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東京サンフィッシュ

落語ときものとマンガとマンボウを愛するコピーライター(こやま淳子)のブログ。

ドリーム(ネタバレあり)

2017年10月16日 14時29分56秒 | 映画日記



「白人男性だったら、エンジニアを希望していた?」

「その必要ないわ。(白人男性だったら)もうなっているもの」


いい映画を観ました。「ドリーム」1961年頃のアメリカのNASAの話で、アメリカの宇宙飛行の発展の裏には、

3人の女性数学者がいたと言う実話です。

黒人×女性というダブルの差別の中で働くその3人は、もう気持ちいいくらい賢く優秀。

時代を切り開いていくのは、いつも「技術と才能」なんだなということが、この映画を観るとよくわかります。

だってその仕事は彼女にしかできないんだもの。ずらっと並んだ白人のおじさんたちの誰よりも必要とされてるんだもの。

けれど最初は「Colored(有色人種用)」のトイレがオフィスになくて、800m先の別棟までいちいち走っていかなければならなかったり、

管理職の仕事をしているのに管理職の地位をもらえなかったり、エンジニアになるためには、黒人の通えない学校で学位を取らなければならない、

と言われたり。それどころか、バスの座席も図書館もコーヒーポットも白人とは別々に分けられるという日常が描かれていきます。


この映画のいいところは、差別する側も特にすごく悪い人や学識の低い人なわけではなく、

昔からそういうものだったし、何も考えず無意識にやっている感じが、リアルに表現されている点です。

何も考えていないし、積極的に意地悪をするわけでもないけれど、

「トイレはどこ?」と聞かれて

「有色人種用のは知らないわ」

と申し訳なさそうに(けれどその分離されていることには一ミリの疑問もなく)いう白人女性とか、

自分たちのコーヒーポットに黒人女性が手を触れた瞬間、

「ぎょっ」としてみんなで見る白人男性たち。あれこそが、差別なんですね。


そして主人公の3人は、それをひとつひとつ自身の勇気と能力と行動力で、覆していくのです。

「誤解しないで。私、偏見は持ってないのよ」

「知ってるわ。そう思い込んでいることは」

かっこいい。

かつてこんなに女性がかっこよく描かれた映画があったでしょうか。

よくできているなあ、と思うのは、ケビンコスナー演じる宇宙特別本部長のように、

彼女たちを理解し、差別を否定する白人や男性たちも、きちんといるところ。

男性が見たらきっと誰もがケビンコスナー側の人間でいたいと思うことでしょう。

だって彼女たちを認めた方が、仕事がうまくいくんだもの。

ずば抜けた能力は、人の心を開くし、物事を変えていく力がある。

私たちがいま生きているこの世界も、彼女たちのその力があったからこそなんだなと、清々しく感動できた作品でした。



ちなみに原題は、Hidden Figuresで、Figuresは、「姿」のような意味もあるし、「数字」という意味もあって、

歴史に隠れて来た黒人女性数学者たちの功績をダブルミーニングで表しているんでしょう。

これを「ドリーム」という邦題にしたことで、いろいろと言われていますが、じゃあどんな邦題がよかったんだと。

自分にもし「邦題を考えろ」というお題が来たら、ものすごく難しいだろうなと思いました。

「隠されたホニャララ」だとどうしても原題を満たす日本語ってない気がするし、

そもそもなんだか地味ですもんね。

当初は「私たちのアポロ計画」とついていたらしくて、この映画で描かれているのはマーキュリー計画なのに、

という批判もあったらしいですが、もういいじゃん別に。だってこの3人の活躍があってアポロ計画に繋がったって、

最後ナレーションでも行ってたじゃん。だいたいマーキュリー計画とか言ってもみんな知ってるの?

