こんにちは。sunburst2006です。
今回の記事は
の続きです。これらの記事を読んでいらっしゃらない方は、1からお読みいただくよう、よろしくお願いいたします。
なお、本文中「ホニャえもん」が登場しますが、「ホニャえもんって誰?」という方は、合わせて
を先にご覧ください。よろしくお願いいたします。
前回の記事で、私は、文芸編集者を目指して就職活動に挑戦したものの、書類選考で落ちてしまったところまでを書きました。体調も悪く入退院を繰り返していたため、就職活動自体も続けられなくなったsunburst2006は、ここからどこへ向かったのでしょうか。その続きをご覧ください。
違う道を探そうとしても、そんなにやりたいことがぽんぽん出てくるわけもありません。そこで今度は、またうちで寝ていたホニャえもんに相談しました。ホニャえもんは未来の便利な道具は出せませんが、いつも話を聞いてくれます。
ホニャえもんはこう言いました。
「やりたいことが分からなくなったら、今やれること、やるべきことを一生懸命やったらどうだ?」
また笑い飛ばされたらどうしようかと思っていたのですが、今回は的確なアドバイスをしてくれました。ありがたいことです。
じゃあ自分の今やれること、やるべきことはなんだろう。そう思っているうちに、卒業の日が来てしまいました。
進路も決まらないまま卒業だけが決まり、私は無職になりました。
いつまで生きられるわからないという不安に加え、「無職」という言葉が重く私にのしかかりました。精神的に不安定になりながらも、私は自分にやれることはなんなのかと考え続けていました。何か動きださないと自分はだめになる、そう思っていたころ、そういえば自分は、中学生、高校生のころ、国語の先生が好きだったなあということを思い出しました(それぞれ、T先生、W先生と呼ばせてもらいます)。
T先生は授業時間以外に(たまに授業時間にも)いろんな話をしてくれました。私は放課後になると、大体T先生のところに遊びに行っていました。
T先生はよく人間を見ている人で、中学生ながら先生の話には鋭さと深さがあると感じていました。
そして時折、先生は自分が好きな本や音楽の話をしてくれました。先生が坂口安吾の文章が好きだということ、エリック・サティのピアノ曲が好きだということ。私はそれらを後追いして読み、聴きました(ただし、坂口安吾は当時中学生の私には何を言っているのかわからず、本格的に読み出したのは大学生になってからでした)。
ある日、T先生は「接続詞の使い方がうまい」と、私の文章をほめてくれました。ほめられたのは狭い範囲でしたが、とても嬉しかったのを覚えています。
また、W先生も、よく私の文章をほめてくれました。
私はよくW先生のところに、小論文の勉強を兼ねて1200~2000字くらいの文章を書いて持って行っていました。テーマを決めて書く日もあれば、とりとめもなく考えていることを書く日もありました。でも先生は、放課後の職員室で嫌な顔一つせずに読み、添削をしてくれました。ある時先生は、私の文章を添削し終わると、かけていた眼鏡をはずしてこう言ってくれました。
「読みやすいように文章を直したところはいくつかあったけど、あなたの感性には直すところは一つもありません。その素晴らしい感性を大切にしてください」
また、国語のテストの回答では「私の考えていた答えよりsunburst2006さんの回答の方が良かったので、そちらを答えとします」と言って、授業中に私の書いた答えを板書してくれました。そして先生は「本当に、いい文章ねー」と言って物思いにふけってしまい、しばし授業が中断されました(笑)。
私は、この二人の先生のおかげで、より本が好きになったように思います。自分の文章をほめられたことも嬉しかったですが、何より二人のあたたかい人間性に憧れていました。
「本をたくさん読んでいると、素敵な人になれるんだなあ」
私は漠然とそんな風に思い、より本を読むようになっていました。
大学に入ると、サークルでは本を好きな人が多かったのですが、クラスの友だちは本を読まない人ばかりでした。本は面白いのに、みんな何で読まないんだろうと思っていたのですが、本好きな人に憧れる経験がなかったのかもしれません。
