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車輪を再発見する人のブログ

反左翼系リベラルのブログ

インテリは伝統や極右が大嫌い

2009年01月11日 | 反左翼論

インテリや知識人といえば左翼で、伝統や極右が大嫌いというのが相場だ。理想主義的で、合理的に説明できないもの、普遍的でないものを嫌う、それがインテリや知識人というものだ。これは、日本に限ったことではなくて、ヨーロッパにおいても社会の中心に位置している知識人層の思考回路はそうで、特に極右に対しては徹底的な嫌悪感を抱いているといっていいだろう。

言い分は単純で、すべての人間を同じように扱わない極右のような差別主義は許せないということだ。しかし、問題は前回の記事でも述べたが左翼思想というのは、すべての人間を平等に扱おうという思想ではなく、市民と奴隷、都市民と農奴のように一部の選ばれた人間とそれ以外の人間を「差別して」扱う思想だったということだ。現在においてもそうで官僚や労働組合に守られている労働者貴族と、それ以外との間に非常な格差が存在している。だから、左翼思想は平等を掲げて極右を非難しているが、実は自分たちの行っている差別に対しては知らん振りをしているのだ。

これが、現在の日本において、戦前からヨーロッパにおいては、極右思想が大きな支持を受けている理由だろう。極右の支持者というのは低所得者層や貧困層等、本当の弱者が多く、左翼が差別し排除してきた最底辺の真の弱者の支持に多くをよっている。左翼が平等と称して、一部の人間の中でのみ権利の対等を主張した結果排除されたものたちが極右をもたらしたといってもいいかもしれない。

私は、極右思想家ではないが、左翼を支持してはもっといない。現在の多くの左翼勢力が平等を無視して、一部の特権階級のものになっている現状をうれいている。そして、今の日本には本当に自由や平等を信じる勢力が必要ではないかと考えている。

左翼という差別主義に反対の方はどうぞご協力を。


ヨーロッパ人に見る左翼思想

2009年01月11日 | 反左翼論

人気ブログランキングに登録したので、今まで述べてきた自分の考えをまとめつつ振り返ってみています。このブログが気に入ったらランキングに協力お願いします。

前回は左翼思想は平等な社会をもたらさなかったという話をしたが、これはヨーロッパ社会の歴史を見てもわかる。古くはギリシャ・ローマから中世をへて近代に至るまで、ヨーロッパには平等な社会や、万人が自由な社会は存在しなかった。常に存在したのは、市民と非市民に隔てられた不平等で抑圧的な社会だった。ギリシャ・ローマにおいては奴隷制が使われ、中世においては農奴が多数を占めた。都市が生まれ都市民が生まれて以降も、都市市民とそれ以外との隔てられない格差が社会を隔てていた。つまり、ヨーロッパにおいては歴史上ずっと不平等な社会が続いてきた。

しかし、このヨーロッパ社会の思想的中心はとてもリベラルなものだった。リベラルは左翼的と表現してもいいかと思うが、自由や平等や権利を主張し、恣意的な統治や専制に反対するものだった。だが、この左翼的な思想の元で非常に不平等で抑圧的な支配が続いた。どうしてだろう。

理由は、自由や平等、権利といったものが一部の者だけを保護する思想として存在したからだといえると思う。ギリシャ・ローマにおいては、それまでの貴族制に反対し市民が力をもったが、市民とそれ以外とを隔てる基準が作られ、市民以外には選挙権等の権利が与えられなかった。中世の封建制度においても、封建領主は王から独立していたがそれは農奴を絶対的に支配する権利を有するということを意味した。都市においても、都市民になるには権利が必要でそれをもたないものを排除していた。

つまり、ヨーロッパにおいて自由や平等、権利というものは全員のものではなくて、一部の特権階級のものであり、その特権階級とそれ以外を隔てるものとして存在していたのだ。市民というのも、すべての民衆が同じ権利を持つことを主張するものではなくて、市民と非市民に分けたうちの市民が非市民を奴隷として絶対的に支配することを意味した。その意味で、中国共産党がチベット等の少数民族を支配し虐殺する社会を支持する人たちが、「市民団体」を名乗っており、その活動家たちが「プロ市民」と呼ばれるのは皮肉である。