…と、作り手側の気持ちがわかってしまうところもあるわけですが、

ふう。映画のタイトルって、難しいですね。



母と暮らせば(ネタバレあり)

2016年01月04日 15時14分33秒 | 映画日記
今年の映画初め。山田洋次監督の『母と暮らせば』を見ました。



山田洋次ということと、原爆の映画だということくらいしか前知識なく行ったのですが、不覚でした。

あんなに泣く映画だと思っていなかったので、ハンカチもティッシュも持っていませんでした。

特に泣かせてやろうとか、戦争はひどいとかいう訴えを一生懸命やっているわけでもないのに、

序盤からもう涙が止まらなくなってしまいました。

何気ない母子の対話から、戦争で失った幸福が彷彿とさせられて、悲しくて仕方なくなってしまうのです。

さすが山田洋次。

「どうしてあの子だけが幸せになるの。あなたと代わってくれればよかったのに」

終始穏やかでいい人だった吉永小百合が、終盤、息子の元彼女に対してつい漏らしてしまうセリフ。

これは後から山田監督が付け加えた言葉だったらしいですが、震えました。

誰も悪くないのに、こんな風に人と人を断ち切り、孤独に追い込む戦争は、なんて恐ろしいものなのか。

映画館から出た後、トイレに入ってからも、まだグシュグシュ泣いてしまうほどの悲しさでした。


「母と暮らせば」というタイトルは、なんだか地味だなあと思っていましたが、

井上ひさしの「父と暮らせば」という戯曲にちなんだものだとか。

そういえばなんとも舞台っぽい設定や台詞まわしだなあと思いました。

そのうち舞台でもやるのかもしれませんね。

桐島、部活やめるってよ。(ネタバレ)

2012年08月24日 09時16分04秒 | 映画日記



あまりにも観たくて、仕事の合間に観に行ってしまった。

おもしろかった。笑って泣いた。めちゃくちゃ好きだ。すべての人がわかる映画ではないと思うけれど。

桐島が、最後まで一度も登場しないという設定は、名作「ゴドーを待ちながら」のオマージュらしい。

「タランティーノの映画で何が好き?」というセリフも出てくるが、同じシーンを別視点で何度もくりかえす手法などは

タランティーノの『レザボア・ドックス』をなぞっている。(さらにそのレザボアはキューブリックへのオマージュらしい)

たぶん映画マニアなら、もっと気づくところがいろいろあるんだろう。

ゾンビ映画はよく知らないのでそのへんのくだりはわからなかったが、

クライマックスで映画部の神木龍之介が叫ぶ「ロメロだよ!それくらい観とけ!」

というセリフは、しびれるほどにかっこよかった。


桐島とはいったいなんなのか。

バレー部のエースであり、学校のスター。

その友人や彼女の様子を見る限り、相当なイケメンでリーダー的存在に違いない。

その高校は、どこの高校にもあるであろう見えない階級が存在し、

上位は、桐島をはじめとするイケてる男女や運動部。

最下層は、神木隆之介演じるオタク高校生・前田などが所属する映画部。

映画部員によるセリフ「大丈夫。あいつ(吹奏楽部ブチョー沢島亜矢)は同じ文化部だ」「あいつ、映画部より吹奏楽部の方が絶対エラいと思ってるよな!」

からすると、吹奏楽部はその中間あたり?と思われる。

彼らは桐島が部活をやめるという、ただそれだけのニュースにかき乱され、

連絡の途絶えた桐島を、イライラしながらも待っている。

中森明夫氏が、「桐島とはキリスト」説を展開しているが、

なるほど、ゴドー=GOD(神)という説があることを考えると、それは当然行き着く解釈かもしれない。

高校生たちは、桐島が戻ってくるのを、祈るように待っている。


では部活とは何か?

