吉澤がモームスを脱退するそうです。
この決定につきましては、私にもいろいろと考えさせられるところがあり、それを要約すると次のようになります。
ルソーの『人間不平等起原論』では社会契約による国家形成は私有財産の発展により生じた不平等が、戦争状態に陥った事態を収拾するための妥協として捉えられていました。公的権力は各人の財産を保全するとともに、人民全体が安寧に生活できるように社会の矛盾を調整する役割を担っていたのです。それは私有財産制を温存し、国家的規模で発展させ、更には世界中に国家形成を促して、世界的規模で文明の矛盾を展開するという意味では、否定的な性格をもっていましたが、同時に人民自身が理性的な合意によって公共の福祉をもたらすための権力機構を造りあげたという意味では、大いに祝賀すべき画期的な出来事だったのです。
ルソーは、国家を公的権力として本来公共の福祉を実現すべきものとして前提しています。そして法律は公共の福祉を計るための公の意思として捉えられているのです。この公共の福祉とは、国家を形成している人民全体の福祉に他なりませんから、法律はだれの意思かと言えば当然人民全体の意思だということになります。もし公共の福祉が人民全体の福祉ではなく、一部の特権階級やひとりの君主あるいは人民とは無縁の国家自体の福祉だとしますと、そのような福祉は普遍性をもつことができません。そのようなものを公共的とは言えないでしょう。それに法は元々正しさや権利という意味も含んでいます。正しさは普遍性と切り離せないでしょうし、権利は人民の立場と結び付きます。ですからたとえ国家が歴史的事実として特権階級の支配の道具として生まれ、法律も元来専制権力の意思であったとしましても、ルソーの立場からはそれは間違った国家あるいは法律の姿だということになります。
ルソーは次のような書き出しで始めています。
「人間をあるがままのものとして、また、法律をありうべきものとして取り上げた場合、市民の世界に、正当で確実な何らかの政治上の法則があり得るかどうか、調べてみたい。」(『社会契約論』、岩波文庫、14頁)
自由な市民のための人民の総意としての法律を前提として国家理論を構築しようとしたのだと言えるでしょう。ですからそれはあるべき国家および法律の姿を論じているで、現実の国家や法律とは乖離します。そのために、ルソーの議論は観念的で、現実の国家や法律を理解するのには役に立たないという批判もあります。しかし普遍的な意味での国家ならびに法律を識ることが、現実の国家ならびに法律を理解し、評価するために正しい基準を与えることになるのです。その意味ではルソーの方法はプラトン的なのです。
この決定につきましては、私にもいろいろと考えさせられるところがあり、それを要約すると次のようになります。
ルソーの『人間不平等起原論』では社会契約による国家形成は私有財産の発展により生じた不平等が、戦争状態に陥った事態を収拾するための妥協として捉えられていました。公的権力は各人の財産を保全するとともに、人民全体が安寧に生活できるように社会の矛盾を調整する役割を担っていたのです。それは私有財産制を温存し、国家的規模で発展させ、更には世界中に国家形成を促して、世界的規模で文明の矛盾を展開するという意味では、否定的な性格をもっていましたが、同時に人民自身が理性的な合意によって公共の福祉をもたらすための権力機構を造りあげたという意味では、大いに祝賀すべき画期的な出来事だったのです。
ルソーは、国家を公的権力として本来公共の福祉を実現すべきものとして前提しています。そして法律は公共の福祉を計るための公の意思として捉えられているのです。この公共の福祉とは、国家を形成している人民全体の福祉に他なりませんから、法律はだれの意思かと言えば当然人民全体の意思だということになります。もし公共の福祉が人民全体の福祉ではなく、一部の特権階級やひとりの君主あるいは人民とは無縁の国家自体の福祉だとしますと、そのような福祉は普遍性をもつことができません。そのようなものを公共的とは言えないでしょう。それに法は元々正しさや権利という意味も含んでいます。正しさは普遍性と切り離せないでしょうし、権利は人民の立場と結び付きます。ですからたとえ国家が歴史的事実として特権階級の支配の道具として生まれ、法律も元来専制権力の意思であったとしましても、ルソーの立場からはそれは間違った国家あるいは法律の姿だということになります。
ルソーは次のような書き出しで始めています。
「人間をあるがままのものとして、また、法律をありうべきものとして取り上げた場合、市民の世界に、正当で確実な何らかの政治上の法則があり得るかどうか、調べてみたい。」(『社会契約論』、岩波文庫、14頁)
自由な市民のための人民の総意としての法律を前提として国家理論を構築しようとしたのだと言えるでしょう。ですからそれはあるべき国家および法律の姿を論じているで、現実の国家や法律とは乖離します。そのために、ルソーの議論は観念的で、現実の国家や法律を理解するのには役に立たないという批判もあります。しかし普遍的な意味での国家ならびに法律を識ることが、現実の国家ならびに法律を理解し、評価するために正しい基準を与えることになるのです。その意味ではルソーの方法はプラトン的なのです。
脱退に対する評価もできないってこと?