あちらこちら命がけ

血友病、HIV、B/C型肝炎等を抱えて生きる人のブログ。薬の体験記、海外の最新医療情報、サルベージ療法から日常雑感まで。

3.今やれること、やるべきことをやれ!

2006年10月28日 16時08分49秒 | 私の原点

 こんにちは。sunburst2006です。
 今回の記事は

1.状況を全部とっぱらった時、お前は何がやりたいんだ?

2.とことん好きなことをやってみよう

の続きです。これらの記事を読んでいらっしゃらない方は、1からお読みいただくよう、よろしくお願いいたします。
 なお、本文中「ホニャえもん」が登場しますが、「ホニャえもんって誰?」という方は、合わせて

 悩みは笑い飛ばせ!

を先にご覧ください。よろしくお願いいたします。

 


 前回の記事で、私は、文芸編集者を目指して就職活動に挑戦したものの、書類選考で落ちてしまったところまでを書きました。体調も悪く入退院を繰り返していたため、就職活動自体も続けられなくなったsunburst2006は、ここからどこへ向かったのでしょうか。その続きをご覧ください。

 


 違う道を探そうとしても、そんなにやりたいことがぽんぽん出てくるわけもありません。そこで今度は、またうちで寝ていたホニャえもんに相談しました。ホニャえもんは未来の便利な道具は出せませんが、いつも話を聞いてくれます。
 ホニャえもんはこう言いました。

「やりたいことが分からなくなったら、今やれること、やるべきことを一生懸命やったらどうだ?」

 また笑い飛ばされたらどうしようかと思っていたのですが、今回は的確なアドバイスをしてくれました。ありがたいことです。
 じゃあ自分の今やれること、やるべきことはなんだろう。そう思っているうちに、卒業の日が来てしまいました。
 進路も決まらないまま卒業だけが決まり、私は無職になりました。
 いつまで生きられるわからないという不安に加え、「無職」という言葉が重く私にのしかかりました。精神的に不安定になりながらも、私は自分にやれることはなんなのかと考え続けていました。何か動きださないと自分はだめになる、そう思っていたころ、そういえば自分は、中学生、高校生のころ、国語の先生が好きだったなあということを思い出しました(それぞれ、T先生、W先生と呼ばせてもらいます)。

 T先生は授業時間以外に(たまに授業時間にも)いろんな話をしてくれました。私は放課後になると、大体T先生のところに遊びに行っていました。
 T先生はよく人間を見ている人で、中学生ながら先生の話には鋭さと深さがあると感じていました。
 そして時折、先生は自分が好きな本や音楽の話をしてくれました。先生が坂口安吾の文章が好きだということ、エリック・サティのピアノ曲が好きだということ。私はそれらを後追いして読み、聴きました(ただし、坂口安吾は当時中学生の私には何を言っているのかわからず、本格的に読み出したのは大学生になってからでした)。
 ある日、T先生は「接続詞の使い方がうまい」と、私の文章をほめてくれました。ほめられたのは狭い範囲でしたが、とても嬉しかったのを覚えています。
 また、W先生も、よく私の文章をほめてくれました。
 私はよくW先生のところに、小論文の勉強を兼ねて1200~2000字くらいの文章を書いて持って行っていました。テーマを決めて書く日もあれば、とりとめもなく考えていることを書く日もありました。でも先生は、放課後の職員室で嫌な顔一つせずに読み、添削をしてくれました。ある時先生は、私の文章を添削し終わると、かけていた眼鏡をはずしてこう言ってくれました。
 「読みやすいように文章を直したところはいくつかあったけど、あなたの感性には直すところは一つもありません。その素晴らしい感性を大切にしてください」
 また、国語のテストの回答では「私の考えていた答えよりsunburst2006さんの回答の方が良かったので、そちらを答えとします」と言って、授業中に私の書いた答えを板書してくれました。そして先生は「本当に、いい文章ねー」と言って物思いにふけってしまい、しばし授業が中断されました(笑)。

 私は、この二人の先生のおかげで、より本が好きになったように思います。自分の文章をほめられたことも嬉しかったですが、何より二人のあたたかい人間性に憧れていました。

 「本をたくさん読んでいると、素敵な人になれるんだなあ」

 私は漠然とそんな風に思い、より本を読むようになっていました。

 大学に入ると、サークルでは本を好きな人が多かったのですが、クラスの友だちは本を読まない人ばかりでした。本は面白いのに、みんな何で読まないんだろうと思っていたのですが、本好きな人に憧れる経験がなかったのかもしれません。
 そういう意味では、国語の先生というのは、より多くの人に本や文章のすばらしさをわかってもらうことのできる、一番身近な職業だと思います。