 

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左翼思想という差別主義

2009年01月10日 | 反左翼論
ブログランキングに登録してみました。

なぜ左翼は失敗したのか?これは、なぜ共産主義は失敗したのか、なぜ社会主義は失敗したのかと言い換えてもいいかもしれない。共産主義は、悲惨な圧制をもたらし、ロシアや中国は言論の自由がなく、不平等で官僚という特権階級が支配する社会だ。社会主義的な思想も日本・ヨーロッパにおいて平等な社会をもたらすことに失敗した。

理由を一言で言えと言われたら、私はそもそも左翼は平等を信奉していなかったからだと答えるだろう。この意見には違和感を感じる人もいるかもしれないが、左翼が平等を信奉していないというのは事実である。共産主義国においては、慢性的な不平等がまかり通っていることはもう皆が知るところとなっているし、中国が都市民と農民とに別れた最も差別的な身分制度を保持してきたことは有名だ。また、先進国において左翼的な思想におかされた労働組合は、一部の労働者の特権的な権利を主張し社会全体の平等の妨げとなっている。つまり、社会主義国においても資本主義国においても、左翼思想は平等をもたらすことに失敗したのだ。これは、そもそも左翼思想が平等を信奉していなかったと考えるとすっきりするだろう。

言い方を変えれば、左翼思想というのは一部の人たちの特権的平等を求める思想だったといえるかもしれない。こう考えると、現在の状況を説明するのにわかりやすい。日本において、左翼の基盤となっている労働組合は、組合員の権利を要求しその結果他の非正規労働者や失業者との間の大きな格差を作り出してきた。これは、ヨーロッパにおいても同じことが言える。一度雇用された労働者の権利が過剰に保護されたために、雇用が減少し高失業率が生まれた。つまり、左翼思想は社会全体ではなく一部の身内内の平等を主張し、特権を要求してきたといえるだろう。

だからこそ、左翼思想は平等な社会を実現することに失敗し、特権階級の思想でしかなくなったといっていいだろう。そのため、現在の社会は本当の平等主義を信奉する思想を必要としているのではないだろうかと、私は考えている。

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前の記事について補足

2009年01月07日 | 反左翼論
アジアの真実でこれを知ったので補足

坂本総務政務官が“派遣村発言”を撤回・謝罪:読売

記者会見で頭を下げる坂本総務政務官(6日午前、総務省で)
 坂本哲志総務政務官(自民、衆院当選2回)は6日午前、総務省で記者会見し、東京・日比谷公園に開設された「年越し派遣村」を巡り、「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まっているのか」などとした5日の発言を撤回し、謝罪した。

 坂本氏は「多くの皆様にご不快な面、迷惑をおかけした。発言を撤回させていただき、関係者に深くおわびを申し上げたい」と、頭を下げた。発言の意図については、「雇用状態が深刻かもしれないが、それじゃないような方も(派遣村に集まった人の中に)いるのではないかということが頭をよぎり、実態をよく把握しないまま発言した」と釈明した。野党からの辞任要求に対しては、「地方の雇用状態、経済的な疲弊をずっと見て感じてきた。地方をもっと活性化していく意味で職責を全うしたい」と述べ、辞任する考えがないことを強調した。

 河村官房長官は6日午前の記者会見で、坂本氏の発言に関し、「職を失って本当に困っている実態があることを考えると不適切だ。十分配慮が必要だと注意した。思いを新たに精励していただきたい」と述べた。

 坂本氏の発言撤回について、民主党の山岡賢次国会対策委員長は6日午前、国会内で記者団に、「撤回したといっても、本音だろうから、政務官としてふさわしくない。解任を要求していく」と語った。(以上引用)

だそうです。求職者ではない、極左活動家がいたってことなのね。なるほど、そうですか。

ネオリベと社会主義者 その2

2009年01月02日 | 反左翼論
前回の記事で、市場主義者が労働組合等との妥協で完全に自由競争的でないものを支持したと書いた。このような妥協が受け入れられた理由は、不完全であったとしてもそれなりに機能し、市場の優れた点が現れると考えられたためだ。つまり、100点満点ではないかもしれないが、80点くらいの結果が出るのではないかと考えられた。そのため、このような考えは支持されたし、このような考えに反対するものは徹底的に非難された。