進路決定を控えた高校生にとって、じつは「いま向き合うべき夢の象徴」なのだと思う。

野球部の先輩に「試合だけでも来て」と熱望されながら、幽霊部員で桐島と遊んでばかりいる宏樹。

学校一の美女であり、桐島の彼女である梨紗。梨紗の友人で宏樹とつきあう沙奈。

彼女のいる宏樹に恋してしまったせいで吹奏楽部の練習に集中できずにいる亜矢。

本当は部活が大好きだということを仲間の沙奈たちに言えず、もんもんとした思いを抱えるバトミントン部の美果。

桐島と同じポジションでありながら桐島を尊敬し、補欠に甘んじているバレー部員・風助。

彼らはみんな桐島がいなくなったことによって、イケてると思っていた学園生活が、じつは空虚なものだったと気づいてしまう。

あるいは自分自身の実力の限界に気づいてしまう。

いや気づきたくない一心で、桐島を執拗に何度も何度も求めるのだろう。


クライマックスの屋上シーンでは、帰宅部のリア充女子も、桐島を取り巻いていたイケメン男子も、

ちゃちな映画を撮っている映画部のオタクたちに負けそうになる。

いや一瞬負けそうになるだけで、実際には負けないのだけれど、

少なくとも前田の8ミリビデオを通した主観のなかでは、彼らはリアルなゾンビたちに見事に食らわれてしまう。

それは前田が、自分の安っぽい部活映画と、憧れのロメロ(夢)がつながる瞬間を見たシーンでもある。


そしてラストシーンで、宏樹はその前田と話して、誰よりもいろんなものを持っているように見える自分が、

じつは何も持っていないことに絶望する。(と、思われるような泣き顔になる)

途中、ちょっとムダなセリフやおもしろいだけのエピソードが多いようにも思えたが、

すべてが布石だったことがここでわかってゾクゾクした。


大人になるとわかってくるけど、中学・高校時代のカーストなんて、

その先の人生では、容易にひっくり返ってしまう。

この映画は、まだ狭い世界にいながらも、そのことに少し気づいてしまう高校生たちの心の動きを描いているのかもしれない。

少なくとも映画部オタク男子たちは、学校中にバカにされてはいるのだけれど、

誰よりも部活に夢中になっていて、桐島(=神)の「救い」など、全く必要としていないのだった。


余談だけど、この映画の広告が数日前新聞に出ていて、

「ハリウッドよ、これが日本映画だ。」

というコピーがついていた。

これは上演中のヒーロー映画『アベンジャーズ』が

「日本よ、これが映画だ。」というコピーで展開していることに対するパロディで、

ユーモア効いてるなあ。と思っていたが、実際見てみたら、まさにあのコピーを言うのにふさわしい映画だった。

あれは「テルマエロマエ」でも「ヘルタースケルター」でもなく、「桐島」だからこそ言えたコピーだったと思う。

ブラック・スワン

2011年07月10日 12時33分33秒 | 映画日記
もうかなり前だけど、ブラック・スワンをみた。

本当は苦手なんだけど、ああいう「痛い」映画。

でもときどき目をつぶりながら、座席で飛び上がりながら、

それでもスクリーンに釘付けになって、

ラストシーンでは、全身に鳥肌がたちましたよ。

「女の争いはこわい」みたいな宣伝の仕方が一部されてたけど、これはそんなもんじゃなくて、

表現する人が背負う、狂気じみたプレッシャー。

喝采を浴びることが、命より大切だと思ってしまうような。

それを究極な美しさで描いた、素晴らしい作品だった。

バレリーナの世界って、特にそれが強いのだろうか。

山岸凉子の「テレプシコーラ」なんかにも通じるものがある。

性欲とか金銭欲みたいなものよりも、

もしかして自己実現欲みたいなものが一番こわい。

舞台以上の気持ちよいことなんて、たぶんないのかもしれない。

こんな奇跡みたいな作品があるから、映画ってすごいなと思う。

ソーシャル・ネットワーク

2011年01月23日 11時48分29秒 | 映画日記
しばらく映画館に行けてなくて、だいぶストレスがたまってきたので、

昨日時間をつくって「ソーシャル・ネットワーク」を観た。

(いや待てよ…正月にノルウェイの森観たな…まいっか)