 もともと私が文芸編集者を目指したのは、まず自分が一人の読者として、もっともっと面白い作品を読みたかったからです。そして同時に、多くの人に面白い本を読んでほしかったからです。いつか作家と一緒に「この作品と出会えて良かった」と胸を張って言えるような本を出版し、多くの人とその感動を共有したかったのです。
 しかし本を読む人が少なくなり、本が人に読んでもらえなくなってしまったら、いくらいい本を出版しても自分が楽しむだけになってしまいます。それでは喜びも半減してしまいますし、せっかくのいい作品もかわいそうです。
 もっと多くの人に、本の面白さをわかってもらいたい。そう思った私は、文芸編集者でない方向に進むのなら、本の面白さを伝えられる国語の先生という道もあるかもしれない、と思うようになりました。

 ただ、私は大学で教職課程はとっていなかったので、教師として学校で教えることはできません。じゃあまずは、塾講師の仕事に挑戦してみようかと思っても、当時の私は入退院を繰り返す日々。入院する度に授業を休んでは、受講生たちに迷惑がかかってしまいます。
 ではどうするか。今すぐ仕事としてできなくても、体調が良くなって入院の心配がなくなったときに備えて(そういう日が来ると信じていました)、今できることはないのかと考えました。自分がいつか講師として教えられる日が来たときのため、今できること、やるべきことは何なのかと考えました。


 国語は教えるのがとても難しい教科です。数学や日本史などであれば答えは一つですが、国語(特に現代文)の場合、回答にはある程度の幅があります。いくつかの予備校が大学の過去問集を出版していますが、現代文は出しているところによって答えが違うということも良くあることです。
 塾で受験勉強として教えるからには、ある程度テクニック的なことも教えなくてはいけません。また、回答はこれだと言い切れる、論理に裏打ちされたぶれない軸を持たなければいけません。
 現代文を教えるとはどういうことなのか、答えを導き出す軸はどこにあるのか。受講生にきちんと教えるためには、まず自分が勉強しなくてはいけません。そこで私は、大学卒業から一年が経ったころ、大手進学予備校(大学受験)の現代文の講座をとり、まずは受講生として自分が予備校に通うことにしたのです。

 冷静に考えてみると、大学を卒業してから予備校に通うというのも、これまたおかしな話かもしれません。普通の順序と逆になってしまいました。
 予備校の教室で隣に座った生徒から「どこの大学を狙ってるんですか?」と聞かれたときは、どう答えて良いか分からず自分の出身大学の名前を出しました。それが不謹慎にもちょっとおかしくて(心の声→「ていうか、卒業してんじゃん(笑)」)、そのあと笑いをこらえるのが大変でした。

 ある人は「大学を卒業してから予備校に通う」という私の行動を笑うかもしれません。そもそも、そんな進路を目指すこと自体がナンセンスだと思うかもしれません。また、体のことを考えたら無理をしない方がいいと言うかもしれません。
 しかし私は、最も大切なことは、どんなに無様でも、人からなんと思われようと、あちらこちらぶつかりながら転がり続けることではないかと思います。
 転石 苔むさずと言いますが、動かない石には苔がはりついてしまいます。人間も動かなければ、良くない考えや後ろ向きな感情が、澱(おり)のようにべったりついて、さらに動けなくなってしまいます。
 やれないことを指折り数えている暇があったら、たった一つでいい、やれることを探して行動に移すことです。全ては、具体的な一つの行動から始まるのだと思います。
 動き続け、転がり続けていれば、何かにぶつかります。Like a Rolling Stones、足を止めず、とにかく必死で転がり続けていくのです。



2007.04.01 追記 
 続きを書くのが大分滞っていますねー。お待たせしてしまって申し訳ないです。近々、書きあげますので、今しばらくお待ちください。。。


2.とことん好きなことをやってみよう

2006年10月21日 22時27分34秒 | 私の原点

 こんにちは。東京地方は大変お天気も良く、絶好の行楽日和ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。こんな日はブログを見る人も少ないだろうなーと思いながら更新しているsunburst2006です。
 さて、今日のお話は 
1.状況を全部とっぱらった時、お前は何がやりたいんだ? の続きのお話になっております。このお話をご覧いただく前に、まずは そちらのお話 をご覧ください。よろしくお願いいたします。