つまり、労働組合が存在することの悪影響が非常に少ないか、まったくないと考えられた。まったくないと考えると、労働組合が存在すると労働者の権利が保護されるというよい影響のみしか起こらないことになる。すると、労働組合は絶対的な善である。つまり、労働組合等の市場の完全性を妨げるものがわずかな悪影響しか与えない、あるいはまったく悪影響を与えないという前提を置くと、労働組合はいい影響ももたらすので尊重しなければならないし必要だということになる。

この考えに立てば、必然的に大企業の労働者の雇用が危機に立ったときには保護しなければならないし、派遣労働者が貧困に苦しんでいるときは蹴り飛ばさなければならない。しかし、ここで重要なのはこの考えは労働組合等はほとんど市場に悪影響を与えないという前提に基づいているということだ。

問題は、本当に労働組合や植民地への介入が市場にほとんど悪影響を与えないのかどうかということだ。労働組合を考えると、組合員の雇用を保護しようとするとほかの部分で企業は対策を取らなければならない。そうした場合、そのほかの部分に全体の修正の影響が集中すのではないかというのが大きな問題だ。それ以外の問題にしても、一部が市場的でない状態で他の部分を市場的にすることは優れているのだろうか。例えば、奴隷制の元で自由に賃金を決めていいということがよい結果をもたらすだろうか。資源が独占されている状態で自由に価格を決めていいという状態がいい結果をもたらすだろうか。このようなことを考える必要がある。

ネオリベと社会主義者

2009年01月02日 | 反左翼論
赤木智弘氏の深夜のシマネコblogより
少し前の記事だけど、おもいっきり笑ってしまったので

●今回の金融危機を見てると、結局ネオリベってこういうことだよね。

・中小企業が倒産し、弱者が貧困にあえぐとき
「自由経済上での競争の末に破れたのだから自己責任。福祉や救済など甘えに過ぎない」

・大企業(特に金融にからむ)が倒産するとき
「大企業の倒産を許せば、中小企業や国民生活に多大な影響が及ぶ。じゃぶじゃぶ公的資金を投入し、急いで大企業を救済するべきだ。大企業のトップはがんばったので、その責任を問うてはならない。嫉みによる批判は甘えに過ぎない」

 僕には、ネオリベ論者と、社会主義者の区別がつきません。
以上、深夜のシマネコblogより

ネオリベと社会主義者の区別が付かないってことだけど、このような状況は昔からの問題だ。現在の学問の世界の新自由主義者にとって、日本の新卒一括採用と年功序列終身雇用が労働市場を歪め、競争を阻害して、非常に大きな問題になっているというのは一致した見解だ。歴史的に見ても、ハイエクやフリードマン等の大御所は市場競争を主張しつつ、教育クーポンや機会の平等など弱者救済の積極的に推奨している。19世紀においても、アダムスミスは一足先に自由競争の原理のもと奴隷制や束縛的な労働、政府や大商人により恣意的な市場の管理に反対してきた。

しかしながら、現実の政治においてはまったく逆だった。政治の世界においては労働者の保護や市場の規制を主張する勢力も存在しているので、妥協が必要だった。現在の政治の世界で、完全な市場主義を主張し労働組合による保護に反対したら一瞬にして政治の世界から抹殺されるだろう。アメリカや、昔のヨーロッパにおいても同じで露骨な市場至上主義は主張できなかった。

結果として、労働組合などや植民地に対する介入などは、市場に悪影響を与えずいい影響のみを与えるという意味不明な思想的な妥協が行われた。このようにすれば、労働組合などが反対しない分野においては自由主義的な考えが尊重されるため市場主義者にとっても納得できるし、保護主義者にとっても自分の特権は保護されるから不満はなかった。つまり、力関係に基づく政治的な妥協の代物だったと言える。

このような政策は、新自由主義的な見方からすれば一部を除いて自由主義的な思想に基づく政策が行われるため市場の恩恵を受けることが出来る優れた政策であるはずだった。つまり、部分的に不完全かもしれないが市場主義的ではあるために多くのよい点があり全体としてはいい結果をもたらすはずだとされた。だから、純粋な市場主義者の中にも支持する人がいたし(アダムスミスは反対した)、労働組合等に気を使う人たちは積極的にこれを支持した。

