41頁 原 画
遣し候様被仰出候右ニ付御米掛り町江相渡候節
白米ニいたし夫々遣候積り橋賃雑費銀も被
下候間其旨相心得可被申候名前ニ取調之儀精
く相急き不残様可申出候 以上
三月十一日 御救掛り惣年寄
一 米相場昨今引上ケ候ニ付橋米小売屋共已前ニ買
置候米迄も元付直段ニ不拘俄ニ店売直段引上
或ハ戸を〆しめ売等いたし候者も在之趣相聞へ候
以之外不埒之儀ニ候見廻り之者差出し候ニ付此上ニも
右体之族於在之ハ召捕可致吟味条心得違無之
様生路之売買可致候
右之趣三郷町中橋米屋共江不残様早々可申
聞候已上
酉三月
一 市中橋米屋共方ニ而米押借致し候もの有之迷
惑いたし候由相聞へ候以ノ外之事ニ候右体之もの
有之候得者口上ニ而早々奉行所江可申出候ハ勿論ニ
候得とも手遠之場所も有之候ニ付左之通町々会
42頁 原 画
所江口上ニ而可申出早速組之者為駈付間橋米
屋ハ勿論諸商売之者共安心し渡世可致候
南堀江三町目 上難波町 阿波町
堂嶋船大工町 雑■場町 南瓦屋町
右之趣三郷町中江不残様可申聞候事
三月十五日未上刻
乱妨之者共人相書之写
大塩平八郎
年齢四十五歳顔面細ク長ク色白ク目之張り強キ方
眉毛細ク濃キ方額開キ月代薄キ方鼻常態耳常
体其節之着用鍬形之兜黒陣羽織着ス
同格之助
年廿七才色黒背低キ方鼻耳常体眉毛濃ク
向歯二本折有之
瀬田済之助
43頁 原 画
年二拾五才色青ク背高肥肉目丸ク二皮なり月
代薄キ方額付鼻高ク眉毛濃キ方下り在之
渡辺良左衛門
年四十一才色青白背低キ方目二皮ニ而大キク出目也
月代鼻耳常体
庄司儀左衛門
年四十才色黒顔細ク耳剃有之月代常体也
右之者共当地並後領内ニ而見合次第召捕又ハ及
仕儀候ハゞ討チ捨候共不苦候間早々御領内御吟味
有之怪敷者入込候ハゞ大坂町奉行所江早々御廻達
可被下候
因ニ右者蔵屋敷中江之書附を写ス又遠国近国
ニ而札場之張紙も右ニ准スれとも其書附ニハ
44頁 原 画
右之者共召捕訴出候者江者為褒美銀百枚可遣
尤人違ニ而も不苦候
前書之通大火後度々 御仁恵之御触書御廻ニ付
市中在々迄安心いたし業体を相勤申候乍併
出火後者米価追々引上諸色とも高料ニ相成
市中之困窮いふ斗なし
小豆壱升 二百三拾文 大豆壱升 百八拾文余
空豆一升 二百三四拾文 米壱升 二百八拾文斗(無程百七拾文ニなる)
餅米壱升 三百文斗 油壱升 五百五、六拾文
酒壱升 三百文 塩壱升 五拾文
麦壱升 二百四、五拾文 大■米 二百二、三拾文
右ニ准し味噌豆腐香之物野菜廻りに至るまて
皆高直引上往古より未曾有之責価也
御公儀様ニ者乱妨之人々御吟味厳敷大阪出口々々者
不及申其外近国近在ニ者諸大名方より番所を立往
来人を一々御改厳敷近辺之海川池などへも網を入山林
竹林等残方なく草を分て御吟味ニ付悪徒追々
被召捕又者自殺之者も有之候然れ共張本人大塩
45頁 原 画
平八郎同格之助両人者一圓ニ行衛不知依而市中之
者不安心ニ而用心深き輩ハ猶蔵之目塗をも不取危
踏居候處摂州摩那山ニ大塩父子隠居候よし風説
有之依之西組与力内山彦次郎初組同心四ケ所浜方
之者大勢召捕ニ被向候得共人違ニ而浪人体之もの召捕
立帰られ候然る處三月下旬油掛町美吉屋五兵衛
(更紗職)方ニ大塩平八郎同格之助隠居候よし訴人
之者有之三月廿六日早朝より諸役人美吉屋之
八方を取囲廿七日早朝ニ内山彦次郎右油掛町江向
ひ美吉屋五兵衛を隣町会所江呼寄糾明有之候
同五兵衛宅より出火いたし候故諸人大ニ騒立火役之者
追々駆付内山氏ハ早速美吉屋江踏込裏口ニ行向ハれ
候ニ土蔵之後に別座敷有之通口之戸堅固ニ〆切有
之候得ハ内山氏大音声ニ名乗かけ大塩平八郎父子
立出て尋常ニ勝負致せと呼かけられ候時平八郎
聲ニ而罷出相手ニ成可申と答候得者相待被居候
處其後者猶々音も不致候故内山氏手之者ニ被申付
戸を投し平八郎ハ自害ニ及ひ候故脇差を奪被取候ニ平
八郎早々家中江飛入候勿論火勢強く候故川組火
46頁 原 画
役之者ニ火消申付両人之死骸を為引出候ニ早頭髪
面部共焼爛相好相分不申候へとも平八郎父子ニ違ひ
無之由故近辺之医師之古乗物江平八郎死骸を
乗同格之助死骸も駕に乗五兵衛ハ勿論信濃町会