 

 


「大事なのはよ、夢を語る事じゃねえのかい」

 悪太郎さんにそう言われて、進路を考える方向性は決まりました。

 しかし、夢を語るのは大変なことです。「♪夢見る少女じゃいられない(by 相川七瀬)」と思っていた私にとっては、状況を無視してやりたいことを考えるというのはとても難しいことでした。
 しかも、私自身にこれをやりたいという具体的なものがないため、夢を語るには「言葉が好き」というとても広いところから考えなければいけません。言葉・文章に関係できる仕事として、私の夢はなんなのかと漠然と思うようになりました。

 そのうちに、私は大学3年生になりました。3年次には、私は資格試験のことなど考えず好きな授業を取ることにしました。私の学部は一般教養(リベラルアーツ)に力を入れている学部で、ある程度幅広く授業をとることができました。そのため、1,2年では取っていなかった文学・思想系の授業を取り、ゼミは「文学・思想・哲学研究ゼミ」に入りました。

 余談ですが、このゼミで、私は坂口安吾研究という、またコアな研究をしておりました。このブログのタイトル「あちらこちら命がけ」も、実は坂口安吾が色紙に書いて残した言葉なのです。ああ、この話もまた長くなりそうなので別の機会に・・・。

 この時期、私はとにかく本を読みました。暇さえあれば図書館に行き、文庫本程度の薄さの本なら、多い日は一日に5冊以上読んだ日もあります。

 また、私の入っていたサークルは著名人を呼んで講演会をやったり、小説やエッセイなどを載せた雑誌を作る企画サークルでした。まあ雑誌といっても、大学の近くの本屋さんに置いてもらったりするくらいの、同人誌的なものだったのですが。
 そこで私は、社会を知らない学生の怖さといいますか、無鉄砲にも講演をしてもらいたいと思っていた作家と映画監督の電話番号を調べて、直接電話をしました。そこでアポを取ったあとその作家の家に行き(映画監督にもそちらに来てもらいました)、お酒をご馳走になり、ぜひ講演をというお話をさせてもらいました。講演料も交通費くらいしか出せないにも関わらず、二人は「お前ら面白いな」と快諾してくれ、大学の講堂で講演会(対談)をしてもらうことができました。
 さらに雑誌の方では編集長となり、一冊の雑誌を作ることができました。このときは自宅を編集拠点として提供し、さらに多くの人がうちに住むようになりました(この辺りのお話もまた長くなるので別の機会にと言って、どんどん書かなきゃいけないことが増えていきます・涙)。

 そんなこんなで

「具体的な進路が見えなければ、とことん好きなことをやって、その中でやりたいことを見つけよう大作戦」

と銘打った作戦のもと、私は馬車馬のように駆け回っていました。


 たぶん、この頃の私を、医療従事者の皆さまはとても心配して見ていたのではないかと思います。入院しなきゃダメと言われても「また今度にしてください」とか言って病院から逃げてきたり、体調が悪くても「今、病院に行ったら入院しろって言われるだろうなあ」とか思って病院に行かなかったりしていましたから。あわわ、その節は、大変ご心配をおかけし、申し訳ありませんでした(^^; この場を借りてお詫び申し上げます。


 そして3年生の末ごろ、周囲では現実に就職活動が始まります。私はこのときすでに留年が決まっていたため(涙)、私自身の就職活動はもう一年先のことになるのですが、もう自分の進みたい道は決まっていました。

 私はサークルでの経験を通して、「文芸編集者」として作家と一緒に本を作りたいと思うようになっていました。

 「具体的な進路が見えなければ、とことん好きなことをやって、その中でやりたいことを見つけよう大作戦」は大成功でした。本当に、やりたいことが見つかってしまいました。
 だから私は、サークルの講演会やミニコミ誌の編集が終わった打ち上げで、夢を語りました。

「私は、小説家といっしょに本を作る、文芸編集者になります!」

 そこにいたほとんどの人が、私が血友病で、HIV感染していることを知っています。
 しかし、冷めた目で「そんなのは無理だ」なんていう人は一人もいませんでした。みんな、お前ならできる、がんばれと言ってくれました。みんなで酒を飲みながら、いつしか私だけでなく、一人一人が自分の夢を語っていました。


