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《『宮沢賢治と法華経について』(田口昭典著、でくのぼう出版)の表紙》
ではここからは〝第三章 農学校教師時代〟に入る。
この章は、まずは〝◎花巻へ帰宅し稗貫農学校教諭となる〟という節で始まる。そしてここには、例の「トシビョウキ スグカヘレ」の電報があって急遽帰花したということが述べられていた。このことに関連しては前に〝「トシビョウキ スグカヘレ」という電報〟において既に触れたことであるが、ここで興味深かったことは、
賢治は父が日蓮宗に改宗するまでは帰らぬつもりでの上京であったが…(投稿者略)…花巻から度々帰宅するようにとの便りがあったようだが、賢治は帰るきっかけをつかめないでいた。幸か不幸かトシの発病によって賢治が救われたのである。
〈『宮沢賢治と法華経について』(田口昭典著、でくのぼう出版)142p〉と田口氏は推測していたことである。それはたしかにあり得ることだ。なぜならば、「賢治は一つのことがあまり長続きせず、大体7~8ヶ月間が過ぎるあたりでそれは終わりを迎えてしまう性向がある」<*1>し、その期間が迫っていた頃だからである。ちなみに、この帰花の時期は確定していないということだが、『新校本年譜』によれば「(大正10年)八月中旬~九月初旬」というから、まさにその「7~8ヶ月」になんなんとしていた。
なお田口氏によれば、
国柱会との縁が切れたわけでなく、国柱会機関誌「天業民報」(三五四号)大正十年十一月十五日付の「虔祝田中先生之還暦」祝賀広告に、賢治の名前が關徳彌と共に掲載されている。
〈『宮沢賢治と法華経について』(田口昭典著、でくのぼう出版)143p〉ということであり、帰花の主たる原因は少なくとも国柱会から脱会するためであった、ということではなかったようだ。
<*1:投稿者註> 大体7~8ヶ月間の具体例としてはこの他に、
・羅須地人協会は大正15年のお盆に発足を計画、その終焉が翌年の4月(四月一〇日(日)「昭和二年度第一小集を開催)頃だからその期間約7~8ヶ月間
・「東北砕石工場花巻営業所長」としての営業活動も7ヶ月ほどが経った頃の、昭和6年9月の家出ともとれる上京
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