所迄被引取候尤平八郎火薬ニ而座鋪を焼候と相見へ
申候明銅の火鉢者せ彼有之よし申候此内東西町奉行
も出馬被致火者火役共消申候扨内山氏ハ大塩父子之
骸を高原ニ引渡し其所ハ先手役人村之者並火消
三人二行ニ相成其次ニ死骸之乗物を縄にて巻両方
ニ木札を掛大塩平八郎死骸と大文字ニ書て提有之
次ニおなしく両方へ木札を下ケ大塩格之助死骸と書
其次ニ美吉屋五郎兵衛(六拾才斗)縄付き之侭駕ニ乗上を縄ニ
て巻舁行其後より内山彦次郎組同心佐川豊左衛門
銅関弥治右衛門 其余人数大勢附添信濃町会所より
本町通を心斎橋南江渡り大寶寺町東江九之助橋
より高原牢屋敷江引渡され候是を見物する者雲
の如く霞之如く寄合乱妨の張本たる大塩自滅を
祝諸人初而安堵の思ひをなしぬ
因ニ曰右美吉屋五郎兵衛妻ハ已前大塩屋敷ニ
奉公いたし候者ニて実ハ平八郎乳母之由其縁ニ而夫婦
47頁 原 画
とも大塩方へ出入致し年来恩義を受ると見へ
たり平八郎実子弓太郎(天保七年冬出産)出生之砌にも
初着として陣羽織を贈り候よし且又此度乱妨之
印織旗等も五郎兵衛より染遣し候由云々扨平八
郎父子を二月廿三日比より裏之別座敷ニ人しれず隠
し置折節米炭鰹節醤油等を運び遣し候を
平八郎親子炭火ニ而煮焚し命をつなき潜ニ隠
れ居候を知るもの更になかりし處五郎兵衛方ニ奉公
いたし候下女何とやら夫婦之体を怪敷おもひ三月廿
日比虗病を構へ保養之ため親元へ帰り両親ニ右
怪敷様子等咄し候由親里ハ平野郷ニ而当時の御城
代土井大炊頭殿領分の百姓故早速御城代之御家
来衆江注進に及ひ候依之西御奉行堀伊賀守殿
江御通達有之則御手当ニ相成内山召捕ニ向われ候由
風聞有之候
三月廿七日御触書写
一 去月十九日市中放火乱妨ニおよひ候大塩平八郎父子
油掛町三吉屋五郎兵衛方ニ忍ひ居候風説有之
為召捕組々者差向候處両人とも致自殺相果其
48頁 原 画
外悪徒之者共追々召捕又ハ自殺いたし申候間其
段令承知無掛念普請等も致し諸商人共無危
踏商売可致候
三月廿七日酉上刻両御奉行所より御城代江御書
上之写
大塩父子居所相知自殺仕候儀左ニ申上候
跡部山城守
堀 伊賀守
今般油掛町美吉屋五郎兵衛方ニ大塩平八郎並
同人倅格之助忍罷在候旨伊賀守組与力内山
彦次郎承込即刻同組同心共江手配申附右五
郎兵衛を他町江誘引出し平八郎父子居所相
糺候處右之者竊ニ囲置候義相違無之旨申聞候折
柄御手前御家来衆も申合五郎兵衛宅江踏込候
處表裏戸〆り堅固ニ付打破押詰候處火を放し
銘々持居候脇差を以自殺仕掛候ニ付平八郎脇差
者取上候得共家中江飛入火勢強寄附兼候ニ付父
子焼死仕候火中より死骸引出申候私共義も
49頁 原 画
早速出馬仕死骸見合仕候処惣体焼爛難相分
候得共最初踏込候節乍間遠言葉を掛慥ニ見届候
旨彦次郎其外之者共も申候右もき取候脇差ハ
右之者所柄ニ而南組之者平日見覚罷在候品之由
申聞候平八郎父子死失ニ相違無御座候委細之義ハ
猶追々可申上候 以上
三月廿七日
跡部山城守
堀 伊賀守
乱妨人徒党連名並召捕自殺之写
当時隠居 大塩平八郎
東組与力 同格之助
右両人ハ乱妨之張本人也うつほ油掛町三吉屋五郎兵衛
宅ニ忍候處三月廿七日露顕ニ及ひ座敷ニ火を放し
平八郎格之助を手ニ掛火中江なけ込自分も自
殺し火中ニ飛入死ス骸当時塩漬
東組与力 瀬田済之助
50頁 原 画
一旦迯延候得とも御手当厳敷剃髪之風体見
苦敷相成河州恩知村山中ニ而縊死ス骸当時
塩漬
東組与力 小泉渕次郎
二月十九日暁七ツ時比東御役所ニ而御糾明之節迯
出し候を跡部山城守殿家来一条一と申仁追掛遠
国役所におひて討果され死亡ス骸当時塩漬
東町与力平八郎伯父 大西与五郎
同倅 善之丞
右者平八郎連判ニ不相加候得共親族ト申殊更大
切之使者ニ立なから途中より虚病を構へ私宅ニ
迯帰り剰へ騒動を聞付兵庫迠迯行大小を海
中江投捨迯かくれ後倅善之丞と同時召捕ニ相成
入牢
同組同心 渡邊良左衛門
右之者も一旦迯延候得とも御手当厳敷處立寄方
無之哉剃髪いたし迯さまよひ終ニ河州
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