 そして時は流れ、一年後、私は就職活動を開始します。

 私には、行きたいと決めている出版社がありました。その出版社は歴史も浅く、それほど規模は大きくありません。雑誌を作ったりはせずに、小説を中心とした「本」だけに力を入れていました。しかし、だからこそ出版している本の充実度は高いものでした。私は、そこで書いている作家の陣容と出版されている本を見て、その出版社・編集者の力量がすさまじいものであることを感じていました。
 前述した講演会に呼んだ作家も、その出版社で本を出している人でした。

 下手に手を広げずに、純粋に本を作っている出版社。本からは、本物の言葉に出会いたいと心から願う編集者が作家と火花を散らしながら作品を生み出している様子が、こちらに伝わってくるようでした。
 私は漠然と、私が編集者として働けるとしたら、採用してくれるのはこの出版社しかないのではないかと思っていました。

 ある日、この出版社のホームページに新規採用のお知らせが出ました。私は履歴書に、自身のHIV感染と血友病のこと、言葉への思い、その出版社への思いをつめこんで、全てを包み隠さずに書きました。そして、様々の願いをこめて、その履歴書を出版社に送りました。


 数週間後、出版社から一通の封筒が届きました。その中には、不採用を告げる短い文章が印刷された、一枚の紙切れが入っていました。

 私は、履歴書に思いのたけをつめこんで書いたつもりです。自身の存在の全てをかけて書いたつもりです。それが、たった一枚の、不採用の人全員に送っている、なんの思いも感じられない紙切れ一枚で否定されました。
 今から考えれば、不採用の結果を告げるのに、会社が特別の言葉をかけるはずもないとも思います。また、私が履歴書に書いた内容が、それほど読む人の心に届いていなかったのかもしれません。しかし、言葉を大切にする出版社だと思っていたからこそ、私の言葉が一枚の、印刷文字の紙切れで否定されたということがなによりショックでした。これは私のわがままかもしれませんが、不採用であったとしても、何かの言葉が書かれていてほしかったのです。
 それで私は、就職活動をやめてしまいました。心底惚れ込んだ出版社だったので、ここでこういう扱いを受けるのならばどこに出しても同じだろうと思ってしまったのです。

 実質的にはこの当時、私は入退院をくり返し、一時は薬の副作用で心臓が止まりそうになるなどのかなりのきわどい状況になっていました。その時は、本当に危ない状況でした。五年半待ったんだ!で書いたように、医師から「このまま何の治療もしなければ、一年後の生存を保証できない」と言われたのもこの頃です。そのため、就職活動を続けられる状態でもありませんでした。この話も長くなるので、また別の記事でということで・・・。

 さあここからどうするか。私は悩み始めました。しかし、まだ心は折れていませんでした。確かに一時期はどうしようもなく落ち込みましたが、やはり私には、相談に乗ってくれる仲間がたくさんいました。
 そのうち、これを乗り越えれば、私はもっとしなやかで強い人間になれるのではないかと思うようになっていました。ギリギリのところでしたが、いつかその出版社に「あいつを採っておけば良かった」と思わせてやる、そう心に誓って次の道を探し始めました。

 みなさん、覚えておいてください。状況はどうあれ、心さえ負けなければ、人間はどんなところからだってはい上がることができるのです。


次の記事→ 3.今やれること、やるべきことをやれ! に続く


 というところで、なんと、またまた次回に続いてしまうわけです。予想外に長くなり、さらにはこの記事からさらに3つのスピンアウト記事(「踊る大捜査線」でいうところの 「容疑者 室井慎次」 的な)が生まれそうです。あわわわ、書けば書くほど書くことが増えていく。デフレスパイラルって、こういうことですか?
 この先は、もうそんなに長くならないはずですので、たぶんあと一回で終わると思います(10月28日追記:終わりませんでした・笑)。ただ 「日曜はお休みよ」 なので、この続きは月曜以降ということで。週末の尻切れトンボでごめんなすって。


1.状況を全部とっぱらった時、お前は何がやりたいんだ?

