岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

祝祭性

2018-03-20 09:00:00 | 賢治と法華経
《『宮沢賢治 その理想社会への道程 改訂版』(上田哲著、明治書院)》

 先の投稿〝田中智学の文学作品〟において、山口昌男の『敗者学のすすめ』から引いたが、その折に同書の中にあった「祝祭性」という用語が気になったので、今回はそのことについて次に少し触れてみたい。

 実際には、牧野立雄氏のインタヴューに山口氏が答える際の次のようなやりとりの中でのことである。
山口 僕は石原莞爾について書いたときに田中智学という人物の面白さに改めて気付いた。田中智学は、いわゆる教養派には属さない。…(投稿者略)…また、精神主義とか、終業主義とかとも違う。いわば、それらのどこにも入り込まなかった青年たちを田中智学は引きつけて。つまり、行の力を身を以て体現しえた人というイメージを持っていた。
牧野 法華経の行者というイメージですね。
山口 それもあるけど、実は、田中智学は生粋の江戸っ子でね、江戸の真ん中、日本橋石町の生まれで…(投稿者略)…江戸町町人的な教養を徹底的に身につけていた。長唄や端唄、そういうのは自分で詞をつけ、テキストも書いた。それから、設計の素養もあって、静岡県の三保松原に五層楼閣の最勝閣を建設したときのデザインや造園なんかも自分でやっている。それが、一流の建設家ガックリくるほどのいいデザインだったという。…(投稿者略)…
牧野 信者を集めて行う春と秋の年会なんかでも慈善市や模擬店がならんだり、花火を打ち上げたり、お祭り的な賑やかさがあったということです。
山口 パフォーマンス性が高かったし、田中智学は、俗に生きるということ、自分たちの行のために生きるということを切り離していなかった。同じ空間でそれが可能だということを示していた。…(投稿者略)…
牧野 まさに聖俗一致ですね。
山口 江戸っ子のお祭り感覚があってね、祝祭的な感覚で回りを巻き込んでいった。国柱会で、法要儀式を定める場合も自分でデザインし、儀式を非常にカラフルにした。すべての節目を祝祭化するという感じがあった。…(投稿者略)…宮沢賢治の初期の童話の中に出てきてその後消えた「山男」、ああいうふうな存在を都会に移すと、こういうふうな人間になったんじゃないかなという感じがする。その後の価値基準ではかれないから、マイナスの記号<*1>をつけて歴史の彼方に退けられてしまったわけだけど、田中智学の身についたパフォーマンス性や祝祭的な面を、宮沢賢治は見たり聞いたりしていたと思う。
            〈『敗者学のすすめ』(山口昌男著、平凡社)279p~〉

 最初に「祝祭性」という用語を見たときは、一体なんのこっちゃと思ったが、少しだけ分かってきた。そして、大正15年4月1日付『岩手日報』の記事で賢治が記者の取材に対して、
 そして半年ぐらゐはこの花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたいものです、そこで幻燈會の如きはまい週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月一囘位もよほしたいとおもつてゐます
ということや、昭和2年2月1日付『岩手日報』の記事で、
 同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである、目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画
と答えていたことを思い出せば、たしかに賢治にもかなり「祝祭性」があったということが、私にもおぼろげながら分かってきた。
 
 それから、「初期の童話の中に出てきてその後消えた「山男」」とは、童話『山男の四月』のこの「山男」のことだろうから、それは『宮沢賢治必携』(佐藤泰正著、學燈社)によれば、
    初稿の執筆は大11・4・7
とあるから、それは大正10年1月のあの家出の後の執筆だから、賢治は家出の際に、
    それこそ「都会に移された、ああいうふうな「山男」」、つまり田中智学
にかなり影響されてこの童話を書いたということは十分にあり得るし、そこで「ああいうふうな「山男」」を登場させたということもまた、である。
 のみならず、山口氏は「田中智学の身についたパフォーマンス性や祝祭的な面を、宮沢賢治は見たり聞いたりしていたと思う」と推測しているが、実際に賢治はそれらを真似ていたということも十分にありうるのではなかろうか。それは、前掲の『岩手日報』の二つの賢治に対する取材記事における、賢治の「祝祭性」を内包した回答がずばり示唆していると私には見えるからである。 

<*1:投稿者> 同書の276pにおいて、山口氏は田中智学について、
    敗戦後、右翼だってことでマイナスの記号をはられてその存在が忘れられてしまったね。
とか、同じく277pでは、
 宮沢賢治の研究者も、日蓮主義というとヤバイから、田中智学の影響は少なかったというふうに言いたがっている。…(投稿者略)…だけど、田中智学は右翼にない身体的教養をごっそりと身につけていた。そうかんたんにマイナスの記号をはって退けることができないし、宮沢賢治の動き方を見ると、田中智学のアイデアからヒントを得ていると思う。
と先だって述べており、それを受けたものである。

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