人間誰にでも、師と仰ぐ人はいるだろう。
それが何人いるのか、どういう人を師と仰ぐのかは様々。
師と仰ぐからには、人生の先輩であることが多く、出会いは喜びであるが別れは悲しみとなる。
学生時代から、私が師と仰ぐ人物が逝った。
まだ58歳の若さ。
先が長くないのではないかと言う話は1年ほど前から聞いていたが、そのころの様子を知っているだけに、今でも信じられない。
その師との出会いはもう10年以上前の話になる。
学生時代のことではあるが、今の人生を決定付けるような出会いだったかもしれない。
当時、大学だけの学生生活に飽き足らずひたすら外を目指し新しいものを吸収しようとし続けた私が飛び込んだボランティア活動の場に師がいた。
師の言葉は刺激的で示唆に富み、全てを吸収しようとする私にとっては大変大きな存在だった。
しかし、思えば、当時は自分が余りに幼く、師の言葉に納得しつつも、次第に反発を覚えるようにもなっていった。
そんな私は、あるとき師と袂を分かつことになった。
出会いから3年ほどが経ったころだった。
その原因はすごく単純なもの。組織の作り方や動かし方の方法論をめぐって、意見に折り合いがつかなかったという、ただそれだけだった。民主的な組織構造を作ろうと、意見交換が自由に行える組織構造を作ろうとがんばってきたつもりだった自分にとっては、組織の立ち上げからずっと関わりを持ってきた師がうっとおしかったのだ。その組織自体が師の力によって持っているということも知りながら、そのことに嫉妬していただけなのかもしれない。
その後、社会の波にもまれながら自分の幼さを思い知らされ、師や当時の事を色々と思い出す中、2年ほど前偶然にも師に再会する機会を得た。
自分にとってはとても大きな存在であった師との再会は望んでも望みきれないものだったのに、こうやって実現できたことは、大きな出来事だった。
しかも、師に対して迷惑ばかりかけていた私が何の非難もされず、昔のことなど何のことかとばかり、普通に接してくれる師の存在。私は今でも当時の自分の幼さを恥じるばかりだが、そんなこと一切気にしていない師には、ただただ敬服するのみである。
そんな師から半年ほど前もたらされた電話「おれなぁ、末期の癌なんだよ。今電話だから元気そうに聞こえるかもしれないけれど、かなり調子悪くて・・・。
何か難しい問題があったら、○○(当時のボランティアの会長。私は副会長だった。)に鈴木のところに連絡して相談しろって言ってあるから、よろしく頼むよ。」
そんな話だけだったのだが、自分のことを気にかけてくれていると言う、ただそれだけで自分の小ささを思い知らされ、胸が熱くなったことを思い出す。
そんな師の言葉どおり、当時の会長は私宛に連絡をくれた。師と袂を分かって以来、既に8年は経っていて、そのとき全ての関係者との縁を切ったので、声を聞くのは本当に久しぶりだった。それなのに、昨日のことのように当時のことが思い出されるのは不思議なものだ。
その電話は、声があまりに落ち着いている。
そう、それは一番聞きたくない現実を伝えるためだった。
「○○さん、死んじゃったよ。」
あまりに早すぎる死。
まだ自分の中でこのことを受け入れられないでいるのがわかる。
自分のライフワークとなる外国人との関係や、物事の考え方など多くを学んだ師との別れは余りにあっけなかった。
まだまだ話したりないことはたくさんあった。
本当に困ったときには力添えをして欲しいと思うこともあった。
これまでの自分のなかでどこか心の支えになってくれていたことへの感謝も伝えたかった。
最近、自分の身の回りで色々なことが起きていて、冷静でない自分がいるのを分かっているのだが、この事実をどう受け止めたらよいのだろうか。
正直なところ、今の仕事ですら、師に道しるべを付けてもらったようなもの。
師の志をどう受け継いでいったらよいのだろうか。
それが何人いるのか、どういう人を師と仰ぐのかは様々。
師と仰ぐからには、人生の先輩であることが多く、出会いは喜びであるが別れは悲しみとなる。
学生時代から、私が師と仰ぐ人物が逝った。
まだ58歳の若さ。
先が長くないのではないかと言う話は1年ほど前から聞いていたが、そのころの様子を知っているだけに、今でも信じられない。
その師との出会いはもう10年以上前の話になる。
学生時代のことではあるが、今の人生を決定付けるような出会いだったかもしれない。
当時、大学だけの学生生活に飽き足らずひたすら外を目指し新しいものを吸収しようとし続けた私が飛び込んだボランティア活動の場に師がいた。
師の言葉は刺激的で示唆に富み、全てを吸収しようとする私にとっては大変大きな存在だった。
しかし、思えば、当時は自分が余りに幼く、師の言葉に納得しつつも、次第に反発を覚えるようにもなっていった。
そんな私は、あるとき師と袂を分かつことになった。
出会いから3年ほどが経ったころだった。
その原因はすごく単純なもの。組織の作り方や動かし方の方法論をめぐって、意見に折り合いがつかなかったという、ただそれだけだった。民主的な組織構造を作ろうと、意見交換が自由に行える組織構造を作ろうとがんばってきたつもりだった自分にとっては、組織の立ち上げからずっと関わりを持ってきた師がうっとおしかったのだ。その組織自体が師の力によって持っているということも知りながら、そのことに嫉妬していただけなのかもしれない。
その後、社会の波にもまれながら自分の幼さを思い知らされ、師や当時の事を色々と思い出す中、2年ほど前偶然にも師に再会する機会を得た。
自分にとってはとても大きな存在であった師との再会は望んでも望みきれないものだったのに、こうやって実現できたことは、大きな出来事だった。
しかも、師に対して迷惑ばかりかけていた私が何の非難もされず、昔のことなど何のことかとばかり、普通に接してくれる師の存在。私は今でも当時の自分の幼さを恥じるばかりだが、そんなこと一切気にしていない師には、ただただ敬服するのみである。
そんな師から半年ほど前もたらされた電話「おれなぁ、末期の癌なんだよ。今電話だから元気そうに聞こえるかもしれないけれど、かなり調子悪くて・・・。
何か難しい問題があったら、○○(当時のボランティアの会長。私は副会長だった。)に鈴木のところに連絡して相談しろって言ってあるから、よろしく頼むよ。」
そんな話だけだったのだが、自分のことを気にかけてくれていると言う、ただそれだけで自分の小ささを思い知らされ、胸が熱くなったことを思い出す。
そんな師の言葉どおり、当時の会長は私宛に連絡をくれた。師と袂を分かって以来、既に8年は経っていて、そのとき全ての関係者との縁を切ったので、声を聞くのは本当に久しぶりだった。それなのに、昨日のことのように当時のことが思い出されるのは不思議なものだ。
その電話は、声があまりに落ち着いている。
そう、それは一番聞きたくない現実を伝えるためだった。
「○○さん、死んじゃったよ。」
あまりに早すぎる死。
まだ自分の中でこのことを受け入れられないでいるのがわかる。
自分のライフワークとなる外国人との関係や、物事の考え方など多くを学んだ師との別れは余りにあっけなかった。
まだまだ話したりないことはたくさんあった。
本当に困ったときには力添えをして欲しいと思うこともあった。
これまでの自分のなかでどこか心の支えになってくれていたことへの感謝も伝えたかった。
最近、自分の身の回りで色々なことが起きていて、冷静でない自分がいるのを分かっているのだが、この事実をどう受け止めたらよいのだろうか。
正直なところ、今の仕事ですら、師に道しるべを付けてもらったようなもの。
師の志をどう受け継いでいったらよいのだろうか。