2006年10月19日 12時52分13秒 | 私の原点

 先日のコメントで、私は

「病気は確かに大変ですし、悩むことも多いですが、そこから得たこともたくさんあります。この病気のおかげで、自分のやるべきこと、やりたいことが見えてきましたし。ああ、これは話が長くなりそうなので、また別の記事で書きまーす」

と書きましたが、今日はその関連のお話をば。

---------------前置き 今日の登場人物について------------------

 以前お話した「ホニャえもん」さんと同様、大学のサークルの先輩で、私の家によく寝泊まりしている人がいました。その人は海外旅行先から私に、朝7時頃、こんな電話をかけてくる人です。

 「あ、もしもし、sunburst2006? オレオレ。
 そっちまだ7時頃だよな? ごめんごめん、今、海外なんだけどさ、今日締め切りで提出しなきゃいけないレポートがあるんだよね。これ出さないと単位落としちゃうからやばくてさー。
 で、今書き上げたんだけど、これからFAXでそっちへ送るから、パソコンで清書して提出しておいてくれないか?
 そうそう、提出の仕方なんだけど、教授の自宅に今日必着で送らなきゃいけないやつなんだ。だから、
今日郵便局に出すんじゃ間に合わないから、学部事務所で教授の住所を調べて、教授の家を探し出して、ポストになんとなく入れておいてくれるかな。『郵便でーす』なんつって、こう、いかにも郵送で届きました的な風を装ってさ」

 オレオレ詐欺も真っ青な、手間のかかる電話です。お金は取られませんが、時間を取られます。
 ええ、でも心優しきsunburst2006は、

  1. 海外からFAXで届いたレポートをパソコンで打ち直し、印刷。
  2. 大学へ行き、学部事務所で教授の住所を聞く。
  3. レポートを入れた封筒に教授の住所・宛名を書き、一応、切手も買って貼ってみる(あ、お金も取られてる・笑)。
  4. 電車を乗り継いで教授の家の最寄り駅まで行く。
  5. 住所から家を探し出す。
  6. 郵便受けに「郵便でーす」なんつってレポートを入れる。

という6工程を、てきぱきと一日がかりでやりました。

 このように、この先輩はたまにとんでもないことをしてしまうちょっと悪い人なので、ここでは仮に「悪太郎(あくたろう)」と呼ぶことにします(笑)。

-------------------前置きここまで---------------------

 



 と、またまた前置きが長すぎるsunburst2006です。今日のお話では、悪太郎さんが活躍しますので、はじめにその人となりを紹介させてもらいました。

 さてさて、今日書こうと思っているのは、私が大学2年生のころ、進路で悩んでいたときのお話です。

 大学2年生と言えば、特に多くの文系の学生は、将来の進路を現実的に考え始めるころです。私も、どの道へ進んだらいいものかと、あれこれ考え始めていました。

 実は私は、大学には「資格をとる」ことが目的で入りました。
 私は高校生の頃から、やはりこの体を抱えては一般企業への就職は難しいだろうと思っていました。そして家族や周りの人からも「資格を取って、自分でできる仕事をやったほうがいい」と勧められていました。そのため、まあ公務員か、あわよくば税理士、会計士、弁護士あたりを狙っちゃおうかなーなんて虫の良いことを考え、受ける大学・学部を選んでいました。
 そう思って入学した大学だったので、1年生の時は法律科目や会計・経済学などを履修しました。しかし、ここで大きな問題が持ち上がりました。それは、これらの科目が、私にとっては全く面白くないということでした(笑)。
 もう勉強に身が入らないこと、この上ありませんでした。法律なんか、ほんとにこれは日本語かと、「欧米かよ!(タカ and トシ)」と条文ごとにツッコミを入れたくなる感じで。しかも入学直後の5~6月ごろに入院して授業に出られなかったため、わからないことに拍車がかかり、興味すら失っていたわけです。
 そして、1年生では半分くらいの単位を落としました(前期試験の前ごろに入院したのが痛かったですね)。2年生での授業は楽勝科目(単位が取りやすいと評判の科目)ばかりを取り、資格試験に関係するような科目は取りませんでした。でもそろそろ周りの人たちも就職・進路の話を始めるころで、自分は進路をどうしたもんかと、またぐるぐる悩み始めました。

 そんなある日、私の家の近くで飲んでいて終電を逃した悪太郎さんから「おー、オレオレ、終電ないからそっち行くわ」と電話がありました。はいはい、構いませんよ、じゃあ、お夜食でも作って待ってますわよということで、それからうちで飲み直すことになりました。

注:このころはまだ肝臓の数値もそれほど高くなかったため、私も酒を飲み、煙草を吸い、大学生活を満喫しておりました。お酒は飲み出すと、一晩で日本酒を1升(1.8リットル)ほど。煙草は一日に1~3箱。いやー、ひどい生活をしていたものです。ごめんなさい。もうお酒も煙草もやめて6年くらいが経ちますので、許してください。