Facebookの創始者の話というだけしか知らなくて、

あんまり前情報がないままに観に行ったんだけど、

なんだこれ、すごいかっこいいし、めちゃくちゃ演出が好み。

と思っていたら、「ファイトクラブ」のデビッド・フィンチャー監督だったのね。

天才的なITオタクで人間性は最悪。

当時ハーバードの学生だったマーク・ザッカーバーグが、

Facebookを思いつき、大きくし、その結果、ふたつの訴訟を抱えることになった。

そのストーリーを、テンポよく、しかし淡々と描いていく。

途中、ナップスターをつくったショーン・パーカーが絡み、

その天才と天才(同時に人としてはともに欠落した2人)の出会いから、

物語は大きく動いていく。

パンクで、かっこよくて、スリリングで、物悲しい。

Facebookというメディアの歴史を、こんな風に人間ドラマとして描くなんて。

役者陣は皆すばらしくて、特に主役のジェシー・アイゼンバーグは本当にハマり役だったし、

もっとすごいダメダメだったり悪役チックにも描けたはずのショーン・パーカーを

クールなイケメン(しかもポップ・スターであるジャスティン・ティンバーレイク)

にしたあたりも、心憎い配役だと思う。

実話を元にしているということもあって、

必要以上にドラマティックな脚色を、あえて避けたようにも思えた。

そんなものは必要ない。だって現在のFacebookの在りようそのものが、

最大のドラマなんだから。

そして静かで地味ながらも、おお、と思わせてくれるラストシーンで、

またフィンチャー監督が好きになった。

悪人。

2010年09月24日 12時54分31秒 | 映画日記
本当にいいものとか、感動するものに出会えるとき、

それはいつも、思いのほか、素直でストレートなものだったりする。

ああこんな普遍的なテーマが、まだあったのか。

と、膝を打つような(もしそれが自分の業界で行われていたら、地団駄踏んでくやしがるような)…

「悪人」は、そんな映画だった。

すべての犯罪者が、心の底までねじくれていて極悪な人間だとは限らない。

そしてその犯罪者を、愛してしまう人間がいないとは限らない。

そんなこと映画や文学の世界では、きっと新しくもなんともないテーマだと思うんだけど、

だからこそ、ここまで野太く普遍的な物語になれたのだろう。

もちろん出会い系サイトや悪徳商法といった、今的な要素も多分にあって、

地方で細々と働きながら暮らす主人公たちの閉塞感も、とてもリアルに描かれている。

柄本明と樹木希林が、それぞれ被害者の親と加害者の親を演じていて、

その静かな演技の凄みにとにかく圧倒される。

賞を取った深津絵里もよかったけど、妻夫木くんの演技もすばらしかった。

監督はフラガールの李相日、音楽は久石譲。

そのスタッフ陣のせいなのか、ものすごく暗くて哀しいストーリーなのに、せつない愛に満ちている。

それは「純愛」なんていうふわふわしたものではなくて、

人間のどうにもならない腑甲斐なさへの、深くて太い愛である。

「告白」の中学生はリアルか否か?(ネタバレ有)