だから、赤木智弘氏が聞くようなネオリベの主張というのは社会主義的な考えを持っている人が唱えている、ネオリベラリズムだといえるだろう。ネットの世界で言うと、元極左である坂眞氏のような人たちだ。本当の新自由主義者はそんなことを主張したりしてはいない。

戦争犯罪断罪に見る感情論

2008年12月17日 | 反左翼論
第二次大戦前、現在のアジア・アフリカ・ラテンアメリカ・中東の国々はヨーロッパ諸国の植民地にされ搾取されていた。それが現在の貧困、低成長、紛争の原因となっている。

この現状に対して途上国がヨーロッパ諸国を非難した時の典型的な反応は「植民市支配が原因とは限らないだろう、お前たちが怠惰だから停滞しただけだろ、努力しろ。」と、今日本で使われている言葉一言で言ったら「逆ギレ」で返される。

それに対して、日本が起こした戦争犯罪に対しては、徹底的な行われてきた。それに反対することが、許されない理由は如何なる反対であったとしても反対するということは起こした戦争犯罪を美化するものと解釈されるからである。日本以外でも、ナチズムの犯罪は全否定され続けてきた。また、9.11テロ以降、イスラム過激派のテロ攻撃に対して、寛容な姿勢を取ることは許されない雰囲気がある。

何らかの被害を加えた事柄に対する反応なのにまったく対極的である。片方は、被害にあった側が徹底的に糾弾され、もう一方では加害者が永遠と全否定される。他の要因を考慮し、物事を総合的に判断すれば、被害者の側に落ち度があったかもしれないので非難することは許されなくなる。逆に、被害を与えたことに反対することが、被害を与えたことを否定する行為と解釈されれば、ほんの少しの反論であったとしても徹底的に弾劾されることになる。

二つの違いは、片方は他の要因を考慮したとみなされるのに対してもう一方はそれ自体を否定したとみなされることだけである。他の要因を考慮する場合においては、全部を考慮して完全であることが求められる一方、それ自体と同じものとみなしていいとされた場合には、かなりかけ離れたことであったとしてもまったく同じものと扱われ、それに反論することは許されない。

同じことは、現在の移民政策の議論においても通用する。移民に反対するものは、国家や国民を大事にするべきだと主張する。しかし、国民という限られたものだけで物事を考えることに移民を推進する者たちは反対する。他の人間が存在するか他の意見も聞くことを要求するのだ。だから、国内のことであったとしても国民によって決定されることに断固として反対する。

しかしながら、移民を主張する人たちはすべての国境をなくしさらには労働の移動の妨げになっている労働組合等の国内的な障害をすべて取り去ることを要求したりはしない。国内の障壁をそのままにし、移民を一部受け入れることを要求するのだ。随分と特殊で変な主張だ。しかし、移民を主張するものにとって、これは国際貢献や差別に反対することに属する重要なことなのだ。だが、移民に反対するものにとっては、なぜこんな特殊な方法を主張するのか理解に苦しむところだろう。国際貢献の方法は他にもいっぱいあるのに国内の人たちに大きな犠牲を伴うこんな特殊な方法をなぜ主張するのだろうと。

国民を大事にする国家を愛するということと国際的に重要な責任を果たしたい国際貢献もしたいということを両方大事だと考える人は多くいるだろう。この二つは完全に両立は不可能かもしれないが、多くの点で両立していくことが可能な二つの理念である。だから、この二つを上手く折り合いをつけつつ実現していこうという主張は極々まともである。

しかし、移民を主張する人は国民を大事にすることを差別的として否定するだけでなく国際貢献においても自分が選んだ特殊なもの意外は認めないようなのである。なんとも特殊な主張だと感じるのは私だけだろうか?