 こうして家で飲み始めて、私は悪太郎さんに進路のことを相談しました。
 就職は難しいと思うということ、でも資格試験の勉強には身が入らないこと、また資格をとっても本当にこの体でやっていけるのかという不安があることなどを話し、ああもうどうしたらいいのかわかりませんと。悪太郎さんは私の病気(血友病やHIV感染)のことを知っていたので、全ての事情を知った上で聞いてくれました。
 私の話の全てを聞き終えた悪太郎さんは、飲んでいた酒をテーブルに置き、べらんめえ口調でこう言いました。


「で、状況を全部とっぱらった時、おめえ(お前)は何がやりてえんだ?」


 この一言は、私にとっては衝撃でした。というのも、今までそんな風に考えたことなどなかったからです。
 私は、高校生で自分の病気のことを知って以来、何を考えるにも病気のことが頭から離れませんでした。特に進路に関しては、まず自分が、はたして仕事ができるのか、できるとしたらどんな職種があるのか、入院したらどうするのかと、そんなことばかりを考えていましたし、周囲の人からもそういうアドバイスばかりを受けていました。

 しかし、悪太郎さんは全く違いました。

 それまで進路を消去法で考えていた私に、悪太郎さんはど真ん中から切り込んできました。
 「私のやりたいこと」、考えたこともなかった視点を提示され、私は言葉を詰まらせました。すると、悪太郎さんはこうたたみかけてきました。


「じゃあ、おめえは何が好きなんだ?」


 私は、幼いときから体も弱かったため家の中で遊ぶことが多く、本を読むのが好きでした。そしてこの頃には、特に「言葉」に愛着を持つようになっていました。というのも、以前にこの記事で書いた恩師の「生きろ!」という叫びや、大学入学以来のホニャえもんさんや悪太郎さんをはじめとした人たちの思いのつまった言葉に、私は何度となく救われていたからです。

 悪太郎さんは、事実だけを書くと無茶苦茶な人のように見えますし、実際かなり無茶苦茶な人なのですが、その実、とてもまじめな人でもあります。とんでもないことをしながら、後からそのことを激しく後悔したりする、ある程度、常識的な感覚を持った人です。そして、いつも言葉には、自身の思いをつめ込むだけつめ込んで話すような人でした。だから私は、悪太郎さんの言葉を聞くと、いつも生命を揺さぶられました。

 思いのつまった言葉には体温があり、その人自身が生きています。
 私は、そういう言葉だけが、本物の「言葉」と呼べるのだと思います。
 本物の言葉は、その人の生命そのものです。
 生命だけが、相手の生命を揺さぶることができるのです。

 本物の言葉だけが、私の生命に届き、私の生命を変えました。
 軽い言葉が氾濫するこの世界で、私は本物の言葉に出会い、本物の生命に揺さぶられました。恩師をはじめとした多くの人と、この病気のおかげで、私は言葉のもつすさまじいまでの力に触れ、言葉が大好きになりました。

 だから私は、悪太郎さんに「私は、言葉が好きです」と言いました。


「じゃあ、そん中から探しゃあいいじゃねえか」


 悪太郎さんはすっきりした顔でそう言いました。なので、私もすっきりした顔で「はい」と言いました。


「大事なのはよ、夢を語る事じゃねえのかい」


 悪太郎さんは、日本酒を片手にそう言うと、ニヤッと笑いました。





(このあとsunburst2006はいくつかの変遷を経て今の仕事に就いたのですが、長くなったのでそれはまた別の記事で書かせてもらいます。)

次の記事→ 2.とことん好きなことをやってみよう に続く


悩みは笑い飛ばせ!

2006年09月28日 19時14分47秒 | 私の原点

 以前の記事 個室に移りました で、

「まあ笑い事ではないんですが、今までもこうやって笑い話にして乗り切ってきましたので、みなさん引かないでくださいね。なにせ『あちらこちら命がけ』ですから(笑)」

と書きましたが、私がこんなふうになったのには、一つ大きなきっかけがありました。今日はそのお話を。





 それは私が二十歳を過ぎた頃のこと。何か得体のしれない不安にかられ、立ち上がれなかったことがあります。病気のこと、将来のこと、日々の生活のことなど、考え出したら次々にあふれてしまって、心の置き場所がありませんでした。
 自分の足場が揺らいでいるような不安感。何か自分が、大きくて柔らかいゴムボールの上に立っているようで、必死でバランスを取る日々。どこに体重をかけたらいいのかわからない、もうそろそろ落ちそうだ、そんな状態だったと思います。