2010年06月22日 22時18分04秒 | 映画日記
映画「告白」を観て、原作も読んで、ずっとあの物語について考えている。

賛否両論あることもあって、ほかのひとのレビューなども読んでみた。

たぶん、100人分くらいは読んだと思う。

そこでまた、どうして自分があのお話にこんなに惹かれるのかということが、

少しずつ見えてきた気がする。



レビューを読んでいると、人によってぱっきりと捉え方が分かれる箇所が、2つある。

ひとつは、「あの中学生たちの描き方は、リアルか、やりすぎか?」

ということで、もうひとつは、

「「なーんてね」は、何を否定したのか?」

ということである。

もしかしたら、あの映画を傑作だと思うか、後味が悪いと思うかは、

ここの2つにかかっているのかもしれない。



前回の日記に書いたように、私はこの物語には、社会的に大きなテーマや教訓の提示はなく、

単なるエンターテイメントだと思った。

だけど、それは復讐の顛末という、物語の大筋に対してであって、

あそこで描かれている人物たちが、「薄っぺらい」「やりすぎ」「あんな人間いるわけない」とは、

まったく思わなかったのである。

あれは、映画的・物語的にかなり誇張されているとはいえ、非常にリアルな人間像で、

それゆえにあの物語は、強い吸引力を持つのだと思っている。

もちろん、復讐の手段など、奇想天外なところも多分にあったけれど、

愛する娘を殺されたら、あれぐらい犯人への憎悪が抑えられなくなってしまうものじゃないんだろうか。

誰もそこまで行動しないだけで、犯人を殺してやりたい、くらいのことは、

被害者の家族なら一度は思うものではないのだろうか。

あの教師の「行動」はフィクションだけど、「気持ち」はリアルなんじゃないだろうか。



そして、同級生の犯罪や、担任教師の恐ろしい復讐話を告げられ、

その重みに耐えられなくなり、「制裁」という名のいじめを開始する生徒たち。

あんな中学生いないと書いているレビューがいくつもあったけれど、

そういう方々は、よっぽど平和な子供時代を過ごされたんだなあと思う。

別にいまどきの子供だけじゃない。

私が中学生だった頃でさえ、中学校の教室なんてあんなものだった。

教師が言ってることを聞かない。いじめは日常茶飯事。

あたかも、いじめられる方に非があるように正当化している。

かばうと、かばった人までいじめられる。

そして時にそれはエスカレートし、暴力や陵辱行為にまで及ぶ。

彼らにとって、いじめは悪ではなく、ちょっとした遊びや仲間意識だったりもするし、

あるときは「正義」でさえありうる。


実際、いじめられてる子同士が無理矢理キスさせられてた、なんて話も、私はどこかで聞いたことがある。

近所の中学校の話だったか、新聞かなにかで読んだ話だったかは忘れたけれど。

あそこで描かれていたことは、別に原作者や監督の妄想やつくり話ではなく、

いまもどこかの中学校で起こっているかもしれないことだと思う。


そして、それは子供たちだけの話だろうか?

大人だって、犯罪者やその家族に石を投げたり、

いじめに近いことをしたりするものじゃないだろうか?

1995年、ある宗教団体がテロ事件を起こしたとき、私はマスコミの加害者叩きの醜悪さに、

人生観が変わるくらいの衝撃を受けた。

加害者たちは、危険な信仰にマインドコントロールされて、善悪の判断が狂ってしまったかもしれないが、

それを狂喜乱舞して叩き、中傷し、追いつめる「こちら側」の人間も、

おなじくらいおかしくなっていやしないか?と。

そして、なにが正義でなにが悪か、よくわからなくなってしまった。

もしかして自分が「正義」だと思ってしまうことそのものが、

大きな間違いの一歩なんじゃないかと思った。


だから私は、「告白」みたいな、

善悪が入れ替わるたぐいの物語に、惹き付けられるのかもしれない。

自分にとっての正義なんて、誰かにとっては悪かもしれない。

いつもそんな風に疑う余地を、持っていたいのだ。



(「なーんてね」は何を否定したのか?は、また改めて書こうと思います。気が向いたら…(笑))

告白。

2010年06月15日 15時23分22秒 | 映画日記
なんだか、まだうまく整理できないけど、

中島哲也監督の「告白」、名作だった。

映画って、こんなに人の心をかきみだすことができるメディアだったんだと

思い出させてもらった感じだった。

暗いストーリーで、救いもなくて、登場人物にいい人なんてひとりもいない。

なのに皆に感情移入してしまう。

とりわけ松たか子の演技はすばらしかった。

見終わって数日たった今も、まだどう解釈すればいいのかと、

頭のなかがぐるぐるめぐっている。

映画Sex And The City 2(ネタバレあり)

