十年代初頭の小説だが、八十年代後半、九十年代、二千年代と、例えば、『"無印"良品』に代表されるような、ノン・ブランド性を掲げた(つまり、イメージではなく、実用性、機能性を打ち出した(とは言え、そう打ち出すことがまた、新たにイメージ性を拡張するのだが))ブランドや、もっと言えば、生活様式が支持を獲得し、その規模を広げていったからだ。現在では、無意識さ、自然さ、さりげなさ、なんとなくさ、というものこそ、最強のブランドですらある(江国香織を見よ)。だから、現代では、ブランドうんぬんと語ることが、あまりにブランドばかりありすぎるばかりに、無意味になってしまうのである。そんなわけで、『なんとなく、クリスタル』は小説の形式としては、現在でも興味深いながらも、内容・テーマ的には、明らかに古いのである。
 あと、これは微妙な突っ込み。村上龍の小説ばりに、登場人物たちが自分の価値観を語りすぎ。以前は、筆者もこういうスタイルがかっこいいと思っていたが、現在では、語れてしまう「自分」というものに、かなり懐疑的である。

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町田康『くっすん大黒』について

2006-04-01 | 小説
 高橋源一郎が阿部和重の対談集『阿部和重対談集』(つまらないくらい、そのまんまのタイトルだ)で、「実は最近、小説はおもしろいんですよ」というようなことを言っていたので、今まで手をつけていなかったJ文学(山田詠美はこの呼び方を嫌っていたが)を読みはじめた。そこでまず手をつけたのが、町田康の『くっすん大黒』なのである。
 パンク文学と聞いていたので、どんなものかと敬遠していたのだが(筆者は「文学」は西欧のもののほうが好き) 、読後感は生真面目なほど「日本文学」的。新しいというよりも、懐かしいくらいの感覚だ。文体はわざわざパンクなんかというより、椎名誠あたりの昭和軽薄体に似ている。筆者は十代前半で椎名誠のエッセイを愛読したので(ちなみに椎名誠の小説は読めたものじゃないと思っている)、敬遠するほどのものでもなかったと拍子抜けしてしまったくらいだ。
 『くっすん大黒』には、表題作と『河原のアパラ』の二作が収められているが、話としてはダメ男が一発当てようとするわけだが、あえなく失敗。そして、なんの解決もないまま終わっていく、という単純なもの。とは言え、内に秘めた日文精神のおかげで、小説として上手く出来上がり、割りと良い感じ。多少、文学に興味のあるひとなら、安心して読めるだろう。だが逆に言えば、文体の目新しさという見た目で評価を稼いでいる感じなので、内容の新鮮さをもう一味欲しくもある。
 今度は、町田康の芥川賞作『きれぎれ』を読むつもりなので、その時にはまたレビューを。

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