 その頃には、すでに何人かの友人や、サークルの先輩たちなどに自分がHIV感染していることを話していました。そして、その中に一人、よく話をする人がいました。
 この人は大学から家が遠かったため、大学の近くに一人暮らしをしている私の家に、年の半分以上は寝泊まりしているような人でした。あ、ちなみに、これは私にとっては悲しいことなのですが、その人は男性です。残念ながらここで色っぽい話はありません。

 その人は家に帰ると大体いるわけで、
今日はいないなと思っていたのに、押し入れを開けたらその中で寝ていた!時は「のわあ!」と叫びました。
 一人暮らしなのに「ただいま」を言う相手がいる。低く野太い声で「おかえり」と言ってくれる人がいる。おかしな話です。ここでは仮に、その人のことを「ホニャえもん」と呼ぶことにします。

 
 そんなある日。その日は、家に帰ると珍しく一人でした。普段はホニャえもんを含め、何人かが寝泊まりしているような家で、ひどいときは6畳間に10人が寝ていたことがあるような部屋でしたが(それは凄惨な光景です)、押し入れの中を見ても誰もいませんでした。


 一人になり、あれこれ考えていたら、涙が止まらなくなりました。


 いつも誰かがいたので、そこまでがんばれていたんだと思います。
 誰もいない部屋では、私は泣くことしかできませんでした。

 それで、私は「ホニャえもん」に電話をしました。泣きながら「自分の存在の足場すら揺らぐようで、つらいです」と話しました。
 全部を聞いてくれた「ホニャえもん」は一言、大きな声でこう言いました。


 
「うん、笑い飛ばせ。がっはっは!」


 あまりのことに、ついつられて笑いました。
 悩んで悩んでどうしようもなく、存在すら揺らぐようでつらいと泣きながら話す重病人の私に、笑い飛ばせと言って大声で笑うとは、正気の沙汰ではありません。あり得ないにもほどがあります。
 こう言えてしまうホニャえもんは大物だと思います。逆の立場だったら、きっと私にはこんなことは言えないでしょう。たぶん何も言葉が出てこないか、有り体な励ましを口にするかだと思います。

 でも、ホニャえもんは大声で笑いました。
 そして、私もつられて笑いました。

 ホニャえもんは、ちょっと不謹慎な人ですが、無責任な人ではありません。私の話を聞きながら、はたして病気でもなく、人生経験も大して変わらない自分が何を言ってあげられるのだろうかと、ずっと考えていたんだと思います。そして、笑わすしかないという(一見、無謀な)結論にたどり着いたんじゃないかと感じました。その時の声は、そういう声でした。

 笑わせてくれる人がいれば、人間はどんな時にも笑えるんだと感じました。この状態で笑えたというのは、私にとってとても大きなことでした。そう思ったら、あ、悩んだときは笑っちゃえばいいんだと、ふと閃きました。

 今でも悩みはたくさんあります。それは私を苦しめ、力を奪おうとします。

 でも、悩みと同じ土俵で戦ってはいけないんだと思います。私を苦しめようとする悩みのいる場所に、下りていってはいけない。人は悩むとき、実は自分で穴を掘って、自分からその中に下りていって、出られないと嘆くのではないでしょうか。実は自分から悩もうとしているから、立ち上がれなくなってしまうのではないでしょうか。

 悩みは笑い飛ばせ!

 もちろん、悩むたび、毎回それができるわけではありません。私も、今でも落ち込みの激しいときもあります。一ヶ月くらい落ち込んだりして、でも最後に、人間はどんなときでも笑えるんだということを思い出し、そこからまた立ち上がってきました。 これが私の原点の一つです。ここから、何でも笑い話にしてしまう今の人格が形成されていったのです。



注:ここに書かれていることは非常に個人的なことがらです。またsunburst2006とホニャえもんがともにちょっと不謹慎で、おかしな人であったから成立しえた一種の僥倖です。あなたがここに書かれていることを参考にして、人間関係を修復不能な状態にしてしまったり、誰かを深く傷付けたとしても、私sunburst2006は責任をもてませんのでご注意ください(笑)。


五年半待ったんだ!