2010年06月08日 15時36分48秒 | 映画日記
SATC2を見た。

酷評されてるという噂もあるけど、やっぱりSATCはSATC。すばらしいシナリオだった。

今回のテーマは、「伝統とどうつきあって生きていくか」。

お祭り騒ぎの時代は過ぎ、皆、結婚や子育てという現実のまっただなか。

伝統的な慣習や考え方と、うまく折り合いをつけきれずあがいている。

そう、あのアンソニーやスタンフォードでさえも。

そのなかでサマンサだけが、「反伝統」の象徴のように描かれている。

アブダビでのバケーションで、イスラム文化を冒涜しまくってるような印象も受けるけど、

よく見たら反発してるのはサマンサだけ。

たぶんイスラム文化とサマンサが、対比軸になっていて、

伝統(結婚、古い慣習、女性差別、イスラム文化)にうまくなじめず、

かといって反伝統(サマンサ)にも行ききれず、

そのなかで右往左往している女と男(そしてゲイ)。という図式。

これこそが、いまを生きるアラフォーたちのリアルなんだと私は思った。

そしてイスラムの女たちは、伝統とうまくつきあいながら生きている人間の象徴として、

敬意を持って描かれていたと思う。

そりゃ、サマンサのはちゃめちゃぶりはすごかったけど。

でもあれがあるから地味になりがちなこのテーマが救われている気もするし、

だいたいサマンサは、アメリカでだって伝統に反発して生きている。

最後、シンディローパーのTRUE COLORSが流れ、

白黒映画(これも伝統の象徴)の布石から「それぞれの生き方のカラー」

につなげるシナリオの運び方は、本当に美しかった。

私はSATCの言葉のなかに、毎日ひたっていたいと思ってしまった。

ドラマシリーズを見ていたあの頃のように。

ただどうにも共感できない点があるとしたら、今回もやっぱりキャリーである。

ビッグもエイダンも、キャリーのことを「他とは違う女」って言ってたけれど、

キャリーって、ただワガママで浪費癖があるだけの、めちゃくちゃ普通の女じゃないか?

元婚約者とキスしたくらいで大騒ぎしちゃってさ。

グラン・トリノ(ネタバレありです)

2009年05月28日 19時52分25秒 | 映画日記
うーん。やっぱりイーストウッドは合わないのかもしれない。
ひとりよがりなおじいさんの話にしか思えなかった。
いや、途中までのストーリーは、とても素敵なんだけど、
「ミリオンダラーベイビー」同様、ラストの解決の仕方が、
どうにも救いがなさすぎる。後味が悪いというか。
たぶん、この人の人生観というか、ダンディズムのようなものが、
個人的に受け入れられないんだと思う。

レイプされてしまったスーの立場に立ってみると、
あんな解決法じゃ全く救われないし、むしろ悲しみが増えただけ。
それなのにラスト、気持ち良さそうにグラントリノで走るタウの表情は??
自分のせいでお姉さんはレイプされるわ、隣のじいさんは死ぬわで、
悲惨な状態のはずでしょう?
クルマもらってよろこんでる場合なのか?

不良たちや家族の描き方が、あまりにも勧善懲悪で人間の深みがないし、
いったいこの映画で何が言いたいんだろう、イーストウッドは?
と思ってしまった。
じいさんが一人かっこよく生きるために、何人の人を貶めてるんだっつの。
あと、笑っちゃうくらいセリフが説明的だったけど、
あれはわざとなんでしょうか。
心情をあんなに口に出して言われると、ちょっと萎えてしまう。

しかし、ネットで調べてみると、びっくりするくらいの高評価。
ま、好きだという人に、あえて反論はしませんけどね…。
誰かに聞かれたら、「男っぽい映画ですねー」という感想で、
止めることにしよう。