古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

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惣庄屋矢嶋忠左衛門の岩野用水開削と新田開墾  

2019-01-12 21:41:18 | 熊本の偉人

  惣庄屋矢嶋忠左衛門が葦北湯浦手永から下益城中山手永へ転任になったのは天保12年(1841)のことでした。彼は転任と同時に岩野用水の開削に着手し、5年後の弘化2年(1845)には用水のみならず岩野村に16町歩の新田開墾も合わせ完成させます。
 忠左衛門は没年の安政2年(1855)までこの地の惣庄屋でしたから、三女の順子四女の久子は五女つせ子はここから嫁に行きました。

              岩野地区の田圃は16町歩あります。この地は過去何百年という間水の便がなく畑作地帯でしたが、用水路の開削で田になったので村人の生活が安定し豊になりました。毎年6月15日には忠左衛門の治績に感謝する矢嶋祭が行われています。岩野地区の古老の方に聴いたのですが、このお祭りは現在もやっているということでした。

岩野用水の諸元について記載しておきます。(町誌中央 昭和52年刊より)

全  長      約4Km
井手幅     約2m
灌漑面積    約16町歩
産 米     325石

 

岩野地区に写真のような碑があったのでアップしておきます。

和田圃場整備沿革

弘化二年(西暦千八百四十四年)八
嶋(岩野)用水が和田岩野地域迄完成
し、同時に十六町歩の開田がなされ
数百年続いた畑作中心の生業から、稲
作農業に移行した。爾来その恩恵を受
け順調に発展し幸福に生活して来た。
而し水田は狭く不整形、用排水道路の
便も悪く、農業状勢の急速な変化に伴
い生産基盤の近代化に迫られ、町行政
指導と住民の意欲と相俟って中央町
農村基盤総合整備事業として、昭和五
十九年三月三百六十haが集団化整備され
た、町当局並びに関係機関に感謝し、更に
貴重な資産を整備活用し後世に残す。
昭和六十一年五月  吉日 起草

「爾来その恩恵を受け順調に発展し幸福に生活して来た。」この記述は村人の本心を反映したもので、今にいたるまで矢嶋祭が存続しているのはここに原点があるように思います。

 

 


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2 コメント

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手永惣庄屋の転任 (YOKO)
2019-01-21 13:16:00
大変興味深く読ませていただきました。
惣庄屋というのは代々その土地にいて村をまとめているというイメージでしたが、転任とかそういうことも普通に行われていたのでしょうか?意外な感じがしました。

今年の大河「いだてん」で中村獅童演じる金栗家の長男が、「小学校しか出ていない」とされながらも非常に学問もでき、物を良く知っていて、考え方も進歩的なのは史実なのかわかりませんが、手永の惣庄屋というのはこういう人々だったのかなぁ、と思いながら見ています。
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手永 (管理人)
2019-01-23 16:24:29
コメント有難うございます。
 手永制というのは細川家独特の統治機構で、すべての村を郡代が一轄統括するのではなく、郡内に数個の手永を置き、手永の統治を惣庄屋にさせました。惣庄屋クラスの人たちは農民とはいいながら、元は加藤家や小西家などを牢人した武士でしたから器量の優れた人材もいたわけです。

 手永制の初めの頃は惣庄屋職は世襲制でしたが、19世紀に入り幕藩体制の矛盾が拡大して従来型統治が行き詰まってくると、人材登用の必要に迫られ、優秀な人材の効率配置の体制が編み出されます。

 布田保之助、三隅丈八、矢嶋忠左衛門などはそういう体制が産みだした人材です。矢嶋家は四賢婦人を輩出した家ですから、も少し追っかけてみようとおもつています。
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