2006年09月25日 10時52分42秒 | 私の原点
 9月22日、金曜日の朝からHAART治療(私の場合はFUZEON,Prezista,ノービア、ツルバダによる抗HIV治療)を中断して、今日で4日目。少しかゆみと、小さい湿疹がでてきた。
 HAART治療開始直後から、薬疹のような湿疹が体にでき、かゆみが強かったため、プレドニンというアレルギーを抑える飲み薬を使ったり止めたりしながらやってきた。きっと、FUZEONかPrezistaかの薬疹ではないかと思っていた。
 金曜日にFUZEONを含めたHAART治療を止めるため、プレドニンも切った。薬剤を使わなければ、湿疹は出ないだろうということで。

 そして、今日、少しかゆい。

 残っていた湿疹がでてきたのか。もしくは体内に薬剤が残っているのか。
 湿疹自体が薬剤と関係ない可能性も大きく、これは1つの仮説に過ぎない。しかし、つい考えてしまうのが、このようなことだ。
 例えばFUZEONが硬結を起こしている場所に残っているとして、薬を止めてもじわじわと体内にしみ出し、体を回っているとする。前に書いたように、効き目の弱い薬を単剤で使っていると、HIVのウイルスは耐性化することがある。耐性化すれば、その薬は二度と効かなくなってしまう。
 また、FUZEONは耐性化するのがかなり早く、一週間単位で耐性化する可能性もあると言われている。 もしこのような状態であるなら、ウイルスの耐性化のことを考えると怖い。
 
 私は五年半ほど前、ある医師から「このまま何の治療もしなければ、一年後の生存を保証できない」と言われた。
 それから五年半、私は薬を待ち続けた。

 五年半、徐々に悪くなっていく検査結果と向き合いながら、できることを全てやってきた。それでも、今年の初めには体調を崩して、二月から今まで、入退院を繰り返している。

 肝臓と免疫が特に悪い。

 肝臓の調子を表わすAST(GOT)、ALT(GPT)という数字があるのだが、これはそれぞれ30以下、60以下くらいが正常範囲。私は、今年の初め、この数値が300を越えたり越えなかったりというところまできてしまった。HAART開始前は、ありとあらゆる肝臓の治療をし、やっと150近くまできたが、正常範囲はまだ遠い。
 また、造血器官がやられているのか、白血球は1000台に減り、CD4という免疫細胞は1桁、貧血の所見も見られた。

 そんななか、この薬が届いた。
 ある医師は「よくここまで耐えた。薬が間に合ったぞ」と言った。

 この薬を使って2週間、肝臓の数値は70近くまで落ちた。これなら正常範囲も見えるかと、喜んだ。
 白血球は、倍くらいに増えた。貧血の程度も改善した。

 五年半、ウイルスの総攻撃を受けながら、この体はよく戦ってきた。一日も休まず、泣き言も言わず、防戦一方の戦いを見事にしのぎきってきた。
 9月5日、薬の援軍を得て、体は反転攻勢を開始した。どこにそんな力があったのか。驚異的な回復を見せた。細胞の1つ1つが、全てが全力だった。

 来る日も来る日も、圧倒的な戦力差をしのぎきってくれた体。薬が来た瞬間に、爆発的な力を見せてくれたこの体。体の声が聞こえるようだ。

  「まだまだ戦える。甘く見てもらっちゃ困る」

 そして今、抗HIV治療は中断された。しかし、五年半を耐え抜いた体のことを考えたら、負けるわけにはいかない。耐性ウイルスを作らせるわけにはいかない。




 私には、ありがたい恩師がいる。恩師は、常に私を励まし続けてくれている。私がもう死んでしまいたいと思っていたときには、生きろと叫んでくれた。その叫びは、私の心を震わせた。私の体を揺さぶった。
 そして、私の恩師は、私にこう教えてくれた。

 「戦いは、気迫で決まる! 臆すな! ひるむな!」

 私は、恩師が放ってくれた、強くあたたかな光を、烈々たる気迫を、生涯忘れることはない。恩師への恩を返したい、今度は自分が強くあたたかな光を放つ人間になっていきたい、そう思って私はsunburst2006と名乗り、このブログを開設した。

 これだけありがたい恩師がいて、しぶとい体がついている。さらには多くの仲間がいる。

 弱気になる必要がどこにある?
 希望を捨てる必要がどこにある?

 私は、今の体の硬結を治し、もう一度治療を再開する。そして、必ず勝つ。大丈夫だ。全く、負ける気がしねえ。

   sunburst2006