リベラルとは何だろうか?リベラルというのは単純なようでいて実は非常に分かりにくかったりする。基本的にリベラルというのは語源からしても、既存の権威や社会構造、権力の介入と言ったものに反対するというのが基本的な立場だ。だから、色々な思想が別の形でリベラルだったりする。保守派というのはリベラルではない気がするかもしれにないが、大きな政府や福祉国家に反対し自由主義(リベラリズム)を信奉するという点でリベラルだったりする。現在の左派的な考えは伝統的な家族観や資本主義の中心的階層(資本家や経営者)に反対するリベラルと考えると分かりやすいかもしれない。
しかし、リベラルは既存の権威や権力に反対し、権力の介入に反対するが、実はリベラル自体が一つの権威や権力の形となって影響力を持つことがよくある。旧来の伝統的権威や国家に反対し、自分達の新しい権力構造を導入したりする。ギリシャにおいては伝統的な貴族制が否定され民主制が導入されたが、それは一部の者に選挙権が限定された民主制だった。フランス革命も王政という旧来の権力構造に反対したが、議会である三部会は全国民を代表しているわけではなかった。近代資本主義の下ともなったレッセフェールも、政府による介入に反対したが有力銀行化や産業家による管理は厳然としてあり、植民地支配の持続や二十世紀初めの独占的産業家の成長の元にもなった。
だから、リベラル=権威や権力、規制の否定、自由な社会という訳ではなく、リベラルというのは旧来の権威を否定するが別の集団による権威に変えただけであるかもしれない。結果として、新しい権力が社会を支配することもあるし、それに反対するさらなるリベラルが生まれたり、逆に不公平な支配に反対して国家などの中心的な権威への復古が起こったりした。アダム・スミスはイギリスの不十分な市場経済に反対し真の市場経済のために戦ったし、労働組合は資本家に対峙するリベラルなものとして始まったがそれは組合員以外を排除する制度でもあった。結果として、極右のような国家の元での平等を求める動きが反動として起こった。
このことを理解すれば、リベラルな人たちに率いられた共産主義が、中国において中国共産党幹部が他の人民を支配し、都市と農村との徹底的な格差社会を形成していることも納得できるかもしれない。リベラルといっても民衆を向くわけではなく、国家ではない一部の集団かもしれない。また、日本のリベラルが世界ではなく特定アジアにだけ向かっていることもこれで説明可能だろう。リベラルの弱点は真にリベラルではなく、無責任な一部の集団による恣意的な支配になってしまうことにあるのではないだろうか。