古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

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竹崎順子の墓 熊本市立竹崎公園

2019-01-03 17:59:58 | 熊本の偉人

 熊本市西区上代の市立竹崎公園に竹崎順子夫妻の墓があります。
 この所は往昔飽託郡城山村字上代小字高野辺田と称する独鈷山麓の勝地です。ここに竹崎茶堂、順子夫妻が引退したのは明治9年、茶堂65歳、妻順子52歳の時でした。翌明治10年に茶堂は病没し順子は53歳にして寡婦になりますが、彼女の凄いところは、その後28年の生きざまにあります。儒教的教養の権化のような武士の女がキリスト教に改宗するという、思想の変転成長にjまず驚きます。次いで60歳を過ぎて女学校の舎監になり、さらに70歳を過ぎて校長に推され幾多の困難に打ち克って学校経営を守り発展させた手腕など、どれも感動ものです。

順子墓の文字が写真では読み取れませんが、次のように刻まれています。

順子竹崎先生の墓
孫 菊子の墓

後面には
順先生は茶堂先生の室
明治三十八年三月七日逝く
享年八十一。
菊子は吉勝の二女明治二十八年九月二日没す、享年十七.
先生の意志を体して合せ葬り
明治四十年三月七日しるしの石を建つ。

竹崎吉勝
並に
教子一同

 順子には死装束がありました。それは茶堂との結婚に際して父母か調えてくれた花嫁衣裳です。その衣裳も茶堂が酒造業に失敗して破産したときに借金のかたとしてほかの嫁入り道具の品々と共に手放したものでしたが、順子は後年その衣裳を上通りの古着屋に発見して何十年振りに買い戻します。順子はその衣裳を著て棺に納まりました。


 旧上益城郡津森村杉堂に順子は生まれました。写真中央に白壁の二階家が見えますが、そこに矢嶋家がありました。今は血縁でない方が住んでおられますが、順子が生まれた文政8年(1825)ころは茅葺の住居でした。前を流れているのは蛍で知られる布田川です。熊本地震を引き起こした布田川断層はこの真下を走っており、この集落も大きな被害を蒙りました。


矢嶋家墓地
 集落の入り口近くの城が峰という小高い丘の上に矢嶋家の墓地があります。そこに順子の父母忠左衛門と妻鶴子、祖父彌平次とその妻及び一族の墓が二十数基あります。櫻の大樹があり花の頃は美しいことでしょうね。
前にアップした荒瀨の眼鏡橋はすぐ眼の下見えます。


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