岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

賢治の法華文学

2018-03-18 09:00:00 | 賢治と法華経
《『宮沢賢治 その理想社会への道程 改訂版』(上田哲著、明治書院)》
 さて、田中智学は文学にも深く関わっていたこと知ったし、文才もあったということも知った。さりながら、智学の場合の文学とは教化や布教の為のものであったであろうことは、上田の次のような言説からも覗える。
 賢治の法華文学は、高知尾が<田中智学先生から平素教えられている>ような信仰箇条があからさまに表面に出ている教化の方便、布教の手段としての文学ではなかった。
             〈『宮沢賢治 その理想社会への道程 改訂版』(上田哲著、明治書院)57p〉
 ではそれはどのようなものであったかというと、これに続けて、
 童話であろうが、心象スケッチであろうが、短歌、俳句であろうが、法華経の<信仰をもった作者が、その信仰のやむにやまれぬ発露として表現された芸術作品>だったのである。
と、上田は高知尾のことば(=〝<  >〟内の部分がそれ)を借りて断じていた。

 その具体的な例として、次のようなことを挙げて、
 賢治は宗教者として、彼岸=死後の世界を信じていたであろうことは確かであるが、彼は現世逃避的に極楽浄土のみ希求しているのではなく死後の円満な仏の世界の現世への反映地上天国の実現、つまり社会改造を強く願っていたのである。
 「銀河鉄道の夜」の中に、天井へ行くために途中下車しなければならず、ジョバンニとの別れを惜しむ女の子に対し、<「天上へなんか行かなくたっていゝぢゃないか。ぼくたちこゝで天上よりももっといゝとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」>という場面がある。
 ここは、賢治の地上天国建設の意が託されているのではなかろうか。この場面の<こゝ>は<天上>ではないが、地上とも違う異空間ということになっているけれども、この部分を書いたときの賢治にとってあまりそのようなことは念頭になく<こゝ>は、現在自分が居るところという意をこめてのものであったのではかかったか。…(投稿者略)…<僕の先生>というのは田中智学を指しているのではなかろうか。
             〈同60p~〉
と考察していた。今までの私は仏教や法華経に対しては拒絶反応を示したきたがそれもほぼ薄れ、理崎啓氏の著作に接したことによって少しだけだがそれらが解りかけてきた気がしている。それゆえにだろうか、賢治は現世(娑婆)に理想郷仏国土を創ろうとしていたのではなかろうかと私も思えるようになってきたし、その一つが羅須地人協会であったのではなかろうかと推測するようにもなったから、上掲の上田の考察については結構納得できるようになった。

 ということで、今回で上田の『宮沢賢治 その理想社会への道程』に関わる投稿はそろそろ終わりにしたい。ただし、上田は
 賢治と国柱会のかかわりは今後もっと究めていかねばならない重要な研究分野である。いままで余りまとまった研究はなく管見の範囲では本質な面の追求をしたものとしては佐藤勝治の書いた『宮沢賢治の肖像』をいまでに出るものはないように思う。
             〈同85p〉
と述べていたので、次回はこの『宮沢賢治の肖像』をちょっとだけ読み直してみたい(正確には私は同書を所蔵していないので、それと同じ内容が佐藤勝治の『宮沢賢治入門』(十字屋書店)の第一部にあるというので、それで代用するのだが)。

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