続く

左翼とリベラル

2008年12月08日 | 反左翼論
なぜ、左翼思想は失敗したのだろうか?私がそれを一言で表現するならば、平等を信奉しなかったからだ。これが左翼の失敗の本質だ。

左翼しようといえばリベラルで理想主義的な平等や人権といったものを想像する人も多いかもしれないが、現在の日本の左翼をはじめとする世界の多くの左翼思想の源流は平等主義的な理想主義とは関係がない。

歴史的に見ればなぜ左翼は平等をもたらさないのかがわかりやすいだろう。現在の左翼思想は古代アテネ・ローマの時代から現在のヨーロッパ社会にいたるヨーロッパのリベラル思想に思想的な源流がある。しかし、このヨーロッパの伝統的なリベラリズムというのは平等主義ではなく、まったく逆の差別主義なのだ。

古代アテネにおいて最初は貴族制が敷かれていた。それに反対して市民たちは自分たちにも権利を分け与えることを要求した。しかし、同時に下層の選挙権を持たないものの権利を徹底的に剥奪することを要求した。つまり、これまで貴族を頂点として、緩やかな階級性社会だったのを市民と奴隷からなる全人格的服従を要求する社会へと移行することを要求した。この構図は、古代ローマに引き継がれ、中世の封建社会にも受け継がれていった。

つまり、左翼思想の源流というのは平等主義ではなく、市民と奴隷とに分けることを要求する徹底的な差別主義なのだ。だから、左翼思想に支配された労働組合が組合員とそれ以外とに分かれた階級社会を作り出したことは全然不思議ではないし。共産主義国家が、一部の高級官僚とそれ以外との徹底的な格差を持ち、中国が最後の都市民と農民に分けられた身分制社会であったのも当然のことだ。

つまり、左翼思想の本質とは平等ではなく身分制社会なのだ。このように考えるとわかりやすい。

アジアの真実より

2008年12月07日 | 反左翼論
私が結構良く見ているアジアの真実の記事より、改正国籍法の話だけど「とうとう成立してしまいました。成立は予想されていましたので、今になって特段驚くことはありません。それより驚いたのは、この法案成立を見越して、既に130人も日本国籍を取得しようと列をなしていることです。対象となるのは数万人とも言われますが、法案成立前に並んでいるのが既に130人。今後のことを考えるとゾッとします。さらに、対象者は今国内にいる外国人だけに限らないのです。」

ということだけど、まあほんとに左翼的差別主義者の思考回路が良くわかる話だ。左翼というのは似非理想主義者だからほんのわずかな格差や区別も許せない人たちだ。しかし、その一方で自分が合理的だと判断した差別に対しては異常なまでに寛容だ。

だから、国民とそれ以外で違う基準が使用されることが許せない。しかし、すべての場所ですべての事例で平等を目指すわけじゃない。今の場合は、日本の国籍法のここにおけるほんの少しの不平等も許せないだけなんだ。移民制度においても国境をまったくなくせとか、労働組合他のすべての労働の移動の自由を規制しているものをなくせと主張したりはしない。自分たちにとって都合のいい部分だけ平等に扱えと主張している。結果として、恣意的に選ばれた一部の部分だけで別の基準が使われているだけだ。

国家として国民を大事にすることは一理あることだ、また世界中のことを考えて行動することが大事だというのにも一理ある。しかし、一部の国民や外人だけを考えようといったらどうだろう。えらくおかしな主張だと感じる人が多いだろう。これが、左翼の差別的な平等主義だ。自分たちにとって都合のいい場所においては異常なまでに完全でないと納得できない。しかし、別の場所においてはいかに悲惨な差別が存在したとしてもまったく気にもならない。だから、左翼は理想を掲げつつ中国共産党と北朝鮮という独裁国家を崇拝し続ける

左翼は、自分が考える範囲でのほんの少しの差別も許せない。しかし、自分が違うと考えればどれだけ差別が存在しても気にならない。結果として、左翼は身分制社会を信奉せざるを得ない。奴隷と主人とからなる社会を目指さざるを得ない。これこそ、ヨーロッパが何度も辿ってきた道だ。だから、ヨーロッパを起源とする理想主義が身分制社会しかもたらすことができなかったのは不思議でもなんでもない。

そして、奴隷制や徹底的な差別に反対するものたちを差別主義者として弾圧し差別を絶対的な善として確立しようとしてきたんだ。