そういう意味では、国語の先生というのは、より多くの人に本や文章のすばらしさをわかってもらうことのできる、一番身近な職業だと思います。
もともと私が文芸編集者を目指したのは、まず自分が一人の読者として、もっともっと面白い作品を読みたかったからです。そして同時に、多くの人に面白い本を読んでほしかったからです。いつか作家と一緒に「この作品と出会えて良かった」と胸を張って言えるような本を出版し、多くの人とその感動を共有したかったのです。
しかし本を読む人が少なくなり、本が人に読んでもらえなくなってしまったら、いくらいい本を出版しても自分が楽しむだけになってしまいます。それでは喜びも半減してしまいますし、せっかくのいい作品もかわいそうです。
もっと多くの人に、本の面白さをわかってもらいたい。そう思った私は、文芸編集者でない方向に進むのなら、本の面白さを伝えられる国語の先生という道もあるかもしれない、と思うようになりました。
ただ、私は大学で教職課程はとっていなかったので、教師として学校で教えることはできません。じゃあまずは、塾講師の仕事に挑戦してみようかと思っても、当時の私は入退院を繰り返す日々。入院する度に授業を休んでは、受講生たちに迷惑がかかってしまいます。
ではどうするか。今すぐ仕事としてできなくても、体調が良くなって入院の心配がなくなったときに備えて(そういう日が来ると信じていました)、今できることはないのかと考えました。自分がいつか講師として教えられる日が来たときのため、今できること、やるべきことは何なのかと考えました。
国語は教えるのがとても難しい教科です。数学や日本史などであれば答えは一つですが、国語(特に現代文)の場合、回答にはある程度の幅があります。いくつかの予備校が大学の過去問集を出版していますが、現代文は出しているところによって答えが違うということも良くあることです。
塾で受験勉強として教えるからには、ある程度テクニック的なことも教えなくてはいけません。また、回答はこれだと言い切れる、論理に裏打ちされたぶれない軸を持たなければいけません。
現代文を教えるとはどういうことなのか、答えを導き出す軸はどこにあるのか。受講生にきちんと教えるためには、まず自分が勉強しなくてはいけません。そこで私は、大学卒業から一年が経ったころ、大手進学予備校(大学受験)の現代文の講座をとり、まずは受講生として自分が予備校に通うことにしたのです。
冷静に考えてみると、大学を卒業してから予備校に通うというのも、これまたおかしな話かもしれません。普通の順序と逆になってしまいました。
予備校の教室で隣に座った生徒から「どこの大学を狙ってるんですか?」と聞かれたときは、どう答えて良いか分からず自分の出身大学の名前を出しました。それが不謹慎にもちょっとおかしくて(心の声→「ていうか、卒業してんじゃん(笑)」)、そのあと笑いをこらえるのが大変でした。
ある人は「大学を卒業してから予備校に通う」という私の行動を笑うかもしれません。そもそも、そんな進路を目指すこと自体がナンセンスだと思うかもしれません。また、体のことを考えたら無理をしない方がいいと言うかもしれません。
しかし私は、最も大切なことは、どんなに無様でも、人からなんと思われようと、あちらこちらぶつかりながら転がり続けることではないかと思います。
転石 苔むさずと言いますが、動かない石には苔がはりついてしまいます。人間も動かなければ、良くない考えや後ろ向きな感情が、澱(おり)のようにべったりついて、さらに動けなくなってしまいます。
やれないことを指折り数えている暇があったら、たった一つでいい、やれることを探して行動に移すことです。全ては、具体的な一つの行動から始まるのだと思います。
動き続け、転がり続けていれば、何かにぶつかります。Like a Rolling Stones、足を止めず、とにかく必死で転がり続けていくのです。
2007.04.01 追記
続きを書くのが大分滞っていますねー。お待たせしてしまって申し訳ないです。近々、書きあげますので、今しばらくお